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龍麻と澳継は、暗い江戸の街を駆けていた。
昼間の賑やかさが嘘のように静まりかえっている、晩秋の冷たい風が吹きすさぶのみの街に、
やや甲高い声が響く。
「全く、お前のせいだからな」
澳継が怒っているのは、まだ内藤新宿に居るのに、すでに時間は暮れ六つを過ぎているからだ。
雹に頼まれたガンリュウの補修道具を龍麻は買い求めたのだが、
なぜか今日は品揃えが悪く、余分な店を何軒か回る羽目になったのが主な原因だった。
「悪かったよ。……どうせだから、帰る前に蕎麦でも食べていこうぜ。俺が奢るから」
「本当かッ!? 取り消しは効かねェからなッ」
態度を豹変させた澳継に、龍麻は苦笑を押し殺して頷いた。
いくら龍麻が江戸に慣れてきたといっても、一人で鬼哭村に帰りつけるほどではないし、
真っ暗な夜道を歩くのは男であっても遠慮したいところだ。
近頃では衝突する回数もさすがに減ってきたとはいえ、できれば機嫌は損ねたくなかった。
もうひとつ、龍麻の気前が良いのにはからくりがあって、活動費という名目で二人は
九角から資金を受けとっているのだが、その金額が澳継よりも龍麻の方が若干多い。
これは龍麻が雹のために江戸のあちこちに出かけて菓子を買っているのを聞きつけた九角が、
少し余分に買ってくるよう命じたからだ。
自分の五感で江戸の実態を調査する必要がある、というきわめて婉曲的な物言いを、
龍麻はすぐに理解した。
この時代、男はあまり甘い物を好むのを良いとはされず、
特に九角は鬼道衆の長としての威厳を保つ必要からか、
甘党であるのを他人にも話したことがなかったらしい。
意を酌んだ龍麻が誰も居ない時を見計らって買ってきた団子を持っていくと、
九角は大層喜んだものだった。
以後、龍麻は菓子を買うとき毎回三人分頼むようになり、
活動費も澳継と較べてその分増えたというわけだった。
だから澳継に蕎麦を奢るくらいの余分を龍麻は持ち合わせている。
一方で澳継は結構買い食いをしていて、手元不如意が常なので、
奢る、という語句にはライバル意識も吹き飛んでしまうようだった。
適当に屋台を見つけて二人は並んで立つ。
この時代の屋台に机や椅子といった小洒落た物はなく、立ったままかしゃがんで食べるしかない。
「へい、らっしゃいッ」
「天ぷら蕎麦二つ」
「毎度ッ」
勝手に頼んだ龍麻に、澳継は怒るどころか目を丸くした。
「お、おい」
「何だよ」
「天ぷら蕎麦なんていいのかよ」
「大丈夫だって」
龍麻が天ぷら蕎麦を頼んだのは、以前、江戸時代に来た初日に醍醐に奢ってもらった
天ぷらの味が忘れられないからだ。
江戸前、という言葉が一九九八年にも残っているように、
この時代は二十世紀よりもずっと江戸城と海が近かった。
十年ほど前に台場が築かれているが、それでも魚介類の鮮度に関しては二十世紀の東京でも
全く敵わなかった。
「天ぷら蕎麦、お待ちッ」
湯気を立てる器を幸福そうに眺めた二人は、早速食べ始めた。
しばらくは無言で蕎麦を啜る。
暮れ六つを過ぎて日中の喧噪は収まっているが、この近辺は龍麻達以外にも蕎麦を啜る音が
あちらこちらから聞こえ、思いのほか賑やかだ。
半分ほどを食べた頃、ようやく澳継が顔を上げ、龍麻に礼を言った。
「お前、結構いい奴だったんだな」
人物評価を蕎麦一杯で急上昇させる澳継を、むしろ龍麻は蹴りたくなったが、
勢いよく蕎麦をたぐることでその欲求を抑えた。
温かな蕎麦が全身をほぐしてくれる。
ここから鬼哭村まで一時間以上は歩かねばならないが、
なんとか耐えられそうなくらいに元気が出てきた。
「あァ、寒い夜は蕎麦に限るな」
しみじみと言う澳継に龍麻は蕎麦を呑みながら頷いた。
その時だった。
「元気そうじゃねェか」
突然背中から聞こえた、聞き覚えのある男の声が、
金をたかろうとするチンピラのように聞こえたのは、
彼の態度よりも龍麻の精神の方に大きな理由があった。
江戸時代に暮らしはじめておよそ百日、鬼哭村の人間を除けば知り合いは二十人もいない
