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二人は待ち合わせをした広場に戻ってきていた。
大きなクリスマスツリーが置かれた広場は、
これから二人の時を過ごそうという男女にあふれ、昼間よりもずっと混雑していた。
既に二人で居る龍麻が、罪のない優越感を彼らに対して抱いていると、
葵が繋いでいない方の手をツリーに向けた。
「見て、灯りが」
龍麻が指先から視線を移すと、彼女の言った通りツリーに電飾が灯されていた。
それに合わせて街路の灯りも一斉に灯る。
普段は灰色のビルが立ち並ぶ街とも思えない、幻想的な光景に、龍麻は素直に感嘆していた。
様々な色の輝きが、代わる代わるワルツを踊る。
こんな景色を見たのは、いつ以来だろうか。
光と影が目まぐるしく入れ替わる中、龍麻はふと葵に視線を戻した。
葵はツリーを見上げていて、見られていることに気付いていない。
細い輪郭を持つ彼女の横顔を見るうち、龍麻は急に息苦しさを覚えた。
街の喧騒よりも、もっと大きな音を立てている心臓。
鼻だけでなく、口も使わなければ定まらない呼吸。
それらが示すものを、龍麻は正確に把握していた。
呼吸を抑えつけ、唇を引き結んでその時に備える。
来るべき時は、もうすぐそこまで近づいているはずだった。
灯りを引きたてるように、急速に空が暗くなり始める。
それは同時に、楽しかった時の終わりを意味していた。
「もう、帰らないと」
賑やかさを増していく街に遠慮するように、葵はツリーの上方にある大きな時計を見上げて言った。
イルミネーションが灯ってから、意識して龍麻を見ないようにしていることに彼は気づいているだろうか。
おそらく気づいていない──そういう男を、葵は好きになったのだ。
夜の帳(に、龍麻には伝えない悔しさを逃がして、今日一日、ずっと繋いでいた手を離そうとする。
しかし、龍麻の手は離れなかった。
「……」
鼓動に急かされ、葵は微かに喘いだ。
龍麻が名残惜しさを表現しているだけなのか、
それとも──それとも、それ以上の意味を込めて手を離さないのか。
葵はそれが知りたくて、一度だけ抗ってみせた。
やはり手は離れず、むしろ強さを増して引き寄せようとする。
二人の力が、一瞬の均衡を保つ。
まさにその瞬間、二人が息を殺して見つめあった刹那、
固く結ばれた手の上に、白く冷たいものが舞い降りてきた。
熱情を冷ますような冷たさに、葵は思わず空を見上げる。
「あ……っ」
いきなり強い力が加わり、葵はよろめいてしまった。
今度は抗う暇もなく、龍麻の胸の中に、半ば飛び込むようにすがりつく。
大きな彼の身体は、寒いこの世界の中でとても暖かかった。
雪片がひとつ、目の前に落ちる。
すぐに溶けてしまった淡い幻を、葵はいつまでも見つめていた。
龍麻の腕の中にいる現在(は、幻ではない──雪は、そう語っていた。
世界は少しずつ白に塗り替えられていく。
既に舞う、ではなく降っていると言う方がふさわしい雪は、龍麻と葵をごく自然に寄り添わせていた。
隙間から雪が入ってしまわないように固く手を繋いで、二人は龍麻の家に向かう。
交わす言葉もなく、静かな裏路地を、それぞれの想いを秘めて歩いた。
葵が龍麻の家を訪れるのは初めてだった。
案内され、緊張と、わずかな興味を抱いて、葵は玄関をくぐる。
「お邪魔します」
それは、今言うべき台詞ではなかったかもしれない。
灯りが点された部屋を素早く見渡して、葵はそんなことを考えていた。
「あ、ああ、どうぞ」
龍麻の返事がぎこちなかったのは、やはりそのせいなのだろう。
頬が熱くなるのを感じた葵は、龍麻に見られないようにと俯いてブーツを脱いだ。
早く脱ぎたいのか、それとも逆なのか、分からぬままに紐を解く。
全て解き終えて顔を上げると、龍麻はコートを脱いでいた。
何気ない、あからさまに緊張していることを除けば本当に何気ない動作。
