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 地面が揺れる。
強く、激しく。
五感を揺らす鳴動に、龍麻はとっさに地面に伏せた。
剥きだしの荒れた地面が皮膚を乱打する。
地震が多いといわれる関東地方でも、滅多にない大きな揺れは、
しかし、それほど長くは続かなかった。
伏せてから数秒で揺れは収まり、辺りに静けさが戻ったのを確かめて、龍麻は身体を起こした。
まだ地震が続いているか、周りを見渡して、それが無駄な試みであると気づいて苦笑する。
部屋の中か、あるいは地上のどこかなら、揺れを確かめる術はいくらでもあっただろう。
だが、龍麻が今居る場所には、岩以外のものは何もなかった。
 真神學園、旧校舎。
どう見ても実用には耐えられない老朽化した建築物。
ここを潰せば現校舎をもっと広くできるか、さもなくば運動場を広げられる。
ただでさえ土地の狭い東京、それも二十三区内にある高校で、
これほど無駄な建築物がある理由を知る者は、龍麻を含むごく少数の人間だけだった。
 旧校舎の奥に人目を避けるようにある一つの部屋。
その中には人が入れる程度の大きさの、下に伸びている穴があり、
その穴こそが旧校舎が取り壊されない理由だった。
龍麻はその穴の下、およそ五十メートルほどの地点にいた。
 龍脈と呼ばれる地球そのもののエネルギーが流れる、いわば血管のような目に見えない通路。
龍脈の力は膨大であり、それが噴きだす場所は生気にあふれ、都市は繁栄を約束されるという。
その中の一本が真神學園の下を通っており、旧校舎から繋がっている穴は少量ではあるが
龍脈の噴きだす穴、龍穴だった。
 龍脈はそれが噴きだす場所のみならず、通過する地下においても当然生命力を活性化させる。
すなわち人にあらざる物や、生物ですらないモノ。
穴を塞ぐということは、龍氣を地下に溜め、
それらの存在を手がつけられないほど強大にしてしまう。
だから穴を塞ぐことはできず、さらに時々は事情を知る者が地下に降り、
それらを駆除しなければならないのだ。
 緋勇龍麻は事情を知る者の一人であり、駆除する役目を負った者でもある。
しかし彼が今地下にいるのは、それが理由の全てではなかった。
 数日前に敵として現れた雹という女性。
龍麻は彼女を知り、愛し、そして別離を経験した。
彼女と過ごした時間は一日にも満たなかったが、彼女への想いは強く、
龍麻はこの数日間、ほとんど何も考えられる状態ではなかった。
 旧校舎に潜ったのは、それが理由である。
もし化け物や魍魎の類がいれば憂さを晴らせるかも知れないし、
闇雲に身体を動かせば、気を紛らわせることだけでもできるかもしれない。
何よりじっとしているともう決して会うことのできない、
外法により仮初めの生命を得て現世に甦った少女のことを思いだしてしまって辛かったのだ。
 いつもなら気配に満ちている地下も、一週間ほど前に友人達と鍛錬のために潜ったからか、
人と人でない物を含めて、龍麻は誰にも出会わなかった。
これでは意味がないと、とにかく少しでも身体を動かそうと深く降りていく。
そうして二時間ほども歩いているうちに、大きな揺れが龍麻を襲ったのだった。
「仕方がない……戻るか」
 埃を払って龍麻はつぶやいた。
目的は果たせず不満は大いにあるが、結構大きな揺れだったから地上が心配だし、
時計を見るとそれなりに時間も経っている。
死にに来たわけではないのだから、ここは戻るべきだろう。
 デイパックから菓子パンと飲料を取りだし、龍麻は帰路についた。
軽いとは言えない足取りで歩を進めるうち、どうしても雹のことを考えてしまう。
 彼女ともう少し早く出会えていたなら。
 敵として出会っていなかったなら。
 彼女を抱かなかったなら。
濁った後悔は、だがどれも意味がないと龍麻は知っていた。
むしろ百数十年の往古から甦った彼女と敵として邂逅してから、
わずか数時間とはいえ想いを通わせあえたことを奇跡だと思わなければならないのだろう。
 腕で目を乱暴に拭って、龍麻は歩き続ける。
 彼女とのことは仲間には話せない。
まだ鬼道衆との戦いは続いているから余計なことを言えば混乱するだろうし、
彼女との記憶を口にして、過去にしてしまうのは嫌だったのだ。
