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 京梧の傍らで膝をついていた龍麻が、おもむろに立ちあがった。
ゆっくり立ったにもかかわらず、よろめいたのは地面が揺れているからではない。
激闘のダメージがまだ回復していないのだ。
ふらつく足で龍麻は頂上へと歩きだした。
「おい、どこへ行くんだよ」
「俺が止めてくる」
「止めるってどうやってだよ」
 龍麻が乱心したのかと思い、京梧は慌てて龍麻の前に回りこんだ。
「なんとなく、できそうな気がするんだ」
「何言ってんだ、なんとなくで鎮められるわけねェだろッ!」
 京梧は怒鳴るが龍麻は聞く耳を持たない。
不規則な呼吸を繰り返し、揺れる地面に足を取られながら、気が狂ったとしか見えない登山行を続けた。
「馬鹿野郎ッ、まだ噴火するって決まったわけでもねェんだ、ここは一旦退けッ」
 龍麻の肩を掴んで京梧は止めようとする。
だが、半死人とは思えない力で押しのけられてしまった。
「皆はここで待っててくれ」
「お、おい……」
 迫力に圧され、京梧は道を譲ってしまう。
他の一行も声も出さずに龍麻を見守るほかなかった。
「若……鎮める方法などあると思いますか」
「わからぬ」
 短く応じた九角は、龍麻の背を見送る。
訊ねた尚雲も九角に倣い、富士の山頂に目を凝らした。
 火口を見下ろせる位置に立った龍麻は、腹の前で手を組んだ。
深く息を吸い、吐き、さらに深く吸う。
少しずつ呼吸の量を増大させるのは、氣を練るためではなく、空にするためだ。
どうすれば氣を御せるのか、そもそも本当にそんなことができるのか、確信はないが、
立っていられる最小限の力を残して龍麻は目を閉じた。
思考を保たず、自我を空にし、辺りに満ちる氣に己を同調させる。
 龍麻が行ったのは、氣を扱うための修行の初歩で教えられた動作だった。
なぜ、と訊かれれば答えられなかったその動作を、はじめた途端に龍麻の裡に膨大な氣が流れこんでくる。
それは緋勇龍麻という個人を簡単に消し飛ばすだけの量で、
予想はしていたもののそれを上回る奔流に、龍麻は危うく浚われそうになった。
眠りに落ちる瞬間にも似た空白の快楽に、身を任せてしまえば待っているのは人格の喪失だ。
もしかしたら精神だけに留まらず、肉体をも消失させてしまうかもしれない。
それほど龍氣とは圧倒的だった。
 両足を踏ん張るのではなく、心の中に杭を打ちこんで龍麻は自己を保つ。
足の指先にまで満ち満ちる龍氣は、まさしく龍のイメージで体内を螺旋に駆け巡り、
矮小な一個の肉体では狭いとさらなる拡大を求めて荒れ狂った。
富士を登っている間に、何度も転げ落とされそうになった風をも上回る氣の激流は、
あらゆる方向から龍麻を押し流そうとした。
 必死に耐えていた龍麻の足先に、小さな礫が当たった。
小指の先ほどもない石が、一秒の何分の一かだけ龍麻の意識を呼ぶ。
その一瞬で龍麻の意識は浚われた。
 手足の感覚がない。
身体の痛みも、瞼の重さも、鼻腔の収縮も。
自分に何が起こったか理解できない龍麻は、周囲を見渡した。
その途端、膨大な情報が合流した。
眼球が見た物を脳で処理するのではない、見た物全てを直接感じる。
 黒と白の景色はさっきまで見ていた物と同じだが、見える量が違う。
より高く、より上から見下ろしているのだ。
龍麻は意識が――少なくとも緋勇龍麻の根幹をなす思考が、肉体を離れたことを知った。
あまた満ちる氣に、呑まれてしまったのだろうか。
思考がひどく散漫になっていて、考察する力が湧かない。
この開放感に身を任せても良いのではないかと思いはじめている。
地球の氣の一部となって、空高く漂い続けるのは、きっと気持ちよいだろう。
心地よさにたゆたいながら、龍麻は三百六十度に広がった視界を見渡した。
 下の方に人間がいる。
全部で八体の彼らと、同じ存在だったと龍麻はすでに覚えていない。
溶岩が生き物のように脈打って噴火の時を待っている火口と、
大きく揺れている大地の方にこそ親しみを感じている。
