<<話選択へ
<<咆 吼 8へ
壁にかかっている時計を見上げた龍麻は、落ちつかなげに腕を組んだ。
定めた集合時間まではまだ三十分、本当にぎりぎりの時間まではまだ一時間以上ある。
しかし、ことこの分野において、龍麻は友人を全く信用していない。
彼には何しろ一生に一度しかない修学旅行でさえ、
新幹線の発車時刻寸前に駆け込んできた前科があるのだ。
学校という束縛を離れた友人同士の旅行など、時間前に来るのを期待する方がどうかしている。
小さな、空港のロビーの誰にも聞き取れないくらいのうなり声を上げた龍麻は、
飛行機の離陸時間を教えなければ良かったと今更ながらに後悔した。
そうすればさすがに京一も遅刻はしないだろう。
もう一度時計を見上げ、京一の家に電話してみるか、いや、
電話して出られた時の方がショックが大きいのではないか、と、
あながち杞憂とも言えない不安を堂々巡りさせる龍麻を、突然、呼ぶ声がする。
「緋勇クン」
聞きなれた呼び声に、龍麻は首を傾げた。
こんな所に彼女がいるはずがない、幻聴だろうか。
しかし振り向いてみるとやはり幻聴ではなく、そこには昨日まで担任だった女性が立っていた。
「先生」
マリア・アルカードは教壇に立っていた時と同じ微笑みを浮かべ、歩み寄ってくる。
なぜとなく緊張してしまった龍麻は、直立不動で彼女を迎えた。
「久しぶりね、緋勇クン。アナタは……どこへ?」
「中国です。先生は?」
髪をかきあげたマリアは、射しこむ太陽の光に、澄んだ蒼い瞳をきらめかせて答えた。
「ワタシは……故郷(に」
マリアは真神を去ることにしていた。
もともと『黄龍の器』を手に入れる為にかりそめの仕事として教師を選んだに過ぎないし、
その目的も昇華した今、日本(に残る理由はなかった。
マリアの選択を、止める権利は龍麻にはない。
だから去る彼女を嘆くのではなく、祝福する為に何か言うべきだった。
「……」
三十秒ほど考えた挙句、結局気の利いた言葉を何一つ思い浮かべられなかった龍麻は、
諦めて頭を振り、マリアを見る。
マリアは全てを受け入れる慈愛の表情で頷いてみせた。
それは、この世のものとも思えないほど美しい笑顔で、龍麻は急に焦ってしまう。
息をすることすら忘れた挙句、掌をズボンで拭ったりして、
自分は恐ろしく間抜けなのではないか、とその通りのことを思っていたので、
春からすっかり見慣れた木刀が近づいてきても、
その持ち主が馴れ馴れしく肩に腕を乗せるまで全く気づかなかった。
「なんだよマリアせんせ、教師辞めちまうのかよ」
「京一」
ようやく来た京一は、図々しくも間に割って入ってくる。
悪友を押し退けようとした龍麻は、それがおとなげないことだと思いなおして、彼に場を譲った。
マリアは京一にも変わらぬ穏やかな笑みを向ける。
それが龍麻にはやや面白くなかったが、慎ましく沈黙を保った。
「いえ……真神は辞めてしまったけれど、教師は辞めないわ」
しばらく休養した後で、また教師の職を探すという。
それが彼女の故郷でか、それとも日本に戻ってきてのことなのかはマリアは言わなかったが、
彼女の選択は龍麻にとって喜ばしいものだった。
新たな世代に、知識を伝える。
永遠とも言える寿命を、彼女は陽(の方向に用いることにしたのだ。
彼女に教わった一年間の軌跡を、これから彼女に教えられるであろう子供達に重ね、
龍麻は胸を熱くする。
「また……いつか会いましょう」
「はい」
龍麻は差し出された手を固く握った。
彼女とは離れ離れになる──が、生きている限り、マリアはどこかで見ているだろう。
彼女の教え子が、道を違えないかどうかを。
龍麻はその期待に応えなければならない。
それは世界を支配するよりも、多分ずっとやりがいのあることのはずだった。
「それじゃね、蓬莱寺クンも──元気で」
「ヘヘッ、それじゃな、マリアせんせ」
頭を下げる龍麻と手を振る京一に、それぞれ応えたマリアは律動的な足取りで一歩を踏み出した。
「そうだ、忘れていたわ」
しかし何故か立ち止まったマリアは、
