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「雹ッ!!」
 おそらくこの風では聞こえていないだろう。
それでも構わず龍麻は、内なる声を外へとほとばしらせた。
さっきは気づかなかった、目の前に立つ白壁を手でかき分ける。
雪に埋もれたガンリュウの巨体同様、彼の腕の中にいる雹も、繭に包まれているかのように真っ白だった。
ガンリュウの腕から雹を抱きあげる。
さっきまでの倦怠は嘘のように消え失せ、体内から燃える熱が、雪すら避けて通らせた。
だがこのままでは雹と二人、野垂れ死ぬだけだ。
龍麻は四方を鋭く見渡した。
吹雪は変わらず吹き荒れ、視界のほとんどが奪われている。
 苛立ち、歯ぎしりする龍麻の目に、一条の光が射した。
それはガンリュウの肩から放たれる、人工の輝きだった。
どうして急に光が見えたのか、考える暇はない。
光の先には暗闇と白灰が戦っている箇所があり、龍麻はそこへと向かった。
 雪を踏みしめ、その場所へと辿りついた龍麻は、そこに空洞を見つける。
僥倖という他はなく、急いで中に潜った。
 入り口から下にやや傾斜している洞穴は、二十メートルほど進んだところで緩く左に曲がっていた。
そこから五メートルほどで行き止まりになっていて、寒さを完全にしのぐというわけにはいかないものの、
吹き込む風はかなり少なくなっていた。
「雹……雹っ……!」
 積もった雪を払い落としもせず、龍麻は雹の名を叫んだ。
しかし、雹の体は冷え切っており、呼びかけにも応じる気配がない。
このままでは、死んでしまう――
焦る龍麻だが、彼女を暖める術はなかった。
何かあるはずだ、何か――
凍ったような冷たさの雹の手を握り、龍麻は必死に考える。
いっこうに暖かさを取り戻さない彼女の手に、己の不甲斐なさが滴となって落ちたとき、
ひとつの方法が閃いた。
迷っている時間はない。
雹を寝かせ、自らも横たわった龍麻は、彼女を抱きしめると、下腹に意識を集中させた。
基底ムーラダーラのチャクラが、軋みながら回りはじめた。
 生命エネルギーである氣を体内で増幅し、凝縮する鍛錬を龍麻は行ってきた。
それは氣を自在に操り、強大な敵と戦うために身につけたのだが、
その副産物として、身体が熱くなるという現象があった。
生命に関わるほど熱くなるわけではないが、多量の氣を練ったり、
長時間に渡って氣を使っていれば、意識を失うことはありうるし、
脳が熱せられれば当然集中力を欠くことになる。
修行中、龍麻は常々この現象について彼の師から忠告を受け、
氣に頼りすぎないよう、固く戒められていた。
 それらはあくまでも氣を用いる際の、どちらかといえばマイナスの効果として捉えられ、
実際に龍麻が氣を用いて戦うようになってからも、
戦闘後に残る気怠さとして悪い印象しか持っていなかった。
しかし、今それを利用すれば、雹を暖められるかもしれない。
一縷の望みを託して、龍麻は氣を練った。
息を深く吸い、体内に溜める。
冷たい空気を多量に吸うと、気道が苦しくなってむせたが、
意志の力で咳を封じこめ、再び吸った。
特別な呼吸法によって体内に蓄えられた氣を、基底から頭頂まで、人体に七つあるチャクラに徹す。
身体の上部に行くに従い、増幅されていく氣は、龍麻を昂揚させ、全身に力を漲らせた。
火照りを感じた龍麻は、雹を強く抱きしめる。
だが、外気があまりに寒いからか、それとも疲労した状態で氣がしっかり練れていないのか、
雹を暖めるだけの熱にはとても足りなかった。
 ならば、と龍麻は目を閉じ、さらに意識を集中させる。
常ならばその練られた氣は両腕、あるいは両足に宿り、敵を打ち倒す術となる。
では、外に向けて放つのではなく、内に向けて拡散すればもっと熱を生みだせるのではないか。
そう考えた龍麻は、敵に対してではなく、自分自身にぶつけるイメージで氣を解放した。
正気の沙汰ではない行動は、多大な負担を龍麻に与え、全身が裂けるような痛みに苛まれる。
しかし同時に、膨大な熱が身体から発せられるのを龍麻は感じていた。
