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 五合目にある浅間神社に到着したのは、半日近くが過ぎた頃だった。
半日、といっても陽が昇りも沈みもしない現状で時間を知る術などない。
腹の減り具合も麻痺しており、当てずっぽうに近い推測でしかなかった。
平時の倍以上時間がかかっているが、これも、まだ五合目まではほとんど雪の影響を受けなかったからで、
もしも風に加えて雪まで吹きつけていたら、ここまで辿りつけたかどうかも怪しかっただろう。
 無人の神社に一行は気力を振り絞って転がりこんだ。
戸を閉めても雪女の絶叫めいた風鳴が耳にこびりついていて、しばらくは立ちあがる気力もない。
おおよそ十五分ほども過ぎてから、ようやくのろのろと立ちあがり、奥へと進んだ。
 龍麻が手拭いを配る。
この程度では暖を取ることなどできず、湿った身体を拭うだけではあったが、
顔と髪を拭いて、なんとか人心地をつくことができた。
「ふゥ、酷ェ風だったなまったく。ひとっ風呂浴びてェとこだが、そういうわけにもいかねェか」
 京梧の感想は龍麻も同感だったが、軽口に応じるだけの気力は未だ回復していない。
風呂どころかこの場で眠ってしまいたいくらいだった。
「風呂とはいかぬが、身体を温めるものがあるぞ」
 京梧に応じたのは九角で、自ら立ちあがって外に置いたガンリュウのところへ行った。
ほどなくして戻ってきた彼の手には、酒の壺がある。
「おッ、気が利くじゃねェか」
 京梧に盃を持たせた九角は酒を注いでやる。
それを一息に呑みほした京梧は、当然のように二杯目を差しだした。
「まあ待て。他の者が先だ」
 主君よりも先に一杯開けてしまった京梧から、桔梗が睨みつけながら盃をひったくり、
九角に渡して酒を継ぐ。
京梧同様に一息に呑んだ九角は、次に盃を澳継に回し、澳継は龍麻に、龍麻は雹に回した。
 一行の中でも特に衰弱が激しい雹は、手ずから呑むこともできない様子で、龍麻が呑ませてやる。
アルコールを摂取したことでとにかくも落ちついたようで、
彼女の頬に朱が差すのを見てから龍麻は次に盃を回した。
 龍麻から盃を受け取った尚雲は、平然と飲みほし、醍醐に渡した。
仮にも僧である醍醐は、不飲酒戒を破ることにためらいがあったようだが、
同じ僧である尚雲が先に呑んだのと、この極限状況にあっては使命の達成を
最優先とすべきと判断したのか、大きく盃を傾けた。
「なんだ、呑けるんじゃねェか」
「何を言っているのか解らないな、俺と雄慶殿は般若湯を頂いただけだ」
 坊主が酒を呑む際の隠語として、般若湯は広く知れ渡っている。
京梧も知っていたが、混ぜっ返す気にはなれなかったようだ。
「まァいいさ。今は何よりこの山を登りきらねェとな」
「そういうことだ。今日はここで休んで、また明日から登るとしよう」
 今が何時なのか、何日なのか全く判らないが、九角の提案に反対する者はいなかった。
危急のときとはいえ、一晩休んで体力を回復しなければ、とても登山の再開などできない。
 龍麻がガンリュウから握り飯を取ってきて、皆に配る。
保存食として干し飯は一般的ではあっても、決して美味しくはない。
しかし京梧や澳継はもちろん、桔梗や醍醐までも餓鬼のように飯を囓り、足りない水分を酒で補った。
物も言わず食べ続け、たいらげれば今度は眠くなる。
握り飯の半分ほどを食べた雹はすぐに眠りに落ちてしまい、澳継が続いた。
龍麻もほとんど眠りかけていたが、京梧の質問に弾かれたように頭を起こした。
「それにしてもよ、どうして鬼道衆の大将自ら出てきたんだ」
 声は鋭さを欠いてはいたが、質問そのものが際どい。
龍麻と醍醐、それに桔梗は期せずして視線を交わしあった。
