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 六時限目の授業が終わるとすぐに、京一と醍醐、それに小蒔は葵の席に集まった。
ただしそこには葵を入れても四人しかいない。
葵の隣の席の、この時間なら寝ているか欠伸をしているかしている、
今や彼らにとって重要な友人は、先週からずっと休んでいるのだ。
「緋勇クン、今日も来なかったね……って凄いや、緋勇クン教科書ちゃんと持って帰ってるんだ」
 空いている龍麻の席に腰を下ろした小蒔が、机の中を覗きこみながら言う。
 小蒔の自白に応じたのは、同じく教科書を持って帰ったことなどない京一だった。
「あいつが三日……土日入れたら五日も休むなんてありえねェ。なぁ、醍醐」
「そうだな……何事も無ければいいが」
「何事も……って、まさかお前、凶津が言ってた事気にしてんのか?」
 凶津の名が出たことで、小蒔がわずかに身を硬くする。
無理もないことで、彼女は醍醐の旧友だった凶津と言う男の『力』によって全身を石にされ、
危うく死ぬところだったのだ。
結果的には助かったのだが、まだ記憶として語るには生々しすぎて、身体が反応してしまうのだった。
 それを見た京一は、口に出しては何も言わず話を続けた。
「いくらなんでもそりゃねェだろ。鬼だ鬼道衆だ──って、時代錯誤も甚だしいぜ。
今は世紀末、江戸時代じゃねェんだぜ」
「でも、ボク達みたいに『力』を持っている人がいるんだから、
凶津のいうコトもウソとは決めつけられないよ」
 小蒔の言葉に沈黙させられた京一は、面倒くさげに頭を掻いた。
「んじゃ、帰りに緋勇の家に寄ってみるか。美里、緋勇の家知ってるか?」
「えッ!? え、ええ」
 急に話題を振られて葵は思わず答えていた。
答えてから、自分のうかつさを呪いたくなったが、
京一は単にクラス委員長なら連絡先を把握していると思っただけのようだ。
まさか葵が龍麻の家に上がったことがあるだけでなく、とても皆には言えない、
いかがわしい行為までしたのだとは知る由もないだろう。
「よっしゃッ、案内頼むぜ、さっそく行ってみようぜ」
 この流れで断るわけにはいかない。
龍麻の家にはなるべく近寄りたくなかったが、葵は仕方なく頷いた。
「ボクも。エヘヘッ、緋勇クン家って初めて行くからちょっと楽しみ」
「バカ、遊びに行くんじゃねェんだぞ」
「わかってるよッ」
 とは言っても京一も龍麻の休んだ理由を、せいぜいが盲腸程度にしか思っておらず、
小蒔に偉そうに注意しながら、頭の中では龍麻に姉妹がいるかどうか、などと考えていたのだった。
 そんな京一達の気分に水を差したのは、彼らの担任だった。
校門のところで、向こうから歩いてくるマリアに小蒔が気づく。
「あ、マリアせんせー」
「皆、今帰り?」
「ウン、今から緋勇クンの家に行くんです」
「緋勇クンの家に?」
「せんせー……緋勇クンから何か聞いてないですか?」
「えぇ……私からもお願いするわ、緋勇クンの様子を見てきてちょうだい」
 マリアの表情には驚くほど深刻な蔭りがあり、どこか軽い気分でいた京一達も思わず頷いてしまっていた。
それでも元来が陽性の気質でできている京一は、手にした木刀の包みで軽く肩を叩くと、
ここで悩んでも意味がないとばかりに明るい声を出した。
「まぁ、まずは行ってみようぜ」
 しかし、何歩も歩かないうちに、再び向こうから近づいて来る人影があった。
明らかに自分達を目指して向かってくる人影に、一同は足を止めた。
「……ん? 誰だ? ずいぶんカワイイけどよ、ウチの生徒じゃねェな」
「あの……皆さん、緋勇さんのお知り合いですか」
 タイムリー、と言うには度が過ぎている少女の言葉に、一同は色めきたった。
「ウン、ボク達同じクラスなんだ。それよりキミ、緋勇クンのコト知ってるの?」
 小蒔の質問に、少女は強く頷いた。
「はい……お願いです、緋勇さんを──助けてください」
「──!?」
「詳しい場所はここに書いておきました。それじゃ」
「あ、ちょっと!」
 呼びとめる間もなく、走り去ってしまった少女を、一同は怪訝な顔で見送るしかない。
「どういうこと……?」
「解らん……が、俺達を騙そうとしてる表情じゃなかったな。とにかく行ってみよう」
