<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(2/5ページ)

 醍醐が寂れた寺、と言ったのは謙遜ではなかった。
板張りの床は穴こそ開いてはいないが、歩くといかにも不安をかき立てる軋み音が延々と続く。
本尊は安置されているとしても、その他にめぼしいものは見あたらず、
廃寺と言われても納得しそうな質素な寺だった。
 龍麻が本堂に入る頃は、外もほぼ真っ暗になっていたが、寺の中は本当の暗闇だった。
醍醐の持つ行灯だけが灯りであり、彼が行灯を置き、腰を下ろした場所に龍麻も座った。
 二人の中間の位置に蓬莱寺も座る。
いきおい三人は身体を寄せて語り合うこととなったのは、暗さを考えれば当然だった。
 肝試しをしているみたいだと龍麻は思ったが、のんきにしている場合ではない。
話が通じる人間が現れた、というだけで、あとは行灯すらない状態なのだ。
 龍麻は改めて二人を観察した。
先ほど闘った蓬莱寺は白と紫の派手な着物で、髪は頭頂で結っているが真ん中は剃っていない。
顔に険があるのは、闘いを中断させられたからだろうか。
龍麻と目が会うと露骨に睨みつけ、龍麻が目を逸らすとこれみよがしに鼻を鳴らした。
 醍醐の方はやはり着物だが、蓬莱寺と較べるときちんと着ている。
それに巨大な数珠を肩にかけ、坊主頭であるところを見ると、この寺の僧侶なのかもしれなかった。
 それにしてもと龍麻は思う。
真神學園にほど近い場所で蓬莱寺と醍醐という名の人間に出会ったのは、
いったい何を意味するのだろうか。
確実なのは現代の――龍麻がいた新宿ではなく、かといってまったくの異世界というわけでもない。
建物はこの寺しか見ていないが、照明やそもそも電気の類は見あたらず、彼らは着物を着ている。
となれば考えつくのはやはり、あれしかなさそうだ……
「それで、お前のことだが」
 醍醐に問われて龍麻は我に返った。
どこから話したものか、と思案して、自分のTシャツをつまんでみせる。
「こういう服を見たことがあるか?」
「誰もてめェの着る物の話なんざ聞いてねェ」
「いや……ないな。西洋風にも見えるが」
 どうもこの蓬莱寺はあの蓬莱寺よりも血の気が多いようだ。
この蓬莱寺の名前はなんというのだろうと好奇心が湧いた龍麻だが、
先に自分の身分を証明しなければならない。
「それから、これと」
 ジーンズを見せ、
「これも。多分、見たことはないと思うけど」
 デイパックを見せる。
「だから、てめェの着る物がなんだってんだ。
傾いた野郎ならもっとけったいなモン着てるだろうが」
「まあ落ち着け。で、何が言いたい?」
 意図はしていないだろうが、蓬莱寺と醍醐はかけあいのタイミングまで
龍麻の知り合いと酷似していた。
それだけで龍麻は相当に不安を忘れ、リラックスすることができる。
それでも自分も含めたこの場にいる人間に、事情を告げるのにはなお勇気と情報が必要だった。
「その前に、もう一つだけ質問させてくれ。さっき、今が慶応二年だって聞いたけど」
「ああ」
「今の将軍は誰だかわかるか?」
 龍麻としては少しでも手がかりを得るための質問だったが、すぐに過ちだと気づいた。
ぼんやりとオレンジ色に揺れる二人の顔が険しくなったのだ。
「どうもさっきから要領を得ねェことばっかり言いやがると思ったら、
今の将軍と来やがったか。おい醍醐、どうするよ」
「……お前、それを聞いてどうするつもりだ?」
 軽々しく将軍などと口にしてしまったのがまずかったらしい。
龍麻は正直に理由を話した。
「実は、慶応二年って言われてもよくわからなかったんだ。
それで将軍……様の名前なら聞けばわかると思って」
 だが、二人は渋面を崩さない。
それどころか蓬莱寺の方は明らかに隔意を抱き、手にした木刀をさりげなく、
