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男二人、女二人の高校生四人組が、新宿の街を歩いていた。
高校生、と判るのは、男子高校生の一人が、制服を着ているからだ。
それも夏服ではない、詰め襟の学生服だ。
現在季節は夏で、東京の夏はこの世紀末の年にふさわしい、
暴力的な暑さで人間を痛めつけている。
学生服を着ている男は当然汗だくになっているのだが、共に歩く三人は、
さらに彼の分の暑苦しさまで負担させられて辟易しているようだった。
「どうしてお前はそんなに暑苦しいんだッ。もっと離れて歩きやがれ」
男の片方が、たまりかねたように学生服の男に向かって怒鳴った。
Tシャツにジーンズというラフな格好をしている男は、
服装だけなら学生服を批判する資格があるだろう。
だが、彼の右手には警察官が見かけたら職務質問せずにはいられない、木刀が握られていた。
実際、彼はこの春から優に片手を超える回数、警察に呼び止められている。
そのたびに悪魔的な逃げ足を発揮して、実際に捕まったのは一度もなく、
新宿管内では彼の存在は半ば伝説と化していた。
季節感のなさではわずかに劣るかもしれない学生服の男は、
かなり本気で怒っているようすの木刀の男にも動じる気配はない。
「心頭滅却すれば、と言うだろうが。お前も少しは頭を冷やしてみたらどうだ」
「真夏に学ラン着て頭が冷えるかッてんだッ!」
不毛なやり取りをする二人に飽きた小蒔が話題を変えた。
「あーでもさ、何だろうね? ひーちゃんが電話に出ないなんて」
「たまたまじゃねェのか?」
あくびをしながら京一が答える。
平日でも一日の半分以上を寝て過ごす時があるこの男にとって、
夏休みなどは寝る時間が増えただけの話で、午前十時という、
すでに朝とは言い難い時間に起きているのは極めて異例なのだった。
「でも、五日もよ。鬼道衆と戦った後だから、もしかして何かあったのかもしれないわ」
京一の後ろを歩く葵が控えめに反論する。
あと半年に迫った大学受験に向けて、彼女は毎日勉強をしており、
今日ももちろん普通に起き、さらには今日の分の勉強まで済ませていた。
「うーん、けどよ、あン時別に怪我なんてしなかっただろ?」
「それはそうだけれど……」
「まあまあ、もう来ちゃったんだしさ、無事なら無事でいい暇つぶし……じゃない、
せっかくだから皆でどっか行こうよ」
本音をうっかり漏らした小蒔に、京一は呆れ顔をする。
「高校三年生っつー自覚はねェのか、お前は」
「そんなコト言ったら京一なんて卒業すら危ないじゃないかッ」
「馬鹿野郎ッ、まだ五回は遅刻できる…はずだ」
「普通は遅刻で留年のリーチがかかるかどうかなんて心配しないんだよッ、ねッ、葵」
深入りを避けて微笑するに留める葵に、二人はやや気勢を削がれたように互いにあらぬ方を向いた。
まがりなりにも到来した平和を、誰が一番歓迎したかはわからないが、
五分ほど歩いて龍麻の家に到着した時、真っ先に呼び鈴に向かったのは小蒔だった。
「えーっと、確かここだよね。表札出てないけど……いいや、押しちゃえ」
小蒔が呼び鈴を押すと、ややあって中から人の気配がした。
「はい……?」
開いた扉から出てきたのは、間違いなくここの住人である緋勇龍麻その人だった。
心なしか精悍さが増したようにも見える龍麻は、
男子高校生が夏休みに自宅でしているようなだらしない格好はしておらず、
むしろきちんとした身なりだった。
意外にまめな同級生に評価を上げつつ、小蒔は邪気のない笑顔を向けた。
「おはよ、ひーちゃん。電話しても出ないからさ、様子見に来たんだ」
「……」
だが、龍麻の顔の方は服装ほどにきちんとはしておらず、
夏の太陽のような眩しい笑顔を向ける小蒔を、呆然ときっかり三秒見つめた彼は、
狼にだまされて扉を開けた羊のような勢いで戸を閉めてしまった。
「ちょっ……」
何か言いかけた小蒔の、扉の向こうで盛大に物がひっくり返った音が鳴り響く。
顔を見合わせた四人は、無言で決を採って中を確かめることにした。
決の結果は賛成二、反対二で多数決とはならなかったのだが、