陽光を受けて眩しいほどに輝く金髪に軽やかなステップを踏ませると、龍麻のところに戻ってくる。
「なんです──ッ!」
言いかけた龍麻の頬に、軽やかな紅が触れた。
「お、おいッ!!」
叫んだのは京一で、龍麻はまばたきすら忘れて担任だった女(を見た。
凝視していたはずなのに、マリアはもう小さくなっている。
空港の人込みに紛れて見えなくなってしまった彼女を、龍麻はいつまでも見送っていた。
「せッ、センセーッ!! 今のは一体……ちくしょう、行っちまった」
幻と信じたい光景を見てしまった京一は、にわかにぼんやりと頬に手を当てている龍麻の胸倉を掴んだ。
龍麻は親友であり、親友は隠しごとなどしない。
そうであるはずだ。絶対。
「やい龍麻てめェ、一体何しやがったッ!! 事と次第によっちゃ、覚悟しやがれッ!!」
龍麻も、京一のことはかけがえのない友だと思っている。
去年の春から今まで、どれだけ彼に助けられたかわからない。
背中を預け、預けられた戦友は、これからもずっと友であることだろう。
しかしいくら親友の頼みでも、これだけは話すわけにいかない。
人は幾つか、墓場まで持っていく秘密があるというが、
頬に触れた熱い唇が意味する、マリアの正体は間違いなくそのうちの一つなのだ。
例えラーメンを何十杯奢ってもらったとしても、明かすことの出来ない秘密だった。
無口を決めこむ龍麻に、京一は空港という場もわきまえず怒りだし、険悪な雰囲気が漂い始める。
人の多い場所にも関わらず喧嘩を始めようとする二人を救ったのは、
警備員でも空港の職員でもなく、あくび混じりの関西弁だった。
「なんや、アニキ達はどこにおってもさわがしいんやな」
「劉」
いささかイントネーションが怪しい以外は、日本人と変わらぬ関西弁を使いこなすのは、
中国への旅に同行する劉弦月だ。
彼にとっては故郷への帰還になる旅は、来た時とは異なり、一人ではない。
柳生を斃した報告を墓前にするという劉は、中国語を話せない龍麻達にとっては心強い通訳ともなる。
「早いじゃないか、珍しい」
「なんや、わいがいっつも遅刻しとるような言い方やな。ちょっと傷ついたわ」
全然傷ついたようには見えない態度の劉を、適当にあしらった龍麻は、
さっさと搭乗手続きを済ませてしまうことにした。
まだ時間はあるが、この二人が同行者では早め早めに動いておいて損はないだろう。
放っておくと京一はまたおねェちゃんウォッチングを始めて空港内をさ迷いかねないし、
この二人は手荷物検査がどうなるかも判らないのだ。
絶対無理だと口を極めて言ったのに、相棒を手放すわけにはいかねェ、
バイオリンだって持ちこんでるじゃねェか、と
どこで聞きかじったか知らない知識を盾に京一は頑として聞きいれず、木刀を機内に持ち込もうとしている。
バイオリンと木刀じゃ木製品って以外に共通点がねェだろ、
とは言ったところで無駄なので言わなかったが、
いざとなったら伝統芸能に使う道具だ、と押し切らせるつもりだった。
「ちょっと待てよ、トイレ行ってくる」
「あ、お供しまっせ、京一はん」
出鼻をくじかれた龍麻は、そういうのは先に済ませておけよとぶつぶつ言いながら、
少しふてくされて椅子に座る。
しかし、椅子に全体重を預けようとした瞬間、ありえざるものを見てしまい、
画鋲を尻で踏んずけたように跳びあがった。
「龍麻」
その声を聞いた時の驚きは、マリアと会った時以上だったかもしれない。
腰に届く、艶のある黒髪を大きく揺らして、真っ直ぐにこちらを見つめる女性を、
龍麻は直視出来なかった。
「葵……」
愛する女性(を呼ぶ声は、母親に叱られる直前の子供のそれのようだと、発した本人が思った。
それは叱られるようなことをした、という後ろめたさがそう思わせたのに他ならない。
龍麻は今日という旅立ちの日を、最も大切な女性に教えなかったのだ。
と言っても彼女に特に意地悪をしたのではなく、他のどの仲間にも今日のことは言っていない。
ではどうして、葵は今日自分が日本を発つことを知ったのか。