氣を練り、己が身体の中心に向かって放ち、愚直にそれを繰り返す。
氷点下を下回る富士山頂で、龍麻のいる一角だけが常春の如き暖かさとなっていた。
 息苦しさとそれに伴う暑さに、雹は目を覚ました。
身体が熱く、動こうとして動けず、暗闇の中で何が起こったのか把握に努める。
どうやら誰かに抱かれているらしい、と気がついたのは、自分とは違う息遣いを聞いたからで、
急速に恐怖を覚えた雹は、不埒者を押しのけようと両手に力を込めた。
「痛っ……!?」
 すぐ近くで聞こえた声はやはり男のものだった。
しかし、抵抗を受けると思っていなかったのか、悲鳴はずいぶんと間が抜けていた。
さらに、その声に雹は聞き覚えがあった。
「龍麻……?」
「気がついたのか……良かった……!」
 記憶が蘇る。
なぜ登山途中に抱かれているのか、他の者はどうしたのか、
詰問しようとした雹は、あまりに弱々しい龍麻の声に、先に彼の顔に触れた。
まだ微量の熱が残っている頬は、使い古した半紙の手触りで、指先だけで判るほど疲弊していた。
「何を……したのじゃ……?」
「ちょっと……な」
 雹が回復したことで気が抜けたのか、龍麻の腕から力が弱まり、
雹は自由を取り戻すことができた。
 むろん、雹は龍麻から離れない。
体調は十全とは言い難いとしても、意識がはっきりする程度には回復しており、
それが、龍麻がなにがしかの治療を施したからなのは明白だった。
この厳寒の地で暖かさを感じたのは、龍麻以外に理由などあるはずがない。
雹は龍麻の胸を掴み、生命をなげうって自分を救った男をなじった。
「馬鹿者……無茶をしおって……!」
 それ以上は言葉にならず、龍麻の胸に顔を埋め、嗚咽する雹を、
龍麻は渾身の力で支えなければならなかった。
 風は不思議と弱まっていた。
寒さはもちろん感じるが、耳の奥にこびりつくような風音もなく、一晩を越せないほどではなさそうだ。
お互いの他に身体を暖める手段を持たない二人は、衒いもなく抱きあった。
「そなたは本当に大事ないのかえ」
「ああ」
 暗闇なのをいいことに、龍麻は大嘘をついた。
全身はかつて経験したことのない、ありとあらゆる箇所が同時に激痛を発していて、
雹と話していてさえ意識がばらばらになりそうだ。
だが、ひとたび気を失えば、雹の身体はまた冷えてしまい、二人もろとも死ぬだろう。
そうはさせまいという一念で、龍麻は耐え抜いていた。
「妾がついてきたことを、まだ怒っておるかえ」
「え? ……いや」
 その一念がいささか強く抱きしめさせていたのか、雹の質問は龍麻の意表を突いた。
束ねていた意識が解けかけ、とたんに痛みが各所を襲い、奥歯を噛んで気を確かに持った。
すると、その気配をまた誤解したのか、続いて発せられた雹の声は、細雪ささめゆきのようだった。
「嵐王殿に頼まれたというのは本当じゃ。じゃが、たとえ頼まれなんだとしても、
御屋形様が行かなんだとしても、妾はそなたについていくつもりじゃった」
「……」
 これまで、雹の心を囲む氷壁を溶かそうと努力してきた龍麻だが、
氷の下には何があるのか考えたことはなかった。
少女の心を凍りつかせた氷は厚く、容易には溶かせなかったし、
本心を言えば、少しなら冷たい方が好ましいとさえ思っていた。
 だが、彼女の心の奥には、龍麻に匹敵する感情の熱流があった。
命を賭けても男の傍にいたいと願う、焔があった。
龍麻は驚き、透ける氷の下に見える炎の美しさに見惚れた。
「そなたが倒れたと尚雲殿に聞いて、妾の心は裂けそうになった」
 龍麻の胸に、爪が立てられる。
龍麻が受けた痛みは、雹の痛みそのものに違いなかった。
「じゃが、妾は何もできぬ。看病に行くことさえ叶わぬのじゃ」
 鬼道衆と龍閃組の対立が理由ではない。
雹はガンリュウに乗ってしか移動できず、ガンリュウの巨体はどこにあっても目立つ。
からくり人形の遣い手の、最後の生き残りである雹は、未だ狙われる身でもあるのだ。
人目につくのは避けねばならなかった。
「幸いにしてそなたは回復した。じゃが、今度は富士山に赴くという。
