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巨大な怪物が、あまりに痕跡を残さずに消失したため、龍麻達もこれが現実なのかどうか戸惑っている。
それでも緊張を解き、龍麻のところに皆集まろうとした時、盲目者の起こした最後の風が吹いた。
盲目者から一番近くにいた龍麻めがけて魔風が吹き荒れる。
全ての氣を放出した龍麻はその場から動くこともできず直撃し、吹き飛ばされた。
運が悪いことに、吹き飛ばされた直線上には小蒔がいた。
「うわッ……!!」
「小蒔ッ!!」
折り重なって倒れる二人のところに、葵が駆けだす。
京一や醍醐達も、盲目者が消滅したことを確かめるとすぐに向かった。
「小蒔ッ、大丈夫!?」
地面に叩きつけられて転がった二人は、手ひどく怪我をしていた。
制服に滲む血に血相を変えた葵は、すぐに意識を集中させ、『力』を使う準備をする。
「いてて……ボクは大丈夫だから、緋勇クンを先に治してあげて」
小蒔が言うのにも構わず、葵は親友に手をかざした。
治療を受ける小蒔は、どこか申し訳なさそうだ。
小蒔が大した怪我でないのは葵にもすぐに判ったが、治療は止めなかった。
葵の念頭にあるのは、小蒔には、小蒔にだけはどんな怪我も負わせないし、
もし負ったなら必ず治してみせるという決意だけだった。
「ね、ホントにもう大丈夫だってば、恥ずかしいよ、皆見てるし」
控えめながらもはっきりした小蒔の拒絶で我に返った葵は、
自分が小蒔の肌を食い入るように調べていたことに気づいた。
「ご、ごめんなさい」
「ううん、ボクの方こそ治してくれてありがと。次は緋勇クンも治してあげて」
「ええ、そうね」
うつぶせになった龍麻の背中を見て、葵は彼が酷い怪我を負っていることを知った。
意識もあったし、小蒔を先に治すのに異を唱えなかったので、
大した怪我ではないと思いこんでいたのだが、服はずたずたに裂け、背中は血まみれになっている。
まだ血は止まっておらず、葵は慌てて彼の背中に手をかざし、意識を集中させた。
龍麻の顔は青を通り越して白かったが、葵が氣を注ぐことで徐々に血色を取り戻していく。
「助かる。氣を全部使っちまったから、立てもしないんだ。
この洞窟内は陰氣だらけだから、取りこむのも大変だしな」
龍麻は盲目者の最後の攻撃を油断して受けたのではなく、全く躱せなかったのだ。
捨て身としかいいようのない龍麻の作戦に、京一が呆れて首を振った。
「お前はまたそんな無茶な戦い方しやがって、倒せなかったらどうするつもりだったんだよ」
「最大の攻撃で倒せなかったら、もうどうしようもないだろ」
「馬鹿野郎、生きてりゃまた挑めるだろうが」
木刀で龍麻の肩を軽く押した京一は、なぜか背を向けて言った。
「毎回瀕死で終わられると、帰りにラーメン食いに行けねェだろうが」
京一の心情を代弁したのは醍醐だった。
彼も相当な数傷を負っているが、ものともしていない。
「まあ、これで京一も心配しているんだ、わかってやってくれ」
「ああ」
「けッ、
自分の腹の心配して何が悪いってんだよ」
今度は龍麻と醍醐、それに小蒔も笑ったので、京一はふてくされて離れたところへ行ってしまった。
笑いを収めた龍麻のところに、如月が進みでる。
「緋勇君」
片膝をついた如月は、京一とは対極の真剣な面持ちで告げた。
「君には一度ならず二度までも、東京の危機を救ってもらった。
何かあった時、これからは全面的に君に協力させてもらうよ」
「ああ、こっちこそよろしく頼む」
江戸を永きに渡って護ってきた忍者の末裔としての実力は、龍麻にとっても大いに助けになる。
龍麻が手を差しだすと、如月ははじめ戸惑い、やがて照れくさそうに握手に応じた。
立ちあがった如月の隣に、アランが並ぶ。
彼もまた、龍麻と共に戦う決意をしていた。
