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 見たことがないほど丸く、青白い月が、遙か紺碧の空から見下ろしている。
地球の半分をあまねく照らす月光は、透明な人工物によって四角く切り取られ、
目の前の床に小さな舞台を作っていた。
 その舞台の上に、少女がいた。
一糸まとわぬ白い肌は月灯りを受けて蒼く輝き、闇に同化するほどの黒髪の縁は白銀に光っている。
月光を背にした少女の顔は、はっきりとは見えなかったが、わずかに微笑んだように見えた。
 その微笑みが別離の挨拶のような気がして、手を伸ばし、少女を抱きしめようとする。
願いが叶ったのは半ばまでで、少女は確かに腕の中に収まったものの、
彼女の温もりも、体香も、一切が手に入らなかった。
 空が動き、束の間月が隠れる。
再び天空の女王がその姿を現したとき、腕の中にいたはずの少女は、
それが一瞬の慈悲であったかのように消えていた。
 両腕をかき抱き、喪われたものを返して欲しいと虚空に叫ぶ。
 月は、何も答えなかった。

 瞼が開く。
同時に意識が立ちあがる。
蒸気機関車の動輪のように、始めは重たげに、徐々に明確さを伴ってくる目覚めは、
しかし、毎朝のようにはいかなかった。
「……?」
 目に映るもの全てが暗い。
時間も空間も把握できない、という根源的な恐怖に囚われ、龍麻は二回瞬きをした。
夢の中にいるのではないかというくらい、状況は変わらなかった。
 考えがまとまらない。
龍麻に低血圧の兆候はなく、朝が苦手というわけではない。
起きてすぐ全開、とはいかないまでも、一人で定められた時間に起き、
学校に間に合う時間に家を出る程度は難なくこなせた。
 それが、今朝はどうしたことか頭が回らなかった。
寝たまま龍麻は深く深呼吸する。
空気は冷たく、身体の奥深くに流れこむと脳が活性化した。
それでも、ここがどこで、何故自分が寝ているのか、答えは出ない。
こうなったら直接確かめるまでと龍麻は身体を起こした。
 起きたことで判明したことがいくつかある。
龍麻は布団をかけられていた。
ふかふかの暖かさはないが、少なくともここは誰か、おそらくは人間の家である。
ならば見上げていたのは天井であり、その天井には照明器具がついていない。
ここまで考えたところで、蛇口を一気にひねったように、急速に記憶が蘇ってきた。
 龍麻は今、江戸時代にいる。
龍穴という地球の生命エネルギーが疾る洞穴の中で、緋勇龍麻は一九九九年から一八六六年へ、
およそ百三十年の時を遡行し、それからおよそ五ヶ月間江戸の世に生きていた。
その間に起きた出来事は、二十世紀末に劣らぬほど多く、いずれも刺激的だった。
中でも雹という少女との出会いは、まさしく運命的であり、
龍麻は彼女のためなら現代に帰れなくても良いとさえ思っている。
 雹を思いだしたことで、一気に全身が賦活化した龍麻は立ちあがった。
だが仁王立ちとはいかず、バランスを崩してしまう。
「……?」
 意志に肉体がついてこない。
手と足が包帯を何重にも巻いたように重く、頼りなかった。
痛みはなく、疲労か衰弱のようだが、そうなるに至った原因は思いだせない。
 眉をしかめた龍麻は、もっと情報を集めようと試みた。
 部屋はそれほど大きくなく、手探りで三歩進むと壁を見つけた。
次は部屋の外に出るべくふすまを探す。
これには少し時間がかかったが、やがて掌に違う感触をとらえた。
ここまでくればあとは開けるだけだ。
どれほど目を凝らしても戸の形は見えない、完全に真っ暗な状態だから、
苦労は並大抵ではなく、指がかかる部分を探すのも一苦労で、
指先に神経を集中させて必死に探し当てると、慎重に力を込めた。
 しかし、扉は頑として開かない。
悲嘆に暮れかけた龍麻は、戸が反対方向に開く可能性に気づき、
その閃きに驚喜して、今度は最初から力一杯引いた。
 龍麻がまさに力をかけようとした瞬間、突如として戸が動く。
