<<話選択へ
次のページへ>>

(1/4ページ)

秋も寒さを増し、廊下を歩くのでさえもやや辛い時期。
用事を済ませて教室に戻る途中で、廊下を歩く親友の姿を見かけた葵は、
小走りに近寄って呼びとめた。
しかし、応じて歩みを止めた小蒔の顔には、葵でなければ気付かないくらいの困惑が浮かんでいた。
自分に対して向けられているそれは、話しかけて欲しくないという無言の意志表示。
それを察しはしたが、葵は一度は噛んだ唇を強引に開いた。
「小蒔……一緒に帰らない?」
「あ……ゴメン。今日もちょっと用事があるんだ」
「……そう……」
逃げるように身を翻す親友の後姿を、寂しく見送る。
もうここ一ヶ月以上、葵は小蒔と帰っていなかった。
自分は生徒会を引退しても何かと忙しく、
また人気がある小蒔も後輩に頼られているのは解ってはいるのだが、
ここ最近の彼女は、それだけでない、何か違う理由で──理由で、自分を避けていた。
挨拶をしてくる友人達に無意識に手を上げながら、
葵は胸に秘めていたひとつの決心を、今日こそ実行に移すのだと固く誓った。

軽快な足取りで、小蒔が歩いている。
その後ろを、重たい雰囲気を漂わせながらも、小蒔を見失うまいと歩を進める葵の姿があった。
いけないことだ、と解ってはいたが、足を止めることは出来なかった。
真相を確かめなければ、という独善めいた意志が後ろめたさを覆い隠し、
人気の無い方へと向かっている親友をひたすらに追いかけている。
もう学校を出てから一時間以上は過ぎていて、足が疲労を訴えはじめた頃、
前を歩く小蒔がひとつの建物の中へと入って行った。
足取りを追うのに必死で気付かなかったが、小蒔が訪れたのは、葵も知っている場所だった。
うっそうと木の繁る、静謐せいひつな空間。
そこに小気味の良い玉砂利を踏む音を響かせながら、赤い鳥居をくぐって行く親友。
「織部……神社?」
鳥居の向こうでたたずむ小蒔から片時も目を離さず、葵は記憶の糸を辿る。
ここには確か、小蒔の弓道の友達である織部雛乃と、
その双子の姉である雪乃が住んでいるはずだった。
小蒔はいつも彼女達に会える練習試合のことを楽しそうに話していたが、
いつのまにか、家に遊びにいくほどの付き合いになっていたのだろうか。
寂しさを覚えながらも、予想していたのとは異なる結果に、葵は胸を撫で下ろしていた。
友達に会うのに何故自分に話してくれないのか、という疑問は残るが、
小蒔ならきっと時が来れば話してくれる。
そう信じることにした葵が、小蒔に気付かれる前に今日は帰ろうと出口へ向かったちょうどその時。
これまで全く人の気配など無かったこの神社に、やって来る人影があった。
とっさに大樹の陰に身を押しこめた葵の傍を、快活そうな少女が小走りに駆けて行く。
その横顔に、葵は見覚えがあった。
髪を後頭部で束ね、どこか雰囲気が小蒔と似ている少女は、姉である雪乃のはずだった。
タイミングの悪い帰宅に葵は自分勝手な苛立ちを覚えつつも、
気付かれずに出ていけるタイミングを計るために雪乃を観察する。
玉砂利の音で雪乃に気付いた小蒔が、笑顔を向けた。
そして、その笑顔のまま雪乃に近づいた小蒔は──
あまりに唐突に突きつけられた光景は、葵から現実を奪い去っていた。
もちろん欧米人が挨拶で交わすということは知っているし、
現に自分自身、マリィという名の身よりの無い少女を引き取ってからはほぼ毎日のように
彼女に可愛らしい挨拶をされている。
しかし二人が交わしているキスは、どうみてもそれらとは異なっていた。
身体に腕を回し、息遣いさえ聞こえてきそうな激しいキスは、まるで──
目の前で起こった事態を理解も出来ず、呼吸も忘れ、眩暈さえ覚えた葵の肩を、何者かが叩く。
立て続けのショックに破裂しそうな心臓にけしかけられるように振り向くと、
長い、豊かな黒髪を有した少女がほのかな笑みを湛えて立っていた。
「何か……ご用ですか?」
「あッ、あの、私は……」
およそ彼女らしくない大声で慌てふためく葵に、境内にいた雪乃と小蒔が気付く。
この場にいるはずの無い親友の姿を見出した小蒔の目は、これ以上無いほど大きく見開かれていた。
「葵……」
それきり言葉を失ってしまった小蒔に、葵も返事は出来ない。
ただ蒼ざめ、立ち尽くすだけだった。
小蒔の傍らにいる雪乃もばつが悪そうに目を伏せ、誰もがどうすれば良いのか解らないまま、
徒に時間だけが過ぎてゆく。
そんな中、ただ一人冷静に三人を観察していた雛乃が皆を救った。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ」
あるいは、それは更なる業苦への道標だったのかもしれない。
しかし、それでも葵は往くしか無かった。

