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食事が終わり、食器を下げた龍麻はこたつに入りなおす。
雹が意地悪げに一瞥したが、食事の後で攻撃性が収まっているのか、
口からつぶてが撃ちだされはしなかった。
大きな幸福と小さな落胆を布団の中に潜りこませて、龍麻はしみじみと呟いた。
「夜は冷えるな、さすがに」
「冬とはそういうものじゃ」
「そうなんだけど」
一九九八年の東京とは段違いの寒さだ。
それはもちろん、山の麓にあるこの村の立地や、防寒対策に乏しい
江戸時代の建築物と衣類によるものなのだが、あるいはもしかしたら、
物理的な寒さの違いではなく、精神的なものから来ているのかもしれない。
龍麻が百三十年前の江戸にやって来て、およそ四ヶ月。
この時代でも何人かの人と知り合い、世話になって、孤独ではないが、
それでも、寂しさを感じるときがある。
それは心にまで寒さが染みる、今日のような日で、目の前に好いた女性がいるとしても、
冷たい風が戸を鳴らす音が、消しきれない望郷の想いを龍麻に思い起こさせるのだ。
「それともそなたの時代では、冬でも暖かいというのかえ?」
彼女の悪意のない――ないはずの問いが、生きていた未来を思いださせる。
冬でも暖かく、夜でも明るい街。
二十一世紀直前の東京に較べれば、明治の世を直前に控えているとはいえ
江戸の末期は不便が多すぎた。
電気もガスも、水道さえない。
トイレにレバーをひねれば流れていくような快適さはないし、全ての移動は歩くしかない。
龍麻はこれまで、自分が恵まれた時代に生きているという実感を持っていなかったが、
こうして過去に暮らしてみれば、否が応にもありがたみを覚えるというものだった。
「ああ……そうだな。家の中は冬でもずっと暖かいな。
夏とはいかないけど、春の日くらいには暖かくできる」
「本当かえ?」
「ああ」
雹は目を丸くした。
うかつに見る者を切り刻む鋭い眼は、そのような形をすることに慣れていないようで、
釣られて小鼻まで小刻みに動いている。
冬らしからぬ情動が胸腔を満たすのを感じた龍麻は、さらに語を継いだ。
「それに、夏も涼しくて気持ちいい」
そろそろあまり法螺を吹くなと雹が怒りだす。
薄氷の上を渡る思いで、しかし氷の冷たさを気持ちよくも思う龍麻だ。
だが、今夜の雹はいつもとは違った。
「そなたの言うことが本当なら、過ごしやすそうじゃな」
「え、あ、うん」
予想外の反応に、龍麻は戸惑う。
実は雹が氷の裏側からひびを入れていて、一気に水底へ龍麻を引きずりこむ機会を
狙っているのではないかと疑ったほどだ。
しかし彼女は鋭く尖った氷柱を撃ちだすことはあっても、そういった陰湿な言動はしない。
その点が龍麻が彼女に惹かれたきっかけであり、彼女を想う理由だった。
「暑いのは良いとしても、寒くなると足首が疼いてかなわぬ」
無表情で告げる雹に、胸が締めつけられる。
その痛みが、龍麻の口を自然と開かせた。
「それなら、俺の時代に一緒に行かないか」
龍麻は江戸時代に来てからこれまで、その考えを抱いたことはなかった。
雹と暮らすのは十九世紀の日本であって、
二十世紀末に彼女を連れて行くなどとは思いもしなかったのだ。
だが、口にしてみると、これは良い考えだと思った。
彼女に両親はなく、係累もない。
ならばこの時代に留まる理由も少ないのではないか。
龍麻は期待をこめて、向かいに座る女性を見つめた。
雹は一度目を閉じ、薄く開けて言った。
「……申し出は嬉しいが、やめておこう。世話になった御屋形様を裏切るわけにはいかぬし、
この足ではそなたに迷惑がかかるばかりじゃ」
それは半ば予想していた答えとはいえ、龍麻を落胆させた。
「そんなの、俺は迷惑だなんて思わない。未来の方が今より何もかも良いなんて言わないけど、
きっと幸せにしてみせる」
想いの全てを乗せた龍麻の説得に、雹の顔が歪む。
それは龍麻がこれまで見たことのない、何種類もの感情が交じった表情だった。
着物のたもとで顔を隠した雹は、やがて、小声で言った。
「妾はこの村で良い」
勢いのまるでない、ふわりと落ちては消えてしまう淡雪のような囁きは、
龍麻に氷柱や霰よりも痛みをもたらした。
これまでこんな明確に断られたことも、そもそも断られそうな領域にまで
踏みこんだこともない男は、どうしてよいか分からずに沈黙した。
代わりに雹が訊ねる。
「そなたはいずれ帰らねばならぬのか?」
「……たぶん」
鬼道衆との戦いはまだ始まったばかりだ。
時間の流れがどうなっているのか、龍麻には見当もつかないが、