いつでも振れる位置へと移動させていた。
龍麻もまだ籠手を着けたままだから応戦はできるだろうが、戦いは避けねばならない。
 それに蓬莱寺に加え、醍醐も相手取って勝てると思うほど龍麻はうぬぼれてはいない。
だいいち逃げたところで事態は全く改善しないのだ。
龍麻は思いきって、自分の身に生じたであろう事態を話すことにした。
「俺は、どうも今より後の時代から来たらしい」
 返ってきたのは完全な沈黙だった。
ただしその沈黙には微量の危険が帯電している。
それを打ち払うために、龍麻は声に必死さをこめた。
「頼む、だから将軍様の名前を教えてくれ。そうしたらきっと詳しく説明できる」
 龍麻の熱弁にも蓬莱寺は警戒を解かなかったが、醍醐の方は難しい顔をしながらも口を開いた。
「ますますわからんな。今の将軍様は徳川家茂公だが、一月ほど前に亡くなられた。
次の将軍様は未だ定められていない」
「徳川……家茂……」
 再び呼び捨ててしまい、二人が渋面を作るが、龍麻は構っていられなかった。
日本史の知識を総動員して、江戸幕府の将軍を順に思いだしていく。
現役の高校生だったのが幸いして、なんとか十五人全員を思いだすことができた。
徳川家茂は、その中で十四番目に当たる将軍だった。
「……てことは、今はだいたい千八百六十年頃ってことか……」
 予想はし、覚悟もしていた。
自分は『黄龍の器』という、端的に言えば超能力者であり、
半人半魚の化け物や、鬼としか呼びようのない異形の怪物と戦っている。
だから常識というものがあやふやで薄い膜のようなものであり、
容易に破れてしまうことを良く知っているはずだった。
それでも、自分がタイムスリップしたという事実を受けいれるには、深い深呼吸が必要だった。
それも、二度。
「おい、何ブツブツ言ってやがる」
 蓬莱寺を無視して龍麻は醍醐の方を向いた。
「醍醐」
「うむ」
「信じられないのは無理もないと思うけど、俺はどうやら、百三十年ほど未来から来たらしい」
 醍醐は目を細めるだけで何も言わない。
反応したのはやはり蓬莱寺の方で、片膝を立て、
半身を乗り出して今にも殴りかからんばかりの剣幕でまくし立てた。
「やいてめェ、黙って聞いてりゃ百三十年後から来ただァ?
この俺に一杯食わせようったってそうはいかねェ、
てめェの足で出ていかねェなら俺が叩き出してやるぜッ!」
 京梧の剣幕にはつきあわず、龍麻は冷静に問うた。
「醍醐は、この寺の裏手にある穴のことを知っているか?」
「穴……? ああ、穴があるというのは知っているが……待てよ」
 何かを思いだしたのか、醍醐が顎に手を当てた。
「おい、てめェまでどうしちまった、穴なんざどこにだってあるだろうが」
「円空師が以前仰ったことがある。この寺の裏手にある穴には近づくなと」
「そりゃお前、ちっとばかしでけェ穴なんだろ。落ちたら死んじまうような」
「いや、俺もそう思ってな、よほど深いのですかと訊ねたら、
『そうではない。あれは龍穴と言うて人の身で近づいてはならん場所じゃ』と言われた。
その時は近づかないのだからそれ以上知る必要もないと思ったんだが」
 蓬莱寺から視線を移した醍醐に、龍麻は頷いた。
「俺は、その龍穴から出てきたんだ」
「出てきたっててめェ、じゃあどっから入って来やがった」
「龍穴から」
「てめェッ……!」
 馬鹿にされたと思ったのか、蓬莱寺が木刀を掴んで立ちあがる。
龍麻も彼を見上げたものの、立ちあがりはしなかった。
嘘ではないことを示すため、真っ向から彼を見据える。
「俺は俺のいた時代で龍穴に入った。
そこで大きな揺れがあって、上に戻ってきたらここに出てきた」
「ではお前は龍穴とは何か知っているのか?」
 醍醐の問いに龍麻は頭を振る。
「正確には知らない。龍穴って名前も今聞いて知った。
