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龍麻の襟首を掴んだまま、醍醐の動きが止まる。
全身の筋肉が盛りあがった姿は明王さながらであったが、
やがて肉体から力が失われていき、ついにはどう、という轟音と共に地面に伏した。
強敵を倒した龍麻も、しばらくは身動きもままならない。
醍醐の傍らで激しい息を吐きながら警戒していた龍麻は、
やがて彼が動かないのを確かめると、デイパックを回収して寺を去った。
澳継のいる藪に戻らなかったのは万が一醍醐が見ている可能性を考えてのことで、
寺が見えなくなって少しすると、龍麻は木陰に倒れるように座った。
ほどなく明らかに醍醐のものではない、軽快な足音が近づいてくる。
「おいッ、あいつは龍閃組の奴じゃねェかッ!」
「ああ……そうだったのか。でも、これで密偵じゃないってのを信じてくれるだろ」
龍麻は土埃にまみれ、あちこちに痣もできている。
生死を賭けるとまではいかなくても、その一歩手前あたりまでは近づいたであろう
闘いは、演技でできるものではなかった。
澳継も不承不承ではありながらもそれは認めたようだった。
「……今のところはな。大分時間を食っちまった、早く帰ろうぜ」
「もう少し休ませてくれよ。それか肩を貸してくれ」
こんな汗まみれの男に肩など誰だって貸したくないはずだ。
休みたくて龍麻はそう言ったのだが、澳継は龍麻の脇に肩を入れ、
意外な膂力の強さで立ちあがった。
「くそッ、重いんだよ手前ェ」
「あぁ、楽だ……少し寝ていいか?」
「ふざけたこと言ってんじゃねェッ! 内藤新宿に入るまでだ、そこから先は一人で歩きやがれ」
「内藤新宿から先も頼む」
「手前ェ、余裕あるんだったら一人で歩かせるぞッ」
一方は小声で、一方は大声でやり取りをしながら、二人は仲睦まじく歩いていった。
二人が九角の元に戻ってきたのは、日が沈みかけた頃だった。
澳継は最短ルートで帰ろうとしたのだが、龍麻に町人の視線が集中したので、
なるべく人の少ない道を大回りする羽目になったのだ。
「ただいま戻りました」
「御苦労」
澳継をねぎらった九角は、酷い格好の龍麻を見て、可笑しげに口元を緩める。
腹を立てる余裕もない龍麻は、自分の手荷物を九角に示し、
デイパックから懐中電灯を取りだした。
銀色をした筒状の道具を、九角がしげしげと眺める。
「これは何だ?」
「そこの所を押してみてくれ」
「御屋形様ッ、焙烙玉かもしれません」
澳継が叫ぶより早く九角はスイッチを押した。
人工の光が九角の顔を照らし、さしもの鬼道衆首領も驚いて光を眺めた。
「ほう……!」
「お、御屋形様」
心配する澳継をよそに、九角は何度かスイッチを押切し、
さらには部屋のあちこちを照らしたりしてすっかり気に入っている。
この分なら未来から来たというのも信じてもらえそうだと安心しかけた龍麻だったが、
さすがにそれは考えが甘かった。
「誰か」
「はッ」
九角が澳継ではない襖の向こうに呼びかけると、すぐに声が応じる。
「嵐王を呼んでこい」
「はッ、ただちに」
早足の足音が消えると、九角は再び龍麻に向き直った。
「他には何か持っていないのか」
「他に……えっと」
龍麻はデイパックの中身を全て出してみせた。
Tシャツにジーンズ、靴、他には応急手当セットにメモ帳と鉛筆くらいだ。
こうなると判っていたらもう少し良いものを入れておいただろうが、
嘆いても仕方のないことだ。
むしろ懐中電灯があっただけでも上出来で、一九九八年では数百円で買えるこの道具がなければ、
龍麻の境遇を納得させるのは遥かに困難だっただろう。
それでも、鉛筆とメモ帳は江戸時代にはないもので、筆を使わずに文字が書けると知ると、