 あくまでも龍麻の家に行く、という選択肢もあったが、
龍麻を助けて、と言う少女の言葉が醍醐には引っかかったのだ。
何か事件に巻き込まれている──
それに少女がどう関わっているかは判らないが、行けばはっきりすることだ。
京一達は頷き、進路を新宿駅に向けて歩きだした。

 話し声が遠くで聞こえる。
目を開けようとしても、奇妙に身体がだるく、瞼さえもが重かった。
その気だるさに負け、もう一度眠ろうとする龍麻の耳に、耳障りな声が響く。
「もしもし……あァ、どうも。いつも研究に協力してくれて感謝してますよ。
あれは、実にいい素材だ……ええ、心配しなくても、あなたの所に資料はお送りしますよ。
いえいえ、共に人類の未来を憂いている者同士、これからも協力していきましょう。
それではまた、学院長」
 会話の中身はほとんど聞こえなかったものの、身体を包む倦怠感に抗い、目をこじ開ける。
ようやく半分ほど開いた視界は、薄赤色に染まっていた。
血を思わせる色が、記憶を甦らせる。
死蝋に何かを打たれ気を失ったことを思い出した龍麻は、
次いで、自分の身体が全く動かせないことを知った。
首さえも固定されているらしく、見渡すことはできない。
身体のあちこちに感じる金属の感触が、恐らく自分を縛りつけているのだろう。
それに注射されたものの影響か、ひどく思考がまとまらず、氣を練ることもできなかった。
こうして状況を把握している間にも、眠気は絶え間なく襲ってくる。
しかし、再び眠ってしまったら取り返しがつかなくなると思い、
懸命に耐え続ける龍麻の、もやがかかったような視界に人影が映った。
 人影、というよりも白い塊に近いそれは、龍麻をこうして拘束した死蝋のものだった。
「紗夜……どこへ行っていた?」
 死蝋の声にあの、精神を軋ませる不快な響きはない。
あるのはそれ以上の、もはや対象以外に聞かせるつもりのない、狂気に浸かった愛情だった。
「ちょっと外へ──あッ」
「お前は、僕のものだ。誰にも渡さない。
お前のこの髪も、この指も、この唇も──全て僕のものだ、紗夜」
 背後から紗夜を抱きすくめた死蝋の手が彼女の身体に貼りつき、胸を、腹を、太腿をまさぐる。
更に信じられないのは、紗夜がそれを拒絶していないことだった。
死蝋の腕を掴んでいるものの、その動きを止めることはなく、
親愛の情を示しているようにさえ見える。
 そんな龍麻に見せつけるように、死蝋の手は彼女の素肌を犯していった。
心臓のある位置に添えられた手は、指先が醜く蠢いている。
始めは指先だけだった動きが、掌へと拡大し、捏ねる動きへと変わっていく。
そして彼女の身体の中心にあるもう片方の手はスカートの内側へと消え、
愛しあう男女のみにしか許されない――そして、愛しあう男女であっても、
兄妹では決して許されないことをしていた。
 紗夜が誰と情愛を深めようと知ったことではないし、
紗夜とどんな関係であれ死蝋を許すつもりはない。
 死蝋に対する怒りで意識をはっきりさせようと龍麻は試みるが、
未だ思考は重りがぶら下がったように明瞭へと浮かび上げることができず、
死蝋の声だけがろ過されたように頭の中へと響き渡った。
「人間は脆い。すぐに死んでしまう。でも全て悪いのは、脆弱な人間の身体さ。
強い魂を入れる強い『器』があれば、人間は今以上に強くなれる。
そうすれば愛する者を失う事もなく、死を恐れる事も無い」
 死蝋の腕の動きが大きなものになり、その内側で紗夜の身体がくねる。
たまらず龍麻は声を上げようとしたが、喉は干あがり、
また喉を締めつける拘束具のせいもあって、他人に聞こえる声を出すことはできなかった。
「全くお前はいい素材を探してきてくれたよ。あの新宿の病院に張り込ませていた甲斐があった。
あそこは特殊な病院らしいからね。
……どうした、そんな顔をして。心配するな、研究は成功する」
 耳元で囁く死蝋に、何事か耐えるように目を閉じていた紗夜は、やがて意を決して束縛から逃れた。
乱れた服を直し、なお近寄ろうとする死蝋を制する。
「もう……もう止めて、こんな研究をするのは」
「ん……? どうした紗夜。愚かな人間達に復讐したいとは思わないのか?
