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太陽が中天に差しかかろうかという刻限。
それでも陽の射さぬような深い森の外れに、風祭澳継は佇んでいた。
彼の前にあるのは、彼が小柄であることを差し引いても、
抱えるには五人は必要となるだろう巨岩だ。
岩の正面に立つ澳継は、足を肩幅に開き、肩の力を抜いて、深く、長い呼吸を繰り返している。
もう五分ほどもこうして呼吸を繰り返していた。
すっかり自然に同化した彼の頭上を、一羽の雲雀が飛ぶ。
澳継の頭上を飛んでいた雲雀は、にわかに激しく羽ばたき、逃げていった。
雲雀を狙う鳥が近くに現れたのではない。
雲雀が気づきもしなかった、下に居る人間が放つ氣が、彼を中心として放たれたのだ。
鳴き声を放って去った雲雀にも、気配を微塵も逸らさない澳継は、
半歩だけ右足を前に出し、両の掌を右手を上に、左手を下にして、身体の中心に構えていた。
深く、ゆったりとした呼吸を繰り返し、その一度ごとに澳継の氣は増幅していく。
増幅した氣は凝縮され、増幅と凝縮が繰り返されて連環となり、
狂おしいほどに高まった氣を、一気に放った。
自我すら失いそうになる凄まじい解放感に耐え、全ての氣を放出し終えた澳継は、
大きくよろけ、膝をつきそうになる。
力が入らない膝に矜持で活を入れ、どうにか持ちこたえた彼は、視線を前方に据えるとおもむろに破顔した。
眼前にあった岩は、その巨きさをほとんど喪っていた。
澳継の放った莫大な氣が、硬い岩を粉砕したのだ。
顔だけに収まらず、全身で喜びを爆発させようとした澳継は、不意に気配を感じた。
集中していたとはいえ、予想外の近さにある気配に、雷光の速さで振り向く。
「見事だ、澳継」
「御屋形様ッ!」
澳継の後ろにいたのは、彼の主筋にあたる九角天戒だった。
天戒は慌ててひざまずこうとする澳継を制し、臣下の成長を褒め称えた。
「完全に氣の使い方を体得したようだな」
頬を紅潮させながらも、澳継は主の称賛を全面的には受け入れなかった。
「……いえ、あいつはもっと早く練っていました」
「緋勇か」
澳継は答えず、視線を地面に落とす。
天戒も臣下の非礼を咎めず、彼が口にした男に思いを馳せた。
緋勇龍麻と名乗った、百年以上も未来の日本から来たと語る怪しい男。
天戒の臣下である雹に会いに来たといい、天戒が治める鬼哭村に居つき、いつのまにやら馴染んでいた。
雹も初めはこんな男など知らぬと言っていたのが、
何度袖にされても諦めない龍麻のしつこさに根負けしたのか、彼を受け入れるようになった。
氷の復讐心を心に築き、龍麻のみならず他者を拒み続けていた彼女の変化は天戒を驚かせたが、
いつしか彼自身も龍麻の影響を受けるようになっていた。
彼が居たという百三十年後に江戸幕府はなく、それどころか数年のちには幕府は倒れ、
新政府なるものが誕生するという龍麻の言をすぐに信じたわけではなかったが、
天戒が率いる鬼道衆の行く末に思いを馳せることが多くなったのだ。
「御屋形様」
澳継が顔を上げ、天戒も我に返った。
同じく氣を、しかも彼より巧みに操る龍麻に、澳継はずっと反発していたが、
得るところはあったようで、今の澳継はいい面構えになった、と天戒は内心で臣下を評した。
その澳継が、眉間に決意を漂わせている。
彼がそれを眉間から口へと下ろす前に、天戒は先んじて告げた。
「澳継に命じる。その氣を更に練り上げ、完全に己が物とするまで、鬼哭村を出て修行せよ」
それはまさしく澳継が求めるものだつた。
柳生という強大な敵は倒したが、澳継の強さへの渇望は強まるばかりだった。
否、柳生や、何より緋勇龍麻という超えるべき目標が現れたことで、
澳継の渇望は明確な形となったといえる。
澳継にはもはや、鬼哭村は旅立つべき巣でしかなかった。
「ありがとうございます、御屋形様ッ」
「うむ、強くなって帰ってくることを期待しているぞ」
主君の度量に感服した澳継は、深く一礼すると、早速支度をするべく駈けていった。
澳継が去ったあとも、天戒はその場を動かず、腕を組み、眼を閉じて何事か考えている。
そこに木陰から一人の男が現れた。
男は天戒よりも年長で、顔に相応の皺はあるが、眼が澳継によく似ていた。
「これで良かったのか」
「かたじけのうございます、九角様」