「Yes.ヒユーはボクの復讐を手伝ってくれた。次はボクがヒユーを助ける番ネ」
「調子いいこと言って、美里の側に居たいだけじゃねェのか?」
「No! ボクは真剣。でも、アオイの側にいられるのはハッピー」
アランの言ったことは、葵に関するものも含めて全て本心なのだろう。
龍麻は了承の印に、こちらはアランの方から差しだされた手を握り返した。
次に龍麻の前に立ったのは、絵莉だった。
「凄いわね……盲目者を倒してしまうなんて」
「運が良かったんですよ。アランがいなかったら倒せなかったと思う」
「そうかもしれないわね。でも、アラン君が今日貴方と会ったのも、偶然ではないかもしれない」
「どういうことですか?」
アランが何か企んでいるのではと勘ぐった龍麻だが、絵莉の返答は違った。
「貴方には、天命といえるようなものがあるのかもしれない」
「天命……ですか? 偶然だと思いますけど」
自分達の『力』はあるとしても、天命だとかいったものを龍麻は信じていないし、
今日のアランとの初邂逅を思い返してみても、あれが天命なら酷いものだ。
控えめに否定された絵莉は、自説に固執しなかったが、諦めたわけでもないようだった。
「そうね……でも、アラン君に如月君は、貴方と戦う道を選んだわ。その縁は、大事にしてね」
如月はともかく、アランとの縁とは一体、と龍麻は思ったが、
あまり否定するのも良くないと思い、慎ましく沈黙を保った。
代わりに口を開いたのは、治療を続けている葵に対してだった。
「もういいよ、立ちあがれそうだ」
実際に立ちあがり、腕を軽く回した龍麻は、振り返って葵に礼を言った。
「助かったよ、ありがとう」
「え……ええ」
重傷である龍麻を放置して、先に小蒔を治したことを咎められるかと思ったが、
龍麻はそれについては触れず、黙って手を差しだした。
意図がわからず戸惑う葵に、龍麻は何かに気づいた様子で手を引っこめる。
「悪い、如月とアランに続けて握手したから、つい流れで」
言い訳ではなくて本当に間違えたらしく、赤面している。
「ンなこと言ってお前、アランに先越されまいと焦ってんじゃねェのか?」
「ホント、ボクもそう思った」
「随分慣れた感じだったわよね。そうやってスキンシップから入るのが緋勇君流なのかしら」
戻ってきた京一と、小蒔に続いて絵莉にまでからかわれて、龍麻は一層赤面した。
もう一方の当事者である葵も、龍麻に劣らず赤面してしまうのだった。
回復した龍麻は立ちあがろうとする。
だがバランスを崩し、再び座ってしまった。
「おいおい、まだダメージが残ってんのか?」
半分からかいつつ差しだされた手を、龍麻が取らなかったのは、腹が立ったからではなかった。
「違う、これは――」
言いかけた龍麻は再び中断させられる。
今度は京一達にも、龍麻がバランスを崩した理由が判った。
「地震かよ」
何気なく呟いた京一の、肩に何かが当たる。
頭上を見上げた京一は、それが気のせいでなかったことを知って、慌てて飛び退いた。
京一が居た場所に、肩に当たったものより大きな石が落下する。
仲間達も気づいたようで、一気に緊張を取り戻した。
「崩れるぞッ! 脱出だッ!!」
女性達を先に行かせ、龍麻は最後尾を受け持つ。
揺れる地面の先に緑色の人影が見えた。
その時、龍麻の脳裏に何かが閃いたが、仲間達と自分の脱出を優先させるため、深く考えはしなかった。
風角の死体の傍らを通り過ぎようとした龍麻は、いきなりバランスを崩した。
地面が揺れているせいではない、足首を何者かが掴んでいる。
振り向いた龍麻が見たものは、最後の力を振り絞って龍麻に一矢報いようとしている風角だった。
死の間際にいるはずの彼の身体から、圧倒的な怨念が立ちのぼり龍麻を縛る。
それは同じ復讐の念で闘う龍麻を怖れさせるほど凄まじい圧力だった。