ここで龍閃組と鬼道衆が諍いを起こしても、何のためにもならない。
満腹感が言わせたのかもしれないが、余計なことを訊いてくれたと各々の目が語っていた。
「貴様は緋勇の話を聞いたことがあるか?」
「あン? 話って何の話だよ」
「緋勇が遙か後の世から来たと言う話だ」
「あァ、それならあるぜ」
「緋勇の時代には江戸幕府もなく、皆が平等に生きているという」
「……! おいそりゃ本当か、緋勇」
 京梧の鋭い眼光に、龍麻はたじろいだ。
龍閃組に江戸幕府がなくなることを語らなかったのは、彼らが将軍を敬っていると感じたからだ。
彼らと話をした時は知らなかったものの、龍閃組は将軍家茂が許可を出して結成された組織なのだから、
彼らに幕府がなくなるなどと話せば穏便にすむはずがなく、龍麻の判断は正しかったといえる。
しかし、ここに来て、しかも江戸幕府に敵対する側の人間に暴露されたことで、
気まずい立場に置かれたのも事実だった。
「ああ、まあ」
「そんな大事なこと何で黙ってやがった」
「言えるわけないだろ、江戸時代に来て幕府はもうじきなくなりますなんて」
「手前ェ、鬼道衆と戦ってるって言ってたな。てことは、鬼道衆が幕府を倒すってんじゃねェだろうな」
 京梧の論理は飛躍しているようにも聞こえるが、今の状況を考えれば無理もない。
この登山行で鬼道衆が勝利し、幕府を壊滅させる可能性もあるのだ。
「そうじゃない。江戸幕府は幕府自らが朝廷にまつりごとを返上するんだ」
 世に言う大政奉還は、あと一年足らずで起こる。
以後、日本は激動の時代に突入するのだ。
「手前ェが嘘を並べてねェってどうして言える?」
 京梧は置いていた刀を手にし、片膝を立てていた。
いつでも斬りかかれる体勢は、ただの威嚇ではないだろう。
俄に生じた外にも劣らない暗黒の雰囲気に、腕を組んだ醍醐が諭した。
「待て、京梧。緋勇が摩尼に氣を注いで結界を作り、江戸を護ってくれたのを忘れたのか」
「忘れちゃいねェさ。けどよ、あれも俺達を信用させるための策だったのかもしれねェ」
「馬鹿な、緋勇は俺達をかばって死にかけたんだぞ」
 声を荒げる醍醐にも、京梧は石のごとく固まったまま応じない。
そんな京梧を龍麻は正面から見つめた。
あれほど戸を打ちつけていた風が、いつしか聞こえなくなっている。
か細いろうそくの灯りの向こうに浮かぶ、修羅の面相をした男に、龍麻は語った。
「……俺の時代の鬼道衆は、俺の知り合いを殺した」
 江戸時代と現代とでは、死に対する価値が異なるかもしれない。
それでも、咎なくして近しい人を殺される怒りは、どの時代、どの世界に生きようと共通のはずだった。
「それに雹だって、本当は安らかに眠っているはずなのに、外法で蘇らされたんだ」
 外法によって仮初めの命を得た雹は、彼女を蘇らせた現代の九角にも恩義があると言った。
だが戦うためだけに蘇らされ、捨て石となる宿命を負った彼女を復活させた九角を、龍麻はどうしても許せない。
「九角や桔梗さんには本当に世話になったし、どれだけ感謝してもしたりないくらいだ。
でも、俺の時代の鬼道衆は倒さないと、もっと悲しむ人が生まれる」
「それならよ、ここで鬼道衆を潰しちまえばいいんじゃねェのか?」
 痛いところを突かれて言葉を失った龍麻は、京梧から九角へと視線を移した。
 鬼道衆の頭領は、ろうそくの灯りの届かない暗がりから、京梧と同じ面相で龍麻を見ていた。
「……それは、できない。俺は龍閃組と同じくらい鬼道衆に世話になっているし、それに」
 龍麻は別の暗がりで寝息を立てている雹を見た。
彼女を護るためになら、龍閃組も鬼道衆も幕府も関係なく戦う。
龍麻は京梧や九角に劣らぬ気迫を瞳に漲らせ、両者を交互に見た。