九角は大層興味を示した。
「なかなか便利ではないか。外側は木のようだが、中の黒い部分は何だ」
「えっと、鉛……かな?」
懐中電灯ならまだしも、鉛筆のような単純な製品でさえ作り方となるとまるで知らず、
龍麻は赤面するほかない。
まともに答えられない龍麻に九角は失望したようで、
気まずい沈黙が漂ったが、ほどなく静寂は外側から破られた。
「嵐王、御呼びにより参上いたしました」
「来たか。入れ」
襖が開き、男が姿を現す。
彼の姿を見て、龍麻は驚きのあまり言葉を失ってしまった。
男の目には空洞だけがあり、鼻は鳥のくちばしのように長く尖り、下方へと垂れていたからだ。
それが面であることはすぐに気づいたが、鼻までを覆う面の他にも、
顔の下半分から上半身までは茶色の服に身を包んでいて、顔は全く見えない。
雹も――水角も、般若の面を被っていたが、
九角と澳継が素顔だったために失念していたのだ。
仮面の男は龍麻に一瞥をくれ、九角の横に座る。
「これを見てみろ」
九角から受けとった懐中電灯を、嵐王は観察しはじめた。
九角は何も説明しなかったが、ほどなくスイッチを探し当て、光を点した。
「どうだ、仕組みは解るか」
「南蛮のからくりのようですが……調べさせていただけますか」
「構わぬ。それから、これもだ。いいな?」
嵐王に鉛筆を渡した九角の台詞の後半は、龍麻に向けてである。
龍麻がうなずくと、嵐王はすぐに立ちあがり、暇を告げて去った。
「あれは色々作りだすのが好きな奴でな。南蛮の技術にも通じているゆえ、
お前が嘘をついているかどうか明日にも判るだろう。澳継、緋勇を寝所に連れて行ってやれ」
九角の好意はありがたかった。
話の途中から、闘いの疲労が限界に達していたのだ。
龍麻はふらふらと立ちあがったが、身体を支えきれず、澳継によりかかってしまう。
「くそッ、手前ェ、しっかりしやがれ……! あッ、寝るなこの野郎ッ、重いんだよッ……!」
右に左にふらつきながら部屋を出て行く二人を、九角が眺めている。
彼の裃がかろうじて判別できる程度に小さく揺れていたのを、
この屋敷に多くいる彼の配下の者は誰も気づかなかった。
翌日、明け六つ。
一九九八年十一月の新宿ではおおよそ朝六時に当たる時間は、新宿が不夜の街といっても、
そこに暮らす人々は当然不夜ではなく、半数以上が眠りについている。
緋勇龍麻も例外ではなく、彼が通常目覚めるのはあと一時間半ほど経ってからで、
一人暮らしなのをいいことに起床と食事と着替えを一度に済ませるだらしのなさだった。
この日も龍麻はまだ目覚める気配もなく、安眠を貪っている。
「やい、いつまで寝てやがる、さっさと起きろッ!!」
しかし、至福の時間は鶏なみにけたたましい声によって破られてしまった。
「んん……まだ早いだろ……」
薄目を開けて外を見やってまだ暗いことを確かめると、
起こしに来た相手の方など目もくれず布団を被りなおす。
すぐに夢の世界に旅立った龍麻に、試練が襲いかかったのは次の瞬間だった。
「手前ェッ、俺が起こしに来てやったのにいい度胸じゃねェかッ!」
布団がはぎ取られ、寒風が直撃する。
急激に下がった体感温度に龍麻は身体を縮め、無意識に腕を伸ばして布団を奪回した。
「こッの野郎……!!」
襲撃者が再び布団をはぎ取ろうとする。
今度は龍麻も応戦し、布団の中で向きを変えると、布団ごと襲撃者を蹴った。
布団をはぎ取ろうとしたタイミングと重なって、あっけなく襲撃者は尻餅をつく。
三度布団を被った龍麻に、ついに襲撃者は爆発した。
「やりやがったな、ぶッ殺してやるッ!」
跳躍し、布団の中央めがけて肘を落とす。