しかし彼の、今は白いセーターが覆っている背中を見た瞬間、
どうしようもない感情の奔流が、葵の何もかもを押し流していった。
腕を、彼の身体に巻きつける。
得た感触は、かつて感じたことがあるものだった。
あれは、やはり夢ではなかったのだ。
頬を、一筋の涙が伝う。
愛おしい──こんなにも大きな想いが、心のどこにあったのだろう。
どうして今まで気づかずにいたのだろう。
葵はほんのわずかでも多く龍麻を感じようと、身体を寄せた。
「葵……?」
驚いた様子の龍麻の声は、まだ遠い。
もっと近くで。もっと。
「龍麻」
暖かな背中に頬を寄せ、呼ぶ。
近づく為に。近づいてもらう為に。
龍麻の手に持っていたコートが落ちる音がする。
ひどく遠く、どうでもいい音。
葵にとってはそんな音よりも、龍麻が振り向く時の衣擦れの音や、
上気した息遣いの方がずっと大切だった。
剥き出しの肩に触れる。
逞しい身体は、それにふさわしい重みを伝えてきた。
「葵」
龍麻の声が、近くから聞こえる。
耳に──そして、心に直接届くくらいの近さから。
彼の身体に添わせた指先にまで伝わる愛おしい声を、葵は唇で受けとめた。
薄い闇──黄昏の色が、葵に彼誰(の時を思い出させる。
龍麻の放つ陽(に、自分よりも先に呑みこまれていった、栗色の髪の女性。
龍麻を奪い取った自分を、不平も言わず見送った彼女は、
消える寸前に、龍麻を、よろしく──そう言ったような気がした。
しかし葵は、今日龍麻と会う為に着替えている途中、
それを額面通りに受けとって良いものかどうか、ふと勘ぐった。
もしかしたら彼女は、龍麻が彼女の世界(に行くまで、待っているのではないか。
最終的な勝利者が自分であることを知っているから、一時的に譲歩しただけではないのか。
死者への途方もない冒涜だと知りつつ、葵はひとたび浮かんだその考えを拭い去ることが出来なかった。
だから。
葵は龍麻の身体に腕を回し、しかと抱きしめる。
彼の肉体と魂をこの腕に感じられる間は、誰にも龍麻を渡さない。
願わくば、永久(に──
それが許されるはずもないわがままであると知りつつ、葵は彼の全てを独占したかった。
抱き合えれば、それでいい──
そんな風に考えていた龍麻だったが、それが大きな間違いであることはすぐに思い知らされた。
直に触れる肌の、なんと快いことか。
愛撫に応えて漏れる吐息の、なんと甘美なことか。
無骨に抱きしめていただけの腕は、すぐに葵を求めてさ迷い始め、身体の隅々をまさぐる。
醜い欲望で触れてはいけない、という思いと、彼女の全てを知りたいという想い。
背反する二つの思考は、次第に混じり、溶けていった。
雪が、世界から全ての音を奪う。
しかし、部屋で抱き合う龍麻と葵には、お互いの心音がはっきりと聞こえていた。
世界に許されたただひとつの音は、これから起こることを祝福するように穏やかに、静かに拍を刻む。
二人は必然のくちづけを交わし、全てをお互いに捧げた。
葵の悲鳴にも似た嗚咽と共に、意識が弾けた。
次に龍麻が見たものは、己の下で弛緩していく彼女の身体だった。
頭の奥に残る余韻が、夢でなかったと告げてはいるが、
ほとんど忘我のうちに、時間は過ぎ去ってしまったようだった。
落胆めいたものが胸をちくりと刺したのを無視し、葵の傍らに身体を横たえる。
力の抜けた女性の肢体は、あまりにも優美で、これまでの葵とは全く別の美しさだった。
龍麻が息を呑むしか出来ないでいると、葵の指が、傷痕(をなぞる。
「痛く……ない?」
気遣ってくれて嬉しさと、気恥ずかしさを同時に抱いて、龍麻は葵の頬に触れた。
まだうっすらと朱に染まっている白皙の頬に、くちづけたい衝動を抑えて答える。
「大丈夫。葵に救(けてもらったのは……これで二度だね」
「二度?」
怪訝そうに訊ねる葵に、龍麻は説明した。
その間も、葵に触れるのは止めない。
葵は一度だけ身じろぎしたが、後は抗わず、
代わりに傷痕から背中へと手を動かし、ゆるやかに撫でてくる。