男は深く頭を下げた。
「それにしても、緋勇の者が九角様の元に現れようとは」
「風祭と緋勇とはそれぞれ陰と陽を伝えると言ったな」
「いかにも。風祭の家は陰の龍の技を伝えております。その為風祭を継ぐ者は幼き内に放逐し、
孤独に生きさせることで心に晴れる事なき闇を育むのがしきたり」
龍麻や澳継が操る氣は、心の強さに大きく影響を受ける。
事に風祭家が伝える陰の龍の技は、闇を源としながらも闇に呑まれてはならない。
生半な精神力では使いこなすことなどできず、その為に幼少期から過酷な境遇に置かれるのだ。
幕府に怨みを持つ者たちが集まる鬼哭村は、風祭にとって格好の場所であり、
澳継の父親から頼まれた天戒は捨てられた彼を拾い、今まで面倒を見てきたのだった。
「それにしても、まさか緋勇の者が、未だ正式に継いでいないとはいえ風祭よりも氣の扱いに優れ、
しかもそれを風祭に教えるとは、前代未聞のことにございます。
澳継は今や風祭を継ぐに充分な器となりました」
「ならば、直に風祭を継がせても良かったのではないか」
「左様ですが、これまで陰の技のみを修練してきた我が流派が陽と交わったことで
どれほど強くなったのか、いささか興味が湧いた由」
天戒は頷いた。
彼自身はもう強さにはそれほど執着していないが、目指す者の気持ちは理解できる。
従兄弟である九桐尚雲がそうであるし、澳継に影響を与えた緋勇龍麻の凄まじい『力』を
目の当たりにすれば、武芸者なら誰でもあの高みを目指したいと思うだろう。
天戒は風祭の現当主に、次期当主を武者修行の旅に出す代わりに頼んでいたことを思いだした。
「緋勇については何か判ったか」
「調べましたところ、龍麻と申す者は緋勇の家には居らぬこと、確認いたしました。
あるいは名を騙ったのかもしれませぬが、いずれにしても、
澳継が陰陽の氣に習熟したのは事実にございます」
「ふむ」
報告はむしろ龍麻が未来から来たという話を裏づけるもので、
天戒は内心の不思議な昂揚を押し殺して短く頷くに留めた。
彼の氣は本物であり、鬼道衆の一員として働いたことも、
柳生宗崇と死力を尽くして戦ったことも、彼を信ずる根拠としては充分足る。
「できれば龍麻と申す者に会うてみとうございましたが、行方不明だとか」
「うむ」
短く、しかし強い同意を天戒は語に含めた。
尚雲に似ているが、彼とも違う器を持った龍麻と、
もっと言葉を交わしたかったと今更ながらに思ったのだ。
龍麻と雹が岩に押し潰された時、その場に居合わせた人間にしか天戒は自分の考えを語っていない。
龍麻は元居た時代に還り、雹も彼と未来を共にしたと。
それは夢想に過ぎないかもしれない。
だが、天戒にとっては信じる価値のある夢想だった。
澳継が武者修行に旅立った翌日、天戒は新たな一人の旅立ちを見送った。
「それでは御屋形様、行って参ります」
「うむ。大変な任務だが、お前にしか出来ぬことだ。頼んだぞ」
天戒に命じられた尚雲は、気負いを感じさせぬ表情で頷いた。
「緋勇の言ったことが本当なら、槍や刀を振るえるのもあと数年との話。
その前に全国の強者と腕を比べたく思います」
苦笑する天戒よりも怒ったのは、彼の隣に立つ桔梗だった、
「ちょっとッ、天戒様はそんなことを頼んでるんじゃないよッ」
「ははッ、わかっているさ。旅の目的はあくまでもこの鬼道書を封じること。
人目に触れることのない、封印に適した場所を探すための全国巡礼というわけだ」
「あんたを見てると鬼道書そっちのけで強い奴を探し回りゃしないかってどうも不安になっちまうんだよ」
嘆息する桔梗に朗らかに笑った尚雲は、踵を返して主君の前から去った。
「そう案ぜずとも尚雲ならば大丈夫だ」
「それはまあ、そうでしょうけれど」
主君の命を第一に果たすのが臣下の務めだと考える桔梗には、
主君として天戒にもう少し強く命じて欲しいとも思うのだが、言っても詮無いことだった。
狐の尻尾にも見える優美な髪を左右に揺らして桔梗は話題を変えた。
「嵐王が天戒様に来て頂きたいと」
「ふむ」
天戒は頷くとその足で嵐王の工房へと向かった。
その後を、やや不満顔の桔梗がついていく。
本来なら臣下が主君を呼びつけるなど言語道断だ。
しかし天戒はその辺りのことを気にせず、村民にも気さくに話しかける。
