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 さっそく龍麻達は富士山行の準備を始めた。
食料や防寒具を円空に頼んで手配してもらい、二日後の朝を出発と定める。
京梧などは明日にも出発したがったが、龍麻の体調がまだ完全ではないのと、
江戸の町はまだ大きな混乱には至っていないがその兆候が見えており、
あまり派手に食料を買いそろえると暴動が起きかねないので、
幾人かに手分けして調達させるのだという。
「それでは、俺は一旦鬼哭村に戻るとするよ」
 今更鬼道衆がこの機に乗じて江戸を襲うなどとは、もはや龍閃組の誰も疑っておらず、
ゆえに尚雲の希望はたいして注目もされずに聞き届けられた。
しかし、それならば龍麻も一度戻りたいと言うと、
「お主はまだ病み上がりじゃからな、休養に専念した方がよかろう」
 円空に諫められては無理を通すわけにもいかず、また、
「そうだな、報告はしておくから、君は体調を整えておくのがいいだろう」
 尚雲にまでそう言われてしまっては、引き下がるしかなかった。
 とはいえ、本当に休養しているわけにもいかない。
食料や防寒具など、用意しなければならないものは多く、
それらを運ぶためのバッグも必要となる。
ありがたかったのは、この当時すでに帆布が発明されていて、入手が可能であったことだ。
まだ文字通り舟の帆にしか使われていなかったが、デイパックが手元にあったのも幸いして、
円空が大急ぎで同じ形で二回りほど大きなものを作らせてくれた。
実用性重視で染められてもいない白い袋だが、きちんと背負えるようになっていて、
充分に役立ってくれるだろう。
 三つ用意した袋に、食料や手拭いなどを詰められるだけ詰めた。
防寒具に関しては手拭いなどではいかにも心許ないが、他には綿入れくらいしかないので、
これでしのぐほかなさそうだった。
 食料に関しては幕府が備蓄している干し飯を調達してもらい、これに梅干しと漬け物、
それと水を持てる限り持つ。
 だるまのように膨らんだ袋を見て、京梧が口を曲げた。
「ヘッ、そんなに荷物を抱えたんじゃ身動き取れねェだろうが」
「減っていくからいいんだよ」
 とにかく酷寒の富士登山という、装備や知識が進歩している龍麻の時代でさえ、
正気の沙汰ではないとされる難行を成し遂げ、
さらにそこに陣取っているであろう天変地異をもくろむ敵を倒さねばならないのだ。
まだまだこれでも足りないくらいだった。
 他には円空がろうそくを用意してくれた。
この頃、ろうそくはまだ貴重品で、武士や商人など一部の人間が特別な機会にしか使えるものではない。
それでも円空は十本のろうそくを調達してくれ、惜しげもなく全てを龍麻に持たせてくれた。
 それらの準備に忙殺されているうちに時間は瞬く間に過ぎ、出発の朝が来る。
結局出発するのは龍麻、京梧、醍醐に尚雲の四人だった。
どれくらい数を揃えているのか不明な敵に、この数はあまりに少ない。
だが龍麻達は必ず登頂を成し遂げねばならず、なんとしても太陽を再び取り戻さなければならなかった。
 結局雹は見送りに来なかった。
尚雲に訊ねてみても、素っ気なく彼女は来ないと言うのみで、龍麻は不満を募らせる。
今生の別れとなるかもしれないのに、少し冷たすぎはしないかと落胆もしたが、
鬼哭村に寄るわけにもいかず、彼女の顔を眼に焼きつけて戦いに赴くのは諦めるしかなさそうで、
勝って帰ればいくらでも会えるのだから、と気を取り直した。
「よし、それじゃ行くとすっか」
 陽気に京梧が告げる。
全く気負いがないのは心強いとしても、蕎麦でも食べに行くような口調では、
気合いも空回りしてしまうというものだ。
 四人を並んで立たせた百合が、一人一人に火打ち石を打つ。
切り火という厄除けのまじないだ。
微量の火花が闇に浮かび、儚く消えていった。
「いいかいあんた達、敵を倒したって生きて帰ってこなけりゃ意味がないんだよ」
「ヘヘッ、わかってるって」
 江戸の命運をかけた戦いに赴くというのにいつもの態度を崩さない京梧に、
百合は半ば怒りかけている。その隣では、醍醐と円空が挨拶を交わしていた。
「それでは先生、行って参ります」
「うむ、気をつけてな」
 それぞれ挨拶をする彼らと違って、龍麻は一人だ。
自分が異邦人であると強く認識させられ、雹がいないのがやはり心残りだった。
 龍麻の隣には尚雲がいる。