「う……うぅ……逃がさぬ……ぞ……このままでは……九角様に申し訳が……立たぬ。
せめて……せめて、誰ぞ道連れにしてくれる……ッ!」
怯える龍麻から生気を吸い取っているかのように風角の右手に力が篭り、龍麻を引きずろうとする。
同時に風角は左手を懐に入れ、苦無を取りだした。
ひどく緩慢な動きであるにも関わらず、龍麻は振り払えない。
蛇に巻きつかれた小動物のように、迫りくる死を待ち受けるだけだ。
「死ね死ね死ね死ね──ッ」
しかし、風角の狂気の絶叫と共に龍麻に襲いかからんとした苦無は、一発の銃声と共に止まった。
足首を掴む力も弱まり、龍麻はよろめきつつ風角の手から逃れる。
代わりに鬼道衆の男の前に立ったのは、霊銃を手にした復讐鬼だった。
「Now you die.」
「き……貴様ァ……」
無念の呪詛がアランを襲うが、アランは傲然とそれを跳ね返した。
その明るいブラウンの瞳は、乾ききっていた。
「Go to hell.」
再び銃声が響く。
眉間を撃ち抜かれた風角の面が、二つに割れた。
地面に突っ伏し、完全に死んだ風角の身体が輝き始める。
龍麻達には見覚えのあるその光が止むと、後に残ったのは、
やはり以前に光を放った水角が遺した珠だった。
拳よりも一回りほど大きな珠は、中に龍の紋様が浮かんでいるのは共通だったが、
水角の蒼とは異なり、乳白色をしている。
澄んだ音を立てて地面を転がる珠を拾いあげた龍麻は、アランが背を向けていることに気づいた。
「ボク――今、どんなカオしているかわからない」
人を殺すというのは、化け物を殺すのとは訳が違う。
しかも龍麻を護るためではあっても、瀕死の人間にとどめを刺したのだ。
アランが感情に整理をつけられない状態であるのは、容易に推察できた。
揺れはますます強くなり、収まる気配がない。
風角に掴まれた足はまだ少し震えていたが、踏ん張ってしっかり立った龍麻は、アランの肩に手を置いた。
触れた肩から、アランの感情が伝わってくる。
怯え、怒り――強い陰の感情を、龍麻は自らの氣で中和した。
「ヒユー……」
自身の心の変化に驚いたアランが振りむく。
「──助かったよ」
龍麻は短くそう言っただけだ。
たったそれだけで、アランの瞳は日の出のように輝きを増し、
これまでと変わらぬ陽性のブラウンに戻っていた。
アランは八年前に大切なものを全て喪ってからずっと消せずにいた、
復讐の焔を鎮火させる暖かさを置かれた掌から感じ取る。
陰氣を和らげるものは、陽氣である──その理をアランが知るのはもう少し後のことだったが、
アランは自分の波長が龍麻に合わさるのを、ごく自然に受け入れていた。
「さっさと出ようぜ。ここは陰氣が多くていけねえ」
「Yes.」
龍麻とアランは並んで洞窟を走った。
二人が脱出した直後、一際大きな地響きが鼓膜を叩いた。
無事を喜ぶ暇もなく、急いで穴から離れる。
一分ほども続いた地響きが止むと、穴は崩落こそしていなかったが、
完全に埋まってしまい、再びあの『門』まで行くことは不可能となってしまっていた。
「何やってたんだよ」
「ああ、こいつを回収してたんだ」
死んだ風角が変化した珠を龍麻が見せると、文句を言うつもりだったのか、京一は渋々頷いた。
「そういやそんなのもあったな。けどよ、ソレ何か役に立つのか?」
それが解れば苦労はしない。
今度は龍麻が不機嫌になりかけたところに、絵莉が進みでて珠を観察した。
「摩尼……かもしれないわね」
「摩尼? なんですかそれは」
「摩尼っていうのはサンスクリット語で珠っていう意味なんだけど、
ただの珠じゃなくて、何でも願い事を叶える珠って言われているわ」
絵莉の説明に京一が身を乗りだす。
「何ッ!! おい緋勇、お前知ってて集めてやがったなッ。独り占めしようとはふてェ野郎だ」
「知らねえよ、願い事が叶うってんなら、盲目者にだって苦戦しないはずだろ」
