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珍しく用事があって普段は嫌いな人ごみ──新宿の街へやって来ていた雪乃は、
聞きおぼえのない声に自分の名前を呼ばれて振りかえった。
「織部雪乃さん、ですよね?」
親しげに微笑む少女の顔は、雪乃の抱いていた警戒心を和ませる優しさがあった。
「私、舞園さやかっていいます。以前龍麻さんとご一緒した事があるんですけど、
その時にちょっとだけ雪乃さんともお会いしたんです。覚えていらっしゃいませんか?」
龍麻の名前が出た事で雪乃は一気にさやかを信用する気になっていた。
雪乃は彼女の事をすっかり忘れていたが、それはこの場合失礼にあたる事だろう。
警戒心を急いで振り払って曖昧な笑みを浮かべた雪乃の脳裏に、突然ある記憶が像を結んだ。
「……ってあんた、あの舞園さやかかッ!?」
何の事はない、ついさっき駅のポスターで彼女を見たばかりなのだ。
目の前のさやかはカモフラージュの為か、帽子を被っているために随分とイメージが違ったが、
しかし言われてみれば確かにさやか本人だった。
元来それほど芸能人に興味がある訳ではない雪乃も、目の前にいては流石に興奮を抑えきれず、
思わず大声で叫んでいた。
さやかの表情を見て雪乃は自分の過ちを悟ったが、後の祭りだった。
通行人が足を止め、さやかに気が付いた何人かが騒ぎはじめる。
それは一気に大きなざわめきとなり、たちまちさやかを中心に人の輪が出来てしまう。
少しずつ狭まって行く輪が完成する寸前にさやかは慌てて雪乃の手を掴むと、
脱兎の如くその場を逃げ出した。
十数分後、細い路地を縦横に走り続けた二人はなんとか
追っ手から逃れる事が出来たのを確認して、ようやく息をついた。
「はぁ、はぁ……」
普段から武道で鍛えている雪乃はそれほど息も乱れていなかったが、
さやかは手を膝について肩で大きく呼吸している。
自分がその原因を作ってしまった事を申し訳なく思った雪乃は、
周りを見渡して自販機を見つけるとスポーツドリンクを買ってきてさやかに手渡した。
「あっ……ありがとうございます」
「いや、わ、悪かったな。考えなしに大声出しちまって」
「いえ、いいんです……慣れてますから」
礼を言って缶を受け取り、半分程も一気に飲み干したさやかは、
美味しそうに息をつくと残った缶を雪乃に差し出した。
「はい、雪乃さんもどうぞ」
「オ、オレ!?」
全く予想もしていなかったさやかの言葉に、雪乃は思わず素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
友達同士での回し飲みなどでは意識したことすらなかったが、
差し出された缶の、さやかが口を付けた所に口紅が薄く付着しているのに気が付いた時、
雪乃は自分の心臓が激しく音を立てだすのを感じていた。
「どうかなさったんですか?」
腕を差し出したままのさやかに、不自然に思われてはまずいと思った雪乃は慌てて手を伸ばしたが、
緊張が腕にまで伝わっていたのか、受け取り損ねて缶を落としてしまった。
不粋な音を立てて、中身の残っていた缶が地面に転がる。
「あ……」
「あ、ご、ごめんなさい! 新しいの、買ってきますね」
「い、いやッ、いいんだ。オレが悪いんだし、そんなに喉乾いてないから」
雪乃は素早く身を翻して自販機に向かおうとするさやかをとっさに押し留めたものの、
そこでなんとなく話題が途切れてしまい、二人の間に微妙な沈黙が流れる。
「あ……あのッ」
「な、なんだよ」
「……い、いえ、なんでもないです」
一分ほども会話の糸口を探した後にようやく口を開いたさやかだったが、
雪乃の照れ隠しから生じたぶっきらぼうな返事に気圧されたのか、すぐにまた黙ってしまう。
雪乃は自分の口下手さにうんざりしたが、今更言っても詮無い事だった。
それよりも、自分の口の聞き方で怖気づくような奴とは無理して話さなくても良い、
と言うのが今までの流儀だったのに、
どう言う訳かさやかになら自分の方が折れても構わない、
そう思えるのが我ながら不思議だった。
だからと言って謝るのもおかしい気がして、雪乃は先程のさやかと同じく、
必死に頭を回転させる。
しかし実質的には今初めて会ったさやかと何を話していいのかまるで思い浮かばず、
挙句、結局まるで関係無い事を口にしていた。
「なッ、なァ、あの……今からカラオケ行かないか?」
ごく普通に誘うだけなのに、舌がもつれてしまい、何やら息苦しささえ覚える。
それは異性をデートに誘うのにも似た緊張かもしれなかったが、
まだその経験がない雪乃には解らなかった。
「あッ……ごめんなさい、もうじき仕事の時間なんです」
「そ、そッか……」
雪乃はさやかの即答に近い返事を体のいい社交辞令だと受け取って意気消沈したが、
どうやら彼女は本当に仕事のようだった。
その証拠にさやかも雪乃に負けないくらい残念な顔をしていたが、
何かを思いついたのか突然手を打ち鳴らした。
「……そうだ! 雪乃さん今度の日曜日空いてますか?
良かったら、私の家に遊びに来ませんか?」
「えっ?」
「駄目……ですか?」
「い、いや、予定なんてないけど……オレなんかが行っちゃっていいのか?」
「はい! ぜひ遊びに来てください」
さやかは鞄の中からメモ帖を取り出すと、簡単な地図を書いて小さく折りたたんだ。
両手で大事そうに差し出された紙切れに、雪乃は思わずジーンズの裾で手を拭ってから受け取る。
「それじゃ、私もう行かないといけませんから。日曜日、待ってますね!」
紙片を雪乃の掌に丁寧に握りこませると、さやかは素早く身を翻す。
その姿が完全に見えなくなっても、
雪乃はさやかの手が触れた部分を呆けたように見つめ続けてていた。
そして、日曜日。
雪乃は生まれて初めて雛乃に行き先を偽って家を出た。
別に隠す必要は無いはずだったが、なんとなくさやかの家に行く、と告げるのはためらわれた。
何の疑いも抱かずに見送ってくれた妹にいささかの罪悪感を抱きつつも、
アイドルの家にプライベートで呼ばれる、という優越感はそれを上回るものだった。
教えられた住所にあるマンションに辿りついた雪乃は、
大きく深呼吸をするとホールでさやかの部屋の番号を押す。
モニターに現れたさやかは、雪乃の姿を確認するとすぐにロックを外してくれた。
動き出したエレベーターの中で、雪乃は自分の身体を見下ろす。
何を着ていこうか悩みもしたが、悩むほどたくさんの服を持っていなかったので
結局いつもと同じ、白いシャツにデニムの上下というラフな格好だった。
小さくため息をついた雪乃は、不意にそんな事で悩むのは全く自分らしく無い事に気がついて苦笑する。
軽く頭を掻き回した所で、エレベーターの扉が開いた。
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