龍麻の、数少ない友人と言って良い一人を、龍麻は裏切りに近い形で手放したのだ。
正確には違うと言いたいが、組織を黙って抜けた挙げ句に敵対する側についたとなれば、
そう見られても反論は難しかった。
「京梧か……」
三十日ぶりほどに会った蓬莱寺京梧は、緊張する龍麻をよそに、
敵意を剥きだしにはしていなかった。
「なんてツラしてんだよ。まあ食えよ、蕎麦が伸びちまうぜ。おう親父、俺にもかけだ」
実のところ、龍麻はもうほとんど蕎麦を食べ終えていた。
だからといって先に出ていくわけにもいかない。
つゆを啜って時間を稼いでいると、京梧の頼んだ蕎麦が来た。
「で、何やってたんだよ」
蕎麦を一口たぐった京梧は、ここで澳継に気がついたようだった。
「手前ェ……鬼道衆の奴じゃねェか」
「やんのかよ手前ェ……!」
澳継の客気を、京梧は悠然と躱した。
「やってもいいが、その前に蕎麦くらい食わせろ。……そうか、寝返ったってわけか」
責める口調ではなく、面白がっているようでさえあったが、
龍麻は反論しないわけにはいかない。
「違う。確かに今俺は鬼道衆の一員だけど、寝返ったわけじゃない」
「じゃあ、なんだってんだよ」
「……女だ」
「あァ!?」
「お前には話してなかったけど、元いた時代で俺は鬼道衆の女に会ったんだ。
摩尼って宝珠に封ぜられていた陰氣で甦ったその女は、自分を鬼道衆の一員と言い、
江戸……この時代に生きていたと言った。その女はすぐにいなくなっちまったけど、
その後俺は江戸時代に飛ばされて、その女を見つけたんだよ」
「そんな大事なこと、なんで言わなかった」
「俺が最初に鬼道衆の名を出したとき、京梧も醍醐も怒ったじゃないか。
俺達も鬼道衆とは敵対してるって。そんな連中に向かって、
鬼道衆の女を捜してるなんて言えるわけないだろ」
京梧は思いきり眉間に皺を寄せたが、何も言わない。
嵐に備えて龍麻が身構えていると、彼は丼を置いて満足げに息を吐いた。
「まァ、そういうことなら仕様がねェか」
「……怒らないのか?」
「そりゃ醍醐の仕事だろ。俺はそこまで龍閃組に肩入れしてるわけじゃねェし、
だいいち、女のために命を張るなんて馬鹿野郎を責める道理は持っちゃいねェよ」
京梧の意外な度量の広さに龍麻は言葉がない。
「けどよ、醍醐や百合ちゃんに筋は通すべきだろうし、鬼道衆を黙って見逃すほど甘くはねェ」
「……どうすればいい」
「そうだな」
京梧はすぐには答えず、蕎麦を啜った。
威勢の良い喉ごしの音が、嫌が応にも緊張を高めていく。
京梧は今日は木刀ではなく真剣を帯刀しており、
一戦交えるとなれば生死を賭けたものになるだろう。
死ぬのは嫌だ――少なくとも、京梧と闘って死ぬ覚悟など、龍麻にはなかった。
それに仮に勝ったところで、醍醐と百合の怒りが解けるわけではないのだから全くの無駄骨だ。
謝って済むのなら幾らでも謝るつもりだが、京梧にそのつもりはなさそうだった。
屋台を中心に緊張が満ちていく。
わずかな空気の乱れさえも、引き金になってしまいそうで、
龍麻は息を止めて京梧の出方をうかがった。
蕎麦を食べ終えた京梧が、器を置く。
その時を待っていたかのように、小さな悲鳴がどこからか聞こえてきた。
期せずして三人は顔を見合わせる。
「今の……女の悲鳴だよな」
「ちッ、出やがったかッ!!」
舌打ちするや否や、京梧は駆けだした。
これは好機かもしれない。
京梧と反対方向に駆けだそうとする龍麻と澳継に、店の主人が立ちはだかった。
「おいッ、あんた今の奴の知り合いだろうッ!? 代金、まとめて払ってくんな」
喉まで出かけた言葉を呑みこんで、龍麻は三人分の代金を支払った。
「おい、この隙にさっさとずらかろうぜ」
澳継の正論を龍麻は吹き飛ばした。
「鬼道衆が龍閃組に奢ってやったなんて噂が広まってみろ、沽券に関わるだろ。取り返さないと」
「むッ……」
無論、それは口実に過ぎない。
何が起きたか知っているかのような京梧の口ぶりが気になったのだ。
しかもそれは、彼にとって敵であるはずの自分たちよりも重要度が高いらしい。
龍麻は急いで彼の後を追った。
蕎麦屋から川沿いにまっすぐ走ったところに、京梧はいた。