それが桔梗には不満なのだが、古くから天戒に仕えている嵐王が主従をわきまえていないはずかなく、
その彼が呼びつけるということは、よほどの事態だと思われた。
「嵐王、いるか。入るぞ」
村の外れにある嵐王の庵はさほど大きくはない。
その上に嵐王が研究以外に関心を払わぬものだから、道具と埃に塗れており、
桔梗ならずとも近寄りたくない場所だった。
天戒と桔梗が庵に入ると中は暗く、足下もおぼつかない。
仮にも主を呼びつけておいてこの無礼に、桔梗が声を荒げて嵐王を叱責しようとした。
その時、四方から光が放たれ、部屋を満たす。
突然の輝きに桔梗は顔を覆ってしまい、天戒もそのままではいられず目を細めた。
「嵐王、これは…?」
光の集まる部屋の中心に嵐王はいた。
嵐王の名を継ぐ者が代々着ける仮面を今も着けていて表情は知れぬが、
白い光の中に在るからか、昂揚しているようにも見える。
彼の手には小さな道具が握られていて、操作すると四方から彼を照らしているのと同じ光が放たれた。
「緋勇の残していった、懐中電灯なるものにございます。遂に完成いたしました」
「ほう…!」
天戒は声を上げ、桔梗も嵐王の才能に感嘆した。
百三十年後の世から来たという龍麻が持っていた幾つかの道具のうち、
最も天戒たちを驚かせたのは懐中電灯だった。
蝋燭の炎しかない江戸の末期において、別格の明るさを放つこの道具に
最も関心を寄せたのが当然というべきか嵐王で、
短い期間で仕組みを理解し、天戒たちが柳生宗崇を倒すために彼が待つ富士山頂を目指す際、
雹が操るからくり人形であるガンリュウに装着するライトを作りあげたのだ。
その時点では小型化ができず、ガンリュウに装着するしかなかったのだが、
その後、龍麻が雹と共に岩に押し潰されて安否が不明となり、ガンリュウもライトも失われた。
それでも嵐王は残された龍麻の荷物を持ち帰った天戒から奪うように預かると、以来今日まで庵に籠りきりで
この未来から持ちこまれた道具を再現しようと奮闘していたのだった。
その甲斐あってか、現在部屋の四隅に置かれている電灯は提灯よりも少し大きい程度であり、充分携帯が可能なサイズだ。
「電池とやらいう物の仕組みを体得するのに手こずりましたが、久々に血が沸き立ちました。
以後は数を揃えることも出来ましょう。それから、これも緋勇が残した鉛筆というものですが、
こちらも便利なので作れるようにしておきました」
事もなげに言う嵐王に、天戒は絶句していた。
彼の才能を疑ったことはないが、これほどとは思っていなかったのだ。
しかも、量産化の筋道までつけたという。
それがどういう意味を持つか、わからぬ天戒ではなかった。
「……鬼哭村の民は幕府に虐げられ、世を追われた者ばかりだ。
だが、緋勇の言うとおり数年の後に幕府が倒れるならば、
これを商うことで再び世に出ることが叶うかも知れぬな」
「御意」
幕府を倒すという目的は捨てても、従う民を見捨てるわけにはいかない。
彼らの将来も悩みの種であったが、龍麻と嵐王のおかげで光明が射した気がした。
「嵐王は懐中電灯と鉛筆をこの村で作れるよう手筈を整えよ。九角家の金を全て使ってよい」
「御意」
「桔梗はそれまでに商いを学んでおけ」
「お任せください」
桔梗の望みはいつまでも天戒と共に在ること。
それが叶うのならば、商いを覚える程度はどれほどのことでもなかった。
天戒に続いて庵を出た桔梗は、ふと気配を感じて顔を上げる。
すると空にニ羽の見事な白鶴が、寄り添うように飛んでいた。
「天戒様」
「うむ」
二人は無言で天を仰ぐ。
彼女達の視線を受けたかのように、鶴は高くいななき、彼方へと飛び去った。
蓬莱寺京悟と醍醐雄慶は龍泉寺を前にしていた。
二人が所属した、江戸を護るための組織である龍閃組の拠点である龍泉寺は、
近い内に取り壊されることが決まっている。
建物とは雨風をしのぐためのものでしかないと考える京悟は、
取り壊される寺にも何の感慨も抱かなかったが、
宗派は違えど僧侶である醍醐はひとかたならぬ思いがあるのか、長く拝んでいた。
「いつまで拝んでんだよ。壊すモンを今更拝んだってしょうがねェだろうが」
いいかげん痺れを切らした京悟が醍醐を急かす。
醍醐は不信心な京悟を睨んだが、拝むのは止めて彼に向き直った。
「龍閃組もこれで解散だと言うのに、お前は何とも思わんのか」