でも、あそこには氣が満ちている。深さも普通じゃないし、化け物も出る。
ただの洞窟じゃないってのは間違いない」
「氣とは……お前は何か修行をしているのか?」
 手の内を明かすかどうか、龍麻は迷った。
だが違う時代の蓬莱寺と醍醐に、賭けてみようと決めた。
「醍醐は身体に自信はあるか?」
「ん? ああ、まあ頑丈なのが取り柄だからな」
「よし、それじゃちょっといいか」
 龍麻は醍醐の胸の中央に掌を当てる。
「臍の下に力を入れといてくれ」
「何をする気だ」
 答えずに一度深呼吸して氣を練った龍麻は、短い気合いと共に放出した。
「ぐッ……お……!」
 巨体がぐらつき、のけぞる。
充分に加減したこともあって、醍醐は気を失ったりはしなかった。
大きく呼吸を整え、驚嘆の眼差しで龍麻を見る。
「詳しく話すと長くなるけど、俺はこの力を使って鬼道衆って奴らと戦っている」
「鬼道衆だとッ……!?」
 蓬莱寺と醍醐が同時に叫んだ。
「知ってるのか、鬼道衆を」
「知ってるも何もあるかッ、なあ醍醐」
「うむ。今、江戸の街に騒ぎを起こしている奴等がそう名乗っている。
神出鬼没で得体の知れない術を使う奴もいてな、俺達も、その……警戒しているんだ」
 醍醐の説明を聞いて龍麻も驚いた。
同時に、一つの確信が芽生えた。
「そいつらの親玉の名前はわかるか?」
「……いや、中々逃げ足の速い奴等でな、残念ながら奴等の本拠地すら判らんのだ」
「そうか……」
 龍麻はおそらく親玉の名前を知っている。
しかし、今はまだ告げない方が良いと判断した。
「全部を信じたわけじゃねェが、てめェの方はどうなんだ。鬼道衆に押されてんのかよ」
「こっちもまだ、敵の目的が判らないんだ。事件が起こってからしか動けないんで、
なんとかしたいとは思ってるけどな」
 鬼道衆と敵対している、という点で蓬莱寺と醍醐は同志とみなしてくれたようだ。
蓬莱寺が音を立てて座り直したとき、彼から殺意は消えていた。
「どうやら敵じゃあねェみてェだな。で、俺の木刀を弾きかえしたのも氣って奴なのか?」
「ああ。この籠手は氣を増幅させる特性があるんだ。これがなかったら危なかったな」
「待て、俺は負けたわけじゃねェぞ」
 龍麻は謙遜したつもりだったが、蓬莱寺の負けず嫌いは京一以上のようで、
険悪な雰囲気になりかける。
それを救ったのは醍醐だった。
「そういえばお前、刀はどうした」
「研ぎに出してんだよ。なんか持ってねェと落ち着かねェから木刀担いでたんだけどよ、
まさかこんな奴に出くわすたァな」
「はははッ。まあ、寺の境内で殺生沙汰になるよりは良かっただろう。
そんなことになったら俺も黙ってはいられんからな。ところで」
 醍醐が龍麻の方を見やる。
「お前が後の時代から来たとして、これからどうするつもりだ。帰る方法はあるのか」
「……わからない。龍穴の中で地震に遭ったのは初めてだし、
もう一回地震があるかどうかも、あれば帰れるのかもわからないんだ」
 それに、龍麻にはこの時代でやるべきことがあった。
 雹という女性を捜す。
二十世紀の東京より少ないとはいっても、人口が百万は軽く超えているはずの江戸の街で
たった一人の女性を見つける困難さを、龍麻は甘く考えているわけではない。
 けれども時を遡航し、辿りついた時代は彼女が居たと思われる江戸の末期であり、
鬼道衆という手がかりもすでに得た。
これが宿命とやらのなせる業なら、必ず雹を見つけだせるはずだった。
「ふむ……それなら、構わんな、京梧」
「俺は構わねェけどよ、百合ちゃんに聞かなくていいのかよ」
「もちろん、時諏佐先生に許可は得なければならんが、先生が戻られるのは明後日だ。
それまでは俺とお前で決めてしまって構わんだろう」
 醍醐は龍麻に破顔した。
「行く当てがないのならこの寺に泊まるといい。
