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一九九八年十二月二十四日の天気は、あまり良いとはいえなかった。
天気予報は珍しく当たってしまい、空にはいかにも冬空といった感じの雲が広がり、
冷たい風は背中を丸めてしまうくらい吹きつけてくる。
一時間前に待ち合わせ場所に着いた龍麻は、念入りに服装におかしなところがないか確かめた。
今日のデートには、世間一般では特別な意味がある
──だが、それを龍麻と、龍麻がこれからデートをする相手との間にも適用できるかは、
今のところやや厳しい、といった感じだった。
もっとも大きな理由のひとつは、まだ退院してから半日と経っていないからだ。
この日に間に合わせたい一心で、たか子の言いつけを一言一句守り、
ひたすらおとなしくしていたのが効を奏したのか、
体型が少しずつ元に戻りかけているたか子は退院許可を出してくれた。
いかにも残念がるたか子に、龍麻は愛想笑いで応じたものの、これだけはどうしても譲れなかった。
もし退院許可が出なかったら、病院を抜け出してでもデートに行ったかもしれない。
ただしその場合、葵をどう説き伏せるかというのが問題になる。
今日にしても、少しでも怪我が痛そうなそぶりを見せたらすぐにデートは中止され、
龍麻は失望のあまり、身体の痛みなどより遥かに深い心の痛みを負うことになってしまうだろう。
刺された部分をコートの上から抑え、痛くないと言い聞かせる。
実際、怪我はほとんど回復していたが、伸びをした時などに軽い痛みを感じることがあり、
今日はなんとしてもそれを顔に出さないようにしなければいけない。
二、三度つま先で立ってみたり、腹に力を込めたりして、
具合を確かめた龍麻は、周りにいる多くの男達に倣い、最も幸福な待ち時間を過ごすことにした。
今日、彼女はどんな服装で来るだろうか。
今日、彼女とどんな話をすれば良いだろうか。
今日、彼女と──
想像を走らせすぎた龍麻は、自分を諌(めるように首を振った。
頬を叩く冷たい風に、いくらなんでも早く来すぎたのではないかと今更、少しだけ後悔する。
しかし、後悔するのはどうやら早計のようだった。
「龍麻?」
雑多な音が渦巻く、来てから三十分ほどが過ぎた新宿の駅前で、
龍麻はその声だけをはっきりと聞きとることが出来た。
声の方を向いて小さく手を挙げると、驚いた表情の葵が小走りで寄ってくる。
「あ……早いね」
「龍麻こそ。どれくらい前からいたの?」
「え……っと、来てから十分は経ってないよ」
本当のことを言うと、がっついて(いるように思われるかも知れないと考え、
龍麻は控えめに申告した。
彼女に嘘を吐いたことになるが、これくらいなら発覚しても許してもらえるだろう。
「本当? 随分寒そうだけど」
掌が頬に触れる。
その暖かさに、龍麻はたちまち降伏してしまった。
「ごめん、本当はもう少し前」
半ばは口の中で謝ると、葵は白い歯を覗かせて笑った。
「もう……あまり無理してはいけないって、先生に言われたでしょう」
「ごめん」
拝むように手を合わせると、その片方の手が優しく取られた。
頬を暖めていた温もりが、右手へと移る。
その温もりを握り返し、龍麻は葵と二人、歩きだした。
龍麻が最初に選んだのは、初めてデートらしきものをしたケーキ屋だった。
更に偶然と言うべきか、席まで同じ所に案内される。
同じ記憶を刺激されたのか、葵が口許を綻ばせた。
「懐かしいわね」
懐かしいといっても二ヶ月程度の話だし、実のところ、
龍麻はまだ、その時の記憶が生々しく残っていて懐かしいどころではない。
葵のように以前来た時から若干の模様替えが行われた店内を見渡す余裕もなく、
ぎこちなくメニューを選ぶのがやっとだった。
葵はそんな龍麻に気付く気配もなく、いかにも嬉しそうにテーブルに肘をつく。
今日の彼女はもちろん制服ではなく、黒を基調とした服装だ。
真神の制服は夏冬ともに白なので、龍麻にはとても新鮮に見えた。
具体的には大人びて──どうやら学校が終わってから待ち合わせまでの短い時間で化粧まで施したらしく、
まっすぐ見るのをためらってしまうほど綺麗だった。
「どうしたの?」
あまりにそわそわしていたので、葵に不審がられてしまう。
余計に三度ほど首を振った龍麻は、彼女の気を逸らすために、最も無難な話題を振った。
「凄い人だね」
それもほとんどがカップルかカップル予備軍だ。
街の華やかな雰囲気はあてられてしまうくらいで、ふと龍麻は、
帰る直前に今日の予定を訊いてきた友人のことを思った。
ナンパに繰り出そうぜ、と誘ってきたので、適当にあしらおうとしたところ、
京一は唐突に「美里と会うんじゃねェだろうな」と訊いてきたのだ。
あまりにも直球、それもプロ野球選手なみの剛速球だったので、
龍麻はついバットを振らされてしまった。
「に、入院してる時世話になったからちょっとお礼するだけだって」
「何ぃィィィッッ!! 本当に会うのかてめェッ!!」
「だから、ちょっとだけだって。……っと、時間ないからもう行くな」
逃げるように別れる、角を曲がる最後の瞬間まで突き刺さっていた、