その疑問は、大きく手を振って現れたショートカットの小柄な女性によって解決された。
「ん? 京一に聞いたんだよ。黙って行くなんてヒドいじゃない、ひーちゃん」
「全くだ、見送りくらいさせてくれてもいいんじゃないか」
醍醐雄矢と肩を並べて現れた桜井小蒔は、軽く頬を膨らませて龍麻を責めた。
窮地に立たされた龍麻は、トイレから戻ってきた、自分を追い詰めた犯人を睨みつけたが、
京一はそ知らぬ顔でおねェちゃん探しをしていた。
先ほどの意趣返しとばかり彼の胸倉を掴もうとした龍麻は、
無言の強く、深い眼差しを受けて硬直してしまった。
「あ、あの、葵」
女性の長い睫毛がかすかに震えているのを見てしまったら、もうどんな言い訳も出来はしない。
自らの浅慮を悔いた龍麻は、事の成り行きをいかにも面白そうに見ている小蒔にも気づかず、
どう謝ったら許してもらえるか必死に考えた。
しかし、東京を救った『器』としての能力も、妄執に取り憑かれた魔人を討った拳も、
こういう時には何の役にも立たない。
結局龍麻は葵が一歩を踏み出しただけで動けなくなり、
全ての結果を彼女に委ねるしかなくなってしまったのだった。
葵は、ここに来て龍麻の顔を見るまでは、思い切り引っぱたいてやろうと決心していた。
隠し事はもちろんあって良いけれど、こんな大事なことを隠すというのはあんまりではないか。
けれど申し訳なさそうに頭を掻く龍麻を見たら、全ての思いは一色に塗りかえられてしまった。
熱くなる瞼から大切なものが零れ落ちてしまう前に、葵は飛び込む。
「お願い」
掠れ、震え、あらゆる手段で妨害しようとする感情(を払いのけ、懸命に声を紡ぎ出す。
「何年でも待ってるわ……だから、必ず帰ってきて」
龍麻を引き留めることは出来ない。
だから、せめて最後に彼の温もりを、息遣いを憶えていたい。
葵はこの春から幾度となく抱擁された龍麻の腕の中に、しばしの別離を告げるために飛びこんだ。
大きく、暖かな胸。
どれだけの時を経ようとも、また必ず自分を受け入れてくれるであろう器。
葵は眼を閉じ、息を殺して龍麻を感じた。
しかし、きっと応えてくれると思っていた彼からの抱擁は、いつまで待っても訪れなかった。
皆が見ているからだとしても、あまりに情がないように感じられ、葵は抗議の意味を込めて顔を上げる。
そこに葵が見たのは、いかにも恥ずかしそうに、そして困ったように頬を掻いている龍麻だった。
「あの」
龍麻は何を言い出すつもりなのだろうか。
もしや、もう二度とは帰ってこないと言うつもりなのか。
自分の想像に怯えた葵は、その先を言わせまいと龍麻の服を掴んだ。
しかし無情にも、龍麻の口は動く。
葵は全身を強張らせ、訪れる衝撃に備えた。
「三月中には帰ってくるんだけど」
「……え?」
「だから、京一はしばらく中国(で修行するみたいだけど、俺は父さんと母さんの墓参りしたら戻ってくるから」
「……や、やだ、私ったら」
理解した葵は顔が熱くなるどころではない、頭の先まで沸騰する思いだった。
周りから大きな笑い声と、口笛が何本も飛び交う。
もうこの場から逃げ出してしまいたくなって、ただひたすらに俯いていると、いきなり引き寄せられた。
この春から幾度となく感じた力強さ。
再び口笛が、さっきよりも激しく吹き荒れたが、彼の腕の中に居る限り、
それは快い祝福の音色となるのだった。
改めて龍麻は友人達と出立の挨拶を交わす。
龍麻は二週間ほどで戻ってきても、京一はかなり長い間向こうで修行するようだし、
戻ってきても、皆それぞれ忙しいだろうから、
真神の五人が揃うのはこれが最後になるかもしれない。
皆が今日来てくれて良かったと思うと共に、
変に格好をつけて何も言わなかったことを恥じもする龍麻だった。
「それじゃ、行ってくるよ」
「待って。……あの、お守り持ってきたの」
「お守り? ……ありがとう」
京一と違い武者修業の旅に行くわけではないのだから、お守りとは大げさな気がする。
しかし、そもそも葵に勘違いをさせたのは自分の連絡不足のせいであるし、