雛乃の部屋に通された葵は、無言のまま勧められた座布団に座った。
雛乃も、残る二人も口を開かず、厭な沈黙が空気を濁す。
しかし、客である葵に茶も出されないのは、雛乃達が、
葵が問わねばならないことを待っているからに他ならなかった。
部屋の入り口に一番近い所に座っている葵は、凝視していた座卓の縁から視線を滑らせる。
捉えた白いスカートの裾は、自分よりも彼女達の方に寄っているように感じられた。
その錯覚が、口を開かせる。
「……どういうことなの」
他に尋ねようは無かった。
これ以上どんな言葉を付け加えても、誰かが傷つくことになってしまう。
誰かが?
小蒔の為なら、自分はいくら傷ついても構わない。
そして小蒔以外の人間など、いくら傷ついても知った事ではない。
葵は厚い雲で覆い隠していた己の心がずっと、ただ一人に向けられていたことを、この時初めて知った。
こんな状況でその、禁断の想いを知ってしまったのが、良いのかどうかは判らない。
ただ、いずれにせよ、結果が得られるというのは、わずかながら慰めにはなった。
早まる心臓に息苦しさを覚えさせられ、鮮やかな紅の唇を開く。
押し殺した呼吸は室内を漂い、想いを寄せる少女の耳に届いた。
鼓膜を揺らした微かな振動に、うつむいていた小蒔が弾かれたように顔を上げる。
しかし、ほとんど泣き出さんばかりのその顔には、葵が求めたものは浮かんでいなかった。
「あのね、あの……」
「美里様が先ほどご覧になったもの。あれが、わたくし達の全てです」
小蒔に被せるように言った雛乃の声は、破魔矢の如く葵の心を射抜いた。
「全て……って……」
「わたくし達は、お互いをとても大切に想っています」
きっぱりと言いきった雛乃に、葵の感情は急激に奔騰した。
これまで自分が小蒔に抱いてきたものを否定されたように感じたのだ。
「そんな……私だって、小蒔のこと……!!」
もう片方の当事者である小蒔は、拳を握り締め、どちらとも目を合わせないようにしている。
自分の気持ち──雪乃と雛乃を想う気持ちが、
他人と較べればやはり異質なものだということには気付いていたから、
雛乃に同じ想いを持っていることを告げられ、解き放つまでひた隠しにしていた小蒔にとって、
親友が同質の想いを秘めていたと気付くのは無理な話だった。
そしてそれ故に、葵に応えてやれず、気付いてもやれなかった自分に対する後悔の念は、
小さな身体を押し潰しそうにのしかかっていた。
膝の上に置いた小さな拳を震わせている小蒔に、葵の心は傷む。
小蒔を責めるつもりじゃないの──喉まで出かかった言葉を呑みこんだ葵は、
その原因の一端を担う少女を睨んだ。
そこにあったのは、冷たい目。
自分をこの場にいてはならない者として、断罪する視線。
そのような視線を受けることに慣れていない葵はたちまち白皙の頬を朱に染め、
猛り狂う激情をそのまま叩きつけた。
「あなた達は──卑怯じゃない!」
普段の彼女なら決して発露させることも、使うことも無い言葉を、ためらいなく吐き出す。
しかし、それに化学反応の如く身体をすくませたのは雪乃と小蒔で、
雛乃は軽く目を細めただけだった。
「……それでは、美里様はどうなさりたい、とお考えなのですか?」
どこまでも冷静な雛乃の声が、葵の胸を撃つ。
反射的に開きかけた口が、行き場所を失って虚しく閉じた。
そう、いくら激情を叩きつけたところで、最終的な選択は二つしかないのだった。
退くか、残るか。
葵は形良く膨らんだ唇を強く噛み、しばらく迷った末に、罪の無い唇を解放した。
「どうしたら、いいの」
それは選択に迷っているのではなく、残る事を決めた上で何をすれば良いか、と聞いているのだった。
その答えを半ば予想していたのか、雛乃の返事は的確なものだった。
「本当に、わたくし達がしていることを……美里様もされるおつもりなのですか」
念押しなど、もはや葵を煽り立てるだけだった。
それどころか丁寧な物言いでさえもが、反発を強める材料となって葵の心を引掻いた。
「……ええ」
「それでは、服を脱いで頂けますか」
「……!!」
虫も殺さぬような淑やかな少女の口から放たれた、恐ろしく直截ちょくせつ的な言葉。
葵は、その返事が自ら招いたものだということも忘れて絶句していた。
もちろん、突っぱねることは簡単だ。
「ふざけないで」
そう切り捨てて、小蒔の腕を取って一緒に帰ってしまえば良い。
しかし、それでは解決──そう、自分の心に決着をつけることが出来ない。
この場は凌げても、小蒔との想いを遂げることも出来なくなってしまう。
葵は狡猾に打算を巡らせる。
一瞬にも満たない時間で小蒔の心中を覗い、彼女が息を呑んではいるものの、
雛乃の提案に異を唱えようとはしていないことを悟ると、覚悟を決めた。



<<話選択へ
次のページへ>>