溜めに溜めたエネルギーを爆発させようとする地球という巨大な生命体の一員として、
その時を待ち受けていた龍麻は、下方の人間の一人に気がついた。
地面に寝そべるようにしている、長い髪の女性。
すでに他の七人の名も忘れていたのに、彼女を見た途端に名前を思いだした。
 雹。
思い浮かべた名前を、龍麻は口にした。
唇を動かし、喉の奥から声を発した。
 雹が顔を上げる。
姿は見えず、声も聞こえるはずがない。
しかし、雹は龍麻を、龍麻が居る場所を見た。
「雹……!!」
 龍麻の意識は下方へと引き戻された。
意識と肉体が融合し、緋勇龍麻という個が目醒める。
甦った龍麻は、己の肉体に膨大な氣を受け入れながら、自分を喪わない術をも身につけていた。
あいかわらず怒濤のように流入してくる龍氣を、深い呼吸で身体の奥に浸透させる。
手や足の先端ではない芯の部分に、膨大な力が満ちていった。
細胞が一気に全て入れ替わったかのような、生まれ変わった感覚がある。
この時龍麻がそう感じたのは錯覚ではなく、
柳生に負わされた傷も、こびりついていた疲労も、全てが消え去り、全身に気力が漲っていた。
 猛々しく暴れていた龍が、住処へと帰る。
柳生宗崇によって乱され、地上へと噴出した龍氣は、そのほとんどが龍麻の身体に収まっていた。
両肩から力が抜けていくのを感じた龍麻は、勢いに逆らわず、ゆっくりと息を吐く。
白い呼気が薄れ、消えたとき、富士の火口はまだ煮えたぎってはいたものの、
あきらかに沈静化をはじめていた。
 もう噴火の怖れがないのを確かめ、龍麻は振り向く。
 視線の先には京梧や九角がいた。
彼らは一様に龍麻を見つめていた。
 下りはじめた龍麻の、膝がひどく笑う。
体力は全快していたが、成し遂げたという充足が全身を脱力させていて、
足を動かすのを止めた途端に前のめりに倒れてしまいそうだった。
「やりやがったな、この野郎」
「これも御仏のお導きか……良くやってくれたな、緋勇」
 京梧と醍醐の隣では、尚雲が大きく頷いている。
「見事だ。しかと見せてもらったぞ」
「ヘッ、俺だってあれくらい……痛ッ」
「仲間が偉業を成し遂げたんだから、素直に褒めてやんな」
 もう危険はないと判断し、雹を置いて九角達の許に来た桔梗が、澳継の頭を叩いた。
 彼らの許に着いた龍麻を、それぞれがそれぞれの言い様で歓迎する。
亀のような歩みで彼らの元に戻る途中、龍麻は一人離れた場所にいる雹を見た。
 桔梗が張った結界の中で、彼女は笑っていた。
いつか、過去となった未来の記憶で最期に彼女が見せた微笑みと同じだった。
昂ぶった感情は容易に涙腺を決壊させ、龍麻は目元を拭う。
泣くのは恥ずかしくなかったが、京梧達から離れてからにした方が良さそうだった。
「よっしゃッ、行ってこいよ、緋勇」
 京梧に背中を押されて龍麻は雹を迎えに行く。
本当なら一目散に走っていきたかった。
そうしなかったのは、少しだけ照れくさかったのと、
もしもこみ上げる情動のままに走ってしまったら、
そこから先も抑えが効かなくなってしまうという確信があったからだ。
 雹は京梧達から二百メートルほど離れた場所にいる。
その三分の一ほど歩んだところで、大きく地面が揺れた。
屈強な男といえども立っていられないほどの揺れで、たまらず龍麻はしゃがみこんだ。
吸いあげられた龍氣が戻った反動なのか、隆起した大地は激しく揺れ、収まる気配を見せない。
一秒でも早く雹のところに行きたいのに、行けないもどかしさに苛立ち、
地面を毟るように掴んだ龍麻の手に、小さな石が当たった。
 小指の先ほどの石に、総毛立つほどの悪寒を覚え、龍麻は上を見る。
見上げた先には今まさに、龍麻達の方へと転がりはじめた数個の岩があった。
「……!!」
 雹に警告を発しようとして、意味がないと気づいた龍麻は立ちあがり、走りはじめた。
岩は龍麻よりは小さいようだが、それだけに勢いがつくのも早く、
当たれば人間などひとたまりもないのは変わりない。
雹を他の場所に移動させるのが確実だった。
 揺れる斜面は走るのに適しているとはとてもいえず、走り出した直後に龍麻は派手に転ぶ。
