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「愚かな……誰も彼も後先考えずに飛びこんでしまうとは。
大局を見る者がおらずしてどうやって勝利しようというのですか」
一人、また一人と龍麻を助けるために進んでいく仲間達に、御門は呆れたように扇子を振った。
その隣では村雨が、御門から遠いほうの半面で片笑いを作っている。
「……で、大局を見たらどうなんだよ」
目だけをちらりと村雨の方に動かし、また前方に戻した御門は、表情を消したまま答えた。
「彼らの献身によって緋勇さんの負担は確実に減っています。
まだそれは砂漠に落とす一滴に過ぎませんが、それがやがて大河となることもあるでしょう」
「ヘッ、まだるっこしい言い方しやがって。まァいいさ、俺は行くぜ。
こんなでけェバクチはそうあるもんじゃねェからな、乗らねェ手はねェさ」
言い捨てた村雨は、御門の返事を待たずして龍麻を中心とした結界の一翼を担うべく歩き出した。
村雨の、自分の趣味には全く合わない派手な刺繍が施された学生服の背中を見つめながら、
御門は背後に控えている芙蓉に声をかけた。
「芙蓉」
「はい」
「カラオケとやらは、楽しかったですか」
「はッ!? いえ、その……」
面食らい、動揺する芙蓉を、ちらりと振り向いて見やった御門は扇子を口許に当てた。
その横顔は、芙蓉がこれまで見たことのない表情だった。
「フッ……お前がそのような表情をするとは。全く『黄龍の器』は私の想像を超えている」
喉の奥で御門は笑う。
主が笑うのは見たことがある──が、笑い続けるのを見るのは、これもまた芙蓉には初めてだった。
笑いを収めた御門は、既にほぼ完成しつつある結界の、最後の一片となる為に扇子を閉じた。
「芙蓉、お前の力……使わせてもらいますよ」
「晴明様のご随意に」
歩き出した御門の数歩後ろを、芙蓉が音もなく続く。
稀代の陰陽師とその式神は、やがて光の中に姿を消した。
龍麻に関わった皆が、巨大な陣を敷く。
東京を護る為に──龍麻を救う為に。
氣の、まさしく龍の胴体の如き柱の中は、外から見たのとは全く印象が異なり、
ただ白が広がっているだけだった。
眩しくはないが、何も見えない。
己の手足すら見えなくなるほどの真白があるだけだった。
そして外からは感じた物理的なまでの圧力も、内側からは感じられない。
彼らが感じたのは精神的な重圧だった。
四方から己を押し潰そうとする、荒れ狂う『力』を、受けとめよう、という努力すら出来ず、
ただ奔流に呑み込まれないようにしがみつくのが精一杯の彼らは、
徐々に五感が失せていくことにも気付かない有様だった。
感覚が失せてしまえば自我をも失い、大いなる『力』の一部に同化してしまう。
だが、感覚の喪失はひどく心地の良いもので、彼らは本能的に危険を悟りながらも、
それに身を委ねることに、段々抵抗を感じなくなっていった。
圧潰(の後に来る、無限の解放。
通常では決して経験出来ない快楽に優しく意識を愛撫され、
原初の温もりのような安らぎに浸かっていく。
人では抗いようのない大いなる『力』。
その中に融け、単一の白と化しかけていた彼らの視覚に、黒が映った。
この春から出会い、共に護り、闘ってきた男が持つ、少し長めの髪は、
自分すら定かでなくなった彼らの道標となって導いた。
急速に感覚が戻ってくる。
一瞬は煩(わしく感じたそれも、すぐに馴染み、
彼らは自分達が何をしていたか、何をするべきかを思い出した。
龍麻を、彼らを照らす陽(を護る──
真白な光の中で、遂にお互いさえ視えるようになった彼らに、もう迷いはなかった。
流れこむ膨大な氣を受け容れ、己が一部と成す。