思わず声を上げてしまいそうな、情感の篭った撫で方だった。
「怪我した時なんかも数えるともっとたくさんだけど……
本当に危ないかな、って思った時に救けてもらったのは二度目なんだ」
瞳だけで続きを促す葵に、龍麻は言葉を継ぐ。
「御門に会いに行く時にさ、なんだっけ、時空の狭間って言ったかな、通った時があったろ」
「ええ」
「あの時……なんか自我を失うっていうのかな、
とにかく、何がなんだか解らなくなっちゃって、急に怖くなったんだ。
でも、その時……葵が手を握ってくれて、それで俺は救かったんだ」
笑われるかもしれない、と思っていた龍麻が、そっと表情を窺(うと、
話を聞き終えた葵の瞳に浮かんでいたのは理解と共感だった。
「あの時……私も怖かったの。多分龍麻と同じ、急に何も感じられなくなって……
京一くんや小蒔のことも、隣にいる龍麻のことも」
葵もあの時、同じ恐怖を抱いていたのだ。
自分だけがおかしな感覚を味わったのではない、と知って安心した龍麻の手に、葵の指が静かに重なる。
ただそれだけの仕種に、どうしようもない幸福を感じてしまう龍麻だった。
しかし、続く葵の言葉が、思わぬ方へと二人の想いを導いていく。
「でも、龍麻が手を握ってくれて安心できて」
「え? 葵の方から握ってくれただろ?」
「龍麻の方からよ。間違いないわ」
葵は珍しくむきになっているようで、そうなると龍麻も引き下がれない。
軽く唇を尖らせ、同意できない、と態度で示していたが、不意に笑い出した。
「どっちでもいいか」
「……そうね、どっちでもいいわね」
小さく笑った二人は、指を絡め、唇を重ねる。
そう──あらゆる時代と空間に接しているという時空の狭間の中で、
龍麻は葵を求め、葵は龍麻を捜し、二人はお互いを見つけた。
それで良いはずだった。
白い裸身が、薄闇に浮かび上がる。
追って身体を起こそうとした龍麻は、頭から自分が脱ぎ捨てたトレーナーを被されてしまった。
降参、と両手を挙げると、衣擦れの音が聞こえてくる。
それはひどく魅惑的な音であったけれども、良心に従っておとなしくしていると、
やがてトレーナーが取り除かれ、視界が回復した。
目の前にいる葵は、もちろん全て服を着終えている。
急いで自分も服を着た龍麻は、睫毛を伏せ、目を合わせようとしない葵に、自らも視線を逸らせて言った。
「送ってくよ」
「そんな、悪いわ」
「いいから」
おそらく気恥ずかしさから遠慮する葵を強引に説き伏せ、龍麻は家を出た。
雪は二人から会話を奪い、代わりに温もりを与えた。
肩が触れそうなくらい身を寄せて、龍麻と葵は静かな東京の街を歩いていた。
一杯の幸福とわずかな不満、それに少しの願いを足して、足音を重ねていく。
滑ってしまうといけないから、慎重に──
葵の歩幅に合わせて、ゆっくりと──
だが、二人がどれだけ努力を払ったとしても、貴重な時間はすぐに過ぎ去ってしまい、
再び別れの時が近づいていた。
「ここを曲がれば、すぐだから」
「うん」
龍麻は小さな声で頷いたが、手は離そうとしない。
葵も、言ったきり立ち去ろうとはしない。
別れ難かったのは二人ともだった。
しかし、さっきは身を寄せ合う口実となった雪は、今度は別れる理由となってしまう。
立ち止まっていると急激に身体が冷え、このままでは風邪を引いてしまいかねなかった。
「それじゃ」
「ええ」
再び別れを告げるものの、やはり手は離れない。
困った二人は同時に、同じ行動を取った。
あれほど固く繋がっていた手が、嘘のように容易(く離れた。
別離を求めたのではない。
もう一度、最後の繋がりを求めて、葵は龍麻の胸に飛びこみ、龍麻は葵の身体を受けとめた。
もつれるように口唇が重なる。
灼けるような熱さに、二人はいつまでも離れようとしなかった。
雪は、二人を覆い隠そうとするかのように降り続けていた。
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