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翌日、着物を用意された龍麻は、京梧と醍醐と共に江戸の街に繰りだしていた。
生まれて初めて着用した褌が、多大な違和感を股間にもたらしているが、
一着しかないトランクスを履き続けるわけにもいかないので贅沢はいえない。
それに何より、月代を剃らなくて良かったので龍麻の気分はむしろ晴れやかだった。
「なんだあ? 月代? 剃りたきゃ剃りゃいいじゃねェか」
「……てことは、剃りたくなかったら剃らなくてもいいのか?」
おそるおそる訊ねた龍麻に、京梧は何をくだらないことをといわんばかりに鼻を鳴らした。
「ッたりめェだろ。だいたい家茂公だって剃ってねェって話なんだからよ」
「そうなのか?」
「あァ。実際にお目にかかったわけじゃねェけどよ」
江戸時代といえば月代と髷だと思いこんでいた龍麻は、
剃っていない将軍がいたことに驚きを隠せなかった。
これが生きた知識かなどと感動し、頭髪を剃らなくて良かったと安心すると同時に、
京一と顔が似ている京梧の月代も見てみたかったと思いもするのだった。
龍麻ら三人がやって来たのは、内藤新宿である。
宿場として江戸中期に設けられ、一度は廃止されたものの、一七七二年に再開され、
以後は繁栄を続け、龍麻の生きる一九九八年では世界に冠たる大都市となっていた。
空を覆うがごとく立ち並ぶ高層ビルや、夜でも人通りの絶えない歌舞伎町のような賑わいは
さすがにないだろうと考えていた龍麻だったが、通りを歩く人々の数は予想を遙かに上回っていた。
五メートルほどの幅しかない街道に、通行人や棒の両端に荷物を提げる
天秤棒を担いだ商売人や人足、それに馬などがひしめきあっている。
威勢の良い声や、人や馬の足音やらが飛び交い、活気に満ちていた。
「どうだ、凄ェだろ」
「ああ、凄いな」
京梧の自慢に龍麻は素直に頷く。
龍穴から出てきて今日まで、竜泉寺に篭って京梧と醍醐、
それに百合以外の人とはほとんど会わなかったので、
いきなり新宿駅前にも匹敵するこれだけの人を見てようやく、
一九九八年の新宿と地続きの場所に立っているのだと実感がこみあげてきたのだ。
カメラを持ってくれば良かった、などとのんびりしたことを考える龍麻に緊張感はまるでない。
今のところ帰る方法がないという現実も、雹を探すという目的を達するまでは
ひとまず忘れて構わないとすら思っているのだ。
「……で、どうやって鬼道衆の情報を集めるんだ」
龍麻の問いに、今日は木刀ではなく刀を下げた京梧は当然のように顎をしゃくった。
「そりゃお前、うわさ話が行き交う場所って言ったら」
顎の先には時代は違えど一見して居酒屋と判る店があった。
まだ開店はしていないようだが、軒先に大きく「酒」と書いてある。
「固ェ奴が居るから今日は呑めねェけどよ、今度二人で行こうぜ。呑けるんだろ?」
「お前な、後の世から来た人間に悪いことを教えてどうする」
「んだと、酒のどこが悪いってんだ。なあ緋勇」
一九九八年時点では、飲酒は二十歳からと法で規制されている。
だから龍麻が呑むこと自体が悪いのだが、そんな野暮を口にするつもりは毛頭ない。
それに情報収集は酒の場でという京梧の意見は至極正当で、龍麻は大きく頷いた。
「醍醐の分も情報収集しないとな」
「さすが、後世の人間は話せるじゃねェか」
京梧が龍麻の肩を叩き、醍醐はため息をつく。
「まあ、今日のところはもう少し案内してくれよ」
とりなすように龍麻は言い、不穏な気配を漂わせ始めた京梧を促して居酒屋を後にしたのだった。
後にした、とは言っても、一軒の前から立ち去ったというだけのことで、
通りには居酒屋と飯屋が乱立といっていいくらいに立ち並んでいる。
京梧などは自分で言ったにもかかわらず、歩いているうち我慢ができなくなったようで、
「一杯呑んで行こうぜ」などと言い出す始末だ。
むろん醍醐が許可するはずもなく、龍麻も、昼間から呑むのは抵抗があったので、