龍麻と澳継は速度を落として近づいたが、京梧の様子がおかしい。
川の方を向いている彼は、刀を抜いていた。
空気の帯電を感じた二人も、戦闘準備を整えた。
風呂敷を解いた龍麻が二組の籠手を取りだし、一組を澳継に手渡す。
大きさが異なるだけでデザインは良く似ているそれらは、
龍麻の籠手を元にして、九角が用意させた物だ。
両手を組むと龍の頭が現れるよう意匠が施されている籠手を、
氣の徹りが良くなるという龍麻の説得と、
最終的には九角の命令によって使うことを承諾したものの、
外連味が過ぎるといって澳継はかなり嫌がったものだった。
急いで籠手を装着した二人は、京梧に近づいていく。
見向きもしない京梧に、話しかけたりはせず、彼の切っ先が向いている方を油断無く見渡した。
蕎麦屋の灯りも失くなった川っぷちは、漆黒のみが広がっている。
目を凝らせば漆黒にも二色あるのは、水面だろう。
そこにさらに目を凝らすと、小さな船着き場が見えた。
渡し船なのだろうか、小型の船が一艘、繋がれている。
そこに、気配があった。
辺りの暗闇を凝集し、人ではありえない邪悪な気配が船の上に漂っていた。
氣の操り方を体得していない京梧でさえ感じとった気配だから、
龍麻と澳継にはより鮮明に伝わっている。
鼻をつまみたくなるほどの濁った氣に、二人は戦慄していた。
悪意を持つ人間程度ではとうてい醸すことのできない、
目の前の闇は全てその一点から広がっているのではないかというくらいの、
存在そのものが邪悪な何かが纏う邪氣は、若いとはいえ百戦錬磨の拳士二人に
感情をねじ伏せなければすぐにも逃げだしたくなるほどの嫌悪を与えていた。
敵の姿は未だ見えなくても、難敵であるのは間違いなく、
京梧に声をかけるタイミングを龍麻は計る。
前方から目を離さないまま、小声で話しかけようと口を開いた瞬間、京梧が跳んだ。
「てやァァァァッッ!!」
跳躍と斬撃が、同時に為される。
一気呵成に振りおろされた刀は、鬼神ですら両断しただろう烈しさだったが、
刀に空気以外の何をも斬った手応えはなかった。
体勢を整えた京梧は、再び刀を構える。
邪悪な気配はいささかも減っておらず、刀を握る手に微量の汗が滲んだ。
京梧が刀を握り直した時、前方から何かが聞こえてきた。
「ククク……ニンゲンニシテハ、ヤルデハナイカ」
歯の奥を擦りあわせたような、小さな声。
そのくせ耳の中に直接聞こえる不快さに、京梧は叫んだ。
「何者だ手前ッ!! 姿を見せやがれッ!!」
水面に叩きつけられた声が消えていき、完全な沈黙が訪れる直前、
京梧の眼前にありえないものが現れた。
「……!!」
京梧と後ろの二人が揃って絶句する。
黒い空間に出現したのは、女の生首だった。
生白い顔面だけが目の高さに浮かんでいるおぞましさに、さしもの京梧も我を失う。
その間隙に、何者かが襲いかかった。
影が塊となって京梧を狙う。
ほとんど不可視のそれを氣によって察知した龍麻は、京梧に飛びつき、背中から彼を押し倒した。
その直後、頭上を禍々しい何かが過ぎていく。
黒板を爪で引っ掻いた時の不快感を十倍にもしたような気持ち悪さに、
全身から冷たい汗が噴きだした。
それは怒りさえ呑みこんでしまうようで、女を殺した上にいきなり攻撃してきた相手に
立ち向かう気力も生じぬまま、龍麻は、背中に取り憑いた不快感が消え去るまで
顔を上げることができなかった。
「……おい、もういいだろうよ」
どれほどの時間が過ぎたのか、近くから京梧の声がする。
ようやく身体を起こした龍麻の前方には、もう一切の気配は感じられなかった。
安堵しつつ立ちあがると、京梧も立つ。
「くそッ、刀が土まみれになっちまった……助かったがよ」
振り向かずに礼らしきものを言った彼も無事なようで、龍麻は残る一人の安否を確かめた。
「おい澳継、無事かッ」
澳継は少し離れた場所で、同じように伏せていた。
龍麻が起こしてやると、いつもはそれだけのことでも後れを取ったと突っかかってくる澳継が、
怯えた顔を隠そうともしない。
呼びかけにも目はうつろなままで、龍麻は、少し荒療治を施すことにした。
澳継の背中から、勁を徹す。
