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たか子にとって、葵と龍麻がどのような関係であろうと知ったことではない。
龍麻は医師の治療を必要とする怪我人であり、葵はそれを邪魔する素人に過ぎないのだ。
葵が自分や高見沢と同じ系統の『力』を持っていることは知っていたが、
訓練を受け、氣を増幅させている自分には及びもつかないだろう。
生兵法で余計な手間を増やされては、助かるものも助からなくなる。
龍麻が受けた傷は容易なものではなく、京一達に向けて言った三割という数字ですら怪しい。
後輩──そして、彼の教え子を救(けるために、たか子はむろん最善を尽くす。
しかしそれでも、龍麻の状況はあまりにも絶望的だった。
高見沢がもう少し成長(していれば──
言っても詮無きことながら、たか子はそう思わずにいられなかった。
そうすれば、確率は飛躍的に高まるというのに。
そうしてないものねだりをすることが、既に医者としてあるまじき態度だ。
それに気づいたたか子は、顔をわずかにしかめ、床を踏み鳴らした。
折りしもたか子が病室に入った時、葵の掌から癒しの氣が龍麻に向けて注がれているところだった。
彼女から放たれている光を見て、確かに葵の『力』に非凡なものがあることをたか子は認めたが、
今の龍麻はそれだけでは救えない、極めて危険な状況にある。
たか子は彼女の襟首を掴み、病室から放り出そうとした。
葵はこの細身の身体のどこにそんな力があるのかというほど頑なに龍麻から離れようとせず、
ほとんど狂乱の域に達している。
髪を振り乱し、般若の如き形相で抗う葵に、たか子はふと思いついたことがあった。
確かにこの娘の『力』は非凡だ。
ならば、それを利用すれば──
事態は逼迫(しており、一刻の猶予もない。
自分一人が治療を行うよりは、この娘にも手伝わせれば数パーセントは助かる率が上がるだろう。
たか子は素早く判断を下し、まだ無駄な『力』を用いようとする葵の肩を掴んだ。
「美里葵と言ったな、わしの話を聞け」
たか子が呼んでも、葵は聞こえていないようだったが、
かなり強く肩を掴むことでようやく正気に戻った。
「先生、龍麻が」
「聞けと言っておる」
専門家の威厳で葵を黙らせたたか子は、彼女の瞳を睨みつけて語りかけた。
今から行うことは可能性の低い、いわば賭けであり、
成功させるためには、精神を取り乱していては話にならない。
「斬られた部分から入りこんだ陰氣が、病原菌のように緋勇の身体を蝕んでおる。
今氣を注いでも、この陰氣に食われてしまって逆効果なのだ。
だからまずはこれを浄化し、次に陽の氣を以って回復を図る。浄化はわしがやる。だからお前は」
たか子が説明すると、葵は一秒でも惜しい、というように遮った。
とめどなくあふれていた涙が止まり、深く黒い瞳に理性が戻る。
「陽の氣を龍麻に、ですね」
「うむ。いいか、一気に注いではお前の身体が保(たん。
浄化には恐らく、最低でも半日はかかるだろう。その間絶えず氣を注ぐ……出来るか」
「やります」
葵の返事に迷いはない。
たか子は重々しく頷くと、すぐに処置を始めることにした。
「わかった。高見沢にも手伝わせるが、基本的にはお前一人だと思え。決して楽ではないぞ」
無論、葵はそのつもりだった。
龍麻を救(けるのに、他人の手は極力借りたくなかった。
それを傲慢と言われないためにも、途中で倒れたり、弱音を吐いたりするわけには絶対にいかなかった。
勁(い決心を胸に、葵は龍麻の手を握った。
全霊を込めて癒しの『力』を使いたくなるのを抑え、龍麻に氣を注ぐ。
決して焦ってはならないと承知していても、目に見えては全く変化のない龍麻の容態に、
ともすれば葵は過剰な氣を込めてしまいそうになる。
しかし過剰な氣は陰氣をも活性化させてしまうので、
生命維持に必要な最低量だけを龍麻に与えなければならない。
しかもそれは、途切れてはならないのだ。
たか子が言った以上の困難な治療だった。
たか子はあれから、脇に控えている舞子に対しても一言も口を聞かず、黙々と治療を行っている。
目だけを動かしてたか子の様子を覗(った葵は、再び意識を龍麻に戻した。
見るだけで、不安に氣が大きく乱れてしまう。
治療はいつまでかかるかわからず、些細な消耗もするわけにはいかない。
これは闘い──そう、龍麻を奪おうとするものとの闘いなのだ。
改めて誓った葵は、静かに氣を注ぐ。
いつ終わるとも知れない闘いは、まだ始まったばかりだった。
龍麻の病室に入っていった葵も、彼女を追ったたか子も、戻ってくる気配はない。
新たな焦慮に身を切り刻まれていた小蒔の隣で、京一が不意に立ちあがった。
小蒔や醍醐を顧(みようともせず、足早に出口に向かう。
「待ってよ、どこ行くのさ」
「二日したら戻ってくる」
それだけを告げ、京一は行ってしまった。
こんな時に勝手な行動を取ろうとする京一に、
行き場を求めていた激情に駆られ、小蒔は罵声を浴びせようとする。
すると肩に乗せられた大きな手が、それを留めた。
「京一(のことは任せろ。それよりも桜井は、緋勇と美里についていてやってくれ」
「そんな……醍醐クンまでどっか行っちゃうの?」
振り向いた小蒔の瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
それを見た醍醐は怯んだが、それでも意思を曲げるわけにはいかなかった。