龍麻が反論しても、京一は不審を隠さない。
構わず無視して、龍麻は絵莉との会話を続けた。
「集めてって、他にも持っているの?」
「これで二個目です。忍者みたいな奴を倒すと、これに変化して」
「変化……ということは、この珠に何かの術をかけているのかもしれないわね。私の方でも調べてみるわ」
「俺が持っていていいんでしょうか」
「そうね……大丈夫だと思うけど、何かあったら連絡をちょうだい。何とかできそうな人に連絡するわ」
「俺が持っててやろうか」
「ダメだよ緋勇クン、京一なんかに持たせたら落っことして割るか、すぐに失くしちゃうんだから」
「俺もそう思うな」
小蒔と醍醐に即座に否定された京一はふてくされてしまったが、誰も彼を慰めようとはしなかった。
「ね、あの化け物……ホントにやっつけたのかな?」
「いいえ……もとの場所へと還っただけよ」
自分達が走ってきた方向に視線をやった小蒔に、絵莉が答える。
彼女が調べた限りでは、盲目者は異次元の存在であり、
人の力では決して斃すことはできない、ということだった。
「てことは、また誰かが喚べば出てきちゃうってコト?」
「ダイジョーブネ、あの『門』はもう、開くコトはナイよ」
苦労の末に斃した怪物がまた復活するというのは穏やかでなかったが、
しきりに葵の無事を確かめようとしていたアランがそれを否定した。
「あの真上には、チョウド樹が立っているヨ。六百年の間、タクサンのヒトの死を看取ってきた、偉大な樹がネ」
「それって、まさか」
驚く絵莉に、アランはウィンクしてみせた。
「Yes.ヨーゴーの松」
「そう……そうだったの」
「どういうことなんですか」
一人納得する絵莉に、龍麻が訊ねる。
地元民であるアランに訊ねなかったのは、その前のウィンクが気持ち悪かったからだ。
「影向の松がある善養寺にはね、浅間山噴火横死者供養碑があるの。
あの辺りはね、一七八六年に浅間山の大噴火が起こって、二千人以上の人が亡くなっているのよ。
……当時、それは悲惨な状況だったって言うわ。
今みたいに消防施設も医療施設も発達していなかったんですものね。
直後に起こった天明の大飢饉の影響もあって、併せて何十万という人々が死んだというわ。
その時亡くなった人々や牛馬が利根川や江戸川を流れてこの地に集まったのを、
村人達が手厚く葬って供養した……それが今の善養寺なのよ」
「樹は、言ってマス。ヒトが死ぬのを見るのは、メニーメニー悲しいと」
胸に手を当てるアランに、小蒔が神妙な面持ちで呟く。
「ボク、聞いたことあるよ。植物や動物も長い年月を経ると、魂や強い霊力を得ることがあるんだって」
「松の樹の思い……ボクにはわかりマース。
ボクもメキシコのボクの村、大好きデシタ。大好きなヒト、大切なヒト、いっぱいいたネ。
でも、あの化け物現れて、何もかも失ッタ……そんな想い、もう二度としたくナイ。
そんな想い、誰にもさせたくナイ」
沈痛な面持ちで語ったアランの心情の一端を、龍麻達は感じとった。
彼にも戦う理由があったのだ――邪悪な者達から、人々を護りたいという。
しんみりとしかけた場を、崩すように京一が伸びをした。
「よっしゃッ、終わったこったしメシ食って帰ろうぜ。怪我はいいんだろ?」
「ああ」
「よし、アラン、この辺で美味いラーメン屋連れてけよ」
スポンサーの同行を確かめてから京一は、江戸川区のラーメン事情を現地調査するべく声をあげた。
男達は一様に同意したが、葵が申し訳なさそうに帰宅を申し出た。
「ごめんなさい、疲れてしまったから今日は帰るわ」
「あ、じゃあボクが送ってくよ」
「まッ、しょうがねェな。小蒔、帰りに美里を襲ったりすんじゃねェぞ」
「ベーッだ。じゃあね、みんな」
京一に舌を出した小蒔は、龍麻達には手を振って彼らと別れた。
駅に向かう道すがら、小蒔が葵を気遣う。