龍麻の引こうとした方向に動いた戸は、それほど激しく開かれたわけではなかったが、
虚を突かれた龍麻は自分から横に飛ぶ形になった。
「うわッ……!」
 今度はよろけるだけではすまず、盛大に転ぶ。
床か壁か、どこだかわからぬ場所にどこだかわからぬ部位をしたたかに打ちつけて龍麻は悶絶した。
「なんだ、目が覚めたのか」
 聞き覚えのある声に、あと一分ほどは続けたかった悲鳴を中断して仰ぎ見る。
そこには手持ちの行灯を下げた、坊主頭の男がいた。
「尚雲……」
「何をしているんだ、そんなところで」
 本物の坊主ではあっても、地面から生えるような風格はなく、
風任せの綿のような彼に対して怒っても無駄だということを熟知している龍麻は、
無言で立ちあがり、埃を払った。
「起きたのなら来てくれ。話がある」
 まるっきりこちらの事情を汲まないのもいつものことなので、
とにかく彼の言うまま、後をついて行った。
 外に出ても、ここがどこなのかという疑問に答えは得られなかった。
外は室内と同じように暗かったのだ。
夜なのだろうか、と思いつつも、何かが違うと感じていた。
ただしその違和感を確かめる暇はなく、尚雲はどんどん先を行くので、
彼の灯りだけが頼りの龍麻は急いで後を追う。
 歩いているうちに、ここが龍泉寺であることに気づいた。
江戸時代にタイムスリップして最初に逗留したのがこの寺だ。
疑問の一つは解決されたが、まだ解らないことは山ほどある。
あいかわらず手足は心許なく、腹の虫も盛大に鳴いているが、とにかく龍麻は彼に続いて本堂に入った。
 堂内には円空、百合、醍醐、それに京梧がいた。
龍麻が姿を見せると、皆一様に立ちあがった。
「おう、起きたか。ずっと寝たままかと思ったぜ」
「こらッ、冗談でもそんなこと言うもんじゃないよッ」
「ヘヘッ、悪ィ」
 京梧には二の腕を叩かれ、醍醐には肩を掴まれ、京梧をたしなめた百合などは目元を拭っている。
ずいぶんと大げさだと龍麻が思っていると、彼の前に立った円空が手を合わせ、深々と頭を下げた。
「身体は平気かの」
「え、ええ」
「そうか。本当にようやってくれた。心から礼を言わせてもらうぞ」
 高野山の高僧である円空は、龍閃組の創設者にして徳川幕府の目付相談役でもある、
龍麻や京梧から見たらはるか雲の上の存在だ。
その彼にここまで労われて、龍麻は喜ぶよりも困惑が先に立った。
「そんな大したことはしていません」
「何を言うのじゃ。お主は命を賭して江戸を護ってくれた。
家茂様も生きておいでなら、さぞお喜びなさったじゃろうて」
 どうも話が噛みあっていない、と思ったところで腹が豪快に鳴った。
赤面する龍麻に、円空は闊達に笑った。
「百合、飯の支度を頼む。雄慶も手伝うのじゃ」
 二人に指図し、円空は再び龍麻の方を向いた。
「積もる話もあるが、腹ごしらえをしてからとしよう。まずは顔を洗ってくるとよい」
 老人の指示はまったく正しかったので、龍麻もおとなしく従うことにした。
 顔を洗って戻ってくると、朝餉の用意が調えられていた。
一汁一菜の、二十世紀に較べれば質素な食事だが、数ヶ月この時代に生きて食生活に慣れていたし、
何よりも腹と背がくっつきそうなほどの空腹だったから、龍麻にはごちそうに見えた。
「あれ、皆は?」
 用意されているのが一人分だけなのに気づいて訊ねると、円空が笑った。
「皆はもう済ませておる。良いから食べるのじゃ」
「はあ」
 若干の気まずさを覚えながら龍麻は箸を手にした。
何しろ皆、凝視はしていないものの龍麻を待っているのが明白で、
しかも喋らないものだから、龍麻の食べる音だけが堂内に響くのだ。
とはいえ空腹を抑えこむほど行儀良くもできず、後半はかきこむように食べてしまった。
「お代わりはどうだい?」
 百合が手にするおひつはいかにも食欲をそそり、もう一杯くらいならという逡巡もあった。
それを追い払ったのは、やはり一同に流れる微妙な空気だった。
「いえ、もう充分です、ごちそうさま」
