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 鬼哭村を覆う木々は、赤く色づいていた。
赤と黄色に染まる一八六六年の景色は、それまで、
つまり一九八〇年から一九九八年までの間に龍麻が見た、どの紅葉よりも美しかった。
自然の美というものにあまり関心がなかった二十世紀の青年は、
いまさらのように声を上げ、隣に座る人物に感動を伝えた。
「凄いんだな、本当の自然って」
「なんじゃ、そなたの時代にもみじはなくなっておるのか? 風情がないの」
「そういうわけじゃないけど」
 やや上方から下りてくる、涼やか、というには少し冷たさが勝る、
ちょうどこの季節の風のような声に、龍麻は苦笑で応えた。
「でも、こんなに綺麗じゃないかもしれない」
 澄んだ空の青さや、大地に充ち満ちる生気が、そう思わせているのかもしれない。
そしてもうひとつ、龍麻の感受性に大きな影響を与えた存在が、
龍麻が元々生きていたのとは異なるこの時代にはあった。
 その存在である隣の女性を、龍麻は眼だけを動かして見た。
龍麻と同じ方向を眺めている少女の頭は、龍麻よりも高い位置にあった。
深く黒い色の髪を無造作に風に揺らし、
そこから得も言われぬ香り――沈香というそうだ――を漂わせている。
「雹はもみじが好きなのか?」
 雹と呼ばれた少女は、龍麻の方を見ぬまま答えた。
「そうじゃな、嫌いではない」
 冷淡な返答に聞こえるが、雹は龍麻の傍から離れようとはしない。
心得ている龍麻は、それ以上詳しく訊ねようとはせず、別のことを聞いた。
「寒くはないか?」
 もちろん、彼女の身を案じての問いなのだが、雹はお気に召さなかったようで、
秋空に散らすように声を放った。
「いささか過保護じゃな、そなたは」
「そんなつもりじゃ」
「妾には人形と違って口がついておるからの、寒ければ寒いと言うわ」
 言った直後に雹は、華奢な身体をごくわずかに震わせる。
それを見逃さなかった龍麻は、あらぬ方を見上げて言った。
「でも、俺が寒くなってきたから、そろそろ戻ろう」
 ここで初めて雹は龍麻の方を見やった。
他所を向いている男に、数瞬だけ機嫌の悪そうな表情をする。
それから優美に指を動かし、彼女を乗せている、
ガンリュウという名の人型をしたからくりに向きを変えさせた。
「今日は、何が用意してあるのかえ?」
「昨日、初霜煎餅ってやつを買ってきた」
 返事がないのは雹が興味を持った証である。
そうと知りつつ龍麻は、はしゃいだり彼女の反応を見たりはせず、何気なく歩きだした。
半歩ほど後をついてくる重量感のある足音に、耳だけをそばだてながら。
 雹と菓子を食べ、お茶を飲むのは龍麻の日課になっていた。
八つ時――つまり、午後三時ごろに雹の家を訪れ、前日に買ってきた物を食べながら、
見てきた物の話をする。
もっぱら話すのは龍麻で、雹は相槌を打つ程度だったが、
幸いなことに、嫌われている気配はなさそうだった。
 もう十一月も終わろうかというこの時期、山間にある鬼哭村はすっかり寒くなり、
龍麻と雹はこたつを囲んでいる。
もちろん電気式ではなく、そのまま寝てしまえる暖かさでもないが、
こたつと言えば電気式だと思いこんでいた龍麻は、
江戸時代にこたつが存在したことに大いに驚いた。
実際にはこたつの起源は江戸どころか室町時代ごろとされ、
こたつに潜りこむ人々の絵も数多く描かれている。
つまり三百年以上の伝統があるスタイルというわけで、
龍麻も雹も背中を丸めて日本独特の暖房器具を満喫していた。
「ああ、これで蜜柑があったらなあ」
 まだこの頃は紀州でしか採れない蜜柑は、江戸では高価な部類に属する食べ物であり、
おいそれと庶民が口にできるものではない。
龍麻はみかんが大好きというわけでもなかったが、
百三十年ばかり遠くに来てみれば故郷の食べ物を懐かしくも思うのだった。
「そなたは男のくせに甘いものばかり好むのじゃな」
 冷たい、少なくとも他人は冷たいと感じる雹の口調にも龍麻は動じない。
彼には一人、男のくせに甘いものが大好きという、秘密を分かちあう友人がいるからだ。
