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張り詰めた空気を切り裂くように、羽音が響き渡る。
数瞬遅れて鳴った、小気味の良い乾いた音が、射手の狙い通りに的を射抜いたと告げていた。
織部雪乃が弓道場に着いた時、丁度射手が最後の一本を放った所だった。
「おぅ、どうだった?」
射手が弓を降ろし、緊張の糸が緩んだのを確認してから、雪乃は親しげに話しかける。
「う〜ん、途中まではボクの方が良かったんだけどね。
ちょっとリズムが乱れたら立てなおせなかったよ」
そう悔しそうに答えたのは、雪乃が話しかけた射手──雪乃の妹、雛乃ではなく、
片隅で控えていた、二人の共通の友人の桜井小蒔だった。
雛乃と同じく胴衣姿の彼女は、空は青く澄み渡り、吹く風は冷涼な調べとなって肌を撫でるこの季節に、
額にうっすらと汗を貼りつかせている。
「いえ、今回は偶然わたくしの方が調子が良かっただけです」
「そう言って、もう三回も続けて勝ってるじゃないかッ」
「あったりまえだろ、オレの妹だぜッ」
「それがおかしいって言うんだよッ」
「何だとぉ!」
傍から見ている者には本気で口喧嘩しているようにも見えるやりとりを小蒔と続ける雪乃を、
雛乃は意味ありげな視線で見つめる。
まともに受け止めたら息苦しささえ覚えてしまうような、熱のこもった視線。
しかし雛乃は半瞬で瞳から色を消すと、努めて普段の調子で語りかけた。
「小蒔様、そろそろ着替えに行きませんか?」
「あ、うん。そうだね。それじゃ、ボク達も着替えたらすぐに行くから、ちょっと待っててよ」
「あァ、それじゃ校門の所で待ってるぜ」
妹が何を企んでいるか知るはずも無く、雪乃は二人と別れると校門への道を一人歩いていった。
「遅ぇなアイツら。何やってやがんだ全く」
もう三十分程は待っただろうか。
元々気の長い方では無い雪乃は、なかなか姿を現さない小蒔達に痺れをきらしていた。
もちろん女性の着替えに時間がかかると言うのは解るが、
いつもならとっくに出てきている時間なのだ。
ポニーテールを軽く揺らして考え込んだ雪乃は、自分から更衣室の方へ出向くことにした。
校門から更衣室までは再び戻る羽目になるが、その分は小蒔にカラオケでも奢らせて手を打とう。
そう考えると自然と足取りも軽くなり、雪乃はやや大股で校内を進んでいった。
角を何度か曲がったところで、小蒔達のいる更衣室が見えてきた。
雪乃は一気に扉を開こうとして、
小蒔達以外の誰かがいるかもしれないと思い至って手の動きを急停止させる。
軽く息を止めて中の様子を伺うと、奇妙な声が聞こえてきた。
啜り泣くような、それでいて妙に心をさざめかせるそれは、紛れも無い媚声だった。
雪乃はもちろんまだそんな声を発したことはなかったし、
他人のそんな声も聞いたことなど無かったが、
しかし初めてでも聞き間違いようのない艶やかさを、その声は纏っていた。
こんな場所で──中に友人が居るはずの部屋の中から、
こんな声が──男女が愛し合う時の声が聞こえてくるはずが無い。
雪乃は腋の下に嫌な汗が浮かぶのを感じながら、
向こう側を透視するかのようにドアを睨みつけ、そして──気付いた。
わずかに開いているドアに。
雪乃はまだ、同級生が騒ぎ立てているような異性に対する感情を抱いたことが無く、
ましてや他人の愛し合っている場面など見せられるのはまっぴら御免だった。
しかし、今は。
中に居るはずの小蒔に何が起こっているのか確認しなければ。
そんな大義名分が頭をよぎり、
それはたちまち跳ね除けることの出来ないほど大きな物となって雪乃を支配する。
その為に、雪乃は遂に気付かなかった。
それが、罠だと言うことに──
