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街を抜けると急激に陰影が増していき、逆に人影は皆無となる。
夕闇が迫り、前方の少年の姿も闇に溶けつつあって、
目を凝らさなければすぐに見失ってしまいそうだ。
龍麻は歩幅を広げ、もう少し距離を詰めようとした。
その途端、前方の少年が立ち止まり、振り向く。
少年の動きは素早く、身を隠す余裕もなく龍麻は姿を晒したままだ。
もっとも、隠したところで無意味なのは、少年の怒り声から明らかだった。
「おい手前ッ、内藤新宿からずっと尾けてやがったな。何のつもりだッ!」
龍麻よりは年下に見えたが、さすがに鬼道衆の一員だけのことはあるらしい。
そして、その声は確かに内藤新宿で雹と言った声と同一だった。
少年は敵意を剥きだしにしていた。
しかし、龍麻はむしろ、彼の方から話しかけてくれたことに活路を見いだしていた。
「あんた、雹って女を知ってるか」
龍麻としては敵意のないことを示し、譲歩したつもりだった。
だが少年は押し黙ったかと思うと、烈風の勢いで拳を撃ちこんできた。
「うわっ」
慌てて避けた龍麻は、誤解を解こうと必死になった。
「待った、あんた、内藤新宿で雹って人の名前を口にしただろ。
俺はその人を捜しているだけなんだ、怪しい者じゃない」
「どっからどう見ても怪しいじゃねェかッ!! この野郎ッ、叩きのめしてやるぜッ」
少年は一層怒気を噴きあげて龍麻を睨みつけた。
この少年が雹の仲間であるのなら、闘わない方がいい。
なんとか闘いを回避することはできないか。
しかし龍麻が惑う間に、少年は京梧に劣らぬ殺気を漲らせ、素早く踏みこんできた。
踏みこみは疾く、東京で数多の戦いをくぐり抜けてきた龍麻も躱しきれなかった。
「……ッ!」
繰りだされた拳が肩に当たる。
打撃は思いのほか響き、少年が何か武術を修めていること、
全く手加減なしに自分を殺そうとしていることを龍麻は理解させられた。
ようやく見つけた雹の手がかりを前に死ぬわけにはいかない。
龍麻は強引な体当たりで少年と距離を置き、構えを取った。
「この俺とやりあおうってのか、いい度胸じゃねェか……!」
少年が叫び、突っこんでくる。
今度は龍麻は躱さず、真っ向から受けた。
龍麻と少年が戦いを始めた直後、二人の側方の森を駆ける人影がある。
少年とは違い薄闇に溶けこむような装束で固めた人影は、
繁る木々の間を灯りもなしに全力で駆け、小さな枝を踏みならす音が後に続いた。
森の奥へと男は、十分ほども走り続ける。
やがて男の速度がわずかに緩む。
そこには人目を忍んで森の奥に作られた、小さな集落があった。
獣しか判らないであろう、木々で巧みに覆い隠された入り口を抜け、男は集落の奥へと入っていく。
男はこの村を警護する最初の門番で、街道から森への入り口を監視していた。
当然、少年と龍麻のいさかいも全て目撃しており、事態を報告するために村へと戻ってきたのだ。
他の警護の人間は、走っている途中で交わした連絡ですでに警戒を強めている。
森に静かな緊張が走るなか、目指す建物に到着した男は、建物の前で跪き、主に呼びかけた。
「御屋形様ッ!」
呼び声とほとんど同時に襖が開き、中から一人の男が出てきた。
男性の平均身長が五尺(百五十センチ)程度であるこの時代で、六尺近い体躯をしている。
着ている紋付も堂々としたもので、このような森の奥の村にあって出自を思わせるが、
肩の下まで伸びた、炎の色をした髪がそれ以上に良からぬ因縁を感じさせた。
眉は濃く、眼は鋭いが険しくはなく、全体として大度の相が出ている。
年の頃は龍麻と同じか少し上に見えるが、苦労と経験を積んだ渋みがごくわずかに滲みでていた。
御屋形様と呼ばれたその男は、名を九角天戒という。
この村を束ね、江戸の街に混乱を起こしている鬼道衆という集団の長であった。
九角は緊張する部下と対照的に、落ち着き払った声で応じた。
「どうした」
「はッ、澳継様と怪しい男が村の入り口で交戦中にございます」
「交戦? 迷いこんだのではないのか」
「それが男は雹様を知っているかと澳継様に訊ねた由」
「雹を?」
この村に置いている雹という女性を九角は思いだした。
鬼道衆そのものが幕府に狙われる存在であるが、彼女にはもう一つ、身柄を狙われる理由がある。
いずれにしても個人的に雹を探す人間は危険だった。
「はッ、澳継様はただちに処理しようとされたのですが、
その男、腕も中々に立つようで、澳継様も容易には決着が着けられぬ模様」
「澳継が? 興味が出てきたな……よし、そいつの顔を見てみるとするか」
言うが早いか九角は軽い身のこなしで縁から降り、案内を促した。
従者や村の人間からたしなめられる、自分の目で見てみないと気が済まない性分が九角にはある。
