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穏やかな陽射しが、白磁の頬を照らし出す。
冷たい、けれども快い微風に髪をそよがせ、葵は真神学園への道を一人歩いていた。
部活でもなければ登校にはまだ少し早い、そんな時間だ。
葵ももう、とうに生徒会を引退しており、こんな時間に学校に行く必要はない。
けれど葵は一年の終わりに生徒会に所属してから、ずっとこの時間に登校していた。
道すがら、同級生、あるいは下級生が次々に挨拶してくる。
しかし、穏やかな笑顔でそれに応える葵の心中は、彼らの想像と全く異なっていた。
深く、昏く、もしも覗きこんでしまったならば慄然とせずにはいられない、漆黒に近い藍。
底の見えない深奥に、何が在るのか──それを知るのは、余人には不可能なことだった。
教室にはまだ同級生の姿は少ない。
彼女達が現れるまでには三十分近くもあり、葵はこの、静謐な空気を含んだ空間が好きだった。
自分の部屋とは異なる、澄んだ冷たさは自ずと心を引き締める。
皆が登校すればいくらかは薄まってしまう、
この冷たさの中で勉強をすると能率が良いような気がして、生徒会の仕事がない時は、
わずかな時間でも予習をするのが葵の日課だった──これまでは。
自分の席についた葵は、ノートを取り出して机の上に広げた。
昨日家で行った予習の内容を確かめ、もう一度教科書と照らし合わせる。
他者が見たら、感心せずにはいられないであろう態度は、しかし、表向きでしかない。
その証拠に良く見れば、ペンを持ってはいるもののそれは全く動いておらず、
どことなくうわついてもいるようだ。
幸いなことに同級生達はそれぞれの会話に夢中で、葵に注意を払う者はいない。
払ったとしても遠目には勉強しているようにしか見えないし、近づけばその邪魔をすることになる。
これまで培ってきた美里葵という像が、自身を守る盾であることを葵は知っていた。
そしてその盾が、メッキを施されただけの、本当は脆いものであるということも。
「おはよっ」
朗らかな挨拶が聞こえた瞬間、葵が微かに肩を震わせたのを、誰が気付いただろうか。
少なくともこの教室の中の視線は、声の主の方を一斉に向いていた。
もしいたとしたら、声を発した当人──桜井小蒔だけだったろう。
「おはよ、葵」
「おはよう、小蒔」
教室の全員に挨拶をしながら、半ば投げ出すように鞄を置いた小蒔は、すぐに葵の方に寄ってきた。
快活な表情──葵とは対照的な、軽やかな笑顔。
その笑顔を見るだけで、葵の周辺の空気がざわめきだす。
「勉強してたの?」
「う、ううん、もういいの」
覗きこもうとする小蒔から隠すようにノートを閉じ、葵は立ち上がった。
少し勢いがありすぎた立ち上がり方に、小蒔が薄い笑いを浮かべる。
その笑顔が、葵はあまり好きではない。
あまり、小蒔らしくない──葵が好きな小蒔らしくないように思えるのだ。
しかし、その笑顔を教えてしまったのは、他ならぬ葵自身だ。
それどころか葵は、その笑顔を利用しようとしていたのだ。
小蒔に続いて歩く葵の頬を、自嘲が滑り落ちていく。
それは朝の陽射しを受け、わずかな陰影を残して消えていった。
まだ早い時間であり、同じ階のトイレでも、見つかる可能性はほぼ無いだろう。
それでも二人はC組の教室からは最も遠い、特殊教室のある階のトイレを選んで入った。
葵が蓋をした便座に腰を下ろすと、わずかに上の位置から小蒔が見下ろす。
教室で友人達に向けるものとは異なる、微妙に輪郭を失っている瞳。
それを見ていると、葵は血が通うのを感じる。
頬に、そして、心に。
小蒔の掌が、その熱を確かめるように触れた。
四本の指を揃え、頬のほとんど覆った小蒔の手の、親指だけが蠢く。
顔の中心、わずかに開きかけている唇の表面を、息が詰まるほどゆっくりと。
「小、蒔……」
「おはよ、葵」
二度目の挨拶は、合わさった唇ごしに交わされた。
