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懐に潜りこみ、身体に掌を押し当てる。
意外なほど柔らかな感触が一瞬伝わってきたが、それを意識する寸前、龍麻は練った氣を放った。
「……く……ッ」
漏れ出でた悲鳴は、練氣を妨げるほど弱々しいものだった。
追撃をかけようとした龍麻は、それどころか攻撃も防御も忘れて立ち尽くした。
激しい闘いの中で、突如として棒立ちになった龍麻に、
敵手も打たれた部分を押さえるだけでなぜか反撃はしてこない。
陰氣が満ちる洞窟の中で、奇妙に心安らぐ空気が漂う。
自分と敵、どちらがその異質な空気を生み出しているのか判らぬまま、
龍麻は倒すべき敵に対して声をかけようとした。
それを妨げたのは、信頼する仲間だった。
「おい龍麻、何やってんだッ!!」
「……あ、ああ」
京一の声に我に返れば、敵の姿はすでにない。
取り逃がしてしまったことを仲間に詫びながら、龍麻は掌に残る柔らかさをずっと反芻していた。
かすかな、カーテンがはためく気配。
目を覚ました龍麻は、熟睡していたはずなのにどうしてそんな気配を感じ取ったのだろう、と訝った。
部屋には誰もいない。
当然のことを確認した龍麻は、もう一度寝ようとして、当然ではなかった事実に気づいた。
部屋に誰かいる。
起きていることを気取られぬよう、目だけを細め、そっと部屋を見渡す。
やがて闇に慣れてきた目に、浮かぶ人型の輪郭が映った。
窓から侵入してくるような輩が友好的であるはずがなく、泥棒の類だろう。
春から続く闘いの中で、危険に対する感覚は鋭敏を極めている龍麻は、慎重に様子をうかがった。
人影はじっと立っていて、部屋を物色しているようではない。
では、何が目的なのか──その答えは、すぐにわかった。
まだ気づかれていないと思ったのに、頭上から冷静な声が落ちてきたのだ。
「動くでない……既にそなたの身体には糸が巻きつけてある。
下手に動けばそなたの肉などたやすく斬れようぞ」
その女性の声には聞き覚えがあった。
昼間、港区の地下で闘った鬼道衆。
その一員である水角という女のことを、龍麻ははっきりと覚えていた。
侵入者の正体が判れば、目的も自ずと判明する。
だから龍麻は何をしに来た、などと愚かなことは訊かなかった。
「どうして俺の家が判った?」
疑問を口にした途端、全身を痛みが走った。
水角の脅しが本物であることを知り、龍麻は口を閉ざす。
侵入どころか、身体に触れられてさえ起きなかったことに、自嘲の笑みが口の端に浮かんだ。
「質問してよいのは妾だけじゃ」
龍麻が指示に従うことを示すために無言を保っていると、
水角は感情のひとかけらもない、冷たい声で言った。
「あの時、なぜとどめを刺さなかったのじゃ」
そんなことをわざわざ訊きに来たというのだろうか。
絶体絶命の危機に陥ってなお、龍麻は水角がここに来た理由を知って噴き出しそうになった。
しかし、この場で生殺与奪を握っているのは間違いなく彼女であり、
わずかとなった助かるチャンスを自分から捨ててしまうわけにはいかない。
今は一秒でも長く、会話を引き延ばさなければならなかった。
「なぜって……俺にもわからない。あんたがいい女だったからかな」
「ほう……この期に及んでまだ妾をたばかろうと言うか。
面白い、どこまで減らず口が叩けるか、試してみようか」
水角は起きるまで待っていた割には気が短いらしい。
どうやら間違えたと悟った龍麻は、自分の命の灯火が今にも消えそうになったと覚悟したが、
水角は予想もつかない行動に出た。
自らの顔を覆う鬼の面に手をかけ、敵手である龍麻に素顔を晒したのだ。
「まあ良い。……この顔に見覚えはないか」
宵闇に浮かび上がった水角の顔に、龍麻は息を呑んでいた。
恐ろしい鬼の面の下から現れたのは、病的なまでの白さを持った、絶世の美女の顔だったからだ。
睫毛の多い、細く、切れ長の目には一片の慈悲も浮かんでおらず、
闇すら呑みこんでしまうであろう黒い瞳があるのみだ。
冷徹に閉じられた濃い紅色の唇も、人形じみた線を持つ顎も、全てが繊細で、儚い。
闇の中で鮮明には見えない、憎悪だけを眼下に投げつける水角の顔を、
もっと近くで見たいと龍麻は思った。
「ない。……どこかで会ったことがあるのか?」
再び激痛が訪れる。
「訊ねてよいのは妾だけと言ったじゃろう」
肌に食い込む細い痛みは生半可なものではなく、減らず口を叩く余裕も失くした龍麻は、
見覚えのない水角の顔を良く見ようと目を凝らした。
「そなた……名は何という」
「緋勇……龍麻だ」
どうして今から殺そうとする相手の名などを知りたがるのか、不思議に思ったものの、
今さら嘘を言ったところで意味もない。
龍麻が名乗ると水角は得心したように頷き、初めて表情を和らげた。
「そうか……やはりな。妾はすぐわかったぞ。
顔と、何よりその瞳の輝きでな。……これも縁(というものかの」
「どういうことだ」