「結局、手前ェ等を信用する根拠は何一つねェってことか」
 京梧が刀の鍔を鳴らす。
すると、それまで黙していた九角が口を開いた。
「言いたいことを言ってくれたが、俺とて貴様等は信用しておらん」
「……なんだと?」
 たちまち触発された京梧が束に手をかける。
京梧が刀を抜けば一刀の下に斬られる位置にいながら、九角は動かなかった。
京梧に目を据えたまま、低い声で指摘する。
「貴様等の下にいる間に、緋勇は何度か倒れたそうだな。
それに、小岩での戦いでも緋勇は貴様等を庇って瀕死の怪我を負ったと聞く」
「くッ……」
 今度は京梧が痛いところを突かれて沈黙した。
 龍麻からすれば自分の能力不足ゆえに倒れただけだと思っていたのだが、
意外にもこの短気な剣士は自分にも責任があると考えていたらしい。
「江戸の町や幕府がどうなろうと構わぬが、貴様等に任せておいて緋勇が死にでもしたら困るのでな」
 冷え切っているはずの部屋の一区画に湯気が立ちのぼる。
湯煙の向こうで今にも白刃が煌めくのではないかと龍麻は気が気ではなかったが、
どうやら京梧は自制してくれたようだった。
「上等じゃねェか。そこまで啖呵を切ったんだ、下手打ちやがったら末代まで笑い物にしてやるぜ」
「いいだろう」
 威嚇の笑みを最後に、矛を収めた二人に、誰よりも龍麻が安堵した。
ところが、その拍子についた吐息がいささか大きかったらしく、皆が一斉に見た。
「おい緋勇」
「な、なんだよ」
「だいたい手前ェが原因だって判ってんのかこの唐変木ッ!」
「い、いや、それは」
 助けを求めて九角を見たが、九角も意地の悪い笑みで応じるだけだった。
「確かに、お前が何度も倒れたりしなければ、俺が来る必要もなかったのだがな」
「う……」
 二本の矛先を喉元に突きつけられて、龍麻は絶句する。
飛び火してきた対岸の火事に慌てふためく龍麻を救ってくれたのは、
途中から呆れた顔で男達のやり取りを聞いていた桔梗だった。
「さあさ、明日も早いんだからその辺にして寝ちまいな」
 桔梗の仲裁は全員を救った。
む、と唸った京梧は頭を掻くとその場で仰向けになって寝てしまい、九角と醍醐も倣って横になる。
我関せずといった風に座っていた尚雲も、九角が寝たと見るや眠りはじめ、
後に残されたのは龍麻と桔梗だった。
「助かりました」
「雹を護りたいって言うんなら、もう少ししゃっきりしないと駄目だよ」
 恐れ入った龍麻はひたすら頭を下げる。
「さァ、ガンリュウに持ってこさせた布団があるからそいつを皆にかけてやるんだよ。
そしたらあんたもさっさと寝ちまいな」
 素早く立ちあがった龍麻は、極寒の外に出るのもなんのその、
桔梗に言われたとおりに布団を取りに行き、かいがいしくも皆にかけて回ったのだった。

 一晩を過ごした神社内は、風をしのげて助かったのだが、正直に言ってそれだけだった。
山風に叩き続けられた四方の壁はがたがたと鳴り止むことがなかったし、
戸板に阻まれてなお死神の息吹のように隙間から入ってくる風は、身を縮こめねば眠れないほど寒かったのだ。
「痛ててて……畜生、布団が恋しいぜ」
 関節を鳴らしながら京梧がぼやく。
他の面々もぼやかないだけで京梧と大差なく、
肩の辺りにずっしりと残る疲労に辟易した様子で頭を振ったり伸びをしていた。
「これより先は、休まずに登らねばならないだろう」
「あァ、そうだな。こんな風に休める場所はねェだろうしな」
 飯を頬張りながら九角と京梧が話す。
昨夜の騒動などなかったようなのは喜ばしいが、仲違いなどしている場合ではないほど、
これから先は険しい登山行が待ち構えているのだ。
「登れなくなった者を助ける余裕はない。自力でここまで戻ってくれば、帰りには寄れるだろう」
