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九角達の村は、悪の本拠地という印象からはほど遠いものだった。
森の中にあるということを差し引いても、内藤新宿から歩いて行ける距離にあるとは
思えないほど寂れている。
九角の屋敷はそれなりに立派な構えだったが、それも他の家に較べれば、という程度で、
以前京梧や醍醐に案内された武家屋敷に見劣りすることはなはだしかった。
九角の部屋に通された龍麻は、彼と向かい合って座る。
外では暗くて判らなかったが、九角の風采は異彩を放っていた。
龍麻がイメージする侍の着物を着て、目鼻立ちも凛とした美丈夫は、
龍麻よりも数歳上だろうか。
だが、髷を結わずに肩まで伸ばした髪の色は鮮やかな赤で、それが何よりも目を惹いた。
九角の傍らにはさきほど闘った少年が座り、龍麻の一挙手一投足を見逃すまいと睨めつけている。
「さて、何故雹を捜しているのか聞かせてもらおうか」
九角が低い声でうながした。
この場に雹がいないのが残念だったが、彼らの立場とすれば当然だろう。
龍麻はいっとき彼女のことを忘れ、会談に集中した。
「俺は百三十年後の日本から来た」
「手前ェッ、ふざけたこと言ってんじゃねェッ……!」
予想通りの反応を見せる澳継と呼ばれていた少年を、龍麻はちらりとだけ見やり、
話はあくまで九角に対して続けた。
「その時代の江戸は東京って名前に変わっていて、俺は東京で鬼道衆という集団と戦っている」
「……」
九角は何も言わず、眼を細める。
圧倒的な威圧感が彼の両目から放たれたが、龍麻は気圧されることなく語った。
「鬼道衆は東京に混乱を引き起こそうとしている。
たとえば、五色不動に封じられている摩尼を盗み、
外法を以て摩尼の中に込められていた氣を解放して、手下として用いたり」
京梧や醍醐に話さなかった雹との因縁を、龍麻は全て話す。
九角の態度は不明だが、頭から否定しているわけではなさそうだった。
「その、手下の中に雹がいた。俺は雹と闘って、一旦は逃がした。
その晩に雹が俺の家に来て、色々話した」
話しながら、龍麻の脳裏にはあの夜の情景が再生される。
白銀の月光が照らす、雹の横顔を。
「外法を使って雹を甦らせたのは、九角という鬼道衆の長で、
彼女が昔も九角という名の男に仕えていた。
そして昔の九角もやはり、鬼道衆という集団を率いていたと」
龍麻は真っ向から九角を見据えた。
九角は変わらず薄く眼を閉じたまま、応えなかった。
「俺は雹に、鬼道衆を抜けてくれないかと頼んだ。
彼女は昔の九角にも今の九角にも恩があるからそれはできないと言った」
龍麻の声に熱が篭っていく。
記憶を辿るのは無上の喜びを伴っていて、雹の息遣いまでもが忠実に再現されていた。
「元々雹は、昔の知り合いに俺の顔が似ていて、それを確かめに来たそうだ。
知り合いの名前は緋勇龍斗……俺の先祖らしいけど、この名前に聞き覚えはあるか。
話では、あんたと仲が良かったらしいが」
この晩、初めての龍麻からの問いに、九角は即答しなかった。
外で鳴いていた松虫が静かになるほどの間を置いてから返ってきた答えは、
龍麻の予想とは異なっていた。
「いや……ないな。澳継、お前はどうだ」
「いえ、俺もありません」
龍麻は困惑した。
先祖がここに居れば、話の信憑性が増すと思っていたからだ。
だがこれでは逆に、全てが嘘と判断されてしまう可能性が出てきてしまった。
嫌な汗が背中に滲んだが、龍麻はとにかく全て話してしまうことにした。
「それで、雹は帰ろうとしたんだけど、俺は引き留めて、その……」
言いよどむ龍麻に、九角は何事か察したようだが、澳継が苛立ちも露に言った。
「なんだよ、女々しい野郎だな、さっさと話せよ」
「契りを交わしたんだ」
「なッ……!」
絶句する澳継に、龍麻は小さな快感を覚える。
ただしそれも一時のことで、烈火のような反撃が彼から返ってきた。
「馬鹿も休み休み言いやがれ、この野郎ッ! 手前ェと雹は敵同士なんだろ、
それがなんでそんな話になるんだこの馬鹿ッ! だいたい雹はそんな女じゃねぇぞ、
