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 去っていった京一と醍醐が見えなくなるまで見送っていた小蒔は、病院内に戻ろうとする。
すると二人が去っていったのとは反対方向から、こちらに向かってくる人影があるのに気づいた。
背の高さも性別も、国籍も別々の三人を、小蒔は良く知っていた。
「如月クン……それにアランクンに、マリィも」
 マリィだけならともかく、北区と江戸川区に住んでいる彼らが偶然新宿区に現れたとは、
小蒔には思えない。
小蒔が立ち止まると、アランが軽く手を挙げて挨拶した。
「皆……どうしたの?」
 訊ねつつ、小蒔は彼らが揃ってここに来た理由を察知していた。
三人は何らかの方法で、龍麻が負傷したのを知ったに違いない。
 小蒔の推察は、ほぼ完全に当たっていた。
「緋勇君は……無事かい」
 どんな事情であっても、誰かが説明しなければならない。
襲いかかる新たな悲しみをこらえて、小蒔は龍麻が襲われたと彼らに伝えた。
「そうか……突然緋勇君の氣が消えたのは、そういうことだったのか」
「No……ヒユー……」
 アランも普段の闊達かったつさを欠き、両手で顔を覆ってしまう。
マリィに至ってはショックが大き過ぎるのか、飼い猫であるメフィストを胸の前で抱き締め、
蒼い瞳に大粒の涙を浮かべて、声も出せないでいるようだった。
「それで、緋勇君は今」
「ううん……ボク達も会わせてはもらえなくって、今日はもう帰れって。
葵だけ病室に入ったまま、出てこないけど」
「そうか……」
 如月の端正な顔に、苦渋が浮かぶ。
それは醍醐が浮かべていたものと良く似ていて、小蒔は、
如月達も龍麻を護れなかったことをいきどおっているのだと解った。
「緋勇君がやられた時のことを、もう少し詳しく話してもらえないか」
「うん」
 小蒔は頷き、病院の待合室で状況を説明することにした。
その時のことを思い出すのは辛いけれども、何か話している方がまだましだった。
京一と醍醐が去り、葵とも話ができない今、小蒔は恐ろしいほどの孤独感に苛まれていたのだ。
 三人を連れて小蒔が病院に戻ると、劉の姿はなかった。
「あれ? 劉クンも……どっか行っちゃったのかな」
 もともと劉とはまだ知り合って日が浅く、それほど交流が深かったわけではない。
にも関わらず小蒔は、彼がいなくなって思いがけず寂しさを感じていた。
彼の怪しい関西弁と京一にもひけを取らない陽性の為人ひととなりは、
いつのまにかすっかり馴染んでいたのだ。
 劉が逃げ出したとは思わない。
龍麻が刺される直前に交わした会話は、劉が柳生をかたきとする理由の説明であり、
その動機は龍麻達よりも深く、くらいものだった。
龍麻に諭され、劉は考えを改めたようだが、その龍麻が襲われたとあって、
封じこめた彼の陰氣いかりはまた赤黒い溶岩となって流れ出してしまったのかもしれない。
 もしかしたら、単身柳生の許に乗りこもうとしているのでは、と小蒔は危惧したが、
彼の連絡先を知らず、どうすることも出来ない。
唯一彼の知り合いと思われる道心に、明日にでももう一度会いに行こうと決め、
劉が早まった行動に出ないよう願うしかなかった。

 その劉は、まさに道心の所にいた。
何もしていなくても笑っているように見える顔に、羅刹の相を張りつけて、
異国の地で彼の面倒を見てくれている老人のところに戻っていた。
「どうだった、緋勇は」
 劉を迎えた道心の口調も、先日とは打って変わった沈痛なものだった。
己が施した結界を破られ、眼前で龍麻が襲われるのを阻止できなかったのだ。
落ちつきを失ってこそいないが、深いしわが刻まれた顔には酒精アルコールの残滓もなく、
代わりに薄い後悔が広がっていた。
「院長はんと美里はんがずっと治療しとる……せやけど、わいらは会わせてももらえへんかった」
「そうか……」
 安堵を吐き出す道心に、劉が低く抑えた声を発する。
「じっちゃん、強くなるにはどうしたらええ」
「……かたきを取るのか」
 道心に咎める様子はなく、ただ訊ねただけ、と言った風だった。
一方劉は、たぎる激情を無理やり抑えようとして、抑揚が乱れている。
「わいは龍麻とは知りおうて間もない。