まだ冷たい、硬さの残る口唇が、長く触れ合わせることで温もりを取り戻していく。
それが、葵は何よりも好きだった。
こうしていると、何もかもを忘れていられるから。
優等生という殻も、友人や教師達の無邪気な期待も、何も考えることなく、
心を染め上げる想いにたゆたっていられるから。
血液に混じって身体を循環する、心地良い何かに操られて小蒔の細い腰に腕を回した葵は、
舌を忍ばせ、彼女の唇を舐めた。
小蒔はそれを、何も言わず受け入れてくれた。
驚きも、拒みもせず、同じだけの欲望を葵の前に差し出してくれる。
それが葵には嬉しかった。
熱い舌の先端が触れる。
強い刺激に息が弾み、苦しくなったが、葵に止める気はない。
開けたままの口の端から唾液が伝うのを感じもしたが、
それでも葵はキスを自分から止めるつもりはなかった。
このまま小蒔が止めないのなら、一日中でもずっと──あるいは、息が止まってしまってもずっと、
最も彼女を愛おしく感じられる行為を止めるつもりはなかった。
しかし、小蒔は無情にもあっさりと顔を離してしまう。
大きく肩で息をし、口許を拭いながら、熱気から逃れるように身体ごと離れてしまった。
「朝から……ダメだよ」
まとわりつくような眼差しから意識して目を逸らしつつ、小蒔は葵を牽制した。
葵のことは好きだし、朝からこういうことをするのにも抵抗はない。
もともと始業前にこうしてひそやかにキスを交わそうと誘ったのは小蒔の方なのだ。
しかし、日を重ねるごとに、小蒔は何か、説明の出来ない気持ちが心の奥に、
もやのように立ちこめはじめているのを感じていた。
上手く言い表せないそれは、怖れに近いのかもしれない。
ほとんど無心に、そして貪欲に自分を求める葵。
それはとても嬉しいことのはずなのに、何故そんな気持ちを抱くのか、自分でもわからない。
秘めた想いを解き放ったからなのか、葵は積極的にとすら思えるほど従う。
今は退いたとはいえ生徒会長を務めた身であり、教師たちの中でも多分一番信頼が篤い生徒。
そんな彼女が、人の少ない時間とはいえ、学校の中で、
見つかったなら大変なことになるだろう行為に耽(っている。
それどころか彼女は誘(うかのように、言い出した自分以上の積極性を見せていた。
小蒔と一緒なら、どこへだって行ける──彼女自身の言葉を、実践するかのように。
そして、そんな葵から少しずつ離れられなくなりつつある自分が、
もしかしたら怖れの正体なのかもしれなかった。
キスを中断されて、葵は物悲しげな瞳をしたままだ。
彼女の額にできた、小さな皺を見た小蒔に、焔が灯る。
葵にそんな表情をさせ続けようとする、嗜虐の焔が。
葵の願いに応えるべく、彼女の左手を取った小蒔は、うやうやしく人差し指を口に含んだ。
「こっ、まき……っ」
爪先を、ぬらりとした感触が通り過ぎていく。
付け根まで辿っていく舌に合わせて、指は口の中へと消えていった。
奥まで呑みこんだところで、小蒔は弱く、一度だけ吸い上げる。
細く、美しい指を含むのは、小蒔にも恍惚を与えていた。
だが、より深く陶酔していたのは、やはり葵の方だった。
「……ぁ……」
その微弱な刺激が、足にまで伝わる。
葵は自分のものでありながら、自分のものでなくなってしまった左手をぼんやりと眺めていた。
うっすらと口を開いた小蒔は、舌先を覗かせながら唾液で染め上げた指を口から抜いていく。
痺れるような快感は、次の指へ。
小蒔は目を合わせず、ただ手だけを見つめて指を吸い上げる。
ゆえに彼女の口の中で、どれだけ淫靡に舌が蠢いているのか、葵の想像は咎められることがない。
腿の上に置いた右手でスカートの裾を掴んで、葵は与えられる恍惚に酔いしれていた。
指腹から、付け根へと辿っていく滑り。
普段は意識すらしない指の間が、こんなにも鋭敏だとは思っていなかった。
特に、中指と薬指の間が葵は最も感じる。
そこを小蒔に刺激されると、心臓に直接触れられているような感覚を抱いてしまうのだ。
