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鳥居は、神域と俗界を分け隔てるためにある。
そう葵は聞いたことがあった。
ならばその内側で行われる行為は、神聖なもの、ということになるのだろうか。
くすんだ朱の柱を見上げ、葵はふとそんなことを考えた。
数日前に柱の向こうで行われた、倒錯の集い。
同性である小蒔を好いている自分を恥じてはいなかったが、
それが世の常からは外れていることもまた承知している葵は、
勢いとは言え小蒔だけでなく、この神社の娘である織部の双子姉妹とも禁断の関係を共有したことに、
自己嫌悪を抱いていた。
主導権を握れなかったこと。
小蒔と共にとはいえ、彼女達の前で痴態を演じてしまったこと。
そして、既に小蒔を奪われていたこと。
彼女達がいなければ、小蒔とこのような関係になれなかったことは解っている。
しかしそれだけに、葵の情念は織部姉妹に対して穏やかならざる方向を向いてしまうのだった。
特に、妹の雛乃の方に、葵は何か恐怖めいたものさえ感じていた。
無垢とさえ言える顔立ちの奥に眠るのは、自分よりもよほど底知れぬ深い闇なのではないか。
あまり多いとは言えない彼女の言葉の端々に、葵はそういったものを感じていたのだ。
出来れば小蒔には彼女に近づいて欲しくはなかったが、そんなことを言えるはずもない。
結局今の自分には、ずるずると彼女達に従い、そのおこぼれを貰うしかないのだ。
自嘲した葵はいつの間にか触れていた柱から手を離す。
そもそもどうしてここに来てしまったのか、それすら解らない。
彼女達への恨みつらみを再確認する為なのか、
とさすがに自分でも哀れまずにはいられないことまで考えてしまい、
こんなところを誰かに見られる前に帰ろうと踵を返そうとした葵を、
肩越しに呼びかける声があった。
「美里……様?」
振り向くまでもなく、葵には声の正体が判っていた。
物静かな声は、まさに今思いを巡らせていた、織部雛乃のものだった。
学校帰りの彼女は当然制服で、結わえた肩まで届く長い髪に、赤い襟が似合っている。
野暮ったい真神の制服とは随分と違う印象だったが、それは着ている人間のせいかも知れず、
葵は早くも心中に穏やかでないものが芽生えるのを抑えられなかった。
だからと言って無視する訳にもいかず、とっさに社交辞令的な挨拶を交わす。
「こ、こんにちは、雛乃さん。今日は、雪乃さんは?」
「姉様は今日は薙刀部の会合で遅くなるそうです。小蒔様は?」
正直なところ、自分が何故ここにいるのかさえ良く解らなかったから、
逆に問われ、葵は答えに詰まってしまった。
「小蒔は、今日は用事があるとかで……わ、私も用があって来たのではないのだけど」
思わずありのままを話してしまった葵に、雛乃は小首を傾げてみせる。
芝居がかった仕種も、彼女がすると古風な趣きがあり、小憎らしさを感じてしまう葵だった。
しかし、その姿勢のまま雛乃から発せられた言葉は、そんな感情など吹き飛ばしてしまうものだった。
「そうですか。ここは寒いですから、中に入りませんか」
小蒔はおらず、雪乃もすぐには帰ってこないらしい。
つまり、中に入るということは、自分と彼女の二人で過ごさなければならないということだった。
これが小蒔とだったなら、一も二も無く頷いただろうが、
雛乃とでは何を話せば良いか解らず、気が重くなるだけなのは容易に想像出来る。
と言って断るのも大人気ない気がして、葵は黙って頷いた。
「それではこちらへどうぞ」
鞄を両手で持った雛乃は前に立ち案内する。
その後ろを、葵は複雑な表情でついていった。

あの日以来初めて訪れる部屋。
もちろんあの日、葵が小蒔と想いを遂げた日の痕跡など欠片も残ってはいない。
しかし何故か、それがかえって記憶を生々しく甦らせて、葵は居心地の悪さを覚えていた。
「しばらくお待ちくださいね」
微笑んだ雛乃は部屋を出ていき、葵一人が残された。
もちろん座れば良いのだが、この部屋に馴染んでしまう気がして雛乃が戻ってくるまでは
立っていることにした葵は、あまり大きな動きにならないよう注意しつつ部屋を見渡す。
ごくシンプルな、不必要なものは何もない空間は自分の好みに似ていた。
ただしそれはあくまでも無機物に対してであって、この部屋の有機物、
今は茶を用意している彼女に対する感情は嫌悪の方が強い。
また彼女のことを考えはじめてしまった葵は、態度に出てしまってはいけないと思い、小さく頭を振った。
床に落とした視線が、一点で止まる。
自分が横たわり、小蒔の温もりを感じた場所。
初めて彼女の唇に触れ、彼女の身体の細さを味わった場所。
この畳一畳ほどのスペースを、切り取って持って帰りたいほどだった。
場所に意味などなくとも、見る度にあの日のことを思い出すことが出来るから。
埒も無い想像に逃げ込んでいた葵は、こちらにやって来る小さな足音を聞きつけ、慌てて表情を消した。
盆に茶と菓子を乗せて戻ってきた雛乃は、立ったままの葵に不思議そうな表情をひらめかせたが、
礼儀正しく沈黙を守り、座るよう勧める。
「粗茶ですが、どうぞ」
腰を下ろした葵に出されたのは、茶托ちゃたくまである湯呑みだった。
神社なのだから当然ではあるし、葵も日本茶であれ紅茶であれ気にはしない。
ただ、出されたからには飲み干すまでは帰るわけにも行かず、
葵はいささか重い気分で湯呑みに口をつけた。
深みのある味わいが口の中に広がる。
それほど詳しいわけではない葵でも、
これが高級な茶葉を用いて淹れられたものだということは容易に判った。
舌に快い風味に気分を和ませかけた葵は、穏やかに自分を見ている雛乃に、
してやられたと気付き、心にコートを羽織る。
茶一杯でこうも簡単に釣られた自分が恥ずかしかった。
しかし雛乃はもちろん懐柔するために茶を淹れたのではないらしく、
自らも湯呑を両手で持ち、流れるような動作で口をつける。
それはそれで無視されているように思えて葵には面白くないが、
どうも彼女に関してはペースを狂わされている気がして、
ちょうど二人の真ん中に置かれている茶請けの盆に視線を逃げ込ませた。
茶請けは煎餅だった。
音を立てずに食べることは難しいこの食物を、彼女はどうやって食べるのか、
もしかしたら無音で食べる作法があるのではないかと興味を覚えた葵だったが、
雛乃は茶請けに手をつけようとはしなかった。
全く音を立てずに湯呑みを置いた雛乃は、葵が全く予想もしない疾さで攻撃を仕掛けてきたのだ。
「美里様は……小蒔様のことが、お好きなのですか」
「……ええ」
言わずもがなのことを尋ねる雛乃に、葵は軽い怒りを覚えつつ答えた。
同じ歳とは思えない落ちつきと、女性らしさを持つ彼女に接すると、
厭な部分を自覚させられ、気が滅入る。
だから、彼女とは極力会話を交わさないようにしていたのだ。
しかし今、二人しかいないこの空間では、空気さえもが彼女の味方をしているように感じられる。
恐らく雛乃も、自分が彼女を好いてはいないことは判っているだろうに、
何故話をしようとしているのか。
葵は疑問に思わずにいられなかった。
「そうですか……わたくしも、姉様のことを、お慕い申し上げております」



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