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 全ての感覚が失せていた。
正確には、失せていたかどうかもはっきりしない。
約束を違えてあっさりと死んだ男の胸で共に死ぬと定めてから、雹の世界は終わりを告げていた。
岩に押しつぶされようと、大地の割れ目に呑みこまれようと、どうでもいいことだった。
むしろ生と死に分かたれた龍麻に一刻も早く逢いたいと、その刻が訪れるのを望んだ。
 轟音が、降ってくる。
龍麻の身体を強く掴み、雹は目を閉じた。
 鳴動が聞こえる。
地面の揺れとは違う、規則正しい、太鼓にも似た音。
懐かしさをも感じる音を、むしろ安眠を妨げられてわずらわしく思いながら、龍麻は目を開けた。
 空は暗く、どこまでも広がっている。
正確には空かどうかも判らない。
仰向けに寝ているのだから、上を見ているのだろうというおおざっぱな予測だ。
しかし、星も月も出ておらず、屋内なのか屋外なのか、それすらもはっきりしなかった。
 そして、もうひとつ気づいたことがあった。
龍麻の胸に頭を預けて眠る女性がいる。
眠るというより気を失ってそのまま寝入ったように見えるのは、姿勢が不自然だからだ。
しばらくの間龍麻は混乱していたが、やがて、女性が誰なのか思い至った。
「雹……?」
 呼びかけると雹は顔を上げた。
暗くてよく見えないが、泣いていた気配が彼女の顔の周りに薄いもやとなって漂っている。
「一体何がどうなって……待てよ」
 記憶をたどると一つの光景が鮮明に蘇った。
記憶の最後にある激しい痛みまで思いだして、龍麻は渋面を作った。
「そうだ、雹を庇って岩に当たって……雹は無事だったのか?」
「大事ない。じゃが、その後にもう一つ岩が来たのじゃ」
「そっか。……その割に、どこも痛くないんだけど……もしかして二人とも死んじまったのか?」
「そうかも知れぬな」
 真顔で答える雹に、龍麻は自分の口にしたのが冗談なのかどうなのかわからなくなった。
辺りは闇深く、二人以外の気配はない。
ここが地獄だと言われれば、納得するような雰囲気に満ちているのだ。
あれほど龍麻達を悩ませた風雪すらなく、一切が無音の世界は、居心地の良いものではない。
心細くなった龍麻は、雹の腰に手を回した。
「……なんじゃ」
「……いや」
 雹もさほど嫌がっているようにみえないのは、やはり心細いからだろうか。
抱きよせたい、と思った龍麻だったが、さすがに考えなおして身体を起こした。
「……なんじゃ」
「……ん?」
「なんでもないわ、早う起きぬか」
 なぜ急に怒りだしたのか、訳がわからないまま龍麻は言うとおりにした。
あぐらを掻いて頭を掻きながら、周りを見渡す。
激しい戦いの痕跡も、共に戦った仲間の姿もやはりなく、本当に地獄に来てしまったのかと思いはじめた。
「とにかく、ここでこうしててもしょうがないから行こう」
「そうじゃな」
 地獄だとしても鬼の一匹や二匹は居るだろう。
そこで処遇が気に入らなければ鬼をぶちのめすも良し、雹と二人で安住の地を探すも良し。
とにかく、一人でなければどうとでもなると、百三十年の時を渡航した経験者は、
ひどく楽観的に今後の方針を定めた。
 雹を背負い、歩きはじめる。
どうやら今居る場所も山のようで、同じ地獄でもどうせなら平地に飛ばしてくれれば良かったと
罰当たりなことを考えた龍麻は、雹と離ればなれにされる可能性もあったと思い至り、
慌てて地獄の……閻魔大王だろうか? 支配者に感謝した。
 どうやらその必要もなかった、と気づいたのは、三十分ほど下った辺りだろうか。
背中の雹は眠っているようで、規則正しい寝息が聞こえている。
一人で山道を行く辛さを、嘆くどころか発奮して歩く龍麻は、前方に何かを見つけて立ち止まった。
辺りは暗く、動いているものも見あたらないのに、自分はなぜ立ち止まったのだろうか。