やがて彼らの信じた黒い頭髪が、濃さを増していく。
それは、白い輝きが穏やかに収斂(していく証だった。
二月、大きく漲った月の美しい夜。
西新宿の竹林にある小さな庵は、珍しい訪問者を迎えていた。
「爺、上がるぜ」
声の主は、他人から見たら彼こそが爺と言われる年恰好だった。
彼を出迎えた庵の主も、年齢は同じ位だがこちらは年齢に応じた品格を持っており、
サングラスをかけたまま親しげに手を上げる老人に、少し大げさに驚いてみせる。
「ふむ、お主から姿を見せるとは、珍しいこともあったものじゃな」
「けっ、言いやがれ。旨い酒の匂いがしたからよ」
「全く、お主の勘の良さには呆れるわい」
庵の主、新井龍山は長い白髭の下に苦笑を浮かべると、旧来の友人である楢崎道心を座敷に招いた。
遠慮なく上がった道心は、囲炉裏のある座敷に入る。
座敷には先客がいて、道心を見ると弾んだ声を上げた。
「あら、道心老師」
「おお、おめェるぽないたぁとかいう」
先に龍山の庵に来ていたのは天野絵莉だった。
足を崩して座っていた彼女は、道心を見ると場所を開ける。
遠慮なく彼女の隣に座った道心は、囲炉裏の傍に置かれている瓶を見つけると、幸福そうに口許を緩めた。
絵莉がここにいる理由も聞かず、盃を持ってきた龍山からこれをひったくるように奪い、
彼女に空の器を差し出す。
苦笑未満のものを閃かせた絵莉は、この偏屈な老人の機嫌を取るために、器になみなみと酒を注いだ。
盃を受け取った道心は、目の高さに一瞬だけ留めて一息に呑み干した。
「乾杯もなしか……全くお主は」
「ヘッ、乾杯ならしたさ。……この月にな」
盃に映した月を指してうそぶいた道心は、早くも空になった酒を再び絵莉に注がせる。
頭を振った龍山は、自分も絵莉に注いでもらい、彼女と軽く盃を合わせて酒宴を始めた。
老人二人と若い女、それも老人の一方は住所不定、職業不詳という奇妙な組み合わせの三人は、
しばらくは牽制しあうように無言で酒を嗜(む。
三人のうち、誰が最も喋りたかったかは定かではないが、口火を切ったのはやはり絵莉だった。
「それで……龍脈はどうなったんですか?」
それこそが絵莉が訊きたい、今日ここにやって来た理由だった。
絵莉はあの後龍麻達に会っていない。
彼らの多くは受験を控えており、邪魔をしたくなかったのと、
絵莉自身も他の仕事に忙殺されて時間が取れず、
ようやく今日になって龍山の庵を訪ねることが出来たのだ。
東京を人知れず救った若者達にはまたいずれ一人一人話を聞くとして、
まずは今回の出来事を俯瞰(の立場から見ていた龍山に語ってもらおうと思った。
そこにまた別の位置から俯瞰していた楢崎道心が訪ねてくれたのは、
絵莉にとっては僥倖(というほかはない。
「どうもしねぇよ、東京(は何も変わっちゃいねぇ。相変わらずやかましく、せわしねぇ……違うか」
「でもそれじゃ、あの膨大な龍脈の力は」
絵莉の問いに、道心は龍山と顔を見合わせた。
二人とももうかなりの年齢(のはずだが、思春期に入る前の男の子の顔に絵莉には見える。
仲間外れにされた女の子、というには無理があるのを承知しつつ、
絵莉はそんな風に思わずにいられなかった。
二人の悪童は、結局龍山が説明することになったようで、
袂を合わせた龍山は静かに説明を始めた。
「雄矢に聞いたところでは、龍麻ひとりではあの氣を抑えきれなんだらしい」
「けッ、ひよっこが」
吐き捨てた道心は盃を呷(る。
これは本心で言ったのではなく、庵の主に対しての当てこすりのつもりで言ったようだった。
その証拠に、龍山は苦虫を噛み潰したような顔で道心を見やっている。
この二人も付き合いは長いようだが、ずっとこんな調子なのだろうか。
