<<話選択へ
変生 ─前編─ 2へ>>


 昼間の喧騒も失せ、都会の中心であることが嘘のように静まりかえった新宿中央公園。
その中を、一人の男が歩いていた。
瘴気めいたものを撒き散らしながら歩くその姿に、近寄ろうとする者などおらず、
運悪く通りすぎる羽目になった者も道の端へと避け、小走りで去っていく。
それらの者を一顧だにせず、男は酩酊したような足取りで偽りの光に満ちた歌舞伎町の方へと、
灯りに誘われる蛾のように向かっていた。
「何でだ……何で、俺は……奴等に勝つことが出来ねぇ」
 男は溜まった唾を吐き出した。
そうすることで忘れようとしたいまいましい奴等の顔は、
しかし消え去ることはなく、それどころか口に出したことでより鮮明さを増してしまう。
緋勇。
蓬莱寺。
そして、醍醐。
思い浮かんだ三人の顔は、悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
葵を奪っていった奴等。
自分を嘲笑あざわらっている奴等。
そして、自分を見下している奴等。
鬱屈する心情は日々内圧を高めていたが、それを発散する場を男は持たなかった。
それ故にその鬱屈は合わせ鏡のように自らを増幅していき、
もはや思考の大半を占めるまでになっていた。
「クソ……どうすれば、奴等に……」
 自覚の無いまま口を動かし、憎しみを形にする。
その鬱憤をわずかでも晴らすべく、刹那的な快楽を求めて歩を進める男の耳に、
突然囁きかける声があった。
「何を悩むことがある、我らが同胞はらからよ」
「誰だッ!」
 男は立ち止まり、辺りを見回した。
誰もいない。
気配すらない。
薄暗いとはいえ、電灯もあり、人影程度なら容易に識別出来る公園内にあって、
声が幻聴だったかのように周りには自分以外誰もいなかった。
 気に入らなかった。
姿を見せないのも気に入らなかったし、己の内心を覗かれたのも気に入らなかった。
どす黒い欲望をいささかでも晴らしてやろうと、男は必死に声の主を捜し求めた。
しかし、声は耳のすぐ傍から聞こえてきているというのに、人影はどこにも見当たらなかった。
苛立ちを募らせる男に、更に声は語りかける。
ぬしの抱くその怨恨は、我らが鬼道の恩恵を得るに相応しい。
限りなく我らに近い魂を持つ男よ──」
 言っていることは半分も解らなかったが、声は、奇妙に心を安らがせる響きを帯びていた。
苛立ちを、心安さが覆っていく。
「さあ、解き放て──そして、なぶり、殺し、そして食らうが良い。思いのまま、奪うが良い」
「奪う──?」
 何と快い響きか。
生きる為に命を食らい、牝を手に入れる。
己の欲望の赴くままに生き、他者から奪うことは、牡の、獣の本能であった。
脳の最も原初的な部分を刺激され、男の心が緩む。
その隙間に、声はぬるりと忍びこんだ。
「怖れることは無い。『選ばれし者』よ、己の内に渦巻きし暗き念に身を任せるが良い」
 侵入してきた声が、頭の中を食い荒らす。
それは、ひどく甘美な感覚だった。
「恨め──憎め──殺せ──」
「なッ……なんだ、頭が……」
 男は地面に膝をつき、頭を抱える。
声はますます思考の隅々にまでその淫靡な触手を伸ばし、男から何もかもを奪っていった。
「堕ちるが良い、佐久間よ……変生へんじょうせよ……」
「ぐッ……がァッ……ぐぉォおぉォ……ッッ!!」
 誰にも聞こえることのない囁きが、幾重にも反響し、男を食い尽くす。
 男が最後にあげた叫びは、獣の咆哮であった。

「それでは今日の授業はこれで終わりです。
昨日も言いましたが、佐久間クンを見かけた人は先生に連絡してください。
──それでは、Goodbyeさようならeveryoneみんな
 生徒達が担任であるマリア・アルカードに唱和すると、
静かだった教室が一斉に騒がしくなる。
学校という拘束から解かれた彼らからすればそれも当然のことだったが、
それにしても、欠席を続けている佐久間に誰も関心を払おうとしないのは哀れと言えた。
だからと言う訳ではないが、自分のところにやって来た醍醐に、龍麻は自分から切り出した。
「一週間か……佐久間がいなくなって」
 龍麻達五人の中で彼に好印象を抱いている者はいない。
否、粗暴で何度かの暴力沙汰を引き起こしている彼は真神学園全体でもほとんど全員に嫌われていた。
