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 我に返り、葵は顔を上げた。
いつのまにか夜は明けており、病室にたか子の姿もない。
龍麻は変わらぬ姿のまま、昏睡を続けていた。
 鮮明に夢が甦る。
あれは本当に夢だったのだろうか。
内容も、発した言葉も全てを覚えている。
そして、彼の温もりも。
 こみあげる想いを唇に封じこめた葵は、自分が龍麻の手を握ったままであることに気づいた。
治療の間握っていたのは覚えているが、その後もずっとそうしていたのだろうか。
気恥ずかしさを覚え、葵は顔を洗いに一時いっとき龍麻から離れようと、
名残惜しむように固まっている、彼の手をベッドに横たえようとした。
「……!」
 触れていた指先に、力を葵は感じた。
今は全く意志の宿っていない彼の薬指が、動いたように感じられたのだ。
驚き、龍麻を見るが、容態に変化は見られない。
きっと気のせい──いや、彼の無事を願うあまりの気の迷いなのだろう。
一瞬、湧き起こった歓喜を、葵は無理やり抑えた。
そうでなかった時の落胆を怖れたのだ。
それでも、渇望を抑えられず、葵は再び龍麻の手に触れた。
やはり変化はない、あるはずがないのだ。
自らが求めた落胆に打ちのめされた葵は、頭を振り、今度こそ病室を出ようとした。
「……」
 また気の迷いだったのだろうか。
葵は振り向き、昏睡している龍麻を見た。
 違う。
意識がないはずの彼の口が、わずかに動いていた。
葵が急いで顔を寄せると、呼吸に混じって微かに意味を持つ声が聞こえてくる。
全ての感覚を聴覚に集中させて、葵は龍麻が何を言っているのか聞き取ろうとした。
 龍麻は、葵の名を呼んでいた。
「龍麻……!」
 葵は恐る恐る龍麻に呼びかけてみた。
もちろん、返事はない。
それでも彼の小さな一言は、葵に計り知れない力を与えた。
 龍麻は、還ってくる。
死のあぎとから逃れ、自分達の処に還ってきてくれる。
葵は頬を濡らす想いを拭い、たか子に知らせるために病室を出ていった。

 その後もすぐに、龍麻は意識を取り戻したわけではなかった。
柳生によって加えられた刀傷は深く、霊的治療をもってしても回復に時間を要したのだ。
しかし、意識こそ回復しなかったが、容態は明らかに峠を越し、
最悪の事態だけは回避出来たことは、たか子と舞子、それに龍麻を見舞う小蒔や如月達を安心させた。
 あとは、いつ龍麻が意識を取り戻すか。
皆が待ち望む中、その日は遂に訪れた。
 学校に行く前に病院に寄った葵は、龍麻の病室に真っ直ぐ向かった。
昼からはまた小蒔達と来るが、朝に寄るのは一人だ。
薄暗い病室に光を入れるため、カーテンを引く。
冬の、少し煙った陽射しが龍麻の寝顔を照らした。
その表情に変わりはなく、少し伸びたようにも見える前髪がまぶたにかかっている。
目覚めた時に邪魔になるかもしれないと思い、葵はそっと分けてやった。
指先が、額に触れる。
そう言えば髪を上げたのを、一度だけ見たことがあった──あれは確か、皆でプールに行った時だ。
あの髪型も、案外悪くなかった。
 思い出した葵は、またいつか見たいと思いながら、学校へ行くために立ち上がろうとする。
その瞬間、指先に触れる龍麻が動いたような気がした。
固唾を呑んでいると、龍麻の、優しい力感に満ちた眼がゆっくりと開く。
 驚く葵の見ている前で、まばたきを二度した龍麻は、
自分と葵の位置関係が解らないようで、戸惑ったように身体を起こした。
「美里……さん?」
 それは、数日ぶりだからだろう、少し掠れていたけれども、紛れもなく龍麻の声だった。
半ば自失に陥っていた葵は、早くも見えなくなり始めた彼を呼ぶ。
「龍……麻……」
 淡い光の中にたたずむ龍麻に、葵は迷わず飛びこんだ。
「龍麻、龍麻……」
 名前を──彼を自分のいる現世せかいに繋ぎとめる言霊を、葵は何度も呼ぶ。
一度名前を呼ぶごとに、龍麻の腕には力強さが増し、身体には温かみが増していった。
「龍麻、龍麻っ……」
 ただひたすらに名を呼び、泣きじゃくるだけの葵の背を、龍麻はまだ力の入らない腕で撫でる。
何が起こっているのか解らない、というよりまだ頭がぼんやりとして考えられない。
 するとタイミングを計ったかのように、一人の女性が入ってきた。
「ふん、目を覚ましたか」
 発せられた低い声に葵が顔を上げた。
しかし龍麻から離れようとはせず、龍麻も葵が離れないよう彼女の背に腕を回す。
 大きな白衣を着た女性は、わずかに目を細めたものの、それを咎めようとはしなかった。
「呆れた体力だな。死んでいても不思議はなかったんだぞ、お前は」
「死……」