その事実を知っているのは鬼哭村にも数人しかいない。
龍麻は雹に対して隠し事がある、ということになるが、
これに関しては、今後どれほど親しくなろうとも、本人の許可なくして語るつもりはなかった。
「はあ」
 適度な幸福感に、龍麻がため息をつく。
するとすぐさま雹が目を細めた。
「だらしがないの。ぐうたらな男になぞ価値はないぞえ」
 この程度の小言は聞き流せるだけの度量を、龍麻はすでに備えているので、
苦笑いと照れ笑いを混ぜたものを雹に向ける。
達観しているようにも見えるその顔が面白くなかったのか、
雹がさらに何か言いかけたとき、外からのより大きな声がそれを遮った。
たつさん、いるかい?」
「いるよ」
「ちょっと手伝ってほしいんだ」
「わかった、今行く」
 村人に呼ばれて立ちあがった龍麻は、座ったままの雹を見た。
彼女に立って見送れなどと言うつもりはない。
足の腱を切られた彼女は、ガンリュウという名の巨大なからくり人形がなければ
移動するのもままならないのだ。
龍麻が雹を見たのは、こたつで背を丸める彼女の愛らしさを機に乗じて上から
眺めたかったからで、彼女が気づくまでの極小の時間堪能したあとは、
すぐに土間へと下りるつもりだった。
 ところが、その極小の時間に、雹が顔を上げる。
龍麻を真っ向から見据える彼女の表情は、首から下とは別人のようで、
龍麻はわずかに狼狽した。
これから短い時間とはいえ別れなければならないのに、嫌な記憶で締めたくはなかったのだ。
「忙しい男じゃの、そなたは」
 一方向に吹きつける冷風ではなく、乱流のようだったのは珍しく、
まばたきでごまかした龍麻は、そのまま背を向けた。
短い別れの挨拶は、発した方が思っているよりも遥かに
大きな効果を発せられた方にもたらしていた。
こたつなどより遥かに温まって、走りだしたくなったのをこらえて、龍麻は土間に下りる。
「それじゃ、また来るよ」
 返事はなく、最後に玄関から見る雹は、もうよそを向いている。
さっきよりも一回りほど小さく見える彼女の姿に、
暴れ馬のように彼女の所へ戻ろうとする足を御しながら、
龍麻は未練もたっぷりに去っていった。

 龍麻が村人達の用事を済ませて雹の家に戻ってきたのは、もう辺りも暗くなってからだった。
大人にも子供にも大人気の龍麻は、ひとたび雹の家から出ると次から次へと呼びとめられて、
容易には戻れなくなってしまうのだ。
今日はこの後嵐王の工房に行き、その後は九角の酒につきあわねばならず、
江戸時代で最も心地の良い場所で過ごせる時間はそれほど多くない。
一秒でも無駄にしないよう、早足で戻ってきた龍麻だった。
「ただいま」
 言うと同時に戸を開けて中に入る。
そのまま土間を抜けて台所に向かうと、横から家人が迎えた。
「なんじゃ、戻ってきよったのか」
 この程度の小さなつぶてに一々応じたりはせず、龍麻は夕餉の用意を始めた。
 江戸時代にはもちろんスイッチひとつで火が起こせるような便利な道具はなく、
薪も貴重な燃料なので、朝にまとめて一日分を作ってしまう。
それが面倒なら外食になるが、内藤新宿から離れている鬼哭村でその手段は選べないので、
作りだめをするしかなかった。
 鬼哭村に来てからしばらくは、龍麻は九角の屋敷に世話になっていたので、
食事も下女か、時には桔梗が作ってくれたものを食べていた。
それが雹の家で食べるようになり、さらに朝、雹の家に行って作るようになるまでには、
涙ぐましい龍麻の努力があった。
 まず雹に二人分の食事を作ってもらえるよう、
つぶてではない、遥かに痛い霰を浴びながら懇願する。
それが上手くいって朝早起きして食事を作りに来たいと言った時、
龍麻は富士山の山頂から転がってきたような雪玉を必死に受けとめねばならなかった。
「毒でも盛るつもりかえ」
 敵であった雹よりも辛辣なこの一言は、江戸の雹にかなり耐性のできていた龍麻をひどく傷つけた。
彼女が男性全般に対して大きな不信感を抱いていること、
足の腱を切られているため襲われれば抵抗できず、
そのため他人を必要以上に警戒していることを充分に承知していなかったら、