澳継には信頼を置いているが、それだけに彼と互角に闘える人間の存在に興味が湧いたのだ。
それに間者ならば馬鹿正直に「雹を探している」などと言うわけがない。
斬って捨てるとしても、顔を見てからでも遅くはないだろう。
先に立つ門番に劣らぬ疾さで、九角は夜の森を走った。
突きが相手を崩し、蹴りが敵人を苦悶させる。
龍麻と少年の闘いは、両者にとって予想外の展開となっていた。
少年に手加減はなく、鍛えられた手足が正確に相手の急所を狙う。
だが当たりはしても、場所を変え、位置を直し、幾度も交錯しても、
決定的な一打はどうしても決まらない。
「この野郎ッ……!!」
「くッ……はッ、はァッ!!」
激しい呼吸と鈍い打撃音が秋風に散る。
密度の濃い戦闘の中で、二人は奇妙な感覚に陥っていた。
死を賭けて闘っているという意識が薄れ、純粋に拳を当て、
蹴りを命中させたいという欲求に昇華していく。
それほどまでに両者の実力は拮抗し、それ以上に、二人の武闘は似通っていた。
何十度目かの打ちあいも相手を仕留めることはできず、
疲労が蓄積した二人は、やや距離を置いて睨みあう。
意志はまだ旺盛だったが、肉体が酷使に悲鳴を上げていた。
もちろん、小さな隙でも見せればたちまち敵は攻めかかり、倒されてしまうだろう。
眼光で牽制しながら少しでも呼吸を整え、体力の回復を図っていた。
仮初めの静寂が訪れる。
二人は足の指で移動しつつ激発する機会を狙う。
あと半歩で踏みこむ、そう定めた二人の足を、何者かが止めた。
「ほう……澳継が苦戦しているとはな」
目の前の少年から発せられたのではない声に、龍麻に緊張が走った。
この状況で一対二ではあまりに分が悪い。
少年の援軍、つまり鬼道衆の仲間だとすれば、負傷している彼を見て、
話しあいに応じるとも思えない。
逃げるか――しかし、それでは雹の手がかりが失われてしまう。
龍麻は焦り、急速に冷えていく肉体にあって額に汗を滲ませた。
「苦戦なんてしてませんッ、こんな奴今片づけるから待ってください、御屋形様ッ」
「まあ待て、澳継」
逸る澳継を制し、九角は一歩龍麻の方に進みでた。
全身を苛む痛みを無視し、龍麻は構えを取った。
現れた男は御屋形様と呼ばれていた。
ならばこの男が鬼道衆の首領である、九角なのだろうか。
確かめたい衝動に駆られたが、むろんそのような状況ではない。
刀に手を置いてはいない九角に隙は全くなく、当然、あれが木刀のはずもない。
籠手を持ってきていない龍麻に勝ち目はないに等しかった。
せめて、雹に一目会ってから死にたい――
目のそばを伝う汗を拭うことすらできず、龍麻は、
焦りや後悔といった陰の感情を御するのに必死だ。
だが、鬼の道を往く者達を束ねる首魁は、
抜けば一太刀で龍麻を両断できるであろう刀を抜かず、
それどころか、彼の方から話しかけてきた。
「雹を捜しているそうだな。何故だ」
「……話せば長くなる」
「ならば、会ってどうするつもりだ」
「どうって……」
龍麻は答えに詰まった。
まず会うことが一義であり、その後のことまで考えるに至らなかったのだ。
「御屋形様、こんな怪しい奴の話を聞いたって無駄だ、さっさと殺しちまいましょう」
だが、九角はまたも澳継を制する。
二対一という不利な状況でも卑屈にならない龍麻を気に入り始めていたのだ。
そこまでして雹に会いたいと言う理由は何か、聞いてみたくなった。
「これより先は鬼の棲む場所よ。人の来る場所ではない」
「……この先に雹がいるなら、俺は往く。邪魔する奴は鬼だろうとなんだろうと蹴散らす」
それが虚勢であると、九角は見抜いていた。
澳継と互角に闘えるだけの技量を持つ人間が、九角の実力を測れないわけがない。
この男は戦えば確実に死ぬと知っていて、雹への想いはそれに勝ると言ったのだ。
「上等じゃねェか、やれるもんならやってみやがれッ!!」
「いいだろう。話だけは聞いてやる。雹に会わせるかどうかはそれから判断する。
だが勘違いするなよ、お前の首は一時預けただけだ、
少しでも怪しいところがあったらすぐさま切り捨てるぞ」
「御屋形様ッ!」
澳継が叫ぶ。
彼の怒りを眼光で威圧しておいて、九角は踵を返した。
「ついて来い」
村へと歩きだす九角に、敵意に満ちた眼差しを龍麻に向けてから、澳継が続く。
事の成り行きにしばらく呆然としていた龍麻は、我に返ると慌てて彼らの後を追った。
敵地に乗りこむ、という意識はない。
前を往く澳継の輪郭がかろうじて見えるだけの暗い森の中を進む、
百三十年の時を遡航した龍麻の心は、遂に雹と会えるのだ、という興奮に埋め尽くされていた。
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