「すまん、桜井。だが京一は緋勇を護れなかった自分を責めている。そして、それは……俺もだ」
「そんな……」
「俺達はこのままでは自分を許せなくなる。奴を……柳生を斃(さない限りは」
「でも、どうする……の?」
「二日でどれだけのことができるかは解らんが、やれるだけのことはする。
だから桜井は、二人を頼む」
長い沈黙の末に、小蒔の頭が小さく動いた。
「絶対……だよ」
堪えていた涙が、静かに落ちていく。
床にできた小さな水溜りは、その後も幾滴かを加え、澄んだ輝きを生み出していた。
醍醐クンを止めちゃいけない。
だから、顔を上げちゃいけない。
小蒔は頭を押さえ、顎を伝う滴の不快さにじっと耐えていた。
小蒔の想いが解るだけに醍醐は辛い。
何も出来ないとしても、彼女の傍にいてやるべきではないのか。
自分自身の想いとも合致するその考えを、醍醐は拳を固め、握りつぶす。
彼女を護り、仲間を護り、東京(を護るために、今すべきことは、彼女を慰めることではなかった。
龍麻が帰ってきた時のために、醍醐は踵を返した。
その背中に、力の篭った声が届く。
まだかすかに慄(えてはいるものの、いつもの快活さを取り戻しつつある彼女の声は、
何よりも醍醐を力づけるものだった。
「絶対……二日経ったら戻ってきてよ」
「ああ……すまない」
後ろを振り返らずに頷いた醍醐は、京一の後を追って走り出した。
醍醐が病院を出た時、京一の姿は辺りになかった。
それでも、醍醐には京一がどこに向かうのか確信があったので、早足で彼を追いかけた。
五分ほど行ったところで、怒りを木刀の先にまで漲(らせて歩く友人を見つける。
隣に並んだ醍醐は、正面を向いたまま話しかけた。
「どこへ行く、京一」
「てめェには関係ねェだろ」
「……そうか」
荒い、怒気をそのまま形にしたような声にも、醍醐は動じることなく共に歩く。
すると一分もしないうちに、京一が苛立ったように声を張り上げた。
「ついてくるんじゃねェ」
「別についていっている訳じゃないさ。俺は龍山先生のところに行くんだからな」
「……チッ」
それ以上絡む気をなくしたのか、京一は独語めいて己の心境を語り始めた。
「……あの柳生って野郎が俺を見た時、芯から慄(えちまった。勝てねェ、って思った。
醍醐(が止めてくれなきゃ、殺されていただろうな」
京一が柳生に斬りかかろうとしたのは、龍麻の仇討ちではない。
完全な恐怖が、恐れるものなどなかった剣士を窮鼠たらしめたのだ。
しかし、油断する猫ならば噛まれることもあろうが、柳生には一片の隙もなく、
あのまま斬りかかっていたら真っ二つにされていたのは自分だったろう。
それが京一には解る。
相手が齢百五十歳に達する不死の化け物だろうと、そんなことは関係ない。
剣に生きる者として、同じ剣士に斬り結ぶ前から実力差を見せつけられたことは、
京一を底無しの屈辱と憎悪の沼に沈めていた。
それに親友を護れなかったという後悔が重りとなって加わり、このままでは到底自分を許せない。
醍醐が小蒔に語った心境は、そのまま京一にも当てはまるものなのだ。
「この辺りじゃジジイのトコしかなさそうだからな」
人気(がなく、精神を研ぎ澄ますことのできる場所。
この東京でそれを求めるのは難しいが、京一には心当たりがひとつあった。
それが今向かっている、醍醐の師である新井龍山の竹林だった。
あそこなら、龍麻からもそう遠くなく、鍛錬の場としては絶好だ。
だが、京一は龍山に助言を請う気は全くなかった。
「悪いが俺は一人でやらせてもらうぜ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
何よりも鍛えるべきは、柳生に恐怖した己の心。
それは他者に指導をしてもらう類(のものではない。
傍にあるのは、己と、己が身命を託したものだけで良かった。
そして二人とも口にしなかったことが、ひとつある。
京一も醍醐も、柳生と己を憎む心が抑え難く膨らんでいた。
人の気配のない所を求めたのは、それも理由だった。
このままでは手当たり次第に怒りをぶつける。
例え友であろうとも、間違いなく。
だから京一は、竹林の所有者である龍山にすら挨拶する気はなかった。
醍醐の方は、龍山はなんといっても師であるから挨拶と、龍麻について報告だけはするつもりだったが、
それも必要最小限に留めることにしていた。
龍山の庵が見える場所まで来た二人は、しばし袂(を分かつ。
「じゃあな」
京一は更に奥に入っていくという。
今更止める気など醍醐にはなかったが、別れる前に聞いておきたいことがあった。
「なあ京一、ひとついいか」
「なんだ」
「どうして二日なんだ」
二日で龍麻が回復するとは限らない。
それどころか、口にするのも憚(られる最悪の可能性もあるのだ。
なのに京一は、二日で戻るという。
まるで結果が判っているかのように。
醍醐の疑問に、京一は目を細め、醍醐から顔をそむけて答えた。
「今龍麻(を診てるのは名医中の名医だからな」
その言葉に大きく頷いた醍醐は、心のどこかに抱いていた不安を、もう捨てることにした。
龍麻は、必ず治る。
そしてあの柳生という男を斃(し、東京を護る。
去っていく京一を見送らず、醍醐は龍山の庵へと歩きはじめた。
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