出鱈目抜かすのも大概にしやがれッ!」
澳継の指摘はもっともであり、龍麻は反論できない。
だが沈黙は肯定と同義ではなく、何と言われようと、彼女との逢瀬は確かにあったのだ。
ぐっと息を吸い、彼女との記憶の最後の部分を龍麻は告げた。
「契った後、彼女は消えた。なんでも、摩尼に封じられていたのは彼女の陰氣で、
俺の陽氣と交わると太極になって消えてしまう……消える直前に、そう教えてくれた」
「……」
「二ヶ月くらい前のことだ。俺はどうしても雹のことが忘れられなくて、ある場所に行った。
そこは氣が満ちていて、化け物なんかもいる、龍穴っていうらしい。
化け物を倒して気張らしをしようとしたんだけど、地下に居るときに地震があって、
戻ってきたら地上はこの時代になっていた」
九角は腕を組んだまま動かない。澳継も今度は黙したまま、彼の主の反応をうかがっていた。
「出てきた穴のそばに寺があって、そこの連中に世話になった。この服もそうだ。
俺はずっと雹を捜していたんだけど、今日内藤新宿を歩いていたら、
この……澳継って言うんだっけ? こいつがたまたま雹って言ったのが聞こえたから、
もう居ても立ってもいられずに追いかけたんだ」
全てを話し終えた龍麻は、深く頭を下げた。
「だから頼む、雹に会わせてくれ。俺はあんた達が疑っているような、
何かを探りに来た人間じゃないし、ここから一生出さないというならそれでもいい。
ただ、雹にさえ会わせてくれれば、それだけでいいんだ」
長い沈黙が流れる。
その間、龍麻は頭を下げたままだった。
そうすれば誠意が伝わるなどと思ったわけではない。
ただ、ここまできて、できることを全てしないまま雹に会えないという後悔だけはしたくなかった。
やがて龍麻の頭上に、九角の声が降りてくる。
「緋勇、と言ったな。お前の話、中々に興味深かったが、鵜呑みにするわけにはいかん。
百三十年後の世から来たというのなら、何か証明できるものはないのか」
「ある……けど、今は持っていない。世話になった寺に置いてきてあるんだ。
どのみち取りに行かなけりゃならないから、明日取ってくるよ」
「余所者にこの村をそんな簡単に出入りされちゃ困るんだよ」
口を挟んだ澳継を見やった九角が言った。
「ならば澳継、明日お前が緋勇に同行しろ」
「なッ、なんで俺が」
「もし緋勇が密偵だった場合、お前でなければ止められないだろう」
むむ、と唸った澳継は、龍麻に指を突きつけた。
「仕様がねえ、明日は俺がついて行ってやる。けど少しでも変な素振りを見せやがったら、
容赦なく殺してやるからな」
京梧もそうだが、江戸時代の人間というのは血の気が多めなのだろうか。
龍麻は感想を口にしたりはせず、神妙にうなずいた。
「ああ、よろしく、澳継」
「人の名前を気安く呼ぶんじゃねェッ」
「じゃあ、何て呼べばいい」
「知るかッ、勝手にしろ」
「じゃあ澳継にするよ」
「手前ェ……!」
不毛な問答に九角が笑みをこらえている。
それに気がついて、龍麻も笑いそうになった。
ひとり澳継だけが、いつまでも龍麻を睨みつけていた。
翌日、内藤新宿に戻ってきた二人は歩調を変えぬまま寺へと赴いた。
言葉は交わさず、目も合わせず、他人を装って歩く。
やがて街道を外れて人気がなくなり、代わりに木々が目立つようになる。
寺の近くまで来たところで龍麻が藪に入ると、澳継もついてきた。
「あの寺に俺の荷物が置いてある」
「さっさと取ってこいよ」
「そうするつもりだ。でも、中に人が居るかも知れない。見つかったらちょっとまずいんだ」
荷物をどこか別の場所に移されていなければいいが、と願いつつ、龍麻は入り口を観察する。
二ヶ月間、百合はほとんど寺にいなかったから、今日もおそらくいないだろう。
京梧は半々といったところで、問題は醍醐だ。
彼は居るときの方が多く、見つかれば適当に言いくるめるのも性格からいって難しいだろう。
「ああッ!? 昨日まであそこに居たんだろ。何がまずいんだよ」
「あそこに居る人間は俺の事情を知ってる。江戸の街に知り合いなんていないのもな。
だから見つかれば昨日どこで泊まったか説明しないといけない」
「手前ェ、そんなこと喋りやがったら」