飯屋に行くことで妥協を求めた。
「ちッ、しょうがねェな」
不満を口にしながらも、京梧は自分で店を定めると、二人の同意も求めずに入っていく。
「何やってんだ、早く来いよ」
「……すまんな、緋勇」
「ああ、慣れてるから」
どういう意味だと問いたげな醍醐を置いて、龍麻も飯屋に入った。
一汁一菜の膳を食べながら、三人は話しこんでいた。
服装や街並みについてはごく少量ながらも知識があった龍麻だが、
食事については全てが新鮮で、驚きの連続だった。
肉がなく、野菜や魚が中心というのはともかくとして、
米が普通に白米であったのには、驚きのあまり箸を掴んだまましばらく呆然としたほどだった。
昔の人の食事といえば玄米、あるいは稗や粟で、白米は金持ちしか食べられないと思っていたのだ。
実際にはこの頃、江戸の街では白米が当たり前になっていて、
地方から出てきた人間が白米ばかりを食べ、
脚気になってしまうという江戸患いという名称まであったほどだ。
「はあ……美味い飯だな」
湯気の立つ飯を良く噛んで、飲みくだす。
ただそれだけのことに、龍麻は至福を感じた。
「大げさな野郎だな、まさか未来には白米がねェなんて言うんじゃねェだろうな」
「あるよ、それくらいは」
真剣を所持できないと聞かされて以来、未来に興味を失っているらしい京梧に、
百三十年後の東京は食事に関しても世界で有数の都市になっていると言おうとして龍麻は止めた。
このシンプルだが美味な膳に敵う食事があると説明するのは大変であるし、
それより食べる方に口を使いたかったのだ。
「はははッ、だが、確かに美味い飯だな」
巨躯に似合わぬ丁寧さで飯を口に運びながら醍醐が笑う。
肉や魚はないといっても、僧といえば精進料理ではないのかと思う龍麻だが、
醍醐は全く気にせずに食べていた。
「ん? どうした?」
ついじろじろ見てしまったらしく、醍醐に訊ねられて、龍麻は話題を変える必要を感じた。
「それで、鬼道衆についてもう少し教えてくれよ。
江戸の街を騒がせたって、具体的に何をしたんだ?」
醍醐よりも先に答えたのは、一足早く食べ終えた京梧だった。
楊枝を咥えながら龍麻に説明する。
「盗みに火付。これだけで死罪は確実だけどよ、人攫いまでやったらしいな。
だが、どういうわけかそれも止んじまった」
鬼道衆は一月ほど前まではさかんに活動していたらしいが、
将軍家茂の死と前後して姿を見せなくなったという。
江戸の人間や幕府にとっては歓迎すべきことでも、
組織が壊滅したわけでもなく、首魁の名すら判明していないのでは、
枕を高くして眠るわけにもいかない。
加えて彼らは中々手練れが揃っていて、生半可な腕では返り討ちに遭ってしまう。
「そこで俺たちが選ばれたって訳よ」
「それは分かったけど……選ばれたのって二人か?」
腕が立つ、という条件が難しいとしても、江戸の街を護るのに二人では厳しすぎはしないか。
龍麻の疑問に京梧に代わって答えたのは醍醐だった。
「ああ、前はもう少し居たんだが、奴等の動きがおとなしくなったんでな、
ひとまず元の仕事に戻ってもらったのさ」
「なるほどね」
ならば今残っている二人は仕事がないのか余程ヒマなのかどちらかということか。
辛辣な意見を、龍麻は白米の最後の一口と共に飲みくだした。
食事を終えた三人は、再び内藤新宿を歩く。
醍醐は任務に忠実で、京梧はあくびを連発してまるでやる気なし、龍麻はその中間と言った具合だ。
ただし耳をそばだててはみたものの、話し声が飛び交う街道では声をまともに聞くのも難しい。
「歩きながら噂話を聞くのは難しいな」
「うむ……そうだな。だが、そうそう飯屋に入り浸るわけにもいかんからな」
「地道に歩き回るのが一番ってことか」
「そうだな。しばらくは一緒に回るが、道を覚えたら三人別々に動いた方がいいだろう」
「ッたく、真面目だなお前らは」
あくび交じりに口を挟んだ京梧に、醍醐がしかめ面をする。
「鬼道衆をこれ以上暴れさせるわけにはいかんだろうが」
「そうだけどよ、今までにあいつ等が仕掛けてきたときだってよ、