賛成側の二人は、意見が統一されないとみるや実力行使に及んでいた。
「おい、何やってんだよ……ッておい……!」
小蒔に代わって玄関を開けた京一が立ちすくむ。
「なになに、ってうわ……!」
京一の脇をすり抜けた小蒔も、固まってしまった。
良識派の葵と醍醐は中の様子が判らず、やきもきする。
四人全員に真相が知れ渡ったのは五秒後だった。
小さな土間のすぐ先に、家主が倒れている。
だが、狭い玄関に押しかけた四人の視線は彼ではなく、
その先の居間に座る一人の女性に集中していた。
「お、おい……龍麻、てめェ……」
命の次に大切な木刀を手から落としてしまったのが、京一の衝撃を物語っていた。
木刀は一秒ほど床に垂直に立った後、静かに倒れ、
切っ先が床に倒れる龍麻の頭に直撃した。
「痛ッ」
寸時気を失っていた龍麻は、その打撃で我に返る。
頭をさすりながら身体を起こすと、京一にいきなり百八十度身体の向きを変えさせられた。
「痛ててててて」
「やいてめェッ! 人が心配して来てみりゃァ、
カワイコちゃんとよろしくやってるたァどういう了見だッ!」
「あ……」
ずっと隠し通すつもりではなかったにせよ、
もう少し折を見てから事情を話すつもりだった龍麻は、
一言も話さないうちから全ての事情が明るみに出てしまい、完全に自失していた。
怒りに――彼の怒りはおそらく正しくないだろうが――顔を赤くする京一と、
程度の差はあれ咎めるような顔をしている三人の視線が、音を立てて心臓に刺さるのだった。
二人と四人は居間に座っている。
居間といっても独り暮らし用の、七畳に満たない大きさなので、
六人も座れば室内は朝の山手線よりはましといった程度の狭さだ。
醍醐などはベッドに腰かけている有様だったが、誰も不平など言わなかった。
それどころではなかった。
「……」
龍麻の隣に座る女性を、四人は代わる代わる見る。
彼女は京一達の全く知らない女性で、いったい龍麻とどういう関係なのか、
見当もつかなかった。
「……説明してもらおうか」
京一は出された麦茶を一息に飲みほすと、小さなテーブルの上に身を乗り出して言った。
「どこから話したものか……」
龍麻は頭を掻いた。
「どこからもここからもねェッ、最初ッから最後まで全部だッ!」
京一がテーブルを叩くと、空のコップが小さく跳ねた。
すると、それまで目を閉じていた、龍麻の隣に座る少女が目を開けた。
「騒々しいの」
「むッ……まず、だ。この娘の名前を教えてもらおうか」
少女の声は低く、強く、京一はわずかに怯んだ。
しかし彼の好奇心の炎はその程度で消せはしない。
友人が――友人と信じていた男が、数日音信不通の挙句に
美女と同棲していたなどとは重大な裏切りであり、
是が非でも真実を明らかにしなければならない。
この場にはいないアン子のような使命感に燃える京一に、
小さくため息をついた龍麻は彼の要請に応じた。
「彼女の名前は雹だ」
「ひょう?」
雹という名前自体は変わっているが、咎められるものではない。
最初に不審に思ったのは葵で、彼女の不審が残りの三人に伝播するまで、
少しの時間を要した。
彼らの疑問を龍麻も予測していたので、自分から先に告げた。
「雹は名前で、苗字はない。なぜなら……なぜなら、彼女は江戸時代から来たからだ」
「……」
四人は揃って龍麻を凝視した。
龍麻は決して堅物ではないが、意味不明な冗談も言わない。
彼が口にしたのは、突拍子がなさ過ぎて、困惑すらしかねる戯れ言だった。
「江戸時代ってお前、四百年前かよ。じゃあ雹ちゃんは四百歳超えてるってことか」
「俺が行ったのは江戸時代末期、一八六六年頃だから、
その計算で行くと百三十歳くらいってことになるかな」
今度は冗談を龍麻は言ったのだが、箸が転がっても笑う年齢である
京一達は誰一人として、くすりともしなかった。
漂う沈黙を振り払うように、小蒔が訊ねる。
「本当……なの?」
「妾は冗談など好かぬ」
雹は京一に対してと同様、冷風を思わせる口調で小蒔に答えた。
聞く者に反感を抱かせるほどの冷たさだが、雹の美貌と雰囲気に圧倒されて誰も声を上げなかった。
