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秋夜の澄んだ空気を思わせる水角の声は、ただ聞いているだけでも快い。
口を差し挟むような無粋なことをせず、耳を傾けているうち、龍麻は彼女の話題が少しずつ、
九角よりも自分の先祖についての比重が増えていることに気づいた。
先祖がよほどに個性的な人物だったのか、それともそうでない理由があるのか──
なぜか拳を握りしめ、龍麻は彼女の声がとぎれるのを待って口を開いた。
「あんた、俺の先祖のこと……好きだったのか」
水角の顔が月の影に隠れる。
明度を落とした部屋に流れる沈黙は、しかし、さほど長いものではなかった。
答える水角の声は、それまでとは幾分音階が変わったように龍麻には聞こえた。
「妾は龍斗様をお慕いしておった。じゃが、龍斗様には心に秘めた女性がおありじゃった」
「振られた……のか」
虎の尾を踏むことになるかという危惧はあっても、どうしても訊きたかった。
水角が一瞬、鋭く睨む。
鬼道衆としての険しさとは少し異なる、怒りに哀しみを混ぜた目をした水角は、感情の干上がった声で言った。
「妾は腱を切られておってな。助けがなければ歩くこともままならなかったのじゃ」
「……」
龍麻は自然と水角の足首を見る。
昼間、対峙した時は普通に歩き、跳躍していた。
九角の施した外法とやらはそれほど万能なのだろうか、と愚かなことを龍麻は考えたが、
無論水角がそれを説明することはなかった。
「龍斗様の重荷になるのは嫌じゃったからな」
理由はそれだけなのだろうか──意地の悪い疑問を、龍麻は胸中に呟いていた。
恋に臆病だったのを、足が不自由という言い訳に封じこめただけではないのか。
それは龍麻が恋愛を知らないからこそ浮かんだ、愚劣な問いだった。
しかしそれを口にしなかったというのは、龍麻の野暮にもまだ救いがあったのかもしれない。
それともあるいは──知らなかったものを、知りつつあったのか。
その答えは龍麻自身、すぐに気づくこととなった。
「龍斗様は闘いを終えられた後、いずこかへ旅立たれた。
幾人かはついていった者もおるようじゃったが、妾は残った。その後のことは……知らぬ」
知らぬ、と言った時の水角の表情を見た時、龍麻は知った。
百数十年の時を経て、敵として現れた彼女への想いを。
これまで誰に対しても抱いたことのない、強烈に心を揺さぶるその想いは、
時の大河も、敵味方の彼此岸も超えて龍麻の許に現れたのだ。
強烈過ぎるその想いは、奔流となって龍麻を襲い、打ちのめす。
息をすることも忘れてしまうほどの想いに囚われていた龍麻は、
それゆえ語り終え、口を閉ざした水角に対し、男として女にかけるべき言葉ではなく、
この夜に用意された中で最もそれらから縁遠いものを選んでしまった。
「それで……どうして俺のところに来たんだ」
「なぜじゃろうな、妾にもわからぬ」
くだらない問いに怒るでもなく、水角は、この日初めて笑顔を見せた。
彼女が九角の野望を達成するために甦らされた存在であることや、
今自分を殺そうとしていたことも、龍麻は全てを時の彼方に押しやっていた。
ほのかに浮かぶ白い顔を、龍麻は闇に透かす。
月が、もっと明るければ──
十全に美しさを引き立てているとは言い難い今宵の月に悪態をつきながら、
龍麻は水角の顔をじっと見ていた。
薄闇は彼女を隔て、遠ざける。
そんな龍麻の予感は、間違いではなかった。
おもむろに立ち上がった水角は、笑顔を見せたばかりだというのに暇(を告げたのだ。
「じゃが炎角や雷角は甘くはない。寝首を掻かれとうなければ、身の回りにもう少し気を配ることじゃ。
鋭く尖った武器を龍麻の首筋に当て、小さな傷をつけた水角は、鬼の面を掴み、窓辺へと向かう。
「……さらばじゃ、昼間の借りはこれで返したぞ」
別れようとする水角の手を龍麻はとっさに掴んでいた。
昼間、水角を見逃した時よりも強い想いが、身体を衝き動かしていた。