気が動転しているからか、痛みは感じなかったが、顔に冷や汗を滲ませ、激しく喘ぎながら雹を見た。
 雹も龍麻の方を見ていた。
岩が転がってきているのには気づいているようだが、そちらは全く見ようとしない。
唇を固く引き結んだまま、睨みつけるように龍麻のみを凝視していた。
 彼女の視線に命ぜられるまま、龍麻は走る。
膝に力が入らなかったが、お構いなしに走った。
たとえ砕けたとしても、勢いがついていれば転がってでも彼女の許へいける。
姿勢を保とうという努力をむしろ放棄して、龍麻は己の身体機能を全開にした。
足を滑らせ、膝をつき、よろけながらひたすら前に進むことだけを考える。
それでも身体は思うように動かず、たかだか百メートル程度の距離が、江戸と富士ほどにも遠かった。
もう一度転び、立ちあがろうとしてまた転ぶ。
激しい地震は龍麻を狙い撃ちするかのように揺れ、
龍氣を受けて完治した龍麻の肉体に新たな傷を刻みつけた。
 地面を掴んで立ちあがった龍麻は、切った額から流れる血で滲む目で上方を見る。
転んでいる間に岩は勢いをつけ、もうすぐそこまで迫っていた。
このままでは間に合わない。
龍麻は呼吸の手間すら惜しんで走った。
 雹まであと十メートル。
もうすぐそこにいる雹が、絶望的に遠かった。
 醜怪な形相で迫る龍麻を、雹はまばたきもせずに見ている。
片方の目で見たいものを見た龍麻は、もう片方の目で見なければならないものを見た。
左の目には、護るべき女性の姿が。
右の目には弾みをつけて転がってくる岩が見えた。
 一瞬にも満たないうちに、龍麻は二つの物体を線で結ぶと、最後の力を全て右足に込め、踏みきった。
結んだ線上の、少しでも雹から遠いところに自らを投げ出す。
届いた、と確信した瞬間、強い衝撃が身体を打った。
痛みを感じる間もなく、緋勇龍麻は緋勇龍麻でなくなった。
 龍麻が跳ねる。
 壊れた人形のように。
 下手くそな人形師が操ったかのように、ひどくねじくれて宙を舞った龍麻は、雹の目の前に落ちた。
大地の揺れも、龍麻に当たったおかげで逸れた岩も意に介さず、雹は龍麻の許に這った。
手の皮がたちまち破れて血に染まったが、気づいてすらいない。
 一目見て龍麻は生きていなかった。
仰向けに倒れた顔の、眼が虚ろに雹を見ていた。
けれども雹には龍麻は見えない。
昂ぶる感情を抑えきれないとみた涙が、一足先に彼女を捨てて逃げだしたからだ。
「龍麻! しっかりするのじゃ、龍麻!」
 血だらけの掌で龍麻の胸を掴み、雹は叫んだ。
「共にガンリュウを直すのではなかったのかえ! 妾を離さぬと言ったのは嘘だったのかえ!」
 雹の悲鳴はこの場にいる生きている者達、特に鬼道衆の四人の心を裂いた。
これほどまでに感情を剥きだしにした彼女を見るのは初めてで、
万事に対して捉えどころのない尚雲でさえ、憐憫を眉目に漂わせて凄惨な光景に立ち尽くしていた。
この場にいる唯一の女性である桔梗も、かける言葉もない。
九角の袖を掴み、憚ることなく泣いていた。
 鬼道衆の長として冷徹な判断も幾度となく下してきた九角も、
呆然と龍麻の屍にすがる雹を見ていたが、やがて意を決し、重い足取りで雹に近づいた。
「ここは危険だ。一度退がれ」
「嫌じゃ」
 主君である九角が肩に置いた手を払いのけ、雹は叫んだ。
鬼子母神もかくやという迫力に、鬼道衆の長が動けない。
「妾はここを動かぬ。妾は龍麻の傍を離れぬと決めたのじゃ」
 声を枯らした雹の叫びに、大地の鳴動が重なる。
この場に留まるのはもはや無意味だった。
こうなったら力づくでも、と九角が目で合図し、醍醐が雹を担ぎあげようと近づく。
「むッ、いかん……皆、退がるんだッ!」
 その時、尚雲が緊迫した叫びを発した。
 上方から掠めただけでも大けがは免れないであろう、
龍麻を撃ったものよりも巨大な、二人分は優にある大きさの石が落ちてきている。
刀や槍ではどうすることもできない自然の驚異に、九角達は素早くその場を離れた。
生者だけでもとの願いは全員に共通していたが、雹は梃子でも動こうとしない。