事前に噂の一つも拾えたわけじゃねェだろ?」
「む……それはそうだが……」
「百合ちゃんだってよ、このやり方じゃ追い切れねェと思ったから人を減らしたんじゃねェのか」
口喧嘩には京梧に一日の長があるようで、醍醐は不本意そうながらも黙ってしまう。
少し考えてから、龍麻が口を開いた。
「俺たちが歩き回るってのは、悪い手じゃないと思う」
「あん?」
「鬼道衆のことを嗅ぎ回ってる人間がいる。
そういう噂が広まれば向こうだっておいそれとは動けないだろうし、
そうなれば鬼道衆の本拠地は判らなくても、江戸の被害は抑えられるだろ?」
戦略的な物の見方に醍醐はほう、と唸ったが、京梧はなお懐疑的だった。
「そう上手くいくかねェ」
「時諏佐さんには良くしてもらったし、これくらいならお安いご用だからな、
俺はしばらくやってみるよ。ただ、道を覚えないとまだ一人じゃ竜泉寺に帰れないから、
それまではよろしく頼むな、二人とも」
「やれやれ、これじゃお守りじゃねェか」
ぼやきながらも京梧は龍麻の前に立って歩きはじめた。
龍麻が続こうとすると、醍醐が小声で言った。
「見事なものじゃないか。京梧の手綱を取るとはな」
「百三十年後にも同じような奴がいるからな」
「何やってんだお前ら、行くぞッ」
醍醐に肩をすくめてみせてから、龍麻は京梧を追った。
京梧と醍醐と共に過ごす江戸の生活は、とても楽しいものだった。
タイムスリップしたのが戦国時代だったならば、こんな悠長なことは言っていられなかっただろう。
多少言葉が違っただけでは田舎から出てきた者だと思われる程度で、
街を歩く分には何の不自由もない。
歴史的には開国し、激動の時代へと突入していくまさに夜明けの時期であるが、
まだ負の要素は少なく、太平の眠りから目覚めた江戸は、
一人の異時代人などに構っている暇はないとばかりに躁的な活気に満ちていた。
龍麻が一八六六年にタイムスリップして、二ヶ月近くが過ぎていた。
奇縁、としかいいようのない、真神學園の立っている――これから立つはずの場所で出会った
蓬莱寺と醍醐という姓を持つ二人と、彼らを指揮する時諏佐百合という女性の庇護によって、
どうにか江戸末期のこの時代で生きていく術を得た龍麻は、これも奇縁という他ない、
江戸の街を騒がせている鬼道衆について調査するという仕事をしていた。
鬼道衆には雹という女性が居るはずであり、
龍麻は彼女に逢うためにこの時代に来たと信じている。
ここまで奇跡が重なったのだから、必ず雹にも逢えると思っている龍麻だが、
六十日ほどの間に鬼道衆について得られた情報は、
龍麻が元いた時代で戦っている鬼道衆についてよりも遥かに少なかった。
テレビやラジオはもちろん存在せず、新聞に対応するものがかろうじて瓦版と呼ばれる
一枚刷りの情報誌しかなく、それも情報の信頼性という点ではかなり怪しい。
それでも、京梧の言うところでは、祭り好きの江戸っ子が、
鬼道衆が引き起こす騒ぎを見逃すはずはなく、何か事が起これば必ず、
鬼道衆の名は出なくても瓦版にはなるという。
そのような事件性のある記事は、龍麻が来てからは一度も発行されておらず、
やはり現在は活動をひそめているのかもしれなかった。
それは、江戸の人々にとっては歓迎すべきことかもしれない。
しかし雹との接点を鬼道衆に求めるしかない龍麻にとっては、
彼らが暗躍してくれないことにはどう動きようもないのだ。
幸いにして言葉は通じるので、内藤新宿の地理に慣れてからは、
龍麻は一人でも出歩くようになっていた。
京梧は顔を見せたと思えば居なくなり、待っていても来ないことが多々あって
同行人としてはあまり頼りにならず、醍醐の方は僧としての勤めがあって、
こちらも毎日は出かけられないというので、必然的に一人で行くしかなくなったという理由もある。
はじめのうちこそ髪型や話し方で怪しまれたりしないかと不安だったものの、
金さえきちんと払えば、また、日が暮れてから出歩かなければ警察――