そう聞かされたとき、妾はもう我慢がならなかったのじゃ」
 周りに止められたとはいえ、龍麻も我慢の限界だった。
だが雹は、限界に身を任せなかったのだ。
想いを向ける龍麻以上の想いを、いつのまにか胸に宿していた少女は、
九角に願い出て龍麻の許へ赴く許しを得た。
嵐王の発明が完成したという幸運もあるにせよ、
雹の侵しがたい決意が鬼道衆の長を動かしたのは間違いなかった。
「腱を切られて後、妾はひとりで死ぬつもりじゃった。御屋形様に拾われた恩義はあれど、
復讐を果たした以後は、誰とも関わりを持つつもりなどなかったのじゃ」
 病に倒れればそれも良し。
世捨て人として諦念の境地に達していた雹は、ただ同じ毎日を繰り返すだけの人形と成り果てていた。
「じゃが、そこにそなたが現れた」
 未来から雹を探しに来たと名乗る不審な男。
全く見覚えのない龍麻に、雹は関わるつもりなど毛頭なかった。
しかし、なぜか九角が気に入ったようで、龍麻は鬼哭村の一員となる。
以後は暇さえあれば雹のところに顔を出すようになり、迷惑がる雹に構わず世話を焼くようになった。
 しきりに話しかける龍麻に、次第に雹は応じるようになる。
これは決して積極的にではなく、そうしなければいつまでもつきまとうからだ。
冷たい態度で追い払った方が効率がよい。
そう考えた雹は彼の話に全く興味がない態度を見せた。
しかし、これは効を奏さなかった。
固く閉ざされていた扉が開いたとみなした龍麻は、前にも増して話しかけるようになった。
さらには村の子供達をも連れてくるようになって、雹の周りは騒がしくなり、一時は本当に辟易した。
しかし確かに龍麻には、雹の知っているどの人間とも異なる雰囲気があった。
未来から来たなどという戯言は信じなかったが、武士や農民などとは違う、
浮世離れしているような、けれども大地もしっかりと踏みしめているような不思議な物腰は、
九角でさえも持ち合わせてはいないものだと雹は感じた。
それに子供に算術や読み書きを教えられるだけの知性と、
嵐王とも毎夜語り合っているという知識。
それに加えて村のどの人間からも好かれる度量は、次第に雹をも惹きつけた。
 そうなると、今度は切られた腱が文字通りの足枷となる。
龍麻は最初から腱が切られていることを知っていたようで、それについて触れられたことはない。
けれどもガンリュウがいなければ厠にさえ立てない雹は、自分が龍麻の重荷にしかならないと知っていた。
龍麻が江戸に生きるにせよ、彼が言うとおりに未来から来た人間で、
その時代に帰るにせよ、共に歩くことはできないのだ。
 ゆえに雹は龍麻から離れようとした。
自分から離れることはできないので、彼に遠くへ去ってもらうしかない。
すげなくあしらえば、いずれ龍麻は諦めるだろうと思った。
それが浅はかであったと、ほどなく雹は思い知らされる。
江戸を護るため、などと大法螺を吹いて出かけた龍麻は、
仲間を庇うために敵の攻撃を受け、目を覚まさぬ状態に陥ったという。
尚雲からそれを聞かされた雹は、家に戻って泣き崩れた。
自分でも判らぬほどに想いがあふれ、畳を濡らす。
ただならぬ様子を心配して桔梗が来ても、泣く以外に感情を吐露する術を持たなかった。
 疲れ果てて眠り、目覚めた雹は気づく。
彼こそがであったと。
その眩しさに目を細めることがあったとしても、
彼の作りだす陽だまりは、なくてはならないものとなっていたのだと。
「妾は御屋形様に願いでた。御屋形様は渋っておられたが、桔梗殿が口添えしてくれたのじゃ」
 あたしも行くから天戒様、どうかこの子に富士山に行くお許しをお与えください――
その一言が結局、九角をも動かすこととなった。
死出に等しい旅に女二人を行かせたとあっては鬼道衆の名が廃る。
どうせ廃るならば富士の高嶺で廃るも一興。
そう言って九角は反対する側近を抑え、自らも富士登山を決めたのだった。
「御屋形様や鬼道衆に迷惑をかけるわけにはいかぬ。そう申しあげたのじゃが、
御屋形様は『緋勇は鬼道衆の今後を担う男だ。無為に死なせるわけにはいかぬ』と申されてな。
