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「ほんに……酷い奴じゃな、そなたは」
「ごめん」
「素直に謝れば済むと思うておるのが鼻持ちならぬ。一度は許しても二度はだまされぬわ」
どうやら本当に怒ってしまった水角に、こういった経験がほぼ皆無な龍麻は途方に暮れる。
熱が醒めてみれば彼女の怒りももっともだといえることをしてしまったという自覚があるので、
本心から謝ったのだが、水角の機嫌は容易には直りそうもない。
どうしたら良いか判らなくなり、龍麻は仕方なく彼女の横に身を横たえ、半ば背を向けて休息を取る。
すると背後から、情交の後とは思えぬほど棘のある呟きが聞こえてきた。
「気が利かぬ奴じゃの」
戸惑う龍麻が振り向くと、水角は肩に顔を寄せてきた。
「しばらく……こうしておれ」
伝わってくるのは、たった今まで交わした契りの熱──
水角の吐息を首筋に受け、龍麻は細い腰に腕を忍ばせる。
揺れる長い黒髪は、月の灯りを浴びて銀の波を描きだしていた。
舌を交わらせ、くぐもった甘い声に蕩けながら、龍麻は違和感の正体に気づいた。
これは、彼女の方から求めたキスなのだ。
「何がおかしいのじゃ」
「別に」
「妾に隠しごとをするとは良い度胸じゃな」
水角が目を細める。
彼女の漆黒の瞳に、最初に出会った時の冷たさはなかった。
その変化はもちろん龍麻にとって好ましいもので、睨みつける彼女を強引に抱いた。
「ええい、離さぬか」
水角はすでに諦めの境地に達しているようで、さほど腕の中で暴れることもなくおとなしくなる。
少しずつ彼女が変わっていくのがとても嬉しくて、龍麻は不必要なほど腕に力をこめた。
「いいかげんにせよ、苦しいではないか」
「なぁ」
「……なんじゃ」
抗議を無視された怒りが、極小の時差に現れている。
艶やかな黒髪を撫でてなだめながら、龍麻はそっと訊ねた。
「九角の考えを変えさせることは、どうしてもできないのか」
水角からしばらく返事はなく、返ってきた答えもたいそう考え深げに、
ゆっくりと言葉を選んでのものだった。
「無理じゃろうな……九角様の御怨みは妾などでは溶かせぬほど深い。それに」
「それに?」
水角は無言で身体を起こした。
白い肉体はこの世ならぬほど美しく、龍麻は去りかけていた欲望が再び戻ってくるのを感じる。
しかしそれを告げるよりも先に、
口を閉ざしたままの水角の身体が朧になっているような気がして龍麻は驚いた。
目を凝らしてみると、確かに水角の裸身は、その白さ以上に白さを増し、後ろが透けてすら見え始めている。
たった今契りを交わした女性に訪れた異常な変化に言葉も出ない龍麻に、水角は微笑む。
透きとおった笑みは、鬼道衆の一員、水角としてのものと、一人の女としてのものが調和していた。
「妾は既に滅びた身を、九角様の御力によって現世に舞い戻ったのじゃ。
陰氣は陽氣と交われば太極となる……それが理というものじゃ」
彼女はこうなることを知っていたのだ。
知っていて、彼女に仮初めの命を与えた九角に逆らうことも承知で、
なお敵であった男に身を委ねてくれたのだ。
龍麻の心臓を、熱風と冷風が吹き抜ける。
そうまでして己を捧げてくれた初めての女への想い、愛した女を喪う怖れ、
二つの風は吹き荒れ、龍麻を打ちのめした。
「待てよ」
伸ばした手をすり抜け、水角は還っていく。
「後悔はしておらぬ。百余年の想いを放つことができたからの。
それに、そなたも中々に良き男じゃった」
彼女を留めることができないと直感した龍麻は、訊いていなかったとても重要な問いを思い出した。
「最後に教えてくれ」
「なんじゃ」
「名前、水角じゃないんだろ? 昔の、江戸の頃のあんたの名前を教えてくれ」
すでに紅から桃へと変じている唇が、三日月の形になる。
その唇に触れたい衝動を堪え、龍麻は願いが聞き届けられるのを待った。
「そなた……やはり女の扱いには慣れておらぬようじゃな。
今頃聞くとは、ほとほと愛想が尽きるわ」
冷たかった眼が、口許と同じ形に撓(む。
「雹じゃ。妾の名は雹。そなたの初めての女の名前じゃ、忘れるでないぞ」
「雹……!」
「ああ……その名で呼ばれるのも久しぶりよ。さらばじゃ龍麻、縁(があったらまた会おうぞ」
もう一度、龍麻が名を呼ぼうとした時には、雹の姿は完全に消えていた。
一夜の幻。
そう思えてしまえるほど、部屋には何も残っていない。
自分が口に出そうとしていた名前すら、幻となってしまうような気がして、
龍麻は残っていた想いの泡沫を月に向けて放った。
月は応えない。
そして、雹も。
胸に満ちつつある膨大な想いを月に見られぬため、龍麻は背を向ける。
まだ温もりだけは残っているはずの布団で、せめて彼女を感じようとした龍麻の足下に、何かが触れた。
「これは……」
彼女が着ていた装束と同じ、濃青色の珠。
どのような術によってか、水角はこの珠を触媒として現世に仮初めの命を得たのだろう。
急速に昂ぶる情を、まだ封じ込め、龍麻は珠を眺めた。
たった一時間にも満たない邂逅を、龍麻は永遠に忘れない。
どれだけ時が流れようとも、怜悧な漆黒の瞳を、深い海の色をした髪を、
牡丹色の唇を、決して記憶から消し去ることはないだろう。
じっと珠を見つめていた龍麻は、遂にこらえきれず目を閉じた。
想いが離れ、彼女の名残へと落ちていく。
想いは、いつまでも止む気配をみせなかった。
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