張り巡らされた糸が食い込み、激痛が生じる。
それでも龍麻は過去に去ろうとする水角を、必死に繋ぎとめようとした。
「何のつもりじゃ」
「あんたは俺に、俺の先祖を重ねたんだろう? なら俺が応えてやるよ」
「何を馬鹿な……そなたは龍斗様などには遠く及ばぬ。自惚れるでないわ」
水角が激する。
彼女の龍斗への想いが感じられて、龍麻は名も知らなかった先祖に嫉妬した。
「及ぶか及ばないか、会ったばっかりでわかるわけがないだろう」
「判るわ。龍斗様はそなたのように厚かましくはなかった、その一事だけで充分じゃ」
水角の声はたちまち温度を下げ、氷点下にも届こうかという冷たさだ。
それを溶かさねばならない──
少なくとも龍麻は溶かさねばならないと感じた。
「俺はあんたの話を聞いて、もうあんたを敵だとは思えない」
「そなたがそう思うのは勝手じゃ。
じゃが妾がここに来てしまったのはやはり気の迷い、次に会うた時はためらわず命を狙う」
「惚れた男の子孫を殺すってのか」
「確かに妾は龍斗様をお慕い申し上げておった。そして九角様にも同じくらいの恩義を感じておる。
その九角様の御子孫の御頼みを聞かぬわけにはいかぬ」
「俺の頼みは聞いてくれないのか」
「……存外にうっとうしい奴なのじゃな、そなたは」
辟易した様子で水角は首を振ったが、掴まれた手首を振り払おうとはしない。
ほんの少し岩戸が開いたのを龍麻は感じた。
しかし生じた隙間は指がやっとかかる程度のものに過ぎず、なんとかもっと開かせねばならない。
扉が開いている時間はそれほどあるわけではないと焦った龍麻は、
挙句、最も稚拙な方法で扉をこじ開けにかかった。
影にたたずむ水角を、月明りの下へと引き寄せる。
睨み上げる水角の気迫と、美しさに圧倒されかけた龍麻は、一瞬の覚悟を溜め、彼女に顔を寄せた。
一世紀以上の時を隔てて生まれた二人の時が重なる。
そこに男と女がいて、想いが通じ合うのならば、時間など意味はない。
初めて触れた唇の感触に、龍麻はそんな感慨を抱いていた。
しかし、龍麻が顔を離した後も、水角の表情は変わらず硬く、冷たさは更に増していた。
「何の……つもりじゃ」
「百年前だって、好きな相手とはくちづけするんだろ?」
「くちづけとは言わぬ、接吻じゃ」
逃れようとする水角を力で抑えつけて、龍麻はもう一度唇を奪う。
閉ざされたままの口唇に、愚鈍なまでの想いをぶつけたが、やはり水角が応えることはなかった。
「愚か者が。妾とそなたは敵同士なのじゃぞ」
「九角を斃せば、あんたは解放されるんだろ?」
この瞬間龍麻の頭には、東京を護ることも鬼道衆のこともなかった。
水角を手に入れるために、九角を倒す──男として、最も原始的な情動のみが、狂おしいまでに巡っていた。
瞳から情動を噴きこぼれさせて、龍麻は水角を捉える。
熱情が空回りすることなど、幾らでもある。
むしろ上手くいくことの方が少ないのだと、他人が恋愛に振りまわされるのを見て、
そう冷ややかに思っていた龍麻だったが、いざ自分の番が来てみると、
空回りなど絶対に受けいれられなかった。
ましてや龍麻が初めて惑った女性は、幾つもの障壁を持っているのだ。
この機会を逃せば恐らく、二度目の挑戦はできないと思えば、
なりふりなど構っていられなかった。
「九角を斃すのが駄目だっていうんなら、説得だっていい。
あんたがその気になってくれれば、俺一人で九角に会いに行く。なんなら今から行ったっていい」
水角の関心を惹こうと、龍麻は喋り続ける。
そのいずれもは具体性がなく、仮に実行したとしても成功の可能性は低かったろうが、
まくしたてる龍麻をじっと聞いていた水角は、ようやく息切れした龍麻が口をつぐむと、
固く引き結ばれていた唇をかすかに開いた。
「龍斗様も……そうじゃった。心を閉ざしておった妾に、しきりと声をかけてくださった。
初めはわずらわしかっただけじゃが、あの方のお優しさがなければ、
妾はずっと閉じこもっておったじゃろう」