村を出る時もそなたを頼むと多くの村人に声をかけられたわ。そなたは皆に好かれておるのじゃな」
 笑いの微粒子が彼女の触れた頬から漂う。
龍麻もつられて微笑もうとすると、一転して雹が強く胸を掴んできた。
「いずれにせよ、妾はもうそなたの傍を離れぬ」
「俺も、雹を離さない」
 それこそ龍麻が望んだことだった。
百三十年分の想いを込めて、龍麻も強く雹を抱きしめた。
ようやく交わせた想いは、だが長続きしなかった。
龍麻の腕から力が急速に抜けていく。
「どうしたのじゃ、龍麻」
 龍麻に答えるだけの力はすでになかった。
雹を救うために己の生命を燃やした結果が訪れたのだ。
少しずつだが寒さを感じ始めていて、眠ればそのまま死んでしまうだろう。
結局は彼女の生を数十分伸ばしただけなのが残念で、できればもう少し彼女の傍に居たかったが、
こうやって死ねるのなら悪くはない。
龍麻はやって来た眠りの使者に、今度の眠りは永くなると告げられても取り乱したりはしなかった。
 龍麻の様子がおかしいことは、雹にもすぐに判った。
彼の温もりが去りはじめ、息遣いも浅くなっている。
このままでは龍麻は死に、自分も死ぬだろう。
だが雹はもう生きようと思っていなかった。
傍を離れない、と言ったのは嘘ではなく、彼が死ぬのなら自分が生きている意味もない。
死に場所としてこれ以上の場所は得られないのだから、あがく必要もなかった。
「よいな、龍麻。最後まで腕を離すでないぞ。絶対にじゃぞ」
 雹の声が遠くに聞こえる。
最後にもう一度腕に力を入れなおしてから、龍麻は重くなった意識が底へと沈んでいくのに任せた。

 浮かんでこないはずの意識が、瞼を開かせる。
むしろわずらわしげに目を開けた龍麻の、目の前に少女の気配があった。
真っ暗だったために状況を把握するのに時間を要したが、
意識を失う前と状況は変わっていないようで、どうやら死ななかったらしいと悟ることができた。
確かめてみると雹も眠っているようだが生きていて、龍麻は胸をなで下ろした。
 生きていたからには起きなければならない。
死んでも良いと一度は思った龍麻は、自分の使命を忘れてはいなかったが、
その前に少しだけ、彼女の唇に触れるくらいは、寄り道をしても良いのではないかと考えた。
「雹……?」
 小声で呼びかけてみたが、穏やかな寝息以外は返ってこない。
時間はそれほどないはずで、龍麻は素早く決断した。
頭の中で鳴り響く、寝込みを襲うのは卑劣ではないのかという警告を、
外の風音で聞こえないふりをして、姫を目覚めさせるためではなく、
できればこのキスで目覚めて欲しくはないという邪悪な願いを込めて、雹に顔を近づけた。
「……なんじゃ」
 唇の位置さえ寝息を頼りにしなければ判らなかったほどの暗闇で、
雹の瞼が突然開くのを龍麻は確かに見た。
寝ていたふりをしていたのではないかというほど、黒曜の瞳は硬質の輝きで不埒な男を凝視している。
思わずのけぞった龍麻の背中が、無理な姿勢に酷い音を立てて鳴った。
「い、いや、何っていうこともないんだけどさ、どうやら無事みたいだな、俺達」
「……そうじゃな」
 雹はあからさまに疑っている様子だったが、そんな態度がかえって彼女らしく、龍麻は嬉しくなった。
 とにかく無事なのを確かめた二人は、このまま山頂まで行くことにした。
ここで逃げて帰っても太陽が昇らなければどのみち死んでしまうことに変わりはないだろうし、
雹は昨夜の告白が嘘ではないと、片時も離れようとはしなかった。
「ほれ、早うせぬか」
 ガンリュウを置いてきたので、雹は龍麻が背負うことになる。
それは構わないのだが、これから死地に赴くという際に、
時の大河を超えて会いに来た少女と密着しながらというのは、
健全な十八歳の男子にとって、なかなか忍耐力を試されるのだ。
「どうしたのじゃ」
「……いや、行こう」
 首筋にかかる息としっかり回された腕に幸福を覚えているのは顔に出さず、
龍麻は洞穴の出口へと向かった。



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