 人の気配も街の喧噪もない洞窟の中は、孤独に歩くには最適な場所だった。
女々しいと思いながらも外に出るまでは、と彼女と過ごした数時間の記憶を何度も辿り、
冷たいが凛とした顔を、物憂げな声を、そして、白く透き通るような肌を、
能う限り細部まで思いだしながら、龍麻は歩いた。
 行きよりも時間をかけて、三時間ほど歩いた頃、入ってきた穴が見える。
かなりの揺れを感じたが、ここまでは及ばなかったようで、
穴が塞がっているようなことはなく、無事に地上に帰れそうだ。
 深く息を吐き、名残惜しくも彼女との思い出に別れを告げた龍麻は、
仲間と戦いの待つ世界へと戻ることにした。
 だが、それは早計だった。
穴の近くまで来た龍麻は、据えつけられていた鉄のはしごが見あたらないことに気がついた。
地震の衝撃で外れてしまったのかもしれない。
そう思ってあたりを探してみたが、残骸らしきものは見あたらない。
さいわい地上まではそれほど高さがなく、なんとか上れそうだ。
なんとなく地形が来たときとは違っているようにも思えるが、
それよりも地上に出る方が先決だろう。
飛びあがって穴の縁に手をかけた龍麻は、一気に身体を引きあげた。
 立とうとして顔を上げた龍麻は呆然とした。
穴は真神學園の旧校舎にあり、地上部分は建物に囲まれているはずだ。
それが周りにあるのはうっそうと茂る木ばかりで、校舎など影も形もなかった。
「どこだ、ここ」
 他にもおかしな点は多々ある。
今日は八月の八日であるはずで、夕方となっても薄暗さが残る季節だ。
それが空は確かに薄暗いものの、龍麻が立っている辺りはほとんど夜というくらいに暗かった。
何故、と考えて、龍麻は気づく。
数時間前まで龍麻がいた東京の街は、夜であっても煌々と明かりの灯る、
世界でも有数の不夜城だ。
真神學園は周りを木に囲まれていて比較的薄暗くはなるが、
それでも木々の間から人工の光は漏れ、暗闇というようにはあまり感じない。
 しかし、この場所は違う。
灯りらしい灯りはどこにも見えず、紫に染まる景色は、龍麻が経験したことのない世界だ。
それにやはり東京では昼も夜も途絶えることはない、近くて遠い喧噪も、今は全く聞こえなかった。
「どうなってんだ、いったい」
 龍麻は意識的に独り言をつぶやく。
何かを怖れたわけではない。
ただ、人の気配どころか木々のざわめきしか聞こえないこの状況はいかにも心細かった。
 数時間前からは思いもかけなかった状況に、龍麻は考えこんだ。
 地下に入る前は何もおかしなところはなかったし、洞窟内も、
帰りも含めて異常は感じられなかった。
とすれば、あの地震が何らかの関係があると考えるのが自然だ。
ただし証拠はないし、原因が判ったところで現状を解決する役には立ちそうもない。
 とにかく地球の上ではありそうだから、少し歩いてみて、誰か人を探そう。
無難、というより他に選択肢はなく、龍麻は念のために手甲を装着して、
あてもなく歩きはじめた。
一応、記憶を頼りに校門の方へと向かってみる。
あてずっぽうと変わらないが、酷い藪の中を数十歩ほど歩くと、前方に巨大な影が見えた。
おそらくは建物で、人工物があるなら誰かいる可能性が高い。
そこにいるのが人間なら話を聞けるだろう、と龍麻は幾らか希望を膨らませ、
デイパックを片方の肩にかけなおして歩きだした。
 見た目よりも建物は遠くにあったのと、舗装もされておらず藪のようになっていた
穴の周りから出るのに苦労して、建物に着いた頃には辺りは濃紫に染まっていた。
数メートル先がかろうじて視認できるといった程度で、歩きにくいことこの上ない。
何度かつまずいた龍麻は、そのたびに誰かに見られたら恥ずかしいなどと悪態を吐く。
しかしお前は孤独なのだとばかりに笑う木々の音を聞かされていると、
次第に誰かに笑われた方がましだと思うようになっていた。
 ようやく建物の近くまで来た龍麻は、目を細めて建物を観察した。
木造の建物から受けた第一印象は寺だった。
それほど大きくはなく、一辺は十メートルくらいだろうか。
穴の方に目を凝らし、おおよそ旧校舎から学校の敷地の端辺りではないかと見当をつける。
色々変わったところのある母校だが、こんな寺があったという覚えはない。
ますますここがどこだか判らなくなった龍麻は、思いきって中に入ってみることにした。
 そのためにはまず入口を捜さなければならない。