彼も京梧とは違った意味で気負いはなく、普段同様悠然としており、特に龍麻に話しかけるようなこともない。
龍麻の方はもう少し雹や鬼哭村の様子を聞いてみたかったのだが、
女々しいと思われるのも嫌で、何も訊かなかった。
「必ず帰ってくるんだよッ!!」
 百合の叫びを背に、龍麻達は旅立つ。
前方にそびえ立つ富士は、禍々しく輝いていた。

 龍泉寺を出発して、二時間ほどが過ぎていた。
風はやまず、陽は射さず、暗黒の中を四人は進む。
相手が人間にせよそうでないにせよ、形を取っているものになら決して臆することはない
京梧も、少し気を緩めれば吹き飛ばされそうになる暴風が相手ではどうにもならず、
醍醐の半身に隠れるようにして、ひたすら下を向いて歩いていた。
龍麻も似たようなもので、四方からたたきつける風に悪態をつく余裕もなく、
一歩ずつ足を動かすしかない。
目的地である富士山はいっこうに近づいた感じにならず、
不快な鈍い赤色の明滅はいつ終わるともしれず繰り返されていた。
気のせいであれば良いが、明滅の間隔は歩いている間にも短くなっているように見える。
激しい運動をした後の心臓のような、あれが脈動だとしたら、
行き着く先は発作か破裂か、いずれにしても良くない結果だろう。
 氣の扱いを学んだときに、龍麻は言われたことがある。
生きとし生けるもの全てに氣は宿っている。
小は草花に至るまで、大は星々にすら。
明滅が心臓というイメージをもたらすなら、その持ち主は富士山、ひいては地球ということになる。
富士山は日本で最も巨大な氣が噴きだす穴、龍穴でもあり、
龍麻達が倒さなければならない何者かが、氣を何かに用いようとしているのは想像に難くなかった。
 それほどの氣を制御する術などあるのか。
己が持つ才能さえ完全に制御できない龍麻は、冷たい汗が背中に滲むのを感じた。
制御できたとして、何に使うのか。
あれほどの力を破壊に使えば、江戸など容易に壊滅させられるだろう。
仮に制御できなかったとしても、暴走する氣はやはり日本に大きな傷をもたらすに違いない。
龍麻達は敵が儀式を終えるより前に山頂に到着し、斃さなければならず、
登頂を果たすだけでも難事であるのに、いわば三重の困難が待ち受けているのだ。
異能の力を持ち、人外の者と戦っても、一人江戸時代にタイムスリップしても
恐れや怯えはしなかった龍麻だが、前方遙かにそびえる、今は魔の山としか見えない暗黒の富士山を見れば、
寒さとは別に身体が震えてしまうのだった。
 何度目か、富士山を見上げ、不吉な輝きが消えていないことを確かめた龍麻は、
ふと、視線を下に落とさず、前方に据えた。
何かが見えたわけではなく、ほとんど勘でしかなかった。
だが、二十世紀末の東京の夜とは比べものにならない深い闇の彼方に、確かに何かがいた。
「京梧」
 龍麻ははためく京梧の着物の袖を苦労して掴んだ。
「何だッ!」
 京梧は声を限りに怒鳴っているが、かき消されて良く聞こえない。
龍麻は黙って前方を指さした。
 京梧も前方にいる何かに気づき、刀に手をかける。
龍麻も手甲を装着し、醍醐も何があっても即応できるよう身構え、
尚雲だけは槍を構えずに抱えたまま、四人は緊張を漲らせて進んだ。
「誰かいやがるのかッ!!」
 返事は草木からばかりだ。
京梧の気性は待つのを好まないが、待ち伏せされている可能性を考えると突進するわけにもいかない。
醍醐が正面、京梧と龍麻がそれぞれ左右を受け持ち、油断なく周りを見渡した。
 摺り足で移動しながら、龍麻は深く呼吸する。
限界まで吸った息をさらにもう一段階深く吸い、吐きだす呼気はそれよりも少なく、体内に蓄積していく。
体得するだけで三ヶ月以上を費やした呼吸法は、さらにその状態で戦えるようになるまで二ヶ月かかった。
それでもマスターできたのは龍麻に素質があったからこそで、
常人ではどれだけ鍛錬しても届かぬ領域だった。
 導き入れた空気を、臍の下に落とし、人体に七ヶ所あるチャクラと呼ばれる氣の集積所を順に通していく。
基底ムーラダーラから、頭頂サハスラーラへと巡る氣は、その過程で増幅し、凝縮され、
駆け上る龍となって宿った。
 漲った氣をいつでも放てるよう、両腕に撓めて、龍麻はさらに接近した。
そろそろ最初に気配を感じた辺りに到着する。
呼吸を止めて全神経で気配を探る龍麻に、何者かは聴覚から接触してきた。
「よう」
 荒れ狂う風は葉音さえ引きちぎってしまうというのに、