「済まぬの。じゃが、お主は胃も弱っておるじゃろうから、
一度に詰めこまずに後でまた食べるが良いじゃろう」
 胃が弱っているとはどういうことか、龍麻が訊こうとする前に、京梧が焦れたように座りなおした。
「よし、それじゃ始めようぜ」
「うむ」
 思い思いの場所にいた全員が集まってきて車座に座る。
円空も龍麻の正面に座り、中央に行灯が置かれ、ただごとならぬ雰囲気が漂い始めた。
「まず、緋勇よ、江戸を護り、百合を救ってくれたこと、改めて礼を言う」
「ああ、本当にありがとうよ。あたしが助かったってあんたが死んじまったら
どうしようかって心配してたんだ。目覚めて本当に良かったよ」
 円空と百合に頭を下げられ、龍麻は一層困惑する。
「お主はの、緋勇。敵の攻撃から醍醐達をかばい、倒れたのじゃ」
「……!」
 驚いて声も出ない龍麻に醍醐が追い打ちをかける。
「急いで帰って医者に診てもらったがな、外傷はなく、どこにもおかしなところはないのに、
確実に衰弱しているという。俺達もどうすることもできずにいたが、持ち直したようで何よりだ」
 最後にとどめを刺したのは尚雲だった。
「君が倒れた、つまり、俺達が小岩で戦ってから、今日で六日目の朝だ」
 そんなに寝ていたのかと独語しかけて、龍麻は彼の言葉に含まれた重大な意味に気づいた。
「まて、朝ってどういうことだ?」
「どうもこうもねえ。手前ェが倒れた次の日から、お天道様は上らなくなっちまったんだよッ!」
 吐き捨てる京梧から、龍麻は順に視線を移した。
醍醐や尚雲はもちろん、円空の目にも、龍麻の求めているものは浮かんでいなかった。
事態の深刻さに、龍麻は身体を震わせながら言う。
「でも、何かを企んでいる奴は斃したじゃないか」
「おそらくじゃが、あれは囮だったのじゃろう。気づかずに成功すればそれで良し、
誰かが気づいて阻止されたとしても、本当の企みからは目を逸らせられるというわけじゃ」
「本当の……企み?」
「そうじゃ。外に出て、堂の左手に回って見るとよい」
 言われるままに龍麻は外に出た。
醍醐がついてくる。
 月光以外に一切の灯りがない闇は、この数ヶ月間経験していた。
東京の夜とは比較にならない、立っている場所さえ判らなくなるほどの暗闇は、
確かに怖ろしく、初めの頃は厠に立つのさえためらったほどだ。
今でも慣れたわけではないが、この時代に生きる人々と同程度には生活できるようになっていた。
 しかし、この闇は何かが違う。
自然の闇がわずかに紫がかっているのに対して、今龍麻の前に広がっているのは、完全な漆黒なのだ。
すぐそばで葉音を立てている木々さえ、かなり目を凝らさなければ見えないほどで、
醍醐の持つ行灯の小さな灯りを頼りに堂を回りこんだ。
 一体何が見えるのか、高鳴る心臓もそのままに目を凝らす。
 広がるのはただの黒だった。
不思議に思い、後ろの醍醐に訊ねようとする龍麻の視界の端に、何かが映った。
動く物体ではない。
黒一色に染まる景色が変じていた。
遠方が赤く光っている。
視界の一角を占めるほど大きな輝きは、龍麻が見ている前で消えた。
血の色を想起させる濁った赤色は、いかにも不吉な印象を与える。
それにしても、何が光ったのか。
再び醍醐の方を向くと、巨漢の僧は苦渋に満ちた表情をしていた。
「見えたか」
「ああ……あれは一体」
「富士山だ」
「……!!」
 日本人なら誰でも知っている、日本一高い山。
霊峰とも呼ばれ、日本人の心の故郷と言われても多くの人が納得するであろう、
美しい独立峰が、ただならぬ事態に陥っている。
衝撃のあまり言葉が出ない龍麻に、醍醐が続けた。
「あの赤い光が何を意味しているのかはわからん。
だが、光は少しずつだが確実に、光る時間が長く、消えている時間は短くなっている」
「そんな……」
「円空先生はお前に、富士山に行って欲しいと頼むだろう。
俺からも頼む、緋勇、共に富士山に登ってくれ」
「……」
 さすがに即答できず、龍麻は低くあえいだ。