羨ましく思うと同時に、内心で呆れもする絵莉だった。
「じゃが、雄矢達は皆で力を合わせ、龍麻を補ったそうじゃ」
「そんなこと……できるんですか?」
龍麻には『器』という素質があり、彼のみが龍脈という膨大な氣を受け、操る資格がある。
絵莉はそう龍山から聞かされていた。
疑問に対して龍山は長髭をしごくのみで答えず、代わりに吐き捨てるように説明したのは道心だった。
「ッたく糞餓鬼ってのはむちゃくちゃしやがる。
おれも詳しくは聞いてねぇが、御門の若棟梁となんとかって妙なのが、
おれも知らねぇ術(を使って龍麻の負担を減らそうとしたらしい。
確かに『器』として覚醒していねェ龍麻じゃヤバかったろうが、
自分(らまで消し飛ぶかもしれねェってのに全く正気の沙汰じゃねェな」
己の身を犠牲にする、という考えを、道心は嫌う。
それは己の力が不足していることを弁(えない愚か者であり、陶酔しているに過ぎないのだ。
だから道心は、龍麻を救おうとした彼らの行為に呆れ、かつ怒っていたのだ。
確かに正気の沙汰ではないかもしれない。
だが、龍麻の傍にいた彼らは、それが正気かどうかなど考えもしなかっただろう。
龍麻を救うためならば、迷わず身を投げ出す──絵莉がそうしたように、
彼らは自分の宿星(に従って行動しただけなのだろう。
絵里が無言で道心を見つめると、道心もその辺りのことは承知しているのか、
ひときわ大きく盃を呷(った。
絵莉がまた注いでやると、道心は今度は炙(られたするめを噛む。
この偏屈な老師の心底が透けて見えて、絵莉はうっかり噴き出してしまうところだった。
表情を晦(ませる為に絵莉が龍山の方を見ると、彼も秘密を共有した悪戯小僧のような笑顔で頷いた。
するめを噛み千切った道心が続ける。
「その結果、龍麻が受ける龍脈……大地の氣は軽減された」
「そして本来『器』のみが受け容れることの出来る『力』は、
分散されたことによって彼らにも受け容れることが出来た、というわけじゃ。
もっとも、龍脈は沈静化したからもう大きな『力』を用いるのは難しいじゃろうがな」
人知を超えた『力』は、未だ若者達の身体に宿っている──
そう龍山は話を結んだ。
「それは、いずれ何か……影響がありそうなんですか?」
「さぁ……な。良いことかも知れねェし悪いことかも知れねェ。
『力』は『力』であって、それ以上でもそれ以下でもねェからな」
力を用いるのは、結局は人──
春から起こった幾つかの事件は、身に余る力を手にしてしまった者達が起こしている。
また彼らのような者が現れたら、という危惧は絵莉にとって当然のものだった。
龍山は思慮深い眼差しを絵莉に向けていたが、不意にそれを和らげる。
「じゃがな、龍麻の元に集うた宿星達に、道を違えるものが現れるとはわしには思えんのじゃ。
そう思わんか、あんたは」
「ええ……思います」
絵莉が大きく同意すると、道心は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「けッ、お人よし共が」
龍山と顔を見合わせた絵莉は、再び徳利を手にする。
早くも酒瓶は空になりつつあったが、龍山がすぐに新たな酒を取り出した。
「どうぞ、道心老師」
「ほれ、雄矢が持ってきた酒もあるぞ」
「てめぇら、おれが酒さえ呑ませとけば満足すると思っていやがるだろう」
道心はぶつぶつ言いながらも次々と注がれた酒を呑み干す。
龍山と絵莉もそれぞれのペースで酒を呑み、ささやかな祝宴は夜更け過ぎまで続いた。
霞みがかった月は、消えることのない灯りをいつまでも照らしていた。
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