冷えていく部屋の空気を和らげるように、龍麻が口を開く。
「五日前、か。俺が江戸時代にタイムスリップしたのは。で、戻ってきたのは昨日」
「タイムスリップって……お前、本気で言ってるのかよ」
「したんだからしょうがないだろ」
龍麻は肝心の、敵であった水角と邂逅し、その想いが龍麻を江戸に往かせたのだ
という点はうまくごまかしつつ、独りで旧校舎に潜り、
出てきたら百三十年前の江戸にいたと語った。
受験が差し迫った高校生が口にするには、いささかふざけすぎている話だが、
京一達は鬼や妖鬼といった同じくらいにふざけている事象を体験している真っ最中であるし、
何より龍麻の隣にいる、雹と名乗る少女の醸す雰囲気は、現代人のものとは思えなかった。
その雹が、京一を見ておもむろに口を開いた。
「御主の名は蓬莱寺というのかえ?」
「なッ、なんで俺の名前を」
「ふん、よう似ておるわ。騒々しいところなど特にな」
褒められているのではない、というのは京一にも伝わってくるが、
何しろ雹の口調はつららのようで、およそ友好というものに欠けていたので、
怒るべきかさえ判断がつかなかったのだ。
京一が人生で初めての経験――美女にあしらわれる――で途方に暮れている間、
雹はもう一人の男に話しかけた。
「そなたは醍醐か」
「あッ、ああ……そうだが」
雹は訊くだけ訊いて口を閉ざしてしまったので、醍醐も困惑することしきりだ。
コップの底に手を添えて優雅に麦茶を飲む雹に変わって龍麻が説明した。
「京一と醍醐のご先祖に会ったんだよ。彼らは龍閃組っていう組織で、
江戸を護るために戦っていた」
どれほど詳しい歴史書であっても、語られることのない真実。
大地の力である龍脈を暴走させて江戸を滅ぼそうとする柳生宗祟と、
富士山頂で死闘を繰り広げたなどと信じる人間がいるはずもなかった。
「何それ、いいなぁッ! ね、ボクのご先祖様には会わなかったの?」
ここにいた。
「うーん、会わなかったなあ。美里さんのご先祖様にも」
「ちぇッ、京一と醍醐クンばっかりズルいなあ」
小蒔たちには信じてもらえると思ってはいても、こうもあっさりだと拍子抜けする。
龍麻は自身が体験した非現実の証拠である雹を横目で見たが、
彼女は面倒な会話はすべて龍麻に任せるつもりなのか、氷の態度を保ったままだった。
「ヘッ、別に先祖なんざどうだっていいけどよ、そいつは強かったのか?」
「ああ、それは間違いない。醍醐の先祖も法力を使う坊さんだったけど腕っぷしも強かった」
「なかなか想像できんが、緋勇の役に立ったのなら、俺も負けてはいられないな」
「もうッ、何やってたんだろボクのご先祖様は」
本気で悔しがる小蒔に、雹を除いた五人が笑う。
笑いが収まると、ためらいがちに葵が口を開いた。
「江戸を護るためって言ったわよね、緋勇君」
「ああ」
「京一君達は誰と戦っていたの?」
龍麻はその質問を予測していなかったわけではない。
ただ、もう少し遅いタイミングだと良いと思っていたのだが、訊かれた上は答えるしかなかった。
「……鬼道衆だ」
「何イッ!? アイツ等そんな昔っから居やがったのかッ。当然ブチのめしてきたんだろうな」
京一の反応は過激であったけれども、他の三人も同様の嫌悪が浮かんでいた。
現代でまさに鬼道衆と戦っている彼らにすれば当然の態度である。
龍麻は雹と京一たち、双方の機嫌を損ねないよう慎重に言葉を選んだ。
「待ってくれ、確かに鬼道衆と京悟たちの属していた龍閃組とは対立してたけど、
最終的には協力して柳生って奴と戦ったんだ」
「何ソレ、どういうこと?」
全員を代表する小蒔の質問に、龍麻はタイムスリップしてからの経緯を話した。
その結果、雹が鬼道衆の一員であることを、皆に伝えなければならなかった。
「雹サンが、鬼道衆……」
呆然と呟く小蒔の反応が一番好意的といえるほどで、残りの三人はそれぞれ眉間に皺を寄せていた。
現代で龍麻たちが戦っている、目的は未だ不明ながら罪なき人々を犠牲にすることを厭わず、
東京を混乱に巻きこもうとしている集団こそが鬼道衆だった。
同じ名前を持つ集団に属しているという雹を、そして彼女と親しくする龍麻にも京一たちが