雪乃は慎重に身体を動かすと、最初から自分を誘いこむ為だけに用意されていた扉の隙間から中を覗う。
見える範囲が狭い為に、最初は何だか解らなかった光景が、像を結びはじめた。
視界の半分程を占めている白い物は、はだけた白い胴衣と、同じくらい白い肌。
そして、その下にある赤みがかった黒い物は──頭髪だった。
それも、見覚えのある。
「なッ──」
叫びそうになった雪乃は慌てて口を押さえると、自分の見間違いだと祈りつつ目を凝らす。
部屋の中にはどうやら二人いて、一人が跪いているようだった。
「小、蒔……」
頭髪の持ち主が自分の想像と一致していると確認した時、雪乃は呆然と親友の名を呟いていた。
細い隙間からは、全容は覗えなかったが、
媚声とはだけた肌という情報があれば、いくら雪乃でも答えは容易に想像がついた。
では、もう一人の恐らく媚声を上げている方、小蒔が跪いている相手は誰なのか。
心臓が高鳴って頭の芯にずきずきと痛みが走るのを必死に耐えながら、
雪乃は視線を上にずらしていく。
そこにあったのは小蒔よりももっと身近な──半身に近いくらいの存在の、
しかし自分とは全く異なる艶やかさを持った黒髪だった。
小蒔と──小蒔と、雛乃が──
その先の言葉を思い浮かべてしまうのを恐れるように、雪乃は扉を蹴破る勢いで室内に飛びこんでいた。
「姉様……お待ちしておりました」
激しい音を立てて扉が開いても、雛乃は動じる様子も無く、
まるで来るのが遅いのを咎めるかのような口調で姉を迎えた。
「なッ……何してんだお前!」
それはあと数ミリで怒りへと変わる声だったが、
雛乃は雪乃が幼い時からずっと目にしてきた、煙るような微笑でそれを受け止める。
「小蒔様は、わたくしの汗がお好きなのですよ」
物静かな、自分とは正反対の妹の口から紡がれる倒錯的な言葉に、
雪乃は今自分のいる世界が足元から崩れるような錯覚に陥っていた。
目の前の光景に較べれば、まだ龍脈だの鬼道の方がマシだった。
「小蒔……本当なのかッ!? 操られたりしてるんじゃないのか!」
現実を受け入れられない雪乃の悲痛な叫びに、
それまで振り向こうともしなかった小蒔がようやく身体ごと向き直る。
「雪乃……ごめんね。ボク……本当はこんなに……エッチだったんだ」
数年来の親友が、今まで見た事も無い表情で、
口の周りにおびただしい量の妖しく光を放つ粘液をしたたらせながら歩み寄ってきた時、
雪乃は思わず後ずさりしてしまっていた。
「や……やめろッ! 来るなッ!!」
叫びながら、雪乃はまるで、異形の者に対するような根源的な恐怖に駆られていた。
しかしそれは「受け付けない恐怖」ではなく、
「受け入れてしまう恐怖」に根ざすものだった。
それに気が付いていたのは、本人ではなく妹の方だった。
以前から──もしかしたら双子として生を受けた時から、雛乃は雪乃を慕っていた。
それは幼い頃は姉妹愛として済ませられるものだったが、
年を経るにつれてその想いは募り、避けがたいものとなっていった。
しかし、残念ながらそれが人の道──そんなものがあるとすればだが──
に外れていると言う事も同時に学び、雛乃は長い間姉に恋焦がれる身を一人慰めねばならなかった。
それが終わりを告げたのは、皮肉にも「力」に目覚めた時だった。
自分と姉の身に突然宿った、人を超えた力。
それは雛乃に、彼女を世の多数に習うことを止めさせ、
禁断の道へと歩ませるに充分な説得力を与えてくれた。
ただ、姉は異性にも──もちろん同性にも、そもそも興味がないように見え、
未だ友人達と遊ぶのに夢中のようだった。
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