弾む息を整えながら目を凝らしてみると、龍麻は勘の正体を知った。
 斜面から張りだした部分がある。
だが、龍麻の目を惹いたのは、張りだした部分ではなく、その下にあるものだった。
「あれは……」
 そこには小さな穴があり、穴の前には、入り口を塞ぐように立っている人影があった。
逸る心のままに、龍麻は駆ける。
大きく揺れたため雹が目を覚ましたが、彼女にも関係あることなので、構わず走った。
「どうしたというのじゃ」
 まだ少し眠っているような雹の声だったが、龍麻が見つけたものの正体に気づくと
龍麻の背中から身を乗り出した。
「ガンリュウ……なのかえ?」
 雹の声は震えていた。
黙って頷いた龍麻も、喋っていたら同じように震えていたに違いない。
彼らの前には、昨夜身を挺して二人を寒さから護ってくれた、からくり人形が立っていた。
龍麻たちが近づくと、戻ってきた主を歓迎するかのように彼の頭が垂れた。
「ああ……」
 雹が手を伸ばす。
彼女を背負う龍麻は触れなかったが、同士めいた連帯感に胸を熱くさせて、巨大な人形を眺めた。
「……?」
 だが、眺めているうちに、違和感を覚える。
雹も同じらしく、訝しげに呟いた。
「妙じゃな……一晩でこれほどに朽ちるはずがない」
 江戸時代の人形であるガンリュウに釘は使われておらず、全て木製だ。
厳選された材料で作られているとはいっても、湿気や水分は大敵で、
雪の中に置いてきたのだから、痛んでしまうのは避けられないだろう。
それにしても、ガンリュウの朽ち方は昨日今日に打ち捨てられたものではなかった。
十年、あるいは五十年以上の時を経たような朽ち方で、あちらこちらに虫食いができ、
木そのものもうかつに触れば崩れてしまいそうだ。
「直すのがちょっと大変そうだな」
「うむ……そうじゃな」
 龍麻はあえて最悪の可能性に言及しなかった。
雹もそれを察したのか、ガンリュウに触れるのをやめ、
龍麻の首に回した腕には、明確な意志がこめられていた。
「いずれまた来るとしよう」
「ああ」
 何年かかろうとも、必ず直す。
無言のうちに二人は、そう誓いあった。
 ガンリュウの存在はもう一つ、重要な事実を二人に告げていた。
 ここは地獄などではなく、同じ富士山であるということだ。
剛胆にもほとんど寝ていた雹は夢と現を行ったり来たりしていたようで、
苦楽を共にした相棒を発見しても、ここが現世だと俄には信じられなかったようだが、
ずっと雹を背負っていた龍麻は、魂だけが行くであろう地獄でも、
体重やら息遣いやらは感じるのだろうかと不思議に思っていた。
それでも確信に至らなかったのは、ここが富士山であるのなら、
戦いの痕跡や仲間の姿が全くなかったことと、あれほど苦しめられた風雪がどこにもなかったからだ。
「どうなっておるのじゃ」
「さっぱりわからない」
 空は暗いままで、柳生宗崇の野望を防げたのかどうかもわからない。
だが仲間達の姿もなく、ここにいても、もう意味がないだろうから、ひとまず鬼哭村に戻ることにした。
「皆、無事だよな」
「そうじゃな。おそらくは無事じゃろう」
 龍麻にも雹にもあまり仲間を案じているようすはない。
一つには一番酷い目に遭った自分たちが無事だったのだから、当然彼らも無事だという思いがあり、
もう一つ、今は他のことは考えず、お互いのことだけを考えていたかった。
「でも、良かったよ」
「何がじゃ」
「もし、あれで死んでて……死んだ後の世界があるのかなんて知らないけどさ、
死んでても死んでなくても、俺だけが生きてるのは絶対に嫌だったから」
「勝手な考えじゃな。どうして妾が一人生き残るのも絶対に嫌だと考えぬ?」
「それは……そうだけど」
 同じ女性を二度も喪うのとは訳が違う。
龍麻はそう思ったけれども口には出さなかった。
雹もそれ以上追及はせず、なんとなく無言のまま山を下る。