常人なら気を失ってしまうところだが、龍麻と同様に体内に満ちる氣を操ることができる技の
継承者である澳継には効果があるはずだった。
「大丈夫か」
「……」
目の焦点は合ったが、まだ呆けているようだ。
今度は龍麻は氣を使わず、平手で頬を張った。
「ッ痛え、何しやがンだッ!!」
叫んだ澳継は、怪訝そうに辺りを見渡す。
それで状況を思いだしたのか、薄ら寒そうに肩をすくめた。
「お、おい、さっきのは何だったんだよ」
龍麻が答えなかったのは、むろん意地悪をしたのではない。
異様な気配と浮いた生首、それに陰氣の塊のような何かを避けたというだけで、
ほとんど何も見ていないに等しかったからだ。
答えを求めて龍麻が目撃者を見ると、
京梧ははじめに気配を感じた小舟の方へ歩いていくところだった。
彼の後を追った龍麻と澳継は、再び不快な物を目にする。
敵が持ち去った女性の、残った部分。
首から下が無造作に、からくり人形よりも人間らしくない姿で小舟の中に放置されていた。
それが人間に見えなかったのは、もうひとつ、出血が見られなかったからだった。
夜だから判別しにくいとしても、着物が全くといっていいほど汚れていない。
どのような手段を用いたにせよ、悲鳴の時点では生きていた女性を惨殺して
血が出ないというのはありえないはずで、何か人知を越えた力を用いたのかもしれなかった。
「うッ……」
澳継が口元を押さえている。
龍麻も気分は同じで、浅く、深く、不安定な呼吸を繰り返した。
「ひでェことをしやがるな」
京梧が呟く。
その呟きに重なるように、叫び声が聞こえた。
「御用だッ!」
遠方から提灯が近づいてくる。
舌打ちした京梧が、刀を収めて振り返った。
「ちッ、同心が来やがった。おい緋勇、明日竜泉寺に来い。話がある」
龍麻の返事を待たずに京梧は走りだした。
龍麻は澳継と顔を見合わせたが、他に選択肢があるわけでもない。
二人は揃って京梧に倣い、走りだした。
三人の後方から、追いかけるものがある。
それは人ではなく、一匹の小さな蠅だった。
耳障りな羽音は龍麻達の耳にも聞こえていた。
だが、同心から逃げるのに夢中で、一匹の虫になど気を払う余裕はなく、
龍麻達はそのまま駆けていった。
幸い距離があったので、ほどなく同心の声は聞こえなくなった。
知らぬ間に京梧とは別れていた龍麻と澳継は、それでも用心のため、
内藤新宿を出るまで一言も喋らずに歩いた。
澳継がようやく声を発したのは、鬼哭村への隠し道に入ってからだった。
「おい、なんだよあれ」
「俺にもわからないよ」
普段ならそんな返事はあしらわれたと思って激昂する澳継が静かなままだ。
彼が再び口を開いたのは、龍麻が六十回ほど足を動かしてからだった。
「畜生ッ、俺ともあろう者がビビっちまった」
澳継が弱気を認めたのは、彼と知りあって以来初めてだったが、笑う気になど龍麻はなれない。
「俺もだよ。とっさに伏せた後、顔を上げたら目の前にあいつが居るんじゃないかって
怖くてたまらなかった」
「人間……じゃねェよな、多分」
それは、戦いもせずに怯えるなど相手が人間なら許せないという、
プライドが言わせた負け惜しみに過ぎないのかもしれない。
だが、龍麻も同意見だった。
刀のような刃物を持たず、血を流すことなしに首を斬り落とす技。
生命の危険を覚えたほどの、凄まじい攻撃。
そして足音もなく消えたのは、空を飛んだとしか思えない。
できるならば二度とは会いたくない存在だった。
だが、江戸を護ろうとする龍閃組と、江戸幕府を倒そうと目論む鬼道衆。
二つの組織のいずれか、あるいは両方と関わる可能性は高いだろう。
その予感に根拠などない。
龍閃組と鬼道衆が偶然対面した夜に現れた、ただそれだけが龍麻に確信させるのだ。
あの禍々しい存在とは、いつか戦うことになると。
そしてもしかしたら、あの敵と戦うことこそが自分が過去にタイムスリップした
理由なのではないかと、百三十年後の東京でもさまざまな事件の中心にいる龍麻は
思い始めていた。
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