「葵、大丈夫? 調子悪いの?」
「今はそうでもないけれど、さっきは少し気分が悪かったの」
「いっぱい『力』を使ってボクと緋勇クンを治してくれたもんね」
実を言えば、龍麻達と食事に行けないほど葵は気分が悪かったわけでもなかった。
小蒔も同行してくれて願ったり叶ったりではあるし、完全な嘘でもないが、
生じた微妙なしこりを葵は無理に追い払った。
「それにしても凄かったね。ゲームみたいで」
未だに現実とは信じられない、盲目者という化物と戦ったというのに、
あっけらかんと言う小蒔に、葵は訊ねずにいられなかった。
「怖くなかったの?」
「うーん……ホント言うと、最初はちょっと怖かったよ。弓も当たんなかったし。
でも、緋勇クンが飛びだして金色に光ったでしょ。
アレ見たらボクもやんなきゃって、怖いのなんかどっか行っちゃった」
小蒔の返事に、葵の心を幾つかの思考が同時に巡った。
ひとつは、小蒔が龍麻に憧れはじめているのではないかという懸念。
親友の色恋を邪魔するつもりはないが、龍麻だけは駄目だ。
隙を見せたが最後、彼は小蒔を欲望の赴くままに扱い、計り知れない悲嘆の井戸の底に沈めてしまうだろう。
それだけは絶対に防がなければならない。
もうひとつは、小蒔の言う通り、龍麻に憧れるという危険。
小蒔の後方から葵も見ていた。
龍麻が数メートルにも及ぶ、およそ人の理解を越えた怪物の前に飛びだし、己が生命力を氣と変えて撃ちだすところを。
その姿は神々しささえ感じられ、葵は確かに感動したのだ。
彼の本性を知らなければ、小蒔のように好感を抱いていたかもしれない。
小蒔はさらに続ける。
「それにね、最後、緋勇クンが吹き飛ばされた時、とっさにボクを庇って下になってくれたんだ。
だから、ボクの怪我はちょっと擦りむいただけで済んだんだよ」
「そうだったの」
幾分彼に悪いことをしたと葵は思った。
小蒔の治療を先に行ったことを後悔してはいないが、
小蒔が怪我をしたのは龍麻が原因だと決めつけていたのは良くないだろう。
だからといって、謝る気にまではなれない葵だった。
新宿駅に到着した葵は、小蒔と別れ、家に帰る。
家につくとまず浴室に入ってシャワーを浴びた。
水に近い温度の湯が、疲労を溶かしていく。
しばらく無心で開放感に身を委ねていた葵は、湯を止めると、両手を見た。
今日この手は、アラン蔵人に掴まれている。
彼の手は大きく、温かかったが、残念ながら彼の印象は特に残っていない。
というより、それが普通なのであって、ふとした拍子に蘇ってしまう龍麻の感触の方がおかしく、
何か特殊な能力を用いているのではないかと葵が疑う理由だった。
龍麻は氣とはそんな便利な能力ではないと言っていたが、それが真実であるという保証はない。
触れた場所を彼の意のままに操る、そんな能力があるかもしれないのだ。
そこまで考えて葵は危惧を覚えた。
小蒔は今日、龍麻に抱きかかえられた。
その時に龍麻が何か仕掛けたという可能性に気づいて葵は愕然とした。
小蒔は龍麻が庇ってくれたと言っていたし、実際に龍麻は地面に打ちつけられて大怪我をしている。
そんな彼を疑うのはあんまりではないか。
しかし彼には前科ともいうべき問題を引き起こした過去があるし、
葵が癒やしの『力』を持っていることまで計算しているかもしれない。
龍麻はそれだけの狡知を持った男であり、警戒しすぎるということはない。
小蒔にはそれとなく訊いてみる必要があるだろう。
人を疑うという負の思考に没頭していた葵は、シャンプーを手に取り、髪を洗い始める。
手は葵の意思通りに動き、髪を泡で包んでいく。
だが、泡は洗い流せても、一度湧いてしまった不安は、泡のようには拭い去ることができなかった。
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