 医師の口から放たれた物騒な言葉に、
少しずつ意識に明晰さが戻りつつある龍麻は包帯の巻かれた自分の身体を見下ろした。
葵の喜びようから言って大怪我を負ったのは解るが、それほどの重傷だったとは。
 途切れた記憶の最後の断片を辿った龍麻は、柳生に日本刀で腹を貫かれたことを思いだす。
確かにあれならば、生死の境をさ迷ったとしても不思議はないだろう。
 痛みをも思いだし、顔をしかめる龍麻に、たか子はもっと顔をしかめてみせた。
「おまけに大食らいめ、二日間でわしの氣をほとんど食ってしまいおって」
「二日……」
 そんなに長い間昏睡していたとは思っていなかった龍麻は、驚いて葵を見た。
葵はたか子の言葉が嘘でないと小さく頷く。
「そうか……ありがとう」
 葵が付き添っていてくれたことは、想像に難くない。
おそらく彼女は『力』を用いて、死に瀕していた自分を懸命に救おうとしてくれたのだろう。
新たな愛おしさにかれ、龍麻は葵を抱き寄せようとしたが、たか子の低い声がそれを留めた。
「ふん……わしには礼はなしか」
「あ……ありがとうございました」
 龍麻が慌てて頭を下げると、たか子は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「高見沢にも言っておけよ」
「はい」
 体型が変わっても、癖は変わっていないようだ。
それにしても、今の姿でそういう態度を取られると、恐ろしく怜悧な印象を受けて、
龍麻は戸惑いを押し殺すのに若干の努力を必要とさせられるのだった。
 そんな努力を知ってか知らずか、
たか子は白衣のポケットに突っ込んでいた手を抜いて、患者に今後の予定を告げた。
「意識が戻ったと言っても、数日は安静だからな」
「数日……ですか」
 痛みらしい痛みもなく、身体は既に動かせそうなくらいなのだが、
医者の言うことは聞いた方が良いのだろう。
いささか落胆する龍麻に、たか子は艶笑を浮かべた。
「まぁ、そう案ずるな。クリスマスに退院出来なかった時は、わしが直々に可愛がってやるから」
 顔をひきつらせる龍麻の隣で、葵が彼は渡さない、とばかりに身を強張らせる。
 初々しい二人を豪快に笑い飛ばしたたか子は、何気なく葵を見やった。
葵はこの身体つきのままで、自分に匹敵する氣を有しているのだ。
彼女を鍛えれば──
だが、世界でも屈指の霊的治療者ヒーラーであるたか子は、
すっかり肉付きが薄くなった顎に手をやって自らの考えを否定した。
葵の癒しの『力』は、恐らく龍麻の為にのみあるのだろう。
それに、女の幸せを捨て去ることになるいばらの道へは、
安易に他者を引き摺りこんで良いものではない。
との約束という支えがあるたか子ですら、時にくじけそうになるのだ。
素質があるというだけでは到底歩めぬ、歩ませてはならぬ道だった。
 たか子が頭を振ったところで、騒がしく廊下を走る音が複数、病室へと飛び込んできた。
「ふん、朝から元気なことだ──いいか、まだ治ったばかりだからな、あまり興奮するなよ」
 誰が来たのか確かめるまでもない足音に、たか子が注意を喚起し終える寸前、
足音は病室の前で止まった。
病室にいきなり入るのはさすがにはばかっているのだろう彼らに、たか子は自ら扉を開けてやる。
すると自分達がどれほど大きな足音を響かせていたか気づいていないのか、
そこには突然扉を開かれて驚いた顔をしている京一達がいた。
「病院は走る場所ではないというのを知らんのか」
「あ……ご、ごめんなさい。でもひーちゃんのことがどうしても気になって」
「緋勇なら今目を覚ました」
 医師の宣告に、三人は色めきたった。
「ほッ……本当ですかッ!!」
 特に醍醐などは腹の底からの声を張り上げ、鋭く睨まれてしまう。
「大きい声を出すな。個人的にならいくらでも聞いてやるがね」
「い、いえ、すみません。それよりも緋勇が回復したというのは」
「駄目だと言ってもお前らは聞かんだろうからな。面会は許可するが、あまり負担をかけるなよ」
 小蒔と醍醐が、争うように病室に入る。
二人に続いて親友の顔を見ようとした京一は、ふと医師の前で足を止めた。
この病院には何度も来たことがあるが、全く見覚えのない女性、
それも間違いなく美女の範疇はんちゅうに入る女性に、不審と興味を抱いたのだ。
「ところでよ、あんた誰だ、一体」
 問いに、女性は実に意味ありげに笑った。
「つれないねぇ京一。緋勇はすぐに気づいてくれたってのに」
 京一は目を細め、仔細に彼女を見てみる。
やはり目鼻立ちに覚えはないが、ソバージュのかかった髪型と、何より声が、
京一にとって記憶の深層に永遠に刻みつけられてしまった女性と一致していた。