「喋るわけないだろ。だから見つかりたくないんだよ」
「じゃあどうするんだよ」
龍麻にも名案があるわけではない。
結局このまま藪から寺に近づき、様子を見て一気に取ってくるという方法を取るしかなかった。
「お前はここで待っててくれ」
「裏切るんじゃねェだろうな」
さすがに龍麻は澳継を睨んだが、口に出してはこう言った。
「雹に会えなくなるようなことはしない」
そこまで女に執着するのが全く理解できない、とばかりに澳継は眼を細めた。
自分も雹に会うまではそんな感じだったと龍麻は内心で思いつつ、
口にしたのは事務的な挨拶だった。
「それじゃ、行ってくる」
「おい」
まだ何か言い足りないのか、と龍麻は若干うんざりしながら澳継を見た。
「下手打つんじゃねェぞ。手前ェが下手打ったら俺はすぐに逃げるからな」
「気をつけるよ」
励まされたのかどうか、判断のつかないまま龍麻は移動を始めた。
藪に身を伏せ、大きく寺の裏へと回りこむ。
龍穴を右手に見ながら、本堂を横切り、デイパックが置いてある庫裏へと向かった。
藪が途切れたところで一回、深呼吸をして素早く庫裏に入る。
幸いなことにデイパックは昨日のまま置いてあり、Tシャツとジーンズも傍らにあった。
服を手早くデイパックに詰め、もう一度裏を回って澳継のところに戻ろうとする。
だが、庫裏を出たところで、醍醐とばったり出くわしてしまった。
「どこへ行くつもりだ、緋勇。昨日は帰ってこなかったが」
醍醐の声には韜晦を許さない厳しさがある。
龍麻は観念し、彼に向き直った。
「行かなきゃいけない場所へだ」
「禅問答のようだな。だが、はいそうですかと通すわけにはいかん。
お前は時諏佐先生の世話になっているのだからな。
義理を欠いたお前の行動は、許すことができないものだ」
「お前や京梧、それに百合さんには大きな恩がある……それでも、俺は行かなきゃならない。
俺がそこへ行くのが、この時代にやって来た目的だからだ」
実際、どう言い繕おうと、こんなやり方で出て行くのは裏切りに他ならない。
特に百合は、単に怪しい男に過ぎない自分に衣食住と仕事まで世話してくれたのだから、
醍醐が怒るのも当然だった。
謝って済むのなら幾らでも謝るつもりだ。
だが、醍醐は悪鬼に対しては折伏する菩薩ではなく、力を持って打ち倒す明王の相を持っている。
その形相が今、彼の顔に浮かんでいた。
「何のことだかわからんが、決心は変わらないようだな。ならば、俺も全力でお前を止めよう」
醍醐は両手の指を複雑な形に組み合わせ、朗々と唱えた。
「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ」
醍醐が唱えたのは、密教で用いられる真言と呼ばれるものだ。
仏に直接願う、力を持った言葉は、厳しい修行を積んだ密教僧が発することで
諸仏の強力な霊験を得られるという。
醍醐はまさに日本に密教を伝えた高僧、弘法大師空海がおわす高野山で修行を積んだ、
熟達の密教僧なのだ。
龍麻の身体が急激に重くなる。
東京では様々な『力』を持った敵と戦ってきた龍麻だが、このような攻撃は初めて受けた。
己の氣を駆使して術を解こうとするが、氣とは理が異なるために解くことができない。
龍麻が苦闘している間に醍醐は新たな真言を唱える。
「オン・マユラ・キランディ・ソワカ」
龍麻の目の前で、醍醐の肉体が一回りも大きくなっていく。
それは錯覚だったとしても、突進してきた醍醐が腹に見舞った一撃は、
胃液を吐くほどの強烈なものだった。
「ぐはッ……!」
「すまんが、しばらく動けなくさせてもらうぞ」
地に膝をついた龍麻に、醍醐が組んだ両拳を振りあげる。
岩ほどもある拳が、まさに頭に振りおろされた瞬間、龍麻の全身からまばゆい光が放たれた。
「むッ……!?」
予期せぬ攻撃に目をやられた醍醐がとっさに後退する。
その隙に自由を回復した龍麻は立ちあがり、デイパックにぶら下げていた籠手を装着した。
「それが氣と言う奴か」
「黙って行かせてくれるつもりはないんだな」
「俺は生臭坊主でな。修行も好きだが、それ以上に肉体をぶつけ合える相手を見つけると、