贈り物をもらって嬉しくないわけがないので、ありがたく龍麻は受け取った。
「あれ? ……これ」
受け取ったお守りは小さな白い袋で、どうやら葵の手製のようだった。
てっきり花園神社か織部神社辺りのものだと思っていた龍麻は、驚いて中を見てみる。
袋の中には、押し花にされた小さな桜の花片が一枚だけ入っていた。
春に二人の最初の接点となった、彼女の机に置かれていた花片。
葵はそれを覚えていて、取っておいてくれたのだ。
「ありがとう、大事にするよ」
万感の想いを込めて龍麻が言うと、葵は嬉しそうに頷いた。
「ええ。……あの、……気をつけてね」
「うん」
「お水とか……特に、あと……食べ物も、出来るだけ火を通してあるものを食べて」
「気をつけるよ」
葵はさきほどの積極性はどこへやら、口ごもってばかりいる。
それがまた可愛いと思っても、会えなくて寂しいのは龍麻も同じで、
両腕を衝き動かそうとする想いを抑えるのはなかなかに困難なのだった。
思春期に入り始めの小学生に戻ってしまった二人をよそに、小蒔は実に気楽に土産をねだっていた。
「京一、パンダ買ってきてよ、パンダ」
「売ってるわけねェだろうが」
「なんや、京一はん、知らんのかいな。去年から一人二頭までならOKになったんやで」
「マジか!?」
「そんな訳ないだろううが。全く、どうしてお前が卒業出来たのか、不思議でならんな」
「くッ……」
劉が加わっても全く変わらない会話に、
ほとんど一から始まった旅の心得を聞き終えた龍麻と葵も混じり、ひとしきり笑う。
笑いを収めると、もう出発の時間が近づいていた。
「じゃ、行くよ」
「……ええ」
歯切れの悪い親友と、彼女をじっと見つめている、
結局旅立ちにふさわしいことをしていないらしい男を察した小蒔は、
助け舟を出してやることにした。
「あッ、下着姿のおねーちゃんがッ!!」
「何ィッ、どこだッ!!」
血相を変えた京一に釣られ、皆の注意が逸れる。
計ったら五秒もないほどの時間は、しかし、当事者達には宝石よりも貴重なものだった。
「なんだよ、いねェじゃねェか」
考えればすぐに解りそうなことを、見ても諦めきれず、
納得して口にするまで十秒近くも費やして、京一は恨みがましく振りかえる。
「……ん?」
数秒目を離した隙に、なんとなく雰囲気が、
特に龍麻と葵の辺りが変わったような気がして、京一は目を細めた。
「さてと、行くぞ、京一、劉」
「待てよ、お前なんかあっただろ」
スキップ寸前の足取りで搭乗口へと向かう龍麻は、
もはやなんとなく、ではなく明らかに変わっていた。
その理由を知っているのは、この場にいる半数だけだ。
「そんじゃねひーちゃん、おみやげ忘れないでよねッ」
「任せといてよ」
「おい待てよ、待ててめェッ! さっきのコトと言い、洗いざらい吐きやがれッ!!」
「京一はん、荷物忘れとるでッ」
最後まで賑やかに去っていった三人の姿が見えなくなると、醍醐がため息をついた。
「全くあいつらは……一体何があったんだ」
「醍醐クン、知りたい?」
「桜井は知っているのか」
醍醐を見上げる小蒔の表情は、取引を持ちかける悪魔そのものだった。
「なんかお腹に入れたら話しちゃいそうなんだけどな。
あ、ボク、卒業してから一回も行ってないから、ひさしぶりにラーメン食べたくなっちゃった」
「ちょっと、小蒔」
まさか親友が自分を取引の材料(にするとは思っていなかった葵が、血相を変えて詰め寄る。
素早い動きでそれを避けた小蒔は、醍醐の手を掴んで走り出した。
「ほら、早くいこ」
「あ、ああ」
空港内で人目もはばからず逃げる二人はとても注目を集めている。
それに気づいた葵は、どうせ行く先は判っているのだから、
後で合流することにして、追いかけるのを止めた。
立ち止まった葵はふと、さっきまで龍麻が立っていた場所を振りかえる。
去年の春から始まった、彼との縁(。
結ばれ、深まった縁は、きっとこれからも育まれていくことだろう。
彼の護った街で、ずっと──
──東京魔人學園剣風帖 完──
<<話選択へ
<<咆 吼 8へ