せやけどずっと弦麻はんとその息子のことは聞かされとったし、
実際会うたら聞いとったのと同じ、ええ奴やった。
ほんまもんの兄貴、ちゅうたら言い過ぎかもわからんけど、わいにとってはそんな人や」
 否定も肯定もせず、聞いているだけの道心に、劉は構わず語り続けた。
「せやのにわいは……目の前で緋勇がやられた時、何にもできへんかった。
剣を抜くことさえできへんかったんや。このままやったらわいは」
「おめぇも判っているだろうが、今から剣術を鍛えたって間に合うわけがねぇ」
 道心の指摘は冷静だった。
劉は客家の者として、幼い頃から剣術、仙術いずれも厳しい鍛錬を行ってきている。
今更数日程度修行したところで、劇的に強くなれるはずがないのだ。
 悔しげに俯く劉に、道心は言葉を継いだ。
柳生ヤツとの闘いに備えるなら、氣を鍛えるしかねぇ」
 劉が顔を上げるが、道心の口調は変わらない。
いたずらな希望など、全て捨てろといわんばかりだった。
「もちろんこれだって簡単じゃねぇ。本来氣ってのは一生をかけて錬功れんこうしていくものなんだからな」
 黙ったままの劉に、ここで初めて道心は口調を変えた。
「そこで、だ。おれが今から陰氣の底のさらい方を教えてやる」
「浚い方? なんやそれ」
「人の心はな、どれだけ怒ったって本当の怒りには辿り着けねぇようになってるのさ。
理性ってやつがあるからな。あの醍醐ってでけぇ奴みてぇに聖獣けものの『力』を持ってでもいなければな」
 それは劉も聞いたことがあった。
人は人であると同時に、獣である。
では人を人たらしめているものは何か。
それは本能を律する心、理性と呼ばれるものだった。
「この理性ってやつをくしちまうと、人は人でいられなくなる。
だからそのぎりぎり、理性のふちに触るところまで陰氣を浚い出すのさ」
「それで……強くなれるんか」
「ああ。そこにある陰氣は、おめぇが普段使っている氣にも匹敵するくれぇあるからな。
だが一歩間違えれば獣になっちまう。そうなったが最後、おめぇは人には戻れねぇ」
 道心の語っている内容は、魅力的であると同時に底知れぬ恐怖を内包していた。
 先日龍麻達と共に闘った、動物霊を人間に憑依させる『力』を持っていた火怒呂ほどろ
彼の術をかけられた人間達は獣の本能に衝き動かされて他者を襲っていたが、
それでも人間の部分が残っていたために言葉を話し、知能も残っていた。
だが道心のやり方で失敗したら、後には本当に獣の本能しか残らなくなる。
人でありながら理性を失い、獣欲のみに生きることになってしまうのだ。
「かまへん。柳生をたおせるなら、わいは獣にだってなったる」
 それでも、劉の決心は揺るがなかった。
『凶星の者』をたおす、そのためにならどんな危険もいとわない。
客家はっかの者としての宿さだめと、己自身の意思が、劉の決意を金剛の如く硬くしていた。
 だがそれは、道心の嫌うところでもあった。
己を捨てて使命をまっとうして、何の意味がある──
かつて弦麻に直接言えなかったこと。
同じてつを、劉に踏ませるわけにはいかない。
「ばかやろう、俺が教えるのに獣になんざなるわけねぇだろうが。
そのくれえの覚悟を持ってろってたとえだ、今のは」
 劉を叱りとばした道心は瓢箪ひょうたんを置いた。
若者達が『凶星の者』を討つまでは、酒を断つことにしたのだ。
「よし、おめぇの決心が鈍らねぇうちに始めるぞ。血も出ねぇほどしごいてやるから覚悟しとけ」
 緊張の面持ちで頷く劉に、道心は背筋を伸ばし、弟子にわざを伝えるべく氣を練り始めた。

 龍麻が桜ヶ丘中央病院に運ばれてから、既に半日以上が過ぎていた。
夜は明け、龍麻は未だ意識を回復していない。
そして傍らで治療を続ける葵も、不眠不休の上に氣を注ぎ続け、著しく体力を消耗していた。
彼を想う気持ちは一瞬足りとも途切れることはなかったが、
遂に肉体のどうしようもない限界が訪れ、葵は龍麻の手を握ったまま、
半ば気を失うように眠りに落ちてしまった。
 困憊こんぱいしているはずなのに、葵は夢を見る。
それも、夢だと気付かないくらい、はっきりとした夢を。
 闇の中に、人影が浮かび上がる。
それは龍麻と、今一人──葵がかつて見た覚えのある女性のものだった。