建物を右手に見ながら沿って歩くと、最初に着いたのが裏手だったのが判明し、
半周したところで正面に出た。
 正面には小さな階段があり、そこを昇って建物に入るようになっている。
裏から来たときは気がつかなかったが、龍麻が回りこんだのと反対側に、
正面のそれよりは小さな建物があって、廊下で繋がっていた。
 いずれの建物にも灯りは見えず、誰かいると思った龍麻は落胆する。
それでも居ないと決まったわけではないので、気を取り直して呼びかけた。
「すみません、誰かいませんか」
 声は紫の闇に吸いこまれるように消えていき、何の反応もない。
もう一度呼びかけ、それでも反応がなかったら、悪いが勝手に上がらせてもらおうと決め、
龍麻は一度目より声を張って呼びかけた。
「……」
 やはり反応はない。
龍麻が初めて大きな不安を覚え、それを振りはらうように階段に一歩を踏みだしたとき、
どこか遠くで小さな軋み音が聞こえた。
 龍麻は息を止め、耳を澄ませる。
やはり空耳ではなく、誰かが近づいてくるようだ。
先に大きく息を吐いておいて、龍麻は寺の人間が現れるのを待った。
 時間にすれば、一分は待たなかったはずだ。
しかし龍麻には一時間にも感じられ、人影が目の前に立ったとき、
息せき切って話しかけようとした。
 あの、と言いかけた口が急停止する。
辺りはますます暗く、人影をかろうじて判別できたに過ぎないが、
その影が、滅多なことでは動じない龍麻を混乱の極みに陥れていた。
 口を閉ざした龍麻に替わって、人影が声を発する。
「……何だ、お前?」
 男の一声は、口にしなかっただけで龍麻も同意見だった。
着崩した着物に、髷というのだろうか、頭の上で束ねた頭髪は、
奇抜な服装を着ている人間が多い東京でもまず見かけないファッションだ。
肩には刀らしき長物を担いでいて、演劇部の部員かとも思った龍麻だが、
よく考えれば真神に演劇部はなかった。
「変な格好しやがって、おい、何とか言ったらどうなんだ」
 お前の格好ほど変じゃない、と答えようとして龍麻は止めた。
男の喧嘩腰が気に入らなかったし、状況の異常さがかえって歯止めをかけていたのだ。
「すみませんが、ここはどこですか?」
 礼儀を守って龍麻は訊いた。
「ああ? なんでてめェにンなこと教えなきゃなんねェ」
 努力がいつも報われるとは限らない。
それにしても場所を訊いただけでこの突っかかり方は、なんとも癇に障る。
忍耐心を見かけほどには持っていない龍麻は、あっさりと努力の甲冑を脱ぎ捨てた。
「ああそうかよ。言う気がないなら黙ってろ」
「てめェ……上等じゃねェか、痛い目に遭わねェとわかんねえみてェだな」
 二つの炎は互いを呑みこもうと勢いを増す。
どちらがより大きな炎であったかは、もう問題ではなかった。
 階段を下りてきた男は肩の木刀を下ろし、青眼に構える。
構えに隙はなく、微動だにしない切っ先は、正確に龍麻の喉元を狙っていた。
真剣か、と肝を冷やした龍麻だったが、どうやら木刀のようだった。
……木刀?
真神と木刀という二つのキーワードが、ある人物を龍麻に思い起こさせる。
だが奴は色々アホなところはあるが、こんな格好をする趣味はないはずだった。
 それから先を考える暇はなかった。
いつ振りかぶったのか判らない疾さから、うなりを上げて振りおろされた木刀は、
横っ飛びに躱さなければ直撃していたからだ。
思いきり跳躍し、横転して距離を稼ぐ。
「チッ……やるじゃねェか。一撃で仕留めてやろうと思ったのによ」
 男は龍麻が無手と見て、余裕の表情で構えなおした。
龍麻も体勢を立て直し、再び相対する。
切っ先が動いたと思った瞬間、左側面から斜めに木刀が襲ってきた。
速度は充分であり、刃がないとはいえ、肩口にこんな一撃を食らっては確実に昏倒してしまう。
龍麻は左腕を掲げ、木刀の中程を手甲に当てた。
鈍い音と共に木刀は弾かれ、男が驚きを露にする。
「何者だ、てめェ……!」
 龍麻は不敵に笑った。
ここが何処かもわからず、正体の知れない敵に襲われているにも関わらず、昂揚に全身が滾る。
漲る氣が命じるままに地面を蹴り、敵の懐に潜りこんだ。
「ちッ……!」
 予想もしなかったであろう攻撃を弾かれて、男は大きく身体を崩している。
彼のがら空きの腹に、龍麻の固めた拳がめりこんだ。
「がはッ!!」