その声はどういうわけか龍麻の耳にしっかりと届いていた。
聞き覚えのある声は、幻聴かも知れず、構えを解くわけにはいかない。
しかし、声に続いて姿を現した男の姿は、声と記憶を結びつけるものだった。
「九角……!」
 そこに立っていたのは、鬼道衆の首領である九角天戒だった。
刀は腰に差したまま、肩まである赤髪をなぶる強風に辟易しているようだが、
京梧達に対して敵意は感じられない。
彼が何故こんな場所にいるのか、真意を掴めぬままに動揺する龍麻に、さらなる追い打ちがかかる。
「遅いんだよ手前ェら、こんな寒い中待たせやがって、御屋形様が風邪引いたらどうすんだよッ」
 寒そうに腕をさすりながら、甲高い声でなじってきたのは風祭澳継だった。
衝動的に蹴りたくなったのを自制しながら、龍麻は彼らの他の人影を見やった。
 三人目は女性で、名前を桔梗という。
常に九角に付き従い、情の深さを否が応にも推し量らせる彼女も、
四方に髪を乱す風に辟易しているようだが、目が合った龍麻に笑いかけた。
 そして、四人目は。
龍麻達の中で最も背の高い醍醐を見下ろす位置から、じっと一行を見据えている。
龍麻が気づき、目を合わせても、にこりともせずに目を細めただけの彼女の名は。
「雹……!!」
 龍麻のうめき声は生まれた途端に風が千切り、引き裂いてしまった。
それでも、龍麻は目の前の光景が信じられず、空しく口を開閉させ続けた。
「どうしてここに……?」
 鯉よりはましといった程度に口を開閉させるのを止めた龍麻は、最大の疑問を口にする。
それに対して初めて、雹がわずらわしげに答えた。
「嵐王殿に頼まれたのじゃ」
「嵐王に?」
 頷いた雹は、何やら手を動かした。
すると、彼女を乗せるガンリュウの両肩から四つのまばゆい光が放たれる。
暗闇を貫く四条の光は、見る者をその輝き以上に興奮させた。
「……!」
「そなたの何と言ったかえ、そうじゃ、懐中電灯じゃ。ようやくあれを再現することができたそうじゃ」
「どうだ、凄ェだろ」
 なぜか自慢気な澳継を蹴り飛ばしたくなる龍麻だったが、話が進まないので我慢した。
「とは言うても小さくするのは難しいらしくての、
からくりを据えつけるのはガンリュウでないと無理だそうでの」
 今度は雹が顎を突きだして自慢気になる。
彼女に対しては全く腹が立たないのは、ひいきという奴なのだろうか。
そうだとしてももちろん、龍麻に反省する気はない。
「無論、ガンリュウならば多少重くなったとて、歩くなど造作もないからの」
 百年以上も後の時代の発明品を、当代の技術と材料で再現してしまう嵐王の凄さに、
改めて舌を巻いた龍麻は、彼女の発言に重大な意味が含まれていることに気づいた。
「まさか……雹も行くのか?」
「妾でなければガンリュウは動かせぬのじゃからな、当然じゃ」
「無茶だ!」
 龍麻はたまらず叫んだ。
雹に会えて嬉しいという気持ちは吹き飛んでいた。
男の龍麻でさえ、ここに至るまでですでに体力を消耗している。
この先富士登山となれば危険は生命にまで及ぶだろうし、
いくらガンリュウの腕の中と言っても暴風は防ぎようがない。
しかし、雹は全く聞く耳を持たなかった。
「この光だけではないぞえ。ガンリュウには食物なども持たせておる。そなた達では持ちきれぬほどのな」
 痛いところを突かれて龍麻は沈黙せざるを得なかった。
食料についてはほとんど帰りのことは考えていない分量しかなく、登山に手間取れば行きでさえ危ぶまれる。
ガンリュウならば容量の心配はほとんどない。
だからといって、容易には承伏できるものではない龍麻だ。
「死ぬかもしれないんだぞ!」
 龍麻が怒鳴るのは、風に負けまいとするとどうしても叫ぶしかないからだ。
しかしいくら龍麻が声を荒げたところで、雹は冷ややかな目で見据えるだけだった。
「ずいぶんと勇ましいの。じゃが、一刻を争うのではないのかえ?」
 龍麻も負けじと睨みつけ、雷光のような視線が二人の間に爆ぜる。
見かねた九角が諫めても、雷光が止むことはなかった。
「二人ともそれくらいにしておけ。緋勇、雹にもそれなりの覚悟があって同行すると決めたのだ。
意を汲んでやれ」
「……」
 鬼道衆の一員、といっても所属している期間が短いため、帰属意識はそれほど培われてはいない龍麻は、
長である九角にすら承伏しがたいといった態度をありありとみせたが、
京梧と醍醐を除く鬼道衆にまで穏やかならぬ空気が流れるのを感じて、渋々引き下がった。