どうしても闘ってみたくなってしまうのさ」
打ち鳴らした醍醐の掌が、雷鳴の如き音を放った。
こうなった以上醍醐を倒すしかない。
血の混じった唾を地面に吐いた龍麻は、息を深く吸って氣を練り始めた。
腹に激痛が走ったが、構わずチャクラを意識する。
吸いこんだ空気以上のものが、身体に七つあるチャクラを目覚めさせる。
ムーラダーラからサハスラーラへ、チャクラを通ることで増幅されていく氣は、
猛き龍の如き激しさで龍麻の肉体を巡り、賦活化させていった。
「はァァァッッ……!!」
龍麻が放った咆吼が木々を震わせ、大地を揺らす。
だが震えたのは周辺だけで、中心に立つ醍醐は全く臆していなかった。
鍛えた肉体と諸仏の力に瑕疵などあるはずもないとばかりに、再び突進し、拳を振るった。
豪腕が唸りを上げて空を切る。
身を沈めた龍麻の頭があった場所を薙いだ拳に、醍醐の体勢がわずかに崩れた。
屈むと同時に力をたわめた龍麻は、低い姿勢のまま醍醐に肉薄する。
踏みだし、掌が醍醐に触れた瞬間に大地と肉体を連結させ、一気に氣を解放した。
「ぐぉぉォォッ……!」
巨体が傾ぎ、たたらを踏む。
龍麻の一撃は確かに醍醐を捉えたが、打ち倒すまではいかなかった。
それどころか手痛い打撃を与えたはずなのに、すぐに反撃に転じてきた。
「ナウマク・サマンダ・ボダナン・インダラヤ・ソワカ」
真言が、醍醐の巨躯を持ってしても届かない位置にいる龍麻を捕まえる。
不可視の両腕に身体を持ちあげられた龍麻は、
醍醐の頭上よりも高い場所から一気に投げ飛ばされた。
「がッ……!」
背中からまともに落ちた龍麻は、息もできない。
諸仏の力を借りて闘う醍醐と異なり、自身の生命力を活用して闘う龍麻にとって、
呼吸ができなくなるのは致命的だった。
全身の力を振り絞って立ちあがり、必死で呼吸を整える。
しかし、回復する時間を醍醐が与えてくれるはずもなく、
肉迫した醍醐にたやすく捕らえられてしまった。
「ぐぅぅッッ……!」
丸太のような腕に胴を締められ、龍麻は悶絶する。
仰いだ空の美しさに、このまま気を失っても構わないとの諦めがよぎった。
だが。
空の青さは、同時に雹の青さでもあった。
濃い忍装束を着た彼女を、消滅すると知って自分を受けいれてくれた彼女を、
諦めることなどできない。
叶わぬ夢だった時の大河を飛び越え、龍麻は雹のいる時代に来た。
そして雹にもう少しで手の届く場所まで近づいたのだ。
ここまで来て諦めなどしたら、未来永劫後悔し続ける。
「うぉぉぉォッ!!」
龍麻は吼えた。
身体の中心に氣を溜め、練った氣の全てを全身から放出した。
「むぅッ」
大木をもへし折る腕が、弾けとぶ。
自身も吹き飛ばされた醍醐は、龍麻の氣の凄まじさに驚いていた。
このような力を持つ者を自由にさせておいては、どのような脅威となるか知れたものではない。
彼の境遇には同情するが、ひとたび幕府の禄を食んだ以上、
上意には従ってもらわなければならない。
真言を唱えようとした醍醐は、突進してくる龍麻に間に合わないと判断し、
拳を持って迎え撃つことにした。
それも鍛えた肉体を誇りとする醍醐らしく、龍麻の一撃をあえて受け、
動きの止まった彼に反撃を加えるという、必殺の戦法だ。
高野山に入る前は荒くれ者として名高かった歴戦の勇士は、
先の胴締めの時は例外として、龍麻の氣は掌からしか放てないようだと見切っている。
威力も先に一度受けて見当がついており、耐えられるという確信があった。
間合いに龍麻が踏みこんでくる。
醍醐は急所をわざと晒し、代わりに龍麻の襟首に腕を伸ばした。
掌底を受けつつ彼の身体を持ちあげ、脳天からたたき落とす。
脳裏に描いていた必勝は、だが、実現しなかった。
襟首を掴んだ刹那、腹部に衝撃が満ちる。
これを耐え抜き、さらに腹に力を入れようとしたとき、
腹から背中へ、凄まじい衝撃が徹り抜けた。
「グ、オオ……!」
それでも容易に倒れなかったのは、いかに醍醐の肉体が鍛えあげられていたかという証左だった。
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