その中で、佐久間のグループに属する不良連中以外で最も中立に近いのは、
佐久間が形だけ所属しているレスリング部の部長を務める醍醐であったろう。
龍麻も転校初日に彼に因縁をつけられた身であり、真神学園の多数派の一人ではあるのだが、
毎日帰りしなにマリアに言われれば、多少は気にもするというものだった。
 恐らく醍醐もその話をする為に来たのだろう、龍麻が佐久間の名を出すと、
普段は割と寡黙な彼が性急な口ぶりで応じた。
「どうやら、自宅にも帰っていないらしいしな。
このままだと、警察に捜索願いを出すことになるらしい」
 と言うことは、親にも全く話していないということか。
 現在一人暮らしの龍麻は、週に一度親と連絡を取るくらいではあるが、
その時は大抵自分から電話をかけているし、仲が悪くなったこともない。
いくつかの事情があって割とあっさり反抗期を終えてしまった為に、
家出など考えたこともない龍麻には、佐久間の心境は全く解らなかった。
もっとも、どうやら彼のご執心だったらしいとはいえ、
葵と二言三言話しただけで喧嘩を売ってくるような輩の心境は理解したくもないのであるが。
 その後も儀礼的に佐久間について醍醐と話したものの、
もちろん龍麻は失踪した彼の居場所など知るはずもなく、
会話は中途半端なものに終わらざるを得なかった。
 醍醐も彼の家に電話をかけてみたりはしているが、
ぞんざいな口調で親に知らないと言われればそれ以上のことは訊けず、
彼の子分達に訊いたところでまともな答えが返ってくるはずもない。
焦慮を覚えつつも、どうしようもないのだった。
 いつものように彼らのところにやって来た小蒔は、
あまり心楽しくない会話を続ける二人に、口を挟む気にもなれず無言で立っていた。
 掌に、苦い熱さが蘇る。
夏休みのある日、不埒ふらちにも葵を強引に連れて行こうとした彼を、
小蒔は激怒して張り飛ばしたのだ。
悪いことをしたとは思っていないし、葵を護るためなら彼に嫌われようとどれほどのことでもない。
しかし、こうして佐久間が失踪してしまうと、
その原因のいくらかでもあの平手打ちにあったのではないかと、つい考えてしまうのだった。
 彼女らしくない、あまり健全ではない思考に陥っていた小蒔は、
頭を一つ振って佐久間のことを追い出し、どうやら二人の話も一段落したらしいとみて口を開きかける。
ところがその拍子に目に入った時計の針は、それどころではない位置を示していた。
「ッと、もうこんな時間だ。葵、あーおーいッ」
 小蒔が呼ぶと、別の友人と話していた葵は、のんびりと龍麻達のところにやって来た。
「あら小蒔、まだ行かなくていいの?」
 何を話題にしていたのかいかにも楽しそうで、声にもそれが表れている。
その声に小蒔は、やや沈んでいた気分を晴らすことが出来た。
「うん、今から行くトコ。ハイこれ、学校への地図」
「ありがとう、後から行くわね」
「今日何かあるの」
 あまり女の子同士の会話に立ちいるのも気が引けるが、
特に秘密めいた雰囲気もなかったので龍麻は尋ねてみた。
すると小蒔は、きょとんとした顔をする。
「あれ、言ってなかったっけ? 弓道部の練習試合なんだ、今日」
 少なくとも龍麻には初耳だった。
京一もどうやら同じようで、いかにもつまらなそうに欠伸あくびをしている。
もう少し観察すれば、醍醐はどうやら前から聞いていたらしいというのが
態度からうかがえたのだが、その前に京一が二度目の欠伸が混じった声で言った。
「なんだ、そんなんかよ……俺はまたいよいよ小蒔おまえが男子校に転校すんのかと」
「な・ん・でボクが男子校に転校しなきゃなんないのさッ」
「そりゃお前、その学校のボスに君臨して全国を支配すんだよ。
そしてそれに立ち向かう美形の剣士! かー、燃えるねェ」
 六時限目の夢の続きなのか、京一の言うことにはこれっぽっちも意味がない。
龍麻と同じように白けた目で京一を見た小蒔は、軽く頭を振って他の友人に説明した。
「はぁ……もういいや、バカはほっとこ。
真神ウチと仲のいいゆきみヶ原高校でやるんだけどね、良かったらみんなも応援に来てよ」
 小蒔に無視されても堪えた様子もなくどこか遠くに旅立っていた京一だったが、
荒川区にあるというその高校の名前を聞いた途端、光の速さで戻ってきた。
「何ィッ! ゆきみヶ原っていやぁお前、二十三区でも指折りのお嬢様学校じゃねェかッ!
