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 時計の針が、残酷に時の流れを告げる。
小蒔はうなだれていた頭を上げ、閉ざされた白い扉を見やった。
何かを感じたつもりだったが、扉に変化はなく、また気のせいだったようだ。
わずかな空気の乱れ、あるいは予感の度に小鳥のようにせわしなく頭を上げ、
扉の向こうにいる龍麻を気遣う。
しかし、ごく普通の病室の扉は、いかなる者の侵入をも拒むように白く、頑なに開こうとしなかった。
 小蒔の隣では醍醐が、こちらは顔の前で手を組み、半目のまま扉を睨みつけている。
大抵の人間を怯ませ、少なくとも歯向かおうという気は無くさせる、
武威に満ちた眼光だったが、扉はやはり微動だにしない。
 醍醐の更に隣には、京一がいた。
常に陽性で、龍麻と共に騒ぎ、先陣を切る剣士は、己の得物をへし折りそうなほど握り締めていた。
 剣にたのむ、とはいささか大げさに過ぎる言い方かもしれないが、
剣は京一にとって最も大切なものであり、分身ともいえる存在だった。
 それを、京一は憎しみを込めて掴む。
全ての感情を、拳に凝縮させて。
 劉は壁にもたれ、黙していた。
何もしていなくても笑っているように見える、細い弦月の眼に、殺気を有する羅刹を宿らせ、
唇は破れそうなほどにきつく噛みしめながら。
 そして──葵は額の前に手を組み、ひたすらに祈り続けていた。
扉の向こうで治療を受けている、大切な男性ひと
彼に癒しの『力』を使えないことを嘆きながら、きっとたか子が龍麻を治してくれると信じ、
一心に祈りを捧げていた。
 遂に姿を現した、赤い学生服の男、柳生宗祟。
十七年前より続く龍麻の宿命、そして因縁を聞きに、
龍麻の父、弦麻と共に十七年前『凶星の者』と闘ったという楢崎道心に話を聞きに行っていた
龍麻達の許に、その男は不意に現れた。
道心の結界をも破り、外法を以って龍麻を陰氣の壁の中に閉じこめた柳生は、
龍麻一人に狙いを定め、龍麻の攻撃を易々とかわすと、手にした日本刀で腹部を貫いたのだ。
 道心が陰氣をはらった時、京一達が見たのは、
おびただしい量の、自らが生み出した血溜まりの中に倒れている龍麻と、
彼の血に塗れた日本刀を携える柳生の姿だった。
「てめェッ……!!」
 跳びかかろうとする京一を醍醐は必死に抑える。
柳生のまとう陰氣は圧倒的で、龍麻を欠いた今勝てるとは思えない。
それよりも龍麻を救出することの方が、遥かに大切なはずだった。
 柳生は何故か残った京一達に凶刃を向けることはなく、悠然と立ち去っていく。
その態度に疑念を抱く醍醐だったが、とにかく龍麻の安否を確認しなければならなかった。
「龍麻っ!!」
 駆け寄った葵が、すぐに『力』を用いる。
しかし、幾度も龍麻や仲間の危難を救った癒しの『力』は、どういうわけか全く効力がなかった。
取り乱した葵は再度『力』を念じるが、やはり龍麻から氣の回復は感じられない。
 いよいよ狂乱せんばかりの葵をなだめ、
京一達はこの事態に唯一対処出来るであろう人物の許へ龍麻を搬送することにした。
 血相を変えて病院に飛び込んできた京一達を、いかにも大儀そうに出迎えた院長のたか子は、
醍醐の背に担がれた龍麻を見た途端、有無を言わせぬ口調で手術室に運ばせ、
醍醐がベッドに龍麻を横たえると用済みだとばかりに追い出した。
 以後二時間が過ぎた今でも、彼女は経過すら報告に来ておらず、
劉を含めた五人は待合室で苦痛と不安に満ちた刻を過ごしていた。
「……」
 小蒔は開きかけた口を閉じる。
声に出してしまえば、話題はひとつしかなく、それが言霊──道心の話してくれた、
東京を守護しているという、言葉に込められたまじないの力──となってしまうかと思われたのだ。
 龍麻が治療を受けている部屋への扉から時計へと機械的に視線を動かした小蒔は、
元の、無機質な床へと戻す前に、隣に座っている葵をちらりとうかがった。
目を閉じ、龍麻の回復を願っている葵は、美しさと硬質さにおいて彫像さながらだった。
呼吸すら止めてしまったかのように身じろぎもせず、ただ一心に龍麻の無事をのみ祈り続けている。
 だが、それが意味する痛々しさを思うと、小蒔はたまらなくなる。
龍麻が治らなければ、葵は後を追ってしまうのではないか──
葵の、龍麻への想いの深さを思うと、そんな考えすらよぎってしまう小蒔だった。
 不吉なことを考えてしまって、小蒔は自分を戒めるように拳を握る。
心臓が、恐怖に悲鳴をあげていた。
春に転校生として龍麻を迎えてから、ずっと五人で過ごしてきた八ヶ月。
喧嘩をしたり、危険なこともたくさんあったけれど、
間違いなくこれまでの人生の中で最も楽しい期間だった。
それが、卒業という形で終わりを告げることはあっても、
こんな形で途切れてしまうなどとは思ってもいなかった。
 醍醐がいなくなった時も、京一が失踪した時も、これほど怖くはなかった。
醍醐は怪我はしていなかったし、京一も敗れたところを直接には見ていない。
しかし、龍麻は眼前で、おびただしい血を流して倒れているところを見せられてしまったのだ。