わき腹を狙った攻撃は、わずかに逸れて龍麻の腰に命中した。
「……!」
まだ八割ほどは夢の世界に身体を置いてきていた龍麻も、さすがに目を覚ます。
ここがどこか、相手が誰かを考えるより先に手足が動き、布団ごと襲撃者を投げ飛ばしていた。
「人が気持ち良く寝てるのに何しやがる! ……あれ?」
周りを見渡して自分の家でも寺の庫裏でもないことに気づき、ようやく龍麻は完全に起きた。
目の前で布団が暴れ、襲撃者が顔を出す。
「なんだ、澳継か。おはよう」
「……手ッ前ェ……!!」
頭から湯気を噴きあげた澳継が殴りかかってくる。
龍麻がこれを避けたところで、がらりと襖が開いた。
「朝から騒々しいな、何をやっている」
「お、御屋形様……」
当主自らのお出ましに恐縮する澳継に、龍麻もならって頭を下げる。
だが、当主は屋敷で騒ぐ二人を叱責するどころか、明らかに笑うのをこらえている様子だった。
九角が笑うのも当然で、龍麻も澳継も着物ははだけ、髪は乱れ、布団は酷いことになっている。
そろそろ秋も深まろうかという時節に元気なことだ、と九角が思った途端、
龍麻がくしゃみをした。
「あッ、手前ェ、唾飛ばしやがったなッ」
龍麻に掴みかかろうとする澳継を、九角は制する。
これ以上二人の児戯を見ていると、当主としての威厳が保てなくなるような気がしたのだ。
「止せ、澳継。緋勇もだ。嵐王が来て欲しいと言っている」
九角は龍麻と、当然のようについてくる澳継を率いて、嵐王の待つ部屋へと向かった。
嵐王の小屋は九角の屋敷を出て少し歩いたところにあった。
「その嵐王って人は、一晩中調べていたのか?」
「うむ。からくりに目がない男でな。一度興味を持つと飯を食うのも忘れてしまうと言っていた」
それにしても、彼につきあって早朝から出向くなど、
九角は当主として信じられない腰の軽さだ。
京梧達が言っている江戸を騒がせる集団の主という立場からはずいぶん異なる実像を、
龍麻は長身赤髪の男に見た。
「嵐王、入るぞ」
「お待ちしておりました」
嵐王を含めて四人が入ると、小屋はかなり手狭になる。
だが九角は気にした風もなく、部下の調査報告を促した。
「お主、これをどこで手に入れた?」
嵐王は前置きもなしに龍麻に訊ねた。
彼の顔を正面から見るのにはまだ抵抗がある龍麻は、やや目を逸らして答えた。
「どこっていうか、俺は未来から来たんだ。百三十年くらい後の時代から」
「なるほどな、それで得心がいったわ。若、この者が持っていた道具、
悔しき事ながら、原理も材料も儂にはわかりませぬ」
「ほう……」
「こちらの道具の方は判りました。石墨と粘土を練り合わせたもので、
作ることも可能と思われます。この白い紙の方はわかりませぬ。お主は知らぬのか」
龍麻が頷くと、嵐王は残念そうに首を振った。
「試しに使わせてもらったが、文字を書くのがとても簡単だったわ。
これがあれば墨を一々擦る必要もないからな」
「それほどか」
「御意。その男が何者か存じませぬが、未来から来たというのも嘘とは思えませぬ。
できればその者ともう少し話をしてみたく思いまする」
嵐王のお墨付きに九角は何事か考えたが、長い時間のことではなかった。
「ふむ……いいだろう。だが、俺自身、少し話を聞いてみたくなった。
それからでいいか」
「若の御意のままに」
懐中電灯をもう少し調べたいという嵐王を残して、三人は九角の屋敷へと戻った。
朝餉を共に取るよう命じられ、龍麻はそのまま九角の部屋に行く。
「御屋形様、俺も御一緒させてくださいッ」
「構わんが、澳継は緋勇が気に入ったのか」
龍麻はぎょっとして九角を見たが、本気か冗談か今ひとつ判然としない。
「そッ、そんなんじゃありませんッ、こんな怪しい奴と御屋形様を二人にしておけないだけです」