彼女のために尽くしている龍麻でさえ怒ったかもしれない。
「いや、そうじゃなくて、せっかく嵐王に道具も作ってもらったことだし」
 龍麻が言っているのはフライパンのことだ。
現代の調理においては基本的な道具であるフライパンも、
江戸時代にはまだ日本には入ってきていない。
鍋はあったのでそれを元に、嵐王に取っ手をつけてもらった簡単なフライパンを作ってもらい、
冷えた前日の飯を使って炒飯を作ってみたのだ。
 飯の余りと野菜を適当に放りこみ、塩と醤油で味つけをして炒める。
炒飯というには残念ながら及ばない、焼き飯のようなものだったが、
九角と桔梗にはいたく気に入られた。
これで自信をつけた龍麻は、雹の食事当番となるべく、満を持して乗りこんだというわけだった。
 江戸時代は、商売にしている人間を除いて、男が厨房に立つことは少ない。
そういった事情もあって雹は、進んで食事を作りたがる龍麻を気味悪そうに見たものだったが、
龍麻の熱意に押しきられて、ついに申し出を受けいれた。
「じゃが、戸を開ける前に必ず声をかけよ。妾が駄目と言った時は無論、
返事がないときも勝手に入るのはまかりならぬぞ」
「ああ、もちろん」
 こっそり寝顔を見られる可能性を期待していた龍麻だったが、
そんな失望はおくびにも出さずにうなずき、翌日から雹の料理番として通い始めたのだった。
 そうした苦難の日々の結実が、今小さなこたつの上で雹と取っている食事だ。
じゃがいもと糸こんにゃくを煮た、肉じゃがの肉無し版と、卵焼き。
それにちくわやはんぺんを焼いたもの。
夜は冷めても食べられるものということで、これに漬け物と味噌汁が今晩のおかずだった。
卵は内藤新宿で買うと一個でかけ蕎麦が一杯食べられるほど高価だが、
幸いにも鬼哭村で鳥を飼っていて、数は少なくても手に入った。
とはいえ雹一人に食べさせるわけにはいかないから、
九角のために作った分から少しくすねている。
 ところどころに焦げ目のついた、あまり上出来とはいえない卵焼きを、
雹はたおやかな箸の動きでつまむ。
そしてこたつの中で握った手に汗を滲ませる制作者の心境を知ってか知らずか、
無造作ともいえる仕種で口に運んだ。
正面に座る男をなぜか睨みながら食べる雹の、きれいに切りそろえられた前髪は微動だにしない。
その艶が味の合否を握っているとばかりに黒髪を凝視していた龍麻に、
食べ終えた雹が静かに告げた。
「ふむ、悪くはないの」
「良かった……」
「じゃが、少し焦げが多いの。甘味と苦味が混ざって不愉快じゃ」
「ごめん」
 龍麻は謝ったが、これは調理人の技量よりも道具の性能によるところが大きい。
フライパンは形こそ現代と同じでも厚みや材質が違うので、火の通り方も当然違うのだ。
九角には焦げの少ない部分を供したので、余った部分はどうしても焦げが目立ってしまうのだった。
「いちいち謝らずとも良い、と言うておるじゃろう」
 柳眉を傾ける雹に、龍麻は毎度のことと頭を掻く。
ふん、と鼻を鳴らした雹は、
「妾一人に食べさせるつもりか」
 と冷たく言い、再び箸を動かしはじめた。
 龍麻も食べ始める。
冷めているのはどうしようもないが、それほど不味くもない。
そう思って雹を見ると、彼女はあからさまに目を逸らした。
落胆する龍麻に、冷たい声が浴びせられる。
「妾の顔色ばかり窺いおって、小心者め」
「せっかく食べてもらうんだから、美味しいって言ってもらえた方が嬉しいだろ」
 龍麻が反論すると、雹は切れ長の目を吊りあげた。
元から怜悧な印象を与える雹の顔は、特に怒るときに生気に満ちる。
白皙の頬にさっと朱が差し、紅梅の唇から威勢の良い悪口が放たれると、
嬉しさめいた気持ちさえ芽生えてしまう龍麻だ。
「食事のたびに美味しいなどと言うておれば口がおかしゅうなるわ」
 そのくせご飯はおかずに至るまで残さずに全て食べている。
油断すれば龍麻の食べる分が減っているほどで、
そんなとき龍麻の腹は、食べ物とは違う物質で満ちるのだった。



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