「妾は江戸の世より九角様の御力をもって現世に甦った。
そして、妾が生きておった江戸の世にも、そなたと同じ顔のお人がおったのじゃ」
「俺の……先祖ってことか?」
「そうじゃ。名は龍斗様と言った。そなたは何代か後にあたるのじゃろう」
龍麻は両親より前の先祖を知らない。
今育てられている叔父夫婦に、両親が事故で死んだということは聞かされていたが、
祖父や祖母となると墓参りにさえ行ったことがないのを、こんな時になって初めて気づかされる。
一度くらい家系図を見ておくべきだったと、
やはり今頃後悔しても遅いことを反省する龍麻だったが、水角の話に重大な疑問が湧いた。
「俺の先祖を知っているお前が、どうして九角の手下になっている?」
質問は禁止されたにも関わらず、龍麻は問わずにはいられなかった。
「龍斗様と九角様は、昔は御仲間だったのじゃ」
そして水角も、もうそれを咎めることはなかった。
ベッドに腰かけ、龍麻の眼を覗きこむようにして語を継ぐ。
昼間闘っていた時よりも女性的な仕種を露にする水角に、動悸が早まる。
いい女だったから止めを刺さなかった、というのは案外嘘でもなかったんだな、
と口からでまかせに言ったことが自分にとっては半分正解であったことを龍麻は知った。
水角が正面から見据える。
切り揃えられた前髪と、肩までの長さがある、今は束ねられている髪は、
この闇にあって輝いて見えるほど光沢があり、解いたところを見てみたい、と龍麻に思わせた。
身体が全く動かせないことが、幸か不幸かわからないまま、龍麻は視線を合わせる。
鬼道衆の一員にふさわしい、冷たい深さを持つ瞳を、なぜか水角は自分から外し、
この部屋唯一の光がある窓の方を向いた。
「少し、昔話をしてやろう」
始められた水角の話を、龍麻は声もなく聞いていた。
鬼道衆というのは幕府に虐げられ、住む場所を失った人々が身を寄せ合った組織であったこと、
その組織を束ねていた九角天戒という男のこと、
そして、九角の片腕として鬼道衆に参加していた緋勇龍斗のこと──
それらの全ては初めて耳にすることであり、自分と九角の縁について龍麻は驚愕する他はなかった。
「妾は龍斗様と九角様の御傍に御仕えしておったのじゃ。
妾の無念を晴らすことは叶わなんだが、御二人には本当に感謝しておる」
「俺の先祖と九角が、ね……」
いつの時代にも為政者に虐げられる者というのはいる。
ましてや二百五十年の長きに渡るという、
歴史上にも類を見ないほど強固な支配体制を築き上げた徳川幕府ならば、
歴史の影に葬られた命の数は一体どれほどのものか。
龍麻は江戸時代について日本史の授業以上のことは知らず、
いくつかの乱があったものの、全体としては平穏な時代という認識しかなかった。
それがどういう経緯かは知らないが、自分の先祖が幕府の転覆を狙う組織に協力していたという水角の話は、
日本史がさほど好きではない龍麻にも、百年単位の過去について思いを馳せさせることとなった。
自分の先祖が正しいか間違っていたか、測る術は龍麻にはない。
しかし、やはり今の九角の子孫が行っていることが正しいとは思えない。
九角の先祖は倒幕を諦めたというが、ならば子孫は何に対して怨みを抱いているのだろうか。
話しあうことで、わだかまりを解いてやることはできないのだろうか。
現に今、自分と水角はこうして敵意を解き、語りあっているのだから。
縛りつけられたまま、龍麻は水角を見る。
斜め下から見上げる、月を向いたままの水角の顔は、龍麻の裡に急速にある種の想いを育んでいた。
敵手に対して抱くべきではないその想いを、龍麻は縛られているために振り払うことができない。
締めつけてこそこないものの、身体を動かせばすぐに判る糸は、
水角に身命を握られていることを意味する。
それを龍麻は、今すぐに振りほどこうとは思わなくなっていた。
話はいつしか移ろい、水角が個人的に見聞きしたことになっている。
懐かしむ表情で過去を語る水角を、妨げる気は龍麻にはない。
むしろ彼女が語る千夜一夜物語(を、もっと聞きたくなっていた。
「龍斗様が現れてから、九角様はたいそうお変わりになられた。
良く笑い、呑み、妾達へも親しくなられた。
幕府滅亡という野望を捨てることができたのも、きっと龍斗様のおかげじゃろうな」
「龍斗様は九角様をなだめるのが御上手でな。
九角様の御機嫌が御悪くなられた時など、皆龍斗様に御願いしておった。
大抵はその後酒宴となったのじゃが、妾達も相伴させていただいて、次の日は大変じゃった」
「村の子供達と遊ぶのが龍斗様はお好きでな。
何もない時は大抵広場で囲まれておって、ほんに大きな子供のようじゃった」
「龍斗様と九角様が一度大喧嘩をされたことがあっての。
何が原因じゃったかとお訊ねしてみれば、『百足は本当に足が百本あるのかないのか』
じゃとおっしゃった。妾達は呆れて声も出なかった」
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