水臭ェなぁ小蒔、なんでさっさと言わねェんだよ」
「やっぱ、京一には教えなきゃ良かった……」
 処置無し、と短い髪を振る小蒔に、京一を除いた一同が笑う。
その笑いが収まったのを見計らって、小蒔は軽く手を上げた。
「んじゃ、ボクは行くね。他の部員みんなも待ってるし」
 鞄を持ち直した拍子に、小蒔の腰についている小さな何かが揺れた。
目ざとくそれを見つけた京一が、素早く手を伸ばして確かめる。
彼の手の内に収まったのは、いかにも古ぼけたお守りだった。
「ん? お前こんなお守り前からつけてたか?」
「あ、これ? へへへ、醍醐クンに借りたんだ」
醍醐たいしょーに? なるほどねェ」
 京一の口調はおせじにも上品と言えるものではなかった。
京一だけでなく、葵や龍麻もらしくない好奇心を瞳に浮かべて醍醐を見やる。
「なッ、なんだその目は。それはだな、醍醐家に代々伝わるそれは由緒正しいお守りでだな、
俺はそれを持っている時は試合に負けたことが無いという」
「いやいや、わかったよ」
 いつになく饒舌な醍醐を遮って京一は顎を撫でた。
「ふんッ。役に立つかはわからんが、桜井が勝てるようにと思っただけだ」
 揃って同じ表情をしている三人に、弁が立つ訳ではない醍醐は諦めて腕を組み、横を向く。
まだ日に焼けている横顔は、少し赤らんでいるようにも見えた。
「えへへへ、ありがと、醍醐クン。今日は三年間の締めくくりだからね、雛乃にも勝たないと」
 京一からお守りを取り戻した小蒔は、いかにも大事そうにそれを結び直す。
そのお守りとそれをあげた人物を交互に見た龍麻は、
驚きっぱなしの心情をなんとか手繰り寄せて、全く別のことを聞いた。
「雛乃って人、ライバルかなんか?」
「うん、ゆきみヶ原むこうの弓道部長で、一年の時からずっと互角なんだ。
実家が神社だから、巫女さんなんだよ」
「巫女か……俺には見えるぜ、竹箒を持った和風美人の姿が」
「ひーちゃん、ちょっといいかな」
 お嬢様学校の弓道部長にして、巫女。
京一が妄想するのもある意味当然と言えた。
また遠くに旅立った京一に目を細めた小蒔は、龍麻の耳を引っ張る。
「雛乃もなんだけどさ、
ゆきみヶ原に行ったら京一あのバカが向こうの子にヘンなちょっかい出さないように見張っててくれる?」
 龍麻が笑って頷くと、小蒔は勢い良く身を翻した。
「それじゃ、後で向こうでねッ」
「なんか嬉しそうだね、桜井さん」
「そうね、夏休みの間もずっと練習していたものね、雛乃さんって人との勝負がよほど楽しみみたい」
 小蒔を見送った龍麻と葵は、ごく普通に練習試合について語ったが、
京一の関心は別のところにあるらしかった。
「……にしても、お守りとはな。もうちょっとマシなモンは思いつかなかったのかよ。
女にプレゼントすんのにお守りはねェだろ」
 話題をまぜっかえしつつ、友人のセンスの古さをこきおろす京一に、葵がすまして応じる。
「あら京一くん、小蒔、とっても喜んでたわよ。
醍醐くんに貰ったんだって、わたしに見せに来たくらいだもの」
「とッ、とにかく、深い意味はないんだからなッ」
 孤立無援であることを悟ったのか、醍醐は巨体に似つかわしい大きな足音を立てて行ってしまった。
その地響きは、葵の髪をわずかに揺らすほどだった。
「行っちまったぞおい。醍醐、お前会場の場所知ってんのかよッ」
 大声で叫びながら、京一は醍醐を追って教室を出て行く。
後に残された龍麻と葵は顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。
「京一くん、ああ見えても醍醐くんと小蒔のこと、本当は凄く心配してるのよ」
「醍醐と桜井さん、ね……」
 好意的な笑顔を浮かべる葵だったが、龍麻の表情は少し曇っていた。
もしかして──ほんの一瞬心を掠めた不安を押し殺し、葵は演技して訊ねる。
「あら、緋勇くんは反対なの?」
 少しだけ口調に棘を込めてみると、龍麻は困ったように頭を掻いた。
「いや、そうじゃないけど……今まで知らなかったから。美里さんはいつから知ってたの」
「いつからって……結構前からよ」
 冗談味のない顔で訊ねる龍麻に、葵は安心を通り越して呆れていた。
これだけいつも一緒にいて、しかも相当解りやすい二人なのに、全く気付いていないとは。
「そうね、でも小蒔は人のことには鋭いけど、自分のこととなると結構鈍いところがあるし、
醍醐くんは判りやすいけど照れ屋みたいだから」
 葵は彼女達だけでなく、目の前の男もついでに評価してやったのだが、
自分のことには相当鈍く、判りやすいくせに照れ屋な男は全く気付く気配もなかった。
腕を組み、実に感心したように呟いている。
「そうか……醍醐と桜井さんがね……」
 そのままだと三十分でも考えていそうな龍麻に、葵はごくさりげなく悪戯を仕掛けた。
「ほら、考えてないで行きましょう、龍麻くん」
「あ、うん。……!? 美里さん、今」
 ぼんやりと答えた龍麻が、弾かれたように顔を上げる。
彼の訊きたいであろうことと自分の答えたいことは一致していたが、
この時の葵はやや意地悪な気分をそのまま言葉にした。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
 いつになく訊ねてみたいらしく、幾度か何か言いたそうに口を動かしていた龍麻は、
結局勇気が及ばず諦めたようだった。
落胆が伝わるその口ぶりに、落胆しているのはあなただけじゃないのよ、
と言ってやりたいのを抑え、葵は龍麻を促してゆきみヶ原高校へと向かうことにした。



<<話選択へ
変生 ─前編─ 2へ>>