見ての通り何もない寺だが、雨露はしのげるぞ」
 ありがたい申し出に龍麻は頭を下げた。
「助かるよ、改めてよろしく。俺は緋勇龍麻」
「俺は醍醐雄慶に、こいつが」
「蓬莱寺京梧だ。まッ、よろしくな。よっしゃッ、決まったところで飯食いに行こうぜ」
 京梧が立ちあがり、大きく伸びをした。
醍醐も行灯を持って立つと、龍麻の不安を読み取ったかのように笑った。
「金のことなら心配するな。時諏佐先生が戻られるまでは面倒を見てやるさ」
「おッ、太っ腹だねェ醍醐先生。その調子で俺にも奢っちゃくれねェか」
「お前は自分の分があるだろう」
「宵越しの金は持たねェっていうだろうが。酒と剣の研ぎに消えちまったよ」
「仕方のない奴だな……今日だけだぞ」
「いよッ、話がわかるねェ」
 百三十年後と全く変わらないやり取りに、血というものの凄さを実感した龍麻だった。

 夜の江戸を三人は歩く。
 龍麻は醍醐に予備の着物を借りていた。
着物など着たことがなかったのと、借りた着物が一回り以上サイズが大きなせいで、
なんとも不格好なことになっている。
もっとも京梧を見ればそれほどきちんと着ているというわけでもなく、
龍麻の服装も何も言われなかったのだから、案外こんなものでいいのかもしれない。
 龍麻はこの時代において借りてきた猫であるわけだから、
何を食べるかは慎ましく奢り主に任せることにしていたが、
もう一人の奢られ人は遠慮など微塵もみせずに主張していた。
「居酒屋にしようぜ」
「駄目に決まっているだろう」
「堅ェ奴だな」
「坊主が堅いのは当たり前だ」
 すったもんだの末に屋台をはしごするということで落ちついたらしい。
 屋台か、と龍麻が思ったのは事実であるが、すぐに感想を改める結果となった。
川沿いに並ぶ屋台は祭りの縁日のようであり、しかも、寿司や天ぷらが売られている。
その他団子や水、蕎麦に鰻と二十世紀の屋台より遥かに豪華で、
腹が減っていたこともあって、目移りして仕方がなかった。
「なんだ、お前の時代に屋台はないのか?」
「ある……けど、こんなに色々はない」
 龍麻が屋台から目を話さずに醍醐に答えると、京梧が鼻を鳴らした。
「なんだ、後の時代ってのも案外つまんねェみてェだな」
 龍麻は反論しなかった。
目と鼻と腹が連携して口を封じていたのだ。
「はははッ、飯屋の前で話をしていてもしょうがあるまい。緋勇、お前はどこに行きたい」
「そうだな、天ぷらが食べたい」
「よっしゃッ、行こうぜ」
 醍醐に龍麻が応じるより早く、京梧が天ぷら屋に向かう。
期せずして顔を見合わせた龍麻と醍醐は、苦笑して京梧の後を追いかけた。
 江戸前の――真の意味での江戸前の――天ぷらは、
豪華な食事に大して関心を持たない龍麻を唸らせる味だった。
技術や道具は現代の方が優れているのだろうが、素材の鮮度が段違いなのだろう。
海老やこはだの天ぷらを、はじめは遠慮がちに食べていた龍麻も、
次第に京梧の食べる早さに劣らなくなっていく。
 醍醐も体格に見合った健啖ぶりを遺憾なく発揮し、
店の主は喋る余裕もなくひたすらに揚げ続ける事態となった。
 そもそも新鮮な天ぷらを食べる機会がなかった二十世紀の十八歳は、
初めて食べる食材も調理も新鮮な天ぷらに舌鼓を打ちながら、ふと気づいた。
「あれ、そういえば魚を食べていいのか?」
 坊主というのは生き物を食べないのではなかったか。
醍醐があまりにも豪快に食べるので、漠然とした知識を呼び覚まされたのだ。
「俺は密教僧だからな。酒はいかんが肉も魚も食べるぞ」
「そうなんだ」
 相づちを打つ間も食べる手と口は止めない。
瞬く間に三人前以上のの天ぷらを食べ尽くし、三人は次なる店へと河岸を変えた。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>