僕達にこんな仕打ちをした奴らを見返したいとは思わないのか?
お前だって忘れたわけじゃないだろう。……お前は少し疲れているんだ」
 紗夜の険しい表情に近づく事を諦めた死蝋は、気を取り直して白衣の襟を正した。
その拍子に、一番新しい実験素材がこちらを見ているのに気づく。
「どうやらお前の王子様も目覚めたらしい」
 紗夜に拒絶された怒りを嘲けりに転化し、素材に近づく。
「おはよう、お目覚めかい? こんなに早く麻酔から目覚めるとは思っていなかったよ。
その身体は薬物に対する抵抗力も高いみたいだねぇ。
まぁ、いいさ。その拘束具はそう簡単には外せない。君の、その『力』を持ってしてもね」
 瞳がまだ虚ろであることを確かめた死蝋は絶対の優位を確信し、
悪意に満ちた笑みを龍麻に向ける。
意識が朦朧としていてさえ浸透するその悪意を、龍麻はなす術なく聞くしかなかった。
「緋勇龍麻君、ひとつ教えてあげよう。紗夜はねぇ、僕の命令で君を観察してたのさ。
君の行動、性格、そしてその『力』──君が、僕の研究の素材として相応しいかどうか」
 死蝋の顔の下半分が、ノイズの乗ったテレビのように歪む。
「おやおや、凛々しい顔が泣きそうになっているよ。余程ショックだったのかい?
信じられないなら、本人の口から聞いてみるといい。
紗夜、緋勇龍麻君に何か言ってあげたらどうだい?」
 薬物で鈍らされている為に実際の龍麻の反応は微々たるものだったが、
死蝋は嬉しくてたまらないとばかりに喉の奥で笑った。
その傍らで、紗夜が泣きそうな顔をしている。
 だが、龍麻にはそれら二つともがどうでもよかった。
混濁する意識の中、龍麻は深く息を吸い、吐く。
それだけが、今やらなければならないことだと理解していた。
 部屋に響き渡る呼吸音を耳にした死蝋が、白衣のポケットから手を出す。
「少しお喋りが過ぎたようだね。そろそろ始めようか。紗夜、手術台のスイッチを入れてくれ」
 紗夜が指示に従って龍麻を手術台に載せても、龍麻は静かに、深い呼吸を繰り返していた。

 紗夜が地下室に戻ってからほぼ三十分が過ぎた頃、
メモに従って品川までやって来た京一達は廃屋を見つけ出していた。
「メモの住所はこの辺りだな」
「ねぇ……罠じゃないかな?」
 疑わしげに小蒔が言う。
この所妙にあちこちの廃屋へと行かされ、
しかもそのどれもでろくでもない目に合っているので、どうしてもそう考えがちになってしまうのだ。
「お前な、あんなカワイイ娘が罠なんかかけるワケねェだろうが。
オトコのお前にはわからねェだろうがよ」
「なんだとォ」
「しかし……案内されたのがこんな廃屋ではな。用心はしておくに越した事はないだろう」
「ッたく醍醐までかよ、疑り深い奴らだぜ」
 仲間の心配を笑い飛ばすように、京一は大胆に廃屋内へと入って行く。
顔を見合わせた小蒔達も、ここまで来たら龍麻がいないかどうか確認しない訳にもいかず、
ぶつぶつ言いながら後をついていった。
「誰もいねぇな。醍醐、本当に地図はここで合ってんだろうな」
「うむ……しかし、他にそれっぽい建物はなかったな」
 廃屋の中に入っても、人の気配は全く感じられず、当然龍麻も見当たらない。
気の短い京一などは早くも退屈そうにあくびをして、小蒔に睨まれていた。
 二人のやや後ろを歩いていた葵が、にわかに立ち止まる。
「ねぇ、何か聞こえないかしら」
「ん? ……聞こえねぇな、空耳じゃねぇか?」