やむをえず、龍麻と雹を残す他なかった。
 岩石は柳生宗崇の怨念が乗り移ったかのように、龍麻を目指す。
龍閃組と鬼道衆の面々は全力で走って安全圏まで逃げると、すぐさま振り返った。
 二人の直前で大きく跳ねあがった岩は、無慈悲なまでに正確に龍麻と、
その上に覆い被さった雹のところに落着した。
大地が割れたかのような轟音がとどろき、一同の聴覚を責める。
「……ッ!!」
 共に戦ってきた仲間の、あまりに残酷な最期に、全員が声にならない悲鳴を放った。
桔梗などは正視できずに手で顔を覆う。
 二人を轢殺した岩は、勢いを減じることなく下っていった。
しかし、置き土産として土煙を残していったため、
九角達は龍麻達のところへすぐには駆けつけることができなかった。
身を切られるような時間が過ぎて、土煙が収まってくると、我先にと駆けだす。
龍麻達の居た場所に着く頃には揺れも小さくなり始めていた。
 はじめに到着したのは、九角だった。
異刻から来た友人と、彼が求めていた女を、血走った眼で探す。
たとえ見るも無惨な姿になっていたとしても、必ず連れて帰るという決意を宿した眼に、
しかし、二人の姿は映らなかった。
「おいッ、どういうことだこりゃあッ!?」
 次に到着したのは京梧で、九角の横に立った剣士は、立ち尽くす九角に激しく詰め寄った。
「わからぬ……確かにここであったはずなのだが」
 二人の前には龍麻も雹も、彼らのものかもしれない血も、彼らが居た痕跡は何一つなかった。
この頃には醍醐や澳継も追いついて、九角や京梧が見ているものを追って見る。
「妙な……どこにも姿がないとは……」
「やい緋勇ッ、隠れてンなら出てきやがれッ! ふざけた真似してやがるとぶッ殺すぞッ!」
 澳継の叫びは空しく山中に消え、応じる者は誰もいなかった。
「それにしても変ですねえ、二人は一体どうしちまったんでしょう」
 桔梗に問われて九角は腕組みして考えていたが、やがて喉から押しだすように言った。
「……もしかしたら、だが」
 先刻までの騒音が嘘のように静まりかえっている。
動物の鳴き声もなく、木々のざわめく音もなく、この場にいる九角を除いた五人も黙したまま、
九角が続けるのを待った。
「緋勇は、奴が元いた時代に戻ったのかもしれん」
 九角自身、言いながら戯言だと思っていた。
龍麻は未来から来たと言っていたが、そう都合良く帰ったりできるものなのか。
そもそも死んだ後に帰って何の意味があるというのか。
あるいはこの時九角は、無意識に京梧あたりに殴られることを期待していたのかもしれない。
 だが、むう、と唸った京梧は、しばらくして頭を振った。
「……かも知れねェな」
 意外な顔をする九角に、明らかにそれと判る作り笑いを向ける。
「緋勇の時代じゃ刀は持てねェそうだからな、俺は未来なんてもんに興味はねェが、
この分じゃ雹も一緒に行ったみてェだ、めでたしめでたしじゃねェか」
 手を打ち鳴らした京梧に、九角も小さく笑った。
そうなったのなら、それでいい。
二人の屍が見つからない以上、どんな風に考えても良いはずだった。
 頭を振った九角は、静かに告げた。
「これ以上ここにいても仕方があるまい。下山するとしよう」
「あァ、そうだな」
 九角と京梧は揃って踵を返し、仲間達が後に続く。
一番最後に歩きだした桔梗が、何かに気づいて九角を呼び止めた。
「ああ、天戒様、空が……!」
 彼女が指さした空を、全員が見る。
 一面の暗黒の中に、光が生まれていた。
遙か彼方ではじめは小さく、やがて広がっていく光。
天空と大地を分かち、万物を遍く照らす曙光は、九角達の顔をも等しく金色に輝かせた。
「ヘヘッ、上手くいったみてェだな」
「うむ」
 京梧と九角が同じ方を向いて話す。
これまでの不遇を晴らすかのように大地を眩しく染める太陽を、しばらく眺めていた彼らは、
空に完全な光円が浮かんだのを見届けると、歩を揃えて歩きはじめた。



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