不審を抱くのは当然だった。
「さっきも言ったけど、鬼道衆と龍閃組は最後は対立していない。
柳生を倒すために力を合わせたんだ」
必死の釈明もほとんど受け容れられなかったようで、
京一などは無意識だろうが片膝を立て、右手に木刀を握り、
いつでも龍麻に殴りかかれるように構えていた。
「そりゃイイとしてよ、お前はどうなんだよ。これから先、鬼道衆に手加減しねェッて言い切れんのか?」
真剣のような殺気が宿る問いに、龍麻はうかつに口を開けなかった。
「ヤツらは罪のない人間を何人も殺してる。そんなヤツらと和解しようッてんなら俺は下りるぜ」
「京一ッ!!」
小蒔は叫んだが、それは彼の間違いを糺そうとするものではなかった。
京一の問いに対する答えを促すように龍麻を見る小蒔に応じたのは、彼ではなく雹の方だった。
「妾が忠誠を誓うのは御屋形様に対してのみじゃ。
そなたらが戦っておるという鬼道衆の頭領が御屋形様の血を引いておったとしても、
妾には関係のないこと」
雹の口調には淀みがなく、本心から言っているように見える。
とはいえそう簡単に信じるわけにもいかず、京一は腕を組んで考えこんでしまった。
重い空気を打ち消すように龍麻が姿勢を正す。
「雹が何かしたら俺が責任を取る」
「どうやって取るんだよ」
「すぐには思いつかないけど、とにかく取る。
それに、雹にはそんなことができない理由がある」
「なんだよ理由って」
「……雹は足の腱を切られていて、歩けないんだ」
四人は揃って雹を見た。
江戸から東京へ、刻を越えてきた女性は、いささかも怯まずに視線を受け止める。
その静けさに、詰っていたはずの四人は圧倒されていた。
「……!! 切られてって……誰がそんなヒドいコトしたの?」
「幕府の人間にじゃ」
雹の言葉を龍麻が引き取る。
「雹はガンリュウっていうからくり人形に乗って移動してたんだけど、
タイムスリップした時に失ってしまって、富士山から家まで戻る時は俺が背負ってきた」
二人の真剣極まりない表情に、京一たちは改めて二人が江戸時代から来たという話が事実なのだと悟った。
髪を掻き回した京一は、あぐらに戻した膝に肘をつき、掌には顎を乗せてぼやいた。
「かーッ、わかったよ、お前が土壇場で日和るとは思えねェし、女を疑うのも趣味じゃねェ。
今まで通りでいいッてこったろ、結局はよ」
「……そうだね、うんッ、ボクもひーちゃんと雹サンのコトを信じるよ」
「俺も緋勇のことは信じているさ。今はそれで良いと思っている」
醍醐に続いて葵も賛意を表してくれ、龍麻は胸を撫でおろした。
信じてもらえるとは思っていたが、早い段階で秘密を告白し、
受けいれてもらえたのはやはり嬉しかった。
緊張ですっかり喉が乾いたので、龍麻は全員分の麦茶を注ぐ。
喉を潤した小蒔が、コップを手の中で回しながら訊ねた。
「それで……雹サンはこれからどうするの? 帰れるんなら、帰ったほうがいいと思うけど」
「妾は龍麻の妻となる」
「ああそう……って、ええッッ!!??」
嵐が過ぎたと思ったら、突然の大嵐になったかのようだった。
声が一番大きかったのは小蒔だったが、他の三人も、葵でさえも驚き、叫んでいた。
嵐の中心にいる女性は、平然と茶をすすって続けた。
「そもそも龍麻が江戸の世に来たのは、妾に逢うためじゃったそうな。
夫とするにはいささか頼りないが、これも縁じゃ、仕方あるまい」
「仕方あるまいって、そんなのでいいの……!?」
いつもの醤油ラーメンが売り切れだから味噌にする、程度にしか聞こえない、
人生で最も大切なはずの決断をする雹に、特に女性二人は呆然とせずにいられなかった。
高校生で結婚というのは皆無ではないにせよ、相当に希少なケースであり、
想像も難しいというのは当然だった。
葵と小蒔は、ロボットのような動きで雹から龍麻へと頭を回す。
比翼連理の一方となる男は、頼りないと酷評されたにも関わらず、
溶けかけたソフトクリームのような顔をしていて二人を気味悪がらせた。
「まあ、そういうことだから。正式に結婚するのは卒業して……