裏切者を見る、怒りと悔しさと悲しみを全部混ぜて沸かしたような京一の眼を、
龍麻はしばらく忘れないだろう。
近いうちに麺類で機嫌を取っておいた方が良いかもしれない。
それはともかく、今は葵だ。
せっかくクリスマスイブに二人で会っているのに、
友人とはいえ男のことを考えるのは不毛にも程があるというものだった。
「そうね……皆楽しそう」
答える葵自身が、いかにも楽しそうだ。
彼女の笑顔を見て、龍麻は、退院出来て良かったとしみじみ思う。
舞子は過剰ともいえるくらい献身的に世話をしてくれたし、
たか子も霊的治療者(としてしっかり治療してくれた。
しかし舞子は立って歩けるのに下(の世話までしようとするし、
たか子に至っては、龍麻は貞操の危険すら覚えた。
それというのもいつもの巨体ならば逃げれば良いのだが、
あの(身体と顔でからかわれると、男の性(でそうもいかなくなってしまうのだ。
もちろん、何があっても間違いなど起こす気はない。
だからこそ、余計に神経をすり減らしてしまうような状況からは、
一刻も早く脱出したかった龍麻だったのだ。
万感の想いを込めて龍麻が頷くと、葵が思い出したように告げた。
「今日ね、マリィの誕生日なの」
「そうなんだ……良かったの?」
くすんだ金色の髪に明るいグレーの瞳を持つ、今は葵の義妹である少女の顔を思い浮かべ、
彼女から葵を奪ってしまったのではないかと不安をよぎらせて龍麻は訊ねた。
しかし幸いなことに、葵は小さく頷いて予想が外れていると教えてくれた。
「ええ、今日は友達にクリスマス会を兼ねてお祝いしてもらうんですって。
お父さん、少し寂しそうだったけど」
「そう……だよね」
龍麻は父親になったことなどないが、娘二人を同時に失う心境というのは察するに余りある。
まして葵とマリィのような、目に入れても痛くないような可愛い娘なら。
龍麻が葵の父親に、同性として憐憫(を込めて呟くと、
恐らくそこまで深くは察していないのだろう、葵は気にする必要はないと笑った。
「あっ、でもいいのよ。家では明日また誕生日会するから」
「そっか、それじゃ俺もマリィにプレゼント買ってあげようかな」
もっとも基本的に龍麻は奪う側だから、
会ったことのない葵の父親にそこまで同情するかというとそうでもなく、
あっさりと話題を変えることにした。
プレゼント、という言葉に反応して、懐から丁寧に包装された贈り物を取り出す。
若干の緊張と共に葵に差し出すと、驚きつつも受けとってくれた。
「開けてもいい?」
「もちろん」
龍麻がクリスマスプレゼントに選んだのは、淡い桜色のハンカチだった。
「壬生と闘(った時、ハンカチ汚しちゃったから」
「ありがとう、大切にするわ」
どうやら葵に喜んでもらえたようで、龍麻は内心で安堵する。
すると今度は葵が、丁寧に包装された包みを取り出した。
「俺に?」
「編むの……初めてだったから」
予想外の贈り物に動揺した龍麻は、随分と失礼なことを言ってしまっていたが、
良く聞けば、葵の返事も微妙に噛み合っていなかった。
彼女も緊張していたからであるが、龍麻は気付く余裕もなく、ぎこちなく包みを開ける。
開ける前に彼女自ら言ってしまっていた語句で予想はついていたが、
中から出てきたのは淡い黄色のマフラーだった。
心は込めたけれどもいささか安直とも言える自分の贈り物と違い、
正真正銘心の篭った贈り物に、龍麻はいささか大仰とも言えるくらい感動していた。
「あ……ありがとう、大事にするよ」
必死に保っていた平常心もどこかへ吹き飛んでしまい、声が裏返ってしまう。
ちょうどその時店員が注文を運んできて、明らかに失笑を堪えて戻っていった彼女に、
龍麻はもう耳の先まで赤くなってしまうのだった。
店を出た龍麻は、早速マフラーを巻いてみることにした。
首にかけてみると、葵が結んでくれる。
首だけでなく、全身が温かくなったように感じたのは、きっと思い過ごしではないのだろう。
今度は自分の方から葵の手を取った龍麻は、彼女を連れて歩きだした。
あてもなく街を歩き、興味を抱いたものを順に見ていく。
何の変哲もなかった街が、色彩も豊かに語りかけてくる。
隣に大切な人がいるだけで、世界はこれほどまでに変わるのだ。
彼女と共に居たいから東京(を護る、というのは、
世界をも手中に収めることが出来るという『黄龍の器』にしては不まじめなのかもしれない。
しかし龍麻の願いは、本当にそれだけだった。
柳生のような野心など毛頭ない。
ただ彼女と、仲間と平穏な生活が送れれば、それ以上に望むことなどなかった。
信号を待っている間に、龍麻はふとショーウィンドゥを見た。
自分と葵、二人が映っている。
手を握り合って、同じ方を向いて。
しかし、雲間から覗いた太陽が、どういう悪戯か、ちょうど手の部分だけを光で隠してしまった。
葵に気づいた様子はない。
龍麻は少しだけ息を吸って、手を握りなおした。
葵の手が、わずかな空白の後に応える。
青に変わり、一斉に歩き始める人々に押されるように、龍麻は前に進んだ。
彼女と共に。
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