小蒔の薄桃色の舌が窪みを通る度、奥に熱が溜まっていく。
薄れていく意識に、葵は少しの間身を委ねることにした。
五本の指とその間だけでなく、掌まで舐め上げた小蒔は、
湿った彼女の手に自分の右手を絡め、頭を下げていく。
ストッキングに包まれた膝にくちづけ、今度は下から葵を見上げた。
「足……もう少し開いて」
それが何を意味する命令なのか判っていても、葵に抗うことはできない。
小蒔が、自分への関心を失くしてしまったら──そう考えただけで、
葵は喉に冷たい塊を詰めこまれた気分になってしまうのだ。
求めに応じ、足を開いていく。
いくら求められていても、羞恥に抗うこともできず、肩幅程度に広げるのが精一杯だった。
キスならば、自制できる。
しかし、それ以上のことをされたら。
不安と、そして期待。
裡で揺れる二つの情動の、どちらが重いのか、葵は知っていた。
小蒔が膝の隙間に身体を割りこませ、無遠慮にスカートを捲りあげる。
「ゃっ……」
声に出してはみたものの、小蒔を止めるには至らない。
葵は既に、引き返せない道を歩んでいるのだ。
それがどのような結果になるとしても、今は往くしかなかった。
そんな葵を試すように、ちらりと見上げた小蒔は、
葵がそれ以上は拒まないのを確かめると太腿の内側に唇を触れさせる。
「っ……」
頭にスカートを乗せ、何をしているか直接は見えないのが、感覚を倍化させる。
彼女の桜色の唇を脳裏にはっきりと思い浮かべ、葵はもたらされる恍惚に身体を預けた。
キスの小さな音が、鼓動に混じって響く。
柔らかな唇でそっと内腿を食み、戯れるようにそっと押し出す。
小蒔は少しずつ身体の中心へと近づいてきている。
このままでは、彼女の頬が──
意識してしまったことで、葵は抑えが効かなくなってしまった。
淫らな滴が染み出る。
指を舐められていた時から、懸命に堪えていた感覚が、一度に噴き出してしまった。
「…………っ、は……」
呼吸が乱れ、下着がみるみる不快な湿り気を帯びていく。
これが今の自分なのだ。
学校で同性に愛撫され、はしたなくも下着を濡らし、それに悦びを感じてしまう。
皆が自分に抱いている優等生などという印象は虚像に過ぎず、
実体は快楽に溺れるあさましい女に過ぎないのだ。
自嘲の吐息を、葵は歯でせきとめる。
小蒔の興味を削ぐどのようなことも、してはならない。
小蒔は猫のように気まぐれで、瑣末(な言葉が彼女の機嫌を晴天から雨へ、
あるいはその逆へと変わるのを葵は何度も見てきている。
例え全てを失おうとも、小蒔だけは失ってはならなかった。
幸いにも小蒔はまだ興味を失ってはいないようで、ストッキング越しに内腿をついばむ行為を止めない。
きっとぽつぽつと、湿疹のように痕が残っているに違いない。
家に帰るまでそれを確かめられないのが、葵には残念だった。
右足の、腿のちょうど真ん中辺りから少しずつ身体の中心へと向かう愉悦が、
いよいよひそやかな部分に触れようとしたその時、
始業を告げる鐘の音がトイレの中にまで聞こえてきた。
腹立たしい、苛立ちさえ覚えるほどの音は、無慈悲な残響を個室に運ぶ。
葵は一時間目の授業に出なくても構わないと思い、小蒔もそうであるはずだと思った。
このただれた行為は、彼女の興味を充分に惹いていると思っていたのだ。
「あ……予鈴鳴ったね。戻らないと」
しかし小蒔は残酷にも、何事もなかったかのように立ち上がり、自分一人先に個室から出てしまう。
葵はそんな彼女を恨めしげに見つめ、のろのろと立ちあがった。
中断された疼きは消えそうになく、歩くと気だるい冷たさが足の間に広がる。
このまま、授業を休んでしまおうかとすら考えた葵だったが、
「どうしたの? 行こうよ」
小蒔に呼ばれ、仕方なく教室へと戻ることにした。
下腹は、いつまでも不快な感覚を引きずったままだった。
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