「それでは改めて参るとしよう。澳継と龍麻は先頭を行け。雹は殿を頼む」
「御意」
 雹はさっさと下がり、龍麻も雹の顔を見ないまま前に出た。
他の一同もなんとなく無言のまま、行軍を再開するのだった。
 それにしても、九角がここに来るというのを尚雲が知らないはずがない。
前日から龍泉寺に居たのに、それらしきことは一言も言わず、
まんまと龍麻はしてやられたという訳だった。
先の雹との仲違いもあり、龍麻は憎悪をこめて尚雲を睨みつけたが、
食えない坊主はどこ吹く風で龍麻の眼光を受け流していた。
叫んだところで彼が動揺などしないと判っていたので、
追及を断念した龍麻は、歯ぎしりしながら歩くしかないのだった。

 人数を倍に増やした一行が富士山の麓に到着したのは、龍泉寺を出発してから三日後だった。
本来ならもう少し早く着けるのだが、悪天候のため時間がかかってしまったのだ。
それに今も吹き続けている強風は、確実に一同の体力を奪っている。
京梧や九角などはまだ余裕があるとしても、澳継や女性二人はやや辛そうにしていた。
「どうするよ、一旦休むか?」
「いや……今でも遅れが出ているからな。それに、赤い輝きが早くなっているのは、
良い兆候ではないだろう」
 九角の返答に、京梧が忌々しげに舌打ちをした。
「くそッ、一体何をしやがろうッてんだ」
「何を企んでいるにしても、絶対に防がなければならん」
「当たり前ェだろ、そんなこたァ」
 醍醐に威勢良く応じた京梧は、振り向いて別人のような声を出した。
「桔梗と雹は大丈夫かよ」
 先日まで敵であったはずの相手にも女だと甘くなる京梧に、全員それぞれ思うところが顔に出たが、
ガンリュウの光源からは外れていたので誰も見えなかった。
「あァ、あたしは平気さ」
「妾もじゃ」
 雹の答えは短く、疲れているのかどうかは判断できない。
龍麻も口を挟まなかったので、期限が迫っていることもあり、このまま登山を始めることに決まった。
「よし……では、行こう」
 九角が宣告し、一行は魔の山と変じた霊峰に足を踏み入れた。
 一九九八年時点では五合目まで自動車やバスで登れることもあり、
年間十万人以上が訪れる観光地である富士山であるが、富士登山自体は江戸時代にも盛んであった。
富士講と呼ばれる民間の結社に加入した人々が資金を積み立てて登る仕組みがあり、
特に江戸を中心に非常に人気を集めていたのだ。
ただし、それは御師と呼ばれる指導者の引率によって行われるものであり、
当然季節や装備には充分な配慮がなされていた。
 しかし、龍麻達は天変地異によって昼か夜かもわからない暗闇の中、酷寒の冬山登山に挑まねばならない。
その無謀さは覚悟するところだったが、洗礼は一合目から容赦なく襲いかかった。
 前後左右から風が襲いかかる。
霊峰の悲鳴がごとき強さも方向も一秒ごとに変化する狂風は、
かの山を助けようとする者達さえ阻み、大地から引きはがして暗黒の彼方へ連れ去ろうとした。
ガンリュウを除いて一同の中で最も大柄な醍醐でさえ再三あらぬ方へ飛ばされそうになり、
最も小柄な澳継などはあわや転げ落ちそうになって、龍麻に腕を捕まれてかろうじて助かる始末だ。
「す、すまねえ」
「気にすんな」
 助けた方も助けられた方も相手に友情など抱いてはいなかったが、
この時ばかりは励ましあって気力を奮いたたせた。
他の者達もお互い、かつて敵同士であったことも忘れて支えあい、果てなき闇を往く。
 その中にあって雹だけは、誰の助けも得ることができない。
ガンリュウの腕の中では吹きつける風をしのぐことはできず、
寒さに打ち震えながら彼女の半身であるからくり人形を操る糸を、ほとんど指先だけで手繰っていた。
 澳継を助ける際に後ろを見た龍麻には、雹の窮状が見て取れたが、どうすることもできない。
わずかな集中力の乱れで身体のバランスが崩れ、あらぬ方へ倒れそうになるのだ。
それに後続もほとんど前を歩く者の気配だけを辿っているから、
先頭の龍麻が道を逸れれば収拾がつかなくなってしまうかもしれない。
彼女を救う唯一の方策は一刻も早く休める場所を見つけることで、
それも小石でさえ踏んでバランスを崩せば致命になりかねない状況では叶わず、
焦りを押し殺して半歩の歩みをひたすらに続けるしかなかった。



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