「へッ、物に思い入れはねェよ。……ま、ここに居た間は中々面白かったがな」
龍閃組は江戸の破壊を目論む柳生宗崇を倒すという手柄を立てた。
龍閃組を組織した円空僧正は若者たちに充分な恩賞を与えた上で組の解散を告げ、
京悟たちはそれぞれ新たな道を往くこととなったのだった。
「お前はこれからどうするんだ」
醍醐の問いかけに、京悟は珍しく数拍置いてから答えた。
「江戸に居ても退屈しちまうだろうからな。旅にでも出ようと思ってる」
「ほう」
「まだ日本のどっかにゃ強い奴がいるだろうよ」
柳生宗崇との死闘を終えて以後、京悟の裡には渇望が芽生えていた。
もうじき終わってしまうかもしれない刀の世。
その前に、まだいるはずの最後の侍たちと刃を交えておきたい。
一度生じた渇望を、止めることはできなかった。
京悟は戦友に同じ問いを投げかける。
「そういうお前はどうすんだよ」
「そうだな。俺は今度の戦いで己の実力不足を知った。法力も腕力もな。
それを全国の寺を巡礼してもう一度鍛え直したいと思う」
「けッ、大層に言いやがって、とどのつまりは俺と同じってことじゃねェか」
「まあ、そうかもしれんな」
吐き捨てる京悟に、醍醐は豪快に笑って応じた。
鼻を鳴らした京悟は話題を変える。
「アイツは死んじまったと思うか?」
「思わん」
その質問を予期していたかのような即答に、京悟は眉を動かした。
「嫌にはっきり言うじゃねェか。お前もあの二人が岩に潰されるところは見ただろうし、
あの岩は俺達が束になっても動かせなかっただろうがよ」
「確かにそうだが、二人の死んだ気配は感じられなかった」
「けッ、坊主らしいことを言うじゃねェか」
そうは言ったものの、京悟はそれ以上雄慶の考えを否定しようとはしなかった。
彼の裡にも未来から来たと自称するあの男の生存を願う気持ちがあったのだ。
京悟に対して何か言おうとする醍醐に、呼びかける声がある。
二人が振り向くと、彼らの仲間である時諏佐百合がいた。
「何だいあんた達、まだ出発してなかったのかい」
「別にアテがある旅じゃねェからな。いつ出たって構わねェのさ」
「龍泉寺は明日には壊されちまうんだからね、出遅れたって寝床はないよ」
啖呵を切られて二人とも苦笑するしかない。
天下有数の剣の腕も、高野山で学んだ退魔の法力も、この気風の良い女性には全く通用しなかった。
劣勢を感じた京悟が話題を変える。
「百合ちゃんはこれからどうすんだよ」
「あたしかい? 前にも言ったろう、あたしはここに学び舎を作る」
「学び舎ぁ? なんだそりゃ」
「何にも聞いてなかったのかい!? しょうがないね、学び舎ってのは寺子屋をもっと立派にしたようなものかね。
円空先生のお許しは頂いたし、明日からは大忙しになりそうだよ」
百合は空を見上げる。
天変地異の前触れだと騒がれていた数日前とは打って変わって、晴天が広がっている。
雲の向こうに輝く太陽に目を細める百合の頭上を、一羽の鷹が横切った。
鷹は人間に雄姿を見せびらかすために飛んだわけではないが、
人間の方は一直線に飛ぶ鳥に良い兆しを重ねた。
視線を地上に戻した百合は、今日を限りに道を違える男たちに訊ねた。
「で、やっぱり緋勇は見つからないのかい?」
「ああ」
「そう……あの子がいれば、良い先生をやってくれると思ったのにねえ」
「そうかァ? 結構抜けてやがるけどな、あの野郎」
軽口を叩く京悟を睨んだ百合は、首をすくめる彼には目もくれず、
もう一人の男の方を向いた。
「可能性は少ないかもしれないけど、もしどこかで緋勇を見かけたら龍泉寺に来るよう伝えておくれ。
寺はなくなっちまっても、あたしはここにいるからね」
「承知しました。では、拙僧たちはそろそろ出立します」
「ああ、気をつけていくんだよ」
「へへッ、百合ちゃんも元気でな」
蕎麦でも食べに行くような足取りで去っていく京悟を、
街道筋までは同行するつもりなのか、百合に一礼した雄慶が追う。
どのような形であれ、未来に歩きだした若者たちを見つめる百合の視線は、どこまでも優しかった。
やがて二人の姿が見えなくなると、彼女も自身が選んだ未来に向かって歩きだす。
遠くどこかに、鷹が鳴いていた。
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