幾分和らいだ水角の声は、幻夢の音色を帯びていた。
こうして話していることが、夢か現かもわからなくなるほどの幽玄を宿した声に、
龍麻は知らず掴んでいた水角の手を緩めてしまう。
水角は、もう逃れようとはしなかった。
「じゃが……それは無理じゃ。九角様が斃れれば妾を現世に留めておる外法も消える。
そうすれば妾は冥府に堕つるのみじゃ」
生まれた期待をたやすく打ち砕いた水角を、龍麻は怖れさえ抱いて見た。
そんな理(があって良いはずがない。
縁(というのは出会い、結ばれることを意味する言葉であって、別れを意味してなどいないはずだ。
そう必死に眼差しで訴える龍麻を、理の外に身を置く水角は、優しいほどの声で諭した。
「妾とそなたが会うたのも、今宵一夜の幻よ」
そう言って去ろうとする水角の手を、龍麻は離さなかった。
離してしまえば幻になる──ならば、離さなければ。
離そうとする水角と、離すまいとする龍麻との間で、深刻な諍いが発生する。
異能の『力』を有する者と、外法というやはり異能の理によってかりそめの命を与えられた者との闘いは、
当人達の思いもよらない形で決着がついた。
龍麻の手を離そうとする水角と、それを拒み、彼女を抱き寄せようとする龍麻。
水角によって巻きつけられた糸もそのままに暴れた龍麻は、
バランスを崩し、水角もろとも床に倒れてしまったのだ。
したたかに肩を打った龍麻は、痛みに顔をしかめようともせず、水角を押さえこもうとする。
抗いかけた水角は、長いため息と共にそれを放棄し、強い輝きを有している男の瞳を見据えた。
「無茶をしよる……その無鉄砲さも、龍斗様譲りよの」
「先祖のことはいいだろ。あんたに惚れたのは、先祖じゃなくて俺だ」
手だけではなく全身で水角を掴まえる。
想像していたよりもずっと細い腰が、龍麻に、水角の肢体を直接見たいという欲望に誘(った。
縛られ、動かしにくい腕を無理に動かして敷いた水角の身体に触れる。
目を細めた水角は、龍麻が反応できないほどの疾さで手を動かし、そして──
「……!」
腕に食い込んでいた糸の痛みが急に失せ、龍麻は驚いて水角を見た。
「妾の装束を血で汚されてはたまらぬからな」
照れ隠しかと思った龍麻だったが、水角の顔には冗談の一分子も浮かんでいない。
そもそも彼女が冗談を好む性格とは全く思えず、龍麻は浮かびかけた笑みを抑制した。
代わりに自由を取り戻した手を彼女の、単にまとめてあるだけの髪に触れさせる。
「ひとつ、頼みを聞いてくれないか」
「……なんじゃ」
「髪を解いてくれ」
無言で龍麻を見つめた水角は、その表情のまま男の頼みを聞き入れた。
眼下に広がった漆黒の海は予想通りの美しさで、龍麻を満足させたが、たったひとつだけ不満があった。
「あのさ」
「なんじゃ、まだ何かあるのか」
「そんなに怒った顔しないでくれよ」
「妾は怒ってなどおらぬ」
「でも」
「この顔が嫌ならさっさと離れよ。妾は一向に構わぬぞ」
容赦のない反撃に打ちのめされた龍麻は、悔しさに唇を噛む。
しかし次の瞬間にこの、成就しつつある初めての恋に図々しさを増した男が考えたのは、
これが惚れた男の弱みというやつか、と水角が聞いたら激怒するようなことだった。
「どうした、どかぬのか」
「どかない」
痺れを切らした水角の催促に、龍麻は強い調子で断言した。
驚く水角と距離を縮め、視線を逃れられなくする。
「俺は、あんたを離さない。絶対に」
「……」
黒い瞳は応えない。
じっと上を見据えたまま、瞬きもせずに正面にある、同じく黒い瞳を見つめている。
縛りつけるその眼差しに、龍麻も動かず、水角の瞳を凝視していた。
交錯した視線は、やがて閉ざされる。
伏せられた睫毛にすら愛おしさを感じ、龍麻は自分も目を閉じ、許された行為を行った。
唇が触れる寸前、ごく小さな吐息が聞こえたような気がした。
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