「静かにしろ、京一ッ! 美里の言う通りだ、下の方から何か……低い振動音が聞こえる」
 醍醐に言われ、京一は地面に耳をつける。
確かに、低いうなり声のような振動が、微かだが聞こえてきた。
「こりゃ……機械の音だな。ってことは人がいる……?」
「行ってみようよ」
 打ち捨てられた廃屋の地下で何をやっているかは知らないが、まともなことでないのは間違いない。
勢い良く立ちあがった京一は、手分けして地下への階段を探すことにした。

「ん……?」
 医療用のメスや手術器具を並べていた死蝋は、
階上から足音のようなものが聞こえた気がして顔を上げた。
耳をすませてみても、それきり音は聞こえて来ない。
「何か音が聞こえたような気がしたが……
まぁ、侵入者だとしても捕まえて実験材料にするだけの事だ。
紗夜、死人達の部屋の扉を開けてくれ」
 それよりも今は、人類の大いなる進化に向けての礎となる偉大な実験を行うことの方が重要だった。
この神聖な時間を妨げるのは、何人たりとも許されることではない。
鈍色の不気味な輝きを放つメスを手に取り、うっとりと眺めていた死蝋は、
指示に従おうとしない紗夜に気づき、不審げに眉をひそめた。
「どうした、紗夜」
「もう……止めて」
「何を言い出すのかと思えば、またそんな事か」
 辟易して首を振った死蝋は、自ら死人達を解き放とうと奥の部屋に向かう。
 死蝋が充分に離れたのを見計らって、紗夜は龍麻の許へと走り寄った。
「緋勇さん、今、拘束具を外します」
「紗夜……何でそんな事をするんだい? 僕には、お前の行動が理解できないよ」
 離反とも言える紗夜の行動を、死蝋は呆然と見つめていた。
そんな死蝋になど関心を払わず、紗夜は龍麻を縛りつけている鉄の拘束具をひとつずつ外していく。
細い指に鉄が食いこみ、ほどなく血が滲んだが、構わずに続けた。
「緋勇さん……わたし、いつもあなたを見ていました。
あなたの笑顔──
あなたの強さ──
あなたの優しさ──
初めは確かにあなたに近づく為だけでした。
でも……でも、いつからか、そんなあなたに魅かれていったんです。
人は、復讐の心だけじゃ生きられない。人は、一生をその為だけに捧げる事はできない。
そう思い始めたんです。
わたし……間違っているでしょうか?」
 龍麻は答えなかった。
死蝋に注射された薬の影響で、未だ己を取り戻していなかったのだ。
腕の拘束具が外され、だらりと腕が垂れ下がる。
自分の四肢でさえも、重りにしか感じられなかった。
それでも懸命に膝をつき、床に伏してしまうことだけは抗う。
「緋勇さん……」
「俺は、お前が思ってるような善人じゃない。復讐だって、場合によっちゃ有りだと思う」
 突き放すように言った龍麻は、呼吸を整えて続けた。
「だけど、間違ってると気づいたのなら止めればいい。
お前の未来はお前が選ぶもんだ。たとえ兄であっても、他人に決めさせるのは駄目だ」
 それは龍麻の独創というわけでもなく、むしろ陳腐な警句に過ぎなかった。
年齢に比すれば多くの経験を積んでいるとはいえ、
まだ二十歳にも達していない龍麻が何を言ったとしても、嗤う大人の方が多いに違いない。
 だが、龍麻の言葉は紗夜の、心の奥深くを貫いた。
彼女がそうありたいと願う、人それぞれが持つ魂の本質を、他の誰よりも強く揺さぶった。
この陰気な地下室のせいか、青白く見える紗夜の顔に朱がさす。