 辿りつけなければこの寒さで助かる道理はない。
覚悟の上で来たとはいえ、全員が改めて緊張した面持ちで九角に頷いた。
「よし……それじゃ、行くか」
 京梧が立ちあがり、尚雲が続く。
他の者も続々と立ち、富士山頂を目指して出発した。
 風の激しさは昨日、といっても何時間眠ったのかも不明ではあるが、
神社で寝む前に較べればいくらかは和らいでいるようだった。
ただし高いところまで来たせいか、寒さは増したように感じられ、
出発したばかりだというのに体力が奪われていく。
 それでも、もう引き返すことはできない。
ここで戻れば助かるかもしれないが、このまま陽が射さねばいずれ寒さは麓に、
さらには日本全土に到達し、多くの人々が倒れるだろう。
江戸を護るという使命を負った龍閃組と、真意は未だ不明ながら今は龍閃組と共に往く
鬼道衆との混成軍の中に、戻ろうと考える者は誰もいなかった。
 道は複数名が並んで歩ける幅ではなくなっていて、澳継を二番手に配し、龍麻が集団の先頭を歩いていた。
先頭と二番手では疲労度が段違いで、どちらかが前に出るなら龍麻しかなかったのだ。
 最後方からの光は、龍麻の処までかろうじて届いている。
実のところ、風の強さに大きく目を開けていられず、何度となく足を滑らせてはいるが、
それでもほんのわずかでも先を照らしてくれるのは、何よりも失いがちな気力を大いに助けてくれた。
特に龍麻にとっては、その光がある限り、発光源であるガンリュウと、
その腕に乗る雹の無事が間接的ながら確認できるので、
時折は顔を上げて数歩先を照らす光を確かめ、安心しながら登山を続けられた。
とは言ってもやはり心配で、数分に一度は彼女の顔を見たくなり、数十分に一度は側に行きたくなる。
自制はするが、疲労が溜まってくると挫けそうになって、
そんなとき龍麻は頬を叩いたり唇を噛んだりして耐えた。
寒さに固まった皮膚は、かなり思いきり叩かないと痛みを伝えない。
それも痛くなったのは初めのうちだけで、次第に寒さの方が上回り、
頬を張ったくらいでは朦朧とした意識を取り戻せなくなっていた。
そして、その頃にはもう雹への想いもない。
一面が暗黒の世界で、襲いくる寒さと風に気力を奪われると、
自分がどこにいて何をしているのかさえ思いだせなくなる時がある。
雹に対してさえその有様だから、京梧や九角を気遣う余裕などまるでなく、
そしてそれは、彼らにしても同じだった。
 四方から荒れ狂う風に悪態をつくのはとうに諦めた京梧は、苛立ちをたゆたわせたまま登っていた。
苛立っているだけ龍麻よりましかもしれないが、ぶつける相手がいない以上、
どんどん溜まっていくことになる。
こんな調子が続けば何かの拍子に誰彼構わず爆発するかもしれなかった。
 九角は桔梗が見える位置を確保しているが、彼女に手をさしのべるだけの余裕はない。
連れてきたことを後悔しながら、足を動かし続けるしかなかった。
 神社を出発して何時間かが過ぎた頃、先頭の龍麻の足が止まった。
必然的に全員の行軍も止まる。
止まったといってもこの風では休憩もままならず、身体が冷えて消耗するばかりだ。
頂上に到達したわけでもないのになぜ止まったのか、後ろの京梧や九角が声をかけようとする。
だが、龍麻が見ている方向に視線を移動させた結果、止まった理由を否応なしに知ることになった。
 黒い世界に浮かびあがる、一面の鈍色。
前方の視界は、いつのまにか塗りかえられていた。
「雪……か……」
 京梧が呟く。
 富士山頂の雪は、例年なら五月頃が最も多くなり、十二月頃はまだ少ない。
異常気象だから当てはまらないとしても、当然予想はしていて、
むしろこの高さまで雪がなかったのは幸運と言えただろう。
しかし、それもここまでで、ここから先は一層寒くなり、歩くのも困難を極める。