もしかしたら今この瞬間にも仲間達が危機に陥っているかもしれない。
雹とどちらかを選ばなければならないとしたら、やはり、
元いた時代に戻る方を選ぶべきなのだろう。
「そうじゃな。その方が良いじゃろう」
雹の物言いはあまりに冷たく聞こえ、龍麻は落胆した。
自分が彼女を好きなほどには、彼女には好かれていないと解ってしまったからだ。
もちろん、異なる時代に行く、というのは相当な覚悟が必要だと理解はしている。
誰も自分を知る人がいない、という孤独は、龍麻も経験しているからだ。
それでも、愛しあう相手がいるなら、どんな苦難でも乗り越えられる――
そんな龍麻の希望は、木っ端微塵に砕かれた。
彼女に得体の知れない男と得体の知れない時代に赴かなければならない道理はなく、
鬼哭村で世捨て人のような生を送るとしても、その方がましだとはっきり拒絶されたのだ。
しかも、龍麻にこの時代に留まって欲しいという気持ちすら彼女にはないようで、
龍麻は視野狭窄を起こしかねないほどだった。
失意のうちに龍麻は、雹に暇を告げる。
この後の嵐王との約束を放りだし、九角のところでヤケ酒を呷ろうと考えていた。
こんな寒い夜に熱燗は、さぞ心に染みるだろう。
そんな龍麻の心情を知らずか、雹はいつも通りの冷たい声で、彼の背中を呼びとめた。
「そうじゃ、最後に一つ頼みたいのじゃが」
機嫌の悪さが完全には消え去ってはいないまま、龍麻は足を止める。
雹の顔を見ないよう、ちらりとだけ顔を傾けて。
「ガンリュウの調子が悪うなっての。明日部品を見繕ってきてはもらえぬかの」
「ああ、わかった」
「それから」
一つじゃないのか、と龍麻は声には出さず愚痴る。
「そういうわけじゃから、寝所まで連れていってはくれぬかの」
龍麻の五感は機能を停止した。
時空を超えたときでさえ普通に動いていた処理機能は雹の、
大して難しいとも思えない頼みを聞いた途端に壊れてしまった。
壊れたという自覚はあるものの、何をどうしたらよいのか判断がつかず、
龍麻は油が切れた歯車のようにぎこちなく顔を彼女の方に向けた。
「なんじゃ、嫌なのかえ。それならそうと言うがよい、そなたには口がついておるのじゃからな。
それともそこにある口らしきものは、ガンリュウと同じで飾りかえ?」
「飾りじゃ、ない」
愛想のない返事を愛想のない口調でしたのは、龍麻の意志ではない。
龍麻の五感は再起動を果たしはしたものの、まだ完全に機能が回復したわけではなく、
どこかにある予備機能が勝手に作動しただけだった。
顔に続いて肉体を百八十度回転させた龍麻は、こわごわ雹を視界に収める。
雹の瞳はそこにあった。
黒く冷たい、百三十年後に月夜の下に見たものと、同じ瞳が。
いくらかの困惑と、さざめき始めた興奮とを腹の下に封じこめて、龍麻は一歩彼女に近づいた。
雹は動かない。
自分が発した言葉の意味を知らないかのように、近づく男に無関心だ。
動かぬ人形のような彼女に、龍麻は自分がひどい幻聴をしたのかと疑った。
このまま彼女に触れたなら、禁忌を犯したとして刺されるのではないかと。
迷いながらも、だが、龍麻の身体はひとりでに彼女の傍に寄る。
膝をつき、腕を伸ばし、呼吸を止めて肩に触れた。
「愚鈍じゃな」
「え?」
思いがけない言葉に、龍麻は意味を理解し損ねた。
動揺する脳に、さらなる罵声が浴びせられる。
「ガンリュウよりも遅いではないか。ほとほと愛想が尽きるわ」
その声を、龍麻は確かに聞いた記憶があった。
過去か、それとも未来というべきか、いずれにしても時の向こう側で、
龍麻は今雹が発したのと同じ別れの挨拶を受けたのだ。
彼女は縁があったらまた会おう、と言った。
縁は、あった――
万感の想いに腕を震わせつつ、龍麻は彼女を抱きあげた。
同じ頃、雹の屋敷から数分離れた場所では、約束を反故にされた男が、
そうとは知らぬまま酒を呑んでいた。
桔梗が注いだ酒を、一息に呑み干す。
空になった盃を面白くもなさげに眺めた九角は、誰へともなく呟いた。
「……遅いな。腹でも壊したか?」
「そんなことはないでしょう」
いやにきっぱりと否定する桔梗に、九角は盃を差しだしつつ興味深げに見やった。
「どうしてそう思う?」
「月が出ていませんから」
ややあってから九角は、月の映っていない盃を傾ける。
ほどなく空になった器を眺めながら、鬼道衆の長は言った。
「久しぶりに二人で呑むか」
「天戒様の仰せのままに」
嬉しそうに応じた桔梗は、九角に寄り添う。
重なった二つの影は、やがて行灯の届かないところへと消えていった。
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