また澳継がやたらムキになるものだから、龍麻は思わず彼を蹴りそうになった。
「やい手前ェッ、御屋形様に取り入ろうとしたって無駄だぞ、
御屋形様の右腕はこの風祭澳継様なんだからなッ!」
「別に、俺はへそでいいよ」
澳継がからかわれている、と気がついたのは当事者でなく九角の方で、
鬼道衆の当主は未来から来たという奇妙な男が現れてから、
隠すのに苦労している感情を抑えつつ言った。
「生憎俺にへそはない。鬼だからな」
「えッ……!」
驚いているのは澳継一人で、冗談と悟った龍麻は九角と視線を交わす。
「御屋形様がまさか鬼だったなんて……けど、俺の忠誠は変わったりしませんからッ」
澳継の叫び声は、目覚め始めた森に吸いこまれていった。
朝餉を済ませた龍麻は、そのまま九角の部屋に居た。
澳継も当然の顔をして居座っていて、事あるごとに龍麻を睨んでくる。
正直言って面倒くさくなりかけている龍麻は、彼に構わず九角一人に相手を絞って話を始めた。
「まずは……そうだな、百三十年後にも鬼道衆は活動していると聞いた。
幕府は良くなってはいないということか?」
彼が率いる鬼道衆はそれほど大きな組織ではなさそうだが、
それでも長ともなるとさすがに視点が違う。
龍麻は居住まいを正し、彼に歴史を告げた。
「数ヶ月前に徳川家茂公が死んだというのは知っているか」
「うむ」
「彼は初代家康公から数えて十四代目の将軍だった。そして、次の十五代将軍で江戸幕府は滅びる」
「なッ……!」
驚いたのは澳継で、九角はわずかに袂を揺らしたのみだった。
敵対しているとはいえこの時代の人間にとって徳川幕府が消滅するというのは
天地がひっくり返るような受けいれがたい事態なはずで、龍麻は幾分意地悪をする気になった。
「驚かないのか?」
「……そうだな、もはや幕府の命脈は尽きたと思ってはいた。
滅びがそれほど早いとは思っていなかったが」
九角によれば、家茂がこの内憂外患の時期に死去した、
それ自体が幕府の弱体化を示すものだという。
加えてその後の混乱ぶりは、あえて乗じようという気もなくなるくらいの醜態だと九角は語った。
「故に俺達は活動を手控えた。幕府をこの手で滅ぼしてやりたいという恨みは
いささかも薄れることがないが、今少し様子を見ようという判断だ。
それに、妙な事象も起こっていてな」
「妙な事象?」
「いや……そちらは後にしよう。まずはお前の話だ。幕府が滅びて、その後はどうなる」
理性的な九角の態度に、龍麻は思った。
彼が鬼道衆という組織を率い、江戸を襲っているのには、相当な理由があるに違いないと。
「その後は、政府ができる。時代が江戸から明治に変わって、国内での争いも続くが、
それより国外との争いが始まるんだ。世界も大きな混乱の時代に突入して、
日本も巻きこまれていく。それに片がつく……日本が酷くやられるんだけど、
片がついて、一応平和と言える状態になるのが、だいたい九十年後かな」
「政府というのも民を虐げるのか」
「一応、四民平等っていって、士農工商の制度はなくなって、誰でも好きな相手と結婚できるし、
好きな仕事を選べるようにはなる」
だが、虐げられる人々がいなくなることはない。
言外のニュアンスを九角も感じとったようで、彼がひそめた眉は容易には戻らなかった。
「百年経とうが、人は争い続けるのか」
「……ああ」
二度の大戦で数千万に及ぶ同胞を、人間は自らの殺し合いで失う。
むろん龍麻に直接関わりがあった事実ではないが、
人間の愚かさというものに思いを致さずにはいられなかった。
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