龍麻は念のために振り返ってみたが、戻ると言い出す者は誰もおらず、それどころか、
「何びびッてやがる、雪ぐらい何だってんだ。さっさと行こうぜ」
 澳継に発破をかけられて柄にもなく奮起してしまうのだった。
 改めて行軍を開始する。
澳継の言葉通り、雪などものともせずに登ろうという龍麻達の決意は、
四半刻もしないうちに挫けかけていた。
それほど深く積もっていないように見えた雪は、足首まで埋まるだけでも充分な脅威となる。
頭で理解していても、実際に歩いてみるとその負荷は想像以上だった。
スキーの経験も一、二回しかない龍麻は、雪の中に足を踏みしめる加減に慣れない。
あまり勢いをつけると足を取られやすくなり、かといって弱ければ埋まった足が抜けない。
もともと強風のため歩幅は小さくなりがちだったが、速度はさらに低下を余儀なくされた。
そうなると気になるのは最後尾にいる雹だが、首を回すだけでも重労働になるうえ、
声を出したところで聞こえるとも思えない。
せめて想いだけは途切れることのないよう、念じながら登るしかなかった。
 だが、この世の果てのような暗鬱たる光景は、いつしか心の中にまで巣くっていた。
瞼を半ば閉じ、死神の口笛のような風の音と、自分の荒い息遣いだけを聞きながら足を動かし続けていると、
自分が生きているのか死んでいるのかも判らなくなる。
摩滅した意識が戻るのは、皮肉にも富士の山が赤く光ったときで、
今や薄暗い赤色に染まっている時間の方が長い光が消え、再び点灯したときに龍麻は、
自分がどこにいるのか思いだし、わずかながら気力を回復して再び歩を進めるのだった。
 風の音が増し、雪が渦を巻く。
ほとんど真横から吹きつける雪は皮膚を叩き、呼吸をも妨げ、龍麻達の登山を阻んだ。
 無窮の闇のただなかを歩く龍麻は、顔に当たる半ば凍った雪塊を避けようと、傘を下ろして歩いた。
視界はなくなるが、元々ないようなものだから構わない。
飛ばされそうになる傘をしっかり掴んで、永遠に続くかと思われる道を一歩、また一歩と進んだ。
 異変に気づいたのは、いつだっただろうか。
数分か、それとも数十分か、気がついてみれば仲間の姿がなかった。
慌てて周りを見渡してみる。
人影はなく、ただ黒と灰色だけが世界を二分していた。
「……!」
 叫ぼうとしたが頬がかじかんで動かない。
心臓を悪魔に握られたような恐怖を覚え、龍麻は来た道を戻った。
疲労も一時的に忘れ、苦労して登ってきた山を下りていく。
 だが、後ろにすでに道はない。
あらゆるものを呑みこんだ雪は、暗黒と協調して世界から生命の痕跡を消し去っていた。
一人取り残された恐慌に、龍麻はよろめき、倒れる。
肘まで埋まった雪を、かき分ける気力も湧かず、その場に伏した。
他のものと同じく存在を消し去ろうとする空よりの使者に、
寒ささえ感じなくなって、まぶたを閉じる。
心地よい死の眠りというには、吹き荒れる風が聴覚を騒がせ続けたが、もう関心はなく、
あと数十秒か、あるいは数秒か、訪れる永遠を待ち受けた。
 吹雪く風と対照的に勢いを弱めていく龍麻の鼓動が、止まろうとしたその時。
悪戯というには激しい風が、積もった雪を巻きあげ、その上に乗る龍麻の肉体を動かした。
距離にすれば数センチにも満たない、龍麻当人さえ動いたと気づかなかったほどの微量の移動だった。
わずかに動いた腕の、さらにわずかに動いた指先に、硬いものが触れた。
全く何かもわからない、その感触が電撃となって龍麻の記憶を走る。
一瞬の半分にも満たない間に魂が肉体を支配し、龍麻は立ちあがった。



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