それでも、信じられない──いや、信じたくない京一は頭から足まで女性を眺める。
巨大なバスト、恐ろしくくびれたウエスト、そこから更に豊かに広がっていくヒップ。
京一はここまでの美女をそうは見たことがない。
記憶の中では、彼の担任であるマリア・アルカードが最も優れたプロポーションをしていたが、
彼女に匹敵するほどのスタイルの持ち主と言えた。
 そして円熟という点ではマリアさえも上回る目の前の女性は、
今度は下から上へ、視線を往復させる京一に妖艶に微笑んでみせる。
その口元にできた笑いじわの形は、やはり見覚えのあるものだった。
「げッ、まさか……たか子……センセー……なのか……?」
 艶笑と言うにふさわしいたか子の表情に、京一は思わず喉を擦っていた。
数日で半分ほどに体積が変化した女性が同一人物であるとは、
容易に受け入れられる事実ではなかったのだ。
 しかし、白衣を着物のように着てしまえそうな細身の医師は、
紛れもなく桜ヶ丘中央病院の院長である、岩山たか子その人だった。
 やはり霊的治療者ヒーラーだった祖父。
今のたか子と同じか、あるいはそれ以上の氣を有していた彼が幽明境を異にした時、
たか子は二つの選択を迫られた。
この病院を畳み、別の場所で普通の医師として新たに始めるか。
あるいは祖父の跡を継ぎ、霊的治療者としてこの地しんじゅくに留まるか。
前者ならば、それほど問題はないだろう。
だが後者を選んだ場合、たか子は残念ながら、
霊的治療者としては有する氣の総量が祖父に及ばなかった。
氣を操れるようになるだけでも凡人には困難なのだから、
素質は確かにあったのだが、それだけでは足りなかったのだ。
 たか子は苦悩した。
誰かを救いたいという想いがあるからこそ、医師という道を選んだのだ。
そしてそれはきっと、氣を用いない、普通の医師でも歩める道なのだろう。
しかし、霊的治療でなければ救えぬ人間が、この世にはいる。
通常の治療では決して救けられぬ、様々な難病に冒された人達は、
世界でも数えるほどしか存在しない霊的治療者の治療にすがるしかないのだ。
祖父はそういった人々を分け隔てなく診察していた。
寝る間を惜しみ、報酬も望まず、ただ病んだ人々を救いたいという一心のみで治療を続ける祖父を、
たか子はいつも尊敬していた。
 祖父はそんなたか子に、跡を継げとは言わなかった。
全く素質のなかった息子、つまりたか子の父には好きな道を歩ませているのに、
たか子には霊的治療のやり方を教えていたのだから、継いでは欲しかったのだろう。
あるいはたか子に自分ほどの素質がないことに気づき、継がせるのを諦めたのかもしれない。
だがその祖父も亡くなり、たか子は選ばなくてはならない。
 それでも容易には結論を出せないたか子に、助言をくれたのは一人の男だった。
凡人には計り知れない業を背負っているその男は、
半ば同情するように、半ば突き放すように、好きな道を往けばいい、と言った。
俺はこの東京まちに居続け、あの場所を護り続ける。
君がいなくなってもずっと、と。
 そしてたか子は、新宿に残ることを選んだ。
祖父に及ばない氣に関しては、呼吸によって生成される氣の量そのものを増やす。
つまり、膨大な氣を常に体内に蓄積しておくために、たか子は自らふとったのだ。
それが自分の、女としての幸せを捨てることとなると判っていても、たか子はその道を選んだ。
患者だれかを救いたいという想いと、あのひととの約束のために。
 肥ったことでたか子は、祖父に匹敵する氣を生み出すことが可能になった。
加えてそれを用いるすべと知識においては、たか子は祖父に優っており、
病院を継いだたか子は多くの人を癒した。
その実力を知ったローマ法皇庁が奇跡認定を授けようとしたこともあったが、
たか子はそんなものに興味はなかった。
表向きの姿である産婦人科から、日々産まれる新たな生命と、
霊的治療で治った患者の感謝の言葉、それに年に一度は義理堅く祖父の命日に来てくれる男。
それらこそがたか子の幸せだった。
 まだ驚愕から覚めやらぬ様子の京一の、たか子は肩を叩く。
もうひとつ、美少年の鑑賞、特に驚き、怯えた顔を見るのは、いつからか加わった幸せのひとつだ。
「ふん……さすがに氣を使いすぎた。わしは少し眠るが、いいな、お前ら、長居はするなよ」
 すっかり凝ってしまった肩をしきりに揉みながら、たか子は病室を出ていった。
 どうしても颯爽さっそうとした美女にしか見えないたか子の後姿をしばらく見ていた京一は、
ひとつ頭を振ると、回復した友人の顔を三日ぶりに見るために病室へと入った。



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