できれは就職してからの方がいいだろうけど、雹は戸籍が取れるかどうかわからないし、
俺達の縁はそんな形式に縛られるものじゃないから」
結婚詐欺師のようなことを言った龍麻は、同意を求めて雹を見たが、
彼女はそっけなく頷いただけだった。
落胆する龍麻に、四人は度合いは違うものの二人の行く末を案じずにはいられないのだった。
昼近くになって京一たちは帰ることになった。
魂消た、というしかない状態に、四人の中では一番理性的と思われる葵でさえ陥っており、
一度現実の空気を吸わなければ回復できそうになかったのだ。
「じゃーね、ひーちゃん。雹サンも」
手を振る小蒔を見送った龍麻は、居間に戻ってくると思わずテーブルにへたりこんだ。
「ふう……いきなり来るんだもんな。心の準備ってもんが要るのに」
「仲の良いことじゃな」
ぼやく龍麻に雹が応じる。
皮肉かと思ったがそうではないようで、龍麻を見る彼女の瞳は穏やかだった。
「気分を悪くしたかもしれないけど、いい奴らだから」
「お人好しなのは眼をみれば分かる。苦労をしていなさそうじゃな」
中々手厳しいが、彼女の境遇を思えば無理もない。
とにかくこれ以上険悪になるのは回避しようと、龍麻は弱々しく笑って曖昧に同意した。
「それからの」
まだ何かあるのか、と訝る龍麻に、雹は淡々と告げた。
「妾の足じゃが、動くようになっておる」
「……は?」
龍麻は四人に数時間問い詰められて精神的な疲労が大きく、
間の抜けた反応になったのは仕方のないことだっただろう。
しかし、龍麻の間の抜けた顔を冷たく見据えた雹は、椿色の唇を閉ざすと、
龍麻にとってはありえない動作をした。
「……!!」
雹の顔が、垂直に上昇する。
反射的に目で追った龍麻は、彼女の目がこれまで見たことのない高さで
止まったことに、驚きのあまり固まっていた。
「先程言うても良かったが、面倒になりそうだったのでな」
雹の判断に感謝しつつ、龍麻は慌てて立ちあがった。
再び雹の眼は龍麻より下になったが、その差はずっと縮まっている。
「いつから……?」
「判らぬが、何かあったとすればこの時代に来た時じゃろうな」
確かに、それ以外に納得できそうな理由はない。
氣に満ちたあの旧校舎を通じて過去から現在へと刻を越えた際に、
氣によって雹の肉体の傷が修復されたのだろうか?
それとも、もっと合理的、あるいは非合理的な解答があるのだろうか?
思考を巡らせていた龍麻は無意味だと気づいて考えるのを止めた。
大切なのは今だ。
たとえ雹の足が動かなくても、龍麻は彼女を支えると誓ったのだから、
動くのならばそれで良いのだ。
ほぼ等しい高さから龍麻を見上げる雹は、弛緩している男の顔に呆れているのか、
目を細めているが、常の迫力は欠けていた。
冷たい氷雪もいつかは溶け、春を告げる生命の水となる――
その事実を全身で理解した龍麻は、彼女を強く抱きしめた。
「ようやくかえ。ほんに気の利かぬ男じゃの、そなたは」
往古に聞いた言葉に、龍麻は目を見開いた。
不審そうに見つめる雹に、一度目を閉じた龍麻は、そのまま両腕の力をさらに増した。
雹の恨み――邪念を使い、外法によって甦った水角という女性。
彼女は雹であり、雹でない。
だが彼女がいなければ、龍麻は雹という女性を愛することもなかった。
彼女がいたからこそ、龍麻は百三十年の刻を超え、雹とめぐりあうことができたのだ。
「何があっても、俺は雹を護る。それから、現代に来たことを後悔させない。
絶対に幸せにしてみせる」
「約定を違えるでないぞ」
「ああ」
再び力強く雹を抱きしめる。
雹は抗わなかったが、ひとつだけ龍麻の予想を裏切る動きをした。
「……!!」
踵を浮かせた雹の口唇の柔らかさは、龍麻をこの日何度目かの呆然とさせる。
彼をずっと見つめていた、元の高さに戻った雹の眼が悪戯っぽく笑った。
「自分から動くのは久方ぶりじゃが、そう悪いものでもないな」
その笑顔こそ、時を越えて求めていたものだと実感した龍麻は、
もう一度、万感の想いを両腕に込めて雹を抱きしめるのだった。
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