 確かな手応えがあった。
だが、男はよろめき、腹を押さえたものの、倒れはせず、刀を手放しもしなかった。
「てめェ、ぶっ殺してやるッ……!!」
 殺気を全身から放ち、男は改めて構える。
こうまで殺気を放たれては手加減などもはやできない。
龍麻は氣を練りつつ右足を半歩下げ、どのような攻撃にも対応できるよう
重心をやや後ろ気味にとった。
 激しい呼吸音が止み、対峙する二人が挟む紫闇の空間に闘気が満ちる。
契機を求めていた二人が、どこかで鳴った葉の音に動いた刹那。
「どうした、何かあったのか」
 二人のものではない落ちついた声が、龍麻の前方から二人を止めた。
 状況的に味方ではありえない。
まずそう判断した龍麻は、警戒を解かず、気取られないよう足の裏で距離を稼ぎ、
男と間合いをとった。
 一方の男も木刀を構え、目線も動かさないまま、後ろの男に向かって怒鳴った。
「手を出すんじゃねえぞ醍醐、こいつは俺の獲物だ」
「ふむ……」
 三人目の男は態度を決めかねた様子で二人を眺めている。
だが龍麻は、驚愕を押し殺すのに失敗し、眼球だけを動かして男に語りかけた。
「醍醐? あんたの名前は醍醐って言うのか?」
「いかにも俺は醍醐雄慶と言うが……」
 龍麻の膝から力が抜けていく。
見知らぬ場所に出たときから抱いていた不安が、ある可能性へと舵を切り始める。
その進路が正しいのか否か、龍麻はなお構えたまま、今度は今闘っている男に訊いた。
「それじゃお前……もしかして、蓬莱寺って言ったりするのか?」
「ああッ!? なんでてめェが俺の名前を知ってやがんだッ!」
 男の驚き方があまりにもそっくりで、龍麻は吹きだしそうになった。
もちろんまだ気が立っているはずなので、挑発するような態度は厳に慎む。
もう闘うつもりもないので、腕を下げ、龍麻は醍醐の方に訊ねた。
「もう一つ教えてくれ。ここは何処で、いったい何時なんだ?」
「場所はともかく、何時、とは妙な問いだな。確か慶応二年、だったな?」
「俺が知るか」
 一人なら百パーセントが、二人なら三百パーセントになる。
数日前に聞いたはずなのに、ずいぶんと懐かしく感じるやり取りに、
ついに龍麻は口元をほころばせた。
「何笑ってやがる、気色悪い」
 蓬莱寺がさっそく絡んできたが、醍醐の方は思慮深げに顎に手を当てた。
「ふむ……今ひとつ得体が知れないな。ここは見ての通り寂れた寺だが、
どんな用事があって来た?」
 穏やかに語った醍醐が、声を一変させる。
「事の次第によっては、無事に帰すというわけにはいかなくなるが」
 この時龍麻は自分の身に生じた事態をある程度把握していた。
だがそれを素直に説明したところで、信じてもらえるとはとても思えない。
慎重に事を運ぼうと言葉を選んだ。
「……まず、俺は何か用事があってここに来たんじゃない。
ここに何があるか何て知らないし、誰か人を探しているうちにここに出て……
そこの蓬莱寺に会ったんだ。場所を聞いただけなんだけどあんまり喧嘩腰だったから、
つい俺もやっちまったけど」
 龍麻がそこまで話したところで、醍醐が腕組みをして蓬莱寺を睨んだ。
「お前の方から売った喧嘩だったのか」
「うるせェ、寺の前で『ここはどこですか』なんて言う奴、怪しいに決まってんだろうがッ」
「それはそうだが……相変わらず要領を得ないが、少し興味が出てきたな。
お前、どこか行く当てはあるのか?」
 こちらの醍醐も蓬莱寺よりは話のわかる人間らしい。
もちろん龍麻に否やはなく、言われなければ自分から言うつもりだったことを
醍醐が言ってくれて、渡りに船とばかりに応じた。
「いや、全然。誰も居なかったらここの屋根を一晩借りようと思ってたところだ」
「それなら俺たちが泊まっているところに来るといい。といってもすぐそこだがな」
「おい醍醐、こんな怪しい野郎に構うのかよ」
「鬼や化け物にでもならん限り大丈夫だろう。
それとも、お前はそっちの方が嬉しいかも知れんがな」
「けッ、言いやがれッ。おいてめェッ、仕方がねェ、勝負は一旦預けてやるが、
決着はいずれつけるからなッ」
 血気盛んな蓬莱寺の挑戦を夜にまぎれてあいまいに流し、龍麻は醍醐について寺の中へと入った。



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