登りに較べれば遙かに楽な下りは、他のことを考える余地を二人に与えた。
「なあ」
「なんじゃ」
「今でも俺は未来に帰った方がいいと思ってるか?」
 それはかつて、雹が己の心を従えきれずに口にした台詞だった。
募っていく龍麻への想いが、孤独に死のうとしていた心と相反して、
どちらを選べばよいのか決められないでいるうちに、打ちだしてしまった冷たい塊。
今ではもう、雹は一方を選んでいたが、分かれ道まで戻るのは容易ではなかった。
「そなたの好きにするが良かろう」
 一度は共に死を選ぼうとしたにしては冷たい物言いに聞こえたが、龍麻は頬だけで笑った。
「それじゃ、好きにするよ」
 ふん、と雹は鼻を鳴らす。
 龍麻が首筋のくすぐったさをごまかそうと、雹を背負いなおしたとき、遠方から静寂を破る声がした。
「おーい、あんた達! そこは立ち入り禁止区域だぞ!」
 呼びかけが自分たちに対して行われていると気づくまで、しばらくの間があった。
それほど声は唐突で、予想外だったのだ。
 すみません、すぐ出ます。
そう応じかけて龍麻は愕然とした。
自分たちが登った富士山は辺り一面雪景色で、人どころか一切の生物など見あたらなかった。
それに男の言葉遣いは慣れ親しみつつあった江戸の人々のものとは明らかに異なっている。
「あんた達だよ! 聞こえてるのか!」
 声になじる調子が強くなる。
これ以上怒らせまいと、龍麻はとにかく男の方に近づいた。
「すみません」
「そっちは落石が多いからね、立ち入り禁止には理由があるんだよ。
混んでるからって安易に入っちゃ駄目だよ」
 男は五十代といったところだろうか、登山靴にリュックにベストに
ヘッドライトと登山用の装備に身を固めていた。
龍麻達に忠告したのも、規則を守らせるというより本当に危ないからだという感じが伝わってくる。
彼に頭を下げながら、龍麻はごく基本的な質問をした。
「えっと……今何時かわかりますか?」
「四時半ってところだな。もうじきご来光だよ」
 腕時計を覗きこんだ男は、そこで龍麻達の奇異さに気づいたようだった。
「あんた達……テレビの撮影かなんかかい?」
 龍麻も雹も登山装備らしきものは何一つ身につけていない。
それどころか二人とも着物であり、しかもずいぶんと着古した、というか馴染んだ感がある。
彼が疑ったのも当然だった。
「え、ええ、まあそんなところです」
「いくら夏だって言ってもさ、そんな服装じゃ駄目だよ。ここまで良く怪我しないで登ってきたもんだ」
 言っているうちに男の顔が険しくなってくる。
山を愛するがゆえに、軽々しく山に入って怪我をするような輩が許せないのだろう。
「は、はい、本当にすみませんでした。すぐ下山しますから」
「あ、ちょっと待った! そんなに急いだら危ないって!」
 もう一度頭を下げた龍麻は猛然と下りはじめた。
半分は男から逃げるためで、半分は勝手に足が動いたからだ。
男と話しているうちに湧いたある確信は、前にではなく上に龍麻を動かそうとしたので、
必死に制御してベクトルを変えたのだ。
 背後から男が叫んでいたが、それもやがて聞こえなくなる。
そこまで走ってからようやく、龍麻はペースを落とした。
「何だったのじゃ、いったい」
 訳がわからない、といった風に雹が呟く。
 龍麻は答えなかった。
これからどうすれば良いか、龍麻にも解らなかったからだ。
解っているのは、たったひとつだけ。
着物を着て雹を背負ったまま、富士山頂から一九九八年の東京に帰らねばならないということだった。
調子に乗って月代まで剃らなくて良かった、と心から安堵しながら、
龍麻は富士山を駆け下りていく。
その半身を、昇りはじめた太陽の光が金色に染めあげていた。



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