怖ろしいとは思わなかったが、富士山をあんな風に変えてしまう敵の強大さを思わずにはいられなかったのだ。
 醍醐は龍麻の態度を否定的なものに感じたようだが、僧らしく決断を急かしはしなかった。
「とにかく、円空先生の話を聞くだけは聞いてくれないか」
「あ、ああ」
 龍麻はきびすを返し、本堂に戻る。
もう一度振り向くと、遙かにそびえる富士山は、病に冒されたかのように鈍く光っていた。
 本堂に戻ると、全員が一斉に龍麻を見た。
車座のまま動いておらず、会話さえ交わしていない。
それでも、龍麻が座ると、百合が努めて明るい声を出した。
「身体が冷えちまっただろう、お茶を持ってくるよ」
 ありがとうございます、と小声で形式的に言いつつ龍麻は、気もそぞろに円空を見た。
「見てきたかの」
「はい」
「気がついたのはお主達が帰ってきた次の日も終わろうという頃じゃ。
何しろ陽が昇らぬという方に皆気を取られてな。それにあの赤い光も初めはもっと弱く、
光っている時間も短かったのじゃ」
「何の光なのか、判らないのですか」
「御庭番を物見に行かせたがの、一人として戻ってこぬ」
 御庭番といえば龍麻でも名前を聞いたことがある、幕府お抱えの諜報集団だ。
隠密行動に長けた選りすぐりの者達であるはずで、その彼らが戻ってこないということは、
「誰かがいる……ということですか」
「うむ。おそらくはあの光も何かの儀式なのじゃろう。妨げる者は誰であれ許さぬということじゃな」
 囮として行った儀式でさえ、邪妖を召喚して江戸を破壊しようとした輩だ。
富士山を利用した儀式となれば、日本全土をも壊滅させようとしているのかもしれない。
 龍麻は時間と空間について詳しいわけではない。
すでに一九九九年の未来があるのだから、過去に日本が壊滅するような事態は起きていない、
つまり、今回の件も結局大事には至っていないのではないか。
そう考えることもできるが、感情としてこれを放っておくのは許せなかった。
異能の『力』を持つ何者かが、罪なき人々を苦しめようとしている。
何より、龍麻にとって大切な女性である雹が、このままでは巻きこまれる公算が大だ。
彼女を護りたいという理由だけで、龍麻には充分だった。
「俺が行きます」
「行ってくれるか」
「はい」
「……済まぬの。せっかく九死に一生を得たというのに、
また命を賭した戦いに行ってもらわねばならぬとは」
「俺がこの時代に来たのは、きっとこのためだと思うんです」
 雹に会うためではある。ただし、それだけではなかった。
龍麻は心からそう思っていた。
「うむ……そう言ってくれるのなら、もう何も言うことはない。
じゃが、必ず生きて戻ってくるのじゃぞ。お主には戻るべき時代があるのだからな」
 龍麻の手を強く握りしめた円空は、愛弟子に顔を向けた。
「雄慶。お主も緋勇殿と共に富士山へ赴き、変異の原因を突き止めるのじゃ」
「はい、先生」
 醍醐が合掌して命令を受託する。
その横で、京梧が刀の鍔を鳴らした。
「ヘヘッ、俺を置いてこうって腹じゃねェよな、まさか」
 実のところ、この二人は何も言わなくてもついてきてくれると確信していたので、
龍麻は少しからかってみたくなった。
「しばらく蕎麦が食えなくなるぞ」
「馬鹿野郎ッ、日本の一大事と蕎麦を天秤にかけるわけねェだろうがッ」
 声を荒げる京梧をなだめ、龍麻はもう一人の方を見た。
「俺も行く。こう暗くては武者修行の旅にも出かけられないし、鍛錬もできないからな」
「ありがとう」
 彼らしい物言いではあるが、尚雲の実力は醍醐や京梧に比肩する。
純粋な武術という意味では龍麻など遠く及ばず、彼の同行は大いに心強かった。
 気勢を上げた四人の若者に、円空は大きく頷いた。
「お主達、頼んだぞ。日本の命運はお主達にかかっておる」
「はい。必ず使命を果たします」



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