「緋勇さん……わたし……わたし、緋勇さんの事……」
 龍麻の掌に抑えられていた感情を解き放たれ、紗夜は幾筋もの涙を零して声を詰まらせた。
目を擦り、もう一度想いを告げようとした時、鞭で打ったような鋭い声がそれを遮る。
「そうか……そういう事か。道理で最近様子がおかしいと思っていたんだ。
許さないぞ……紗夜。お前は僕のものだ──」
「止めて……もう止めてッ、にいさんッ!! わたしは兄さんのものじゃないわッ。
わたしは生きている。わたしは考えられる。兄さんが作った怪物達と一緒にしないでッ」
 紗夜は立ちあがり、死蝋と対峙する。
兄によってせき止められていたもの全てを解き放つかのように、華奢な身体には気迫がみなぎっていた。
「もう、こんな事は終わりにしましょう。
病院から死体を盗んだり、人を攫ったり──こんな事をして、何になるっていうの?
兄さんはあいつらに騙されているのよッ。
利用されているだけなのよッ」
「紗夜……お前も僕を裏切るのか? 薄汚い奴らと同じように。
強欲で身勝手な人間達と同じように」
 妹が初めて見せる激昂に、兄は大きくよろめいていた。
両親を喪ってからこれまで、あらゆる愛情を注いできた妹に刃向かわれ、
死蝋は恐慌寸前の自失に陥っていた。
壁にもたれた拍子に試験管のひとつが割れ、
中にいた小動物が初めての自由に戸惑い、哀れな鳴き声を上げる。
それを無慈悲に踏み潰した死蝋は、凄まじい表情で龍麻を睨みつけた。
「緋勇龍麻……お前さえいなければ、紗夜は僕のものだった。お前さえ……!!」
 もはやこの素材が非常に貴重であり、
研究資金を提供してくれる人物から生かしたまま引き渡すよう求められている事も忘れ、
己と紗夜の愛を邪魔する目の前の男を排除することしか死蝋の頭にはなかった。
「そうだ、簡単な事じゃないか。緋勇龍麻──お前が死ねばいいんだ。
お前が死ねば紗夜は僕の元へ帰ってくる。腐童──」
 呼び声に応え、奥の部屋から現れたのは、部屋の天井に届かんばかりの巨人だった。
この男が人間でないことは、その緑色の肌と瞳のない目を見れば一目瞭然だった。
全身に走る醜い縫合の跡が、この男がどのように生み出されたのか暗示している。
 腐童と呼ばれた化物は、一歩毎に床を響かせながら龍麻の所へと近づいてきた。
紗夜は慌てて残りの拘束具を解き始めたが、まだようやく両腕が解けたばかりで、
龍麻を自由にするにはもう少し時間が必要だった。
その背後から、腐童が歩み寄る。
「腐童……こいつを殺せ。この男を──僕から紗夜を奪ったこの男を──ッ」
「止めて、兄さん……きゃあッ!」
 龍麻の眼前で、鈍い音と共に鮮血が飛び散る。
ひどくゆっくりと宙を舞った赤い液体は、
所有者の意思を体現したかのように龍麻の頬についた。
「比良坂ッ!」
「緋勇さん……今、拘束具を外しますね」
 顔の半分を赤く染めながら、なお紗夜は拘束具を外し続ける。
自分の命令で、この世でただ一人愛する妹に怪我を負わせてしまった死蝋は、
目が眩むような衝撃に襲われていた。
「そ……そんな……なんでだ、紗夜……なんでそんな奴を庇うんだ……
そいつが死ねば、僕達兄妹を邪魔する奴はいなくなるのに」
 自業自得ということを認められない意識が、凄まじいまでの憎悪となって龍麻に責任を転化する。



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