自分とその女性のちょうど中間に立っている龍麻は、困ったように微笑んでいる。
龍麻は、呼びかけられるのを待っている──朧にしか見えない彼の顔は、
しかし確かにそうであると葵には確信できた。
 葵は龍麻に向けて呼びかけようとしたが、なぜか声が出ない。
どれだけ腹に力を込めても、どれだけ彼のことを想っても、
どういうわけかただの一言も彼を、龍麻の名を呼ぶことは出来なかった。
 龍麻はずっと葵の方を見ていたが、葵が何も言わないからか、
やがて寂しそうに踵を返し、向こうに待つ女性の許へ歩きだす。
女性は龍麻よりも更に朧にしか見えなかったが、彼女は両手を広げ、
龍麻を迎えようとしているのが葵には解った。
龍麻がその女性のところに行ってしまったら、二度と会えなくなる。
そう直感した葵は、自分を縛りつけようとするくびきを振り払って叫んだ。
「待って」
 声を阻もうとする何かに抗い、もつれそうになる声を必死に絞り出す。
「お願い、そのひとを──龍麻を連れていかないで」
 龍麻の足が止まった。
だが、こちらに戻ってくるまでには至らず、戸惑ったように首を傾げるだけだ。
そんな龍麻を急かすように、女性が腕を取る。
その仕種から、女性も龍麻のことを想って──愛しているのを葵は知った。
一瞬、声が詰まる。
他人を押し退けて何かを手に入れようとするのは、葵にとって初めての経験で、
途方もない罪悪感を抱いてしまったのだ。
「お願い」
 しかし、葵は叫ぶ。
「そのひとは大切なひとなの」
 龍麻は一人しかいない。
だから、譲れない。
例え誰であろうと、龍麻を奪われるわけにはいかなかった。
「お願い龍麻、こっちに来て」
 葵は繰り返し龍麻の名を呼ぶ。
こんなにも想いはあふれているというのに、言葉でしか伝えられないことに悔しさを覚えつつ、
ひたすらに愛しい男性ひとの名を繰り返した。
それでも龍麻は困ったように、交互に葵と彼女を見るだけだ。
 彼我の距離は遠く、無限の遠さがあるように感じられる。
この距離はもう、縮まらないのだろうか。
取り巻く闇が、葵の心を侵食する。
龍麻は、もう戻ってこない。
彼女の許に、彼女と共にいってしまうのだ。
自分の力が足りないために。
自分の想いが彼女よりも劣っていたために。
 闇に覆われた葵の意識は、ゆっくりと薄れていく。
龍麻への想いも、黒い泥濘の中に混じり、混沌へ──太極なにもないところへと還っていく。
気だるく、あまりにも心地良い感覚。
細胞のひとつひとつが歓喜に震えるような、途方もない愉悦に葵は半ば己を委ねかけていた。
唇を薄く開き、まぶたを半ば閉じる。
母の腕の中にあるかのような、無限の安らぎが優しく全身を撫でた。
恍惚の吐息を漏らし、眠りに誘われるまま堕ちていく。
眠ってしまえば、龍麻に逢えなくなる。
そう解っていても、抗えない。
葵は彼への別離わかれを、静かに紡ごうとした。
 その時、既に闇と一体化していた身体を、一条の光が照らす。
内側からまるで太陽のように照らす暖かなひかり
「嫌」
 葵は眼を開き、立ちあがった。
動かなかったはずの身体が、自由を取り戻していた。
かげに抗い、覆っている闇をも振り払う。
己の裡にある龍麻への想いを炬火かがりびにして、葵は本当の彼のところへと向かった。
「龍麻ッ」
 闇に見失った龍麻の姿が浮かび上がる。
眩しく、強いひかりの源に、葵は飛びこんだ。
傍らにいる女性から奪い返すように、全身の力で龍麻を抱きしめる。
彼から放たれる光は、そうすることで輝きを増し、彼自身の姿をも見えなくさせていった。
しかし、葵はもう迷わなかった。
腕に感じる確かな温もりを、決して離さない。
何も見えなくても、今なら龍麻をはっきりと感じられた。
 光はますます強くなっていく。
栗色の髪の少女の姿はまだ残っていたが、やがて薄れ、陽の中に消えていった。
葵も白く染め上げられ、再び身体が失われていくような感覚が訪れる。
しかしそれは偽りの心地良さではない、彼とひとつになっていく安らぎだった。
彼が入り、彼に入っていく。
葵は安心して、その感覚に身を委ねた。
 陽が、全てを満たした。



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