地面に染みこんだ赤色と、立っていてさえ漂ってきた臭いは、
最もいやな記憶として脳裏に、剥がれないのりのように貼りついてしまっている。
それを剥がすには、大切な友人の元気な顔を見るしかなかったが、龍麻は未だ姿を見せようとしなかった。
「ひーちゃん……」
 我知らず、小蒔は龍麻を呼ぶ。
春から、ひーちゃんと呼ぶようになったのは夏からだったけれど、幾度となく呼んできた名。
葵や京一や醍醐の名と同じくらい、呼ぶことが自然になっていた名前。
 これまでの中でもっとも弱々しく、小蒔が龍麻の名を呼ぶと、
永遠に閉ざされたのではないか、と忌まわしい想像すらしかけていた病室への扉が開いた。
「……!!」
 不承不承といったように開いた扉から現れたたか子の巨体に、小蒔は駆け寄った。
彼女に続いて、劉を含めた四人もたか子の周りに壁を作る。
「先生、龍麻は」
 普段は女性が近づくことさえ好まないたか子が、すがりつく葵を払いのけようともしない。
巨大な脂肪の塊に眉目を乗せただけ、とも形容できるたか子の表情は暗く、
京一達は決して考えてはならない可能性を想起してしまう。
そんな予感など、外れれば良い──しかし、願いは届かず、
たか子の厚い唇から放たれたのは、彼らを芯からふるわせる台詞だった。
「お前らは、一度帰れ」
「なッ……ンな事聞けるワケねェだろッ!!」
 斬りかからんばかりに詰め寄る京一にも、たか子は怒ることも、
無論いつもの、あの京一を怯えさせる笑みを浮かべることもなかった。
ただ、どこも──取り囲む五人の誰をも見ず、遠くを見て告げる。
「これから本格的な治療に入る。成功率は良くて三割と言ったところだ。
全力は尽くすが、正直かなり分が悪い。いずれにしても朝まではかかる、お前達は一度寝てこい」
 たか子は甘い幻想を患者や周りの者に抱かせない。
それは彼女が世界でも屈指の治療者ヒーラーであり、大概の患者は治せるからであるが、
その彼女が三割、と言ったことに、京一達は目が眩む思いだった。
「おい、龍麻は助かるんだろうなッ!!」
 京一が声を荒げる。
「わからんと言っておる」
 たか子の口調も激しく、一触即発の雰囲気が立ちこめる。
誰も止めようとする者がいないまま、いやな空気だけが濃さを増していく中、不意に動いた影があった。
それはこの場の誰もが予想していなかった人物の、予想していなかった行動だった。
葵が、龍麻が眠っている病室への扉を塞ぐように立っているたか子の脇をすり抜け、
中へと入っていったのだ。
「葵ッ!」
 小蒔が後に続こうとするが、たか子の巨体に阻まれてしまう。
京一や醍醐をも眼光で威圧したたか子は、
医者プロの言うことを聞かない不届き者をつまみ出すために再び部屋へと戻った。
 中に入った葵は、目の前の光景が理解出来なかった。
白く清潔なベッド、同じ色のカーテン。
そこから射しこむ冬の陽光は強さこそないが、病室全体を明るく照らし出している。
 なのに、そこに横たわる龍麻の寝顔は、白かった。
まるで病室と色を合わせたかのような白さは、およそ生気というものが感じられない。
授業中に幾度か見たことがある、いかにも気持ち良さそうな寝顔と造作だけが同じで、
偽者めいた印象すら受ける。
いや──偽者ならどれほど良かったことか。
目の前でせっている龍麻は、紛れも無く本人だ。
腹に空いた穴を大慌てで塞いだ包帯に上半身を包まれ、点滴を受けている目の前の男は、
間違いなく龍麻その人だった。
「龍……麻……」
 現実を受け入れるのを拒む足を懸命に動かし、龍麻の傍までのわずか数歩を必死に近づく。
同じく現実を拒もうと震える手を伸ばし、龍麻の頬に触れた葵は、
やはり身体の──本能の指示に従っておけばよかったと後悔した。
 冷たい身体。
昨日感じた、あの暖かい身体はどこに行ってしまったというのだろうか。
昨日抱き締めてくれた、あのたくましい身体はどうなってしまったというのか。
 傍らで泣いている、この病院の看護婦見習である舞子にも気づかず、
葵は血の気を失った唇を破れそうなほど噛んだ。
 ほとんど無意識に、葵は『力』を使う。
癒しの力を、彼の為に与えられた力を。
渾身の想いを込め、龍麻の肌に触れさせた掌から氣を注いだ。
しかし、淡く輝いた掌がその輝きを失っても、龍麻の目が開くことはなかった。
そんなはずがない、と葵はもう一度『力』を使う。
とがは自分の方にあるのではないかと、前以上に集中して。
だが、やはり掌から光が消えても、龍麻の身体に何も反応はなかった。
癒された後、必ず見せる少し照れくさそうな笑顔も、もちろん浮かび上がることはなく、
ただ冷たい表情で眠っているだけだ。
 絶望。
自分のこの『力』は、何の為に与えられたのか。
東京など護れなくてもいい、龍麻が護れなければそんな『力』に意味などない。
「お願い、龍麻、目を開けて」
 葵は念じ、『力』を使う。
だが、龍麻がそれに応えることはなかった。
「龍……麻……」
 葵は自分が涙を流していることさえ気付かず、
鸚鵡おうむのように無意味に愛しい男性ひとを呼び続けた。



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