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雪乃が降りた階には、扉が三つしかなかった。
建物の大きさに比してこれだけ軒数が少ないのは、
一戸あたりの大きさとプライバシーの保護を兼ねているのだろう。
どの家にも表札などなく、雪乃はインターホンを押すのに何度も部屋番号を確認してしまった。
「いらっしゃい。どうぞ上がってくださいッ!」
何がそんなに嬉しいのか、思わず雪乃が訝しんでしまうほど、
重そうな扉を開けて出迎えたさやかの声は弾んでいた。
「あッ……あぁ。邪魔するぜ」
家の中に通された雪乃は、思わずぐるりと室内を見渡していた。
自分達の家も古い家だから広さだけはそれなりにあるが、
ここは比較にならないきらびやかさに満ちていた。
「私一人ですから、どうぞ気楽にしてください」
「凄ェな……一人暮らしなのか?」
「ええ、プライバシーとかあって、本当は私も両親と一緒に居たいんですけど」
「そっか……あ、ああ、これ。良かったら食べてくれよ」
さやかの口調にはそれほど寂しい様子は感じられなかったが、
考えて見れば、まだ正確には友人ですら無い自分にいきなりあけすけに本心を見せるはずもない。
雪乃はこれ以上話題に深入りするのを避けようと、
手ぶらでは流石に悪いと思い、
普段はほとんど行った事もないケーキ屋で買ってきた手土産を手渡した。
「ありがとうございます! 今紅茶を淹れますから、そこに座って待っててください」
スリッパの音を小気味良く立てながら、
踊るように台所を動き回るさやかの姿に雪乃はつい目を奪われてしまう。
家でいつも目にする、礼儀作法をきちんと身につけた雛乃の仕種も、
さやかのこの軽やかな仕種も、どちらも雪乃にはとうてい真似の出来ない物だった。
いささかのコンプレックスを抱かされた所で、さやかがカップとポットを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
出された紅茶が注がれている白い陶器を、感動したように眺める。
自分達の家の生活色にこんな純白色は無く、
改めてさやかが自分とは違う世界の人間なのだ、と雪乃は少し大げさな感想を抱いていた。
龍麻以外に共通点のほとんどない二人の会話は少しぎこちなく始まったが、
さやかの会話のセンスに助けられて急速に親しい物になっていった。
「だからさ、オレは言ってやったんだよ。ラーメンばっか食べてるからそうなるんだって」
「でもあそこのラーメン屋さん、美味しいですよねッ」
「そりゃ認めるけどよ」
さやかが楽しそうに笑うと、渋い顔をしていた雪乃もつられて笑い出す。
雪乃の話を聞く度にさやかは目まぐるしく表情を変え、そのどれもが愛嬌に満ちていて、
彼女が天性のアイドルだと言う事を雪乃は身を持って知った。
芸能人など軟派な人間がなる物だ、という偏見をずっと抱いていて、
今もそれは正しいと信じているが、さやかになら、世の中の男達が憧れるのも判る。
現に自分が今、たった数十分話しただけで夢中になっているのだから。
ただ、それにしても。
自然に会話が途切れた所で、雪乃はある感覚を抱いていた。
先程からさやかがじっと自分を見つめているような気がするのだ。
少し俯いて様子を伺いながら、目だけを軽くさやかの方に向けると、
すぐに彼女の瞳がこちらを向いて、自分の勘違いなどでは無い事が判った。
それはきっと、芸能人特有の話し方なのだろう。
雪乃はそう思いこもうとしたが、それにしてはどうも視線に熱を感じてしまうのだ。
色っぽい、というか、思わず抱き締めたくなるというか、とにかく、
雪乃はやたらに頬が熱くなってしまうのを感じたが、このまま下を向いている訳にもいかず、
微妙に目を合わせないようにしながら顔を上げた。
雪乃の態度に気付いたかどうか、さやかは不意に話題を転じる。
「雪乃さん、髪の毛あんまりお手入れされないんですか?」
「あァ……面倒くさいからな」
普段級友に同じ事を聞かれてもぶっきらぼうに答えるだけだったが、
さやかに尋ねられると何故か少し気恥ずかしさを覚えてしまう。
「そんな…せっかく髪質が良いんですから、
きちんとお手入れすればきっと素敵になりますよ」
「そ……そうかぁ?」
雪乃にはとてもそうは思えなかったが、無下に否定するのも気が咎めてあいまいに答える。
しかしそれを、さやかは興味がある、と受け取ってしまったようだ。
「そうだ! 私が使っている道具、雪乃さんにも分けてあげます!」
「いッ、いいよオレは」
「ねっ、せっかくこうして会えたんだし、これも何かの縁だと思って」
さやかは席を立つと渋る雪乃を引っ張って、半ば強引に鏡台の前に座らせてしまった。
「リボン……解きますね」
さやかの肢体からほのかに漂う何がしかの芳香が雪乃の意識を軽く浮き足だたせる。
下ろすと肩よりもわずかに下に来る、茶色に近い黒髪の端をさやかに軽く触れられると、
急に背筋が今まで経験した事のない感覚で震えてしまい、
思わず手を固く握り締めて太腿の上に置いた。
何か話せば声まで震えてしまう事が判っていたから、無言のままさやかの方を振りかえる。
さやかは安心させるように微笑むと、鏡台の傍らに置いてあった化粧箱の蓋を開けた。
まるでそれぞれが意思を持つかのように整然と並んだ瓶を、次から次へと使い始める。
雪乃にはどれも同じに見えたが、全てにきちんと意味がある事を、
仕上がった髪を見たら納得せざるを得なかった。
単に髪を下ろした格好なら風呂上りにいくらでも見た事があるが、
今鏡に映っている自分は、見た目はほとんど同じなのに全体が醸し出す雰囲気が全く異なっていたのだ。
「どうですか?」
「あ……あぁ、正直、びっくりしてるよ」
「良かった……気に入られなかったらどうしようってちょっと心配だったんです」
「……でもさ、ちょっと……派手すぎっていうか、この顔じゃ似合わなくねぇか?」
本当は似合うとか似合わないとかでなく、
雛乃や小蒔に何を言われるかが怖くてとてもこの髪型は出来なかった。
さやかをなるべく傷つけないように言葉を選んだつもりだったが、
自分の後ろにいるさやかの眉がほとんど泣きそうに曇る。
「えっと……少しだけお化粧すればちょうどぴったりだと思うんですけど」
「化粧なんて……したこと、ねェよ」
「そ、そうなんですか? ……でも、こんなに綺麗な肌をしているから、
必要なかったのかも知れませんね。ね、少しだけ、お化粧してみませんか?」
雪乃にとって化粧は髪型のセットよりも、もっと苦手な事だった。
たまにそういう話題が出ても、武道をする時は邪魔だとかを理由に、ほとんど逃げるように避けていた。
今もいくらさやかの頼みとは言え本当なら勘弁して欲しかったが、
もし断って泣き出されでもしたら大変な事になるので、
ここは顔を立ててやるつもりで、雪乃は不本意ながら申し出を頷いて受け入れた。
変わっていく自分を見るのが怖くて、目を閉じてさやかの化粧を待つ。
すぐに化粧品のむせかえる香りが鼻を突きはじめ、
化粧をされている間、雪乃はむず痒いのを懸命に堪えなければならなかった。



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