この時代では同心というらしい――に職務質問されるようなこともなく、
現代の東京ではちょくちょく警察の世話になりかけた龍麻としては、むしろ快適なくらいだった。
とはいえ、昼間はやはり多くの人が働いている時間であり、
飯屋に長居するのも中々に無理がある。
それに給金も出ているとはいえ、基本的には聞き耳を立てるだけで何もしていないわけだから、
それなりにストレスも溜まってきていた。
帰れるかどうかの不安は、今は少ない。
それよりも雹に会えるのかという不安が、徐々にではあるが心を灰色に塗っていく。
活気あふれる内藤新宿を歩いていると、ふとした折にその灰色が滲みでてくるのだ。
それは、まだ自覚できる段階で、京梧や醍醐と話をすれば消せる。
だが自覚できなくなったときに自分がどうなってしまうのか、
龍麻は考えるのも怖ろしかった。
時諏佐百合は最大限親切にしてくれているが、
そろそろ能動的に鬼道衆を探すべきかもしれない。
だが、探すといってもどうやって――堂々巡りの思考を繰りかえしながら、
龍麻は街道筋を歩いていた。
六十日続けて収穫がない情報収集をする気にもなれず、
あてもなく、流れに任せて道を行く。
賑わい、威勢良くとびかう声も半ばは聞き流し、
耳に入る残りも鬼道衆と関係ないと判明すればすぐさま脳裏から消す、
その繰りかえしに徒労感を抱きつつあった。
空はまだ明るいが、七つの鐘が鳴ってから結構経っており、そろそろ帰る頃合いかもしれない。
今日も手がかりの欠片も拾えなかったことに、
龍麻は小さくため息をつき、帰路につこうとした、その時。
突然、龍麻の聴覚に異変が生じた。
雑多な音が明瞭になり、全ての感覚が一時的に聴覚に集中する。
それは戦いの前に敵の気配を察知したときにも似た感覚だったが、
それよりも遥かに研ぎ澄まされていた。
原因を求めて龍麻は立ち止まり、音を拾う。
ラジオをチューニングするように、入ってくる声や音を選り分け、遂にそれを捕らえた。
「ッたく雹の奴、俺に使いッ走りなんてさせやがって。
いくらガンリュウのためって言っても多すぎんだろ、この量」
思考よりも先に身体が動く。
この時代に生きているはずの、探し求める女性の名前を聞いて、
龍麻は瞬間的に声が聞こえた右後ろを向いた。
声はそれほど低くない、印象としては男の子供の声だ。
息を止め、心臓以外の全ての動きを眼球に集約させ、
昼の歌舞伎町ていどには多い人通りの中、該当する人物を龍麻は探した。
五秒、十秒、過ぎていく時間の中で、龍麻の目は全ての人間を精査する。
後ろから来た男が邪魔そうに睨んでいくが、気にも留めない。
走りだしたくなるのをこらえ、探し続けた結果、視界の端、
もう少しで人混みに埋もれてしまいそうなところで、該当しそうな少年を見つけた。
少年の方に早足で向かい、後を追う。
彼が口にした雹が、龍麻の探している雹なら、彼は鬼道衆の一員である可能性が高く、
うかつに話しかけて騒ぎになれば雹へと繋がる線が切れてしまう。
それだけは避けたい龍麻は、まずは彼を尾行することにした。
少年は店に入っていく。
彼が出てくるまでの間を待つ龍麻の脳裏には、同じ言葉が繰り返されていた。
雹の奴、俺に使いッ走りなんてさせやがって。
雹。
敵として出会い、恋人――少なくとも龍麻はそのつもりだった――として別れた女性。
江戸時代に生き、怨念を利用されて百三十年後の東京に現出した鬼道衆の一員。
遂に、遂に見つけた。
息が苦しくなるほどの動悸をこらえ、龍麻は生きた手がかりを追う。
別人である可能性は考えなかった。
雑踏の中で聞き分けた名前が他人であるわけがない。
どれほど都合がいい考えでも、それは龍麻にとって真理だった。
何軒かで買い物を済ませた少年は、内藤新宿の外れからそのまま街を出て行く。
大胆にも一人で来たようで、特に周りを警戒する様子もなかったので、龍麻も迷わずに後を追った。
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