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誰も見ていないのを確かめ、葵は呼気を吐き出した。
あれから四十分ほどが過ぎており、一時限目である、マリアの英語の授業は半ばを迎えている。
的確に進んでいく授業は葵の好きな科目のひとつだったが、今日はほとんど聞いていなかった。
とりあえずペンは持っているものの、注釈を入れたりはせず、ただ左の掌をぼんやりと見ているだけだ。
葵は何故小蒔があっさりと愛撫を中断したのか、ようやく真意を悟っていた。
身体が熱い。
痛痒感にも似た疼きが、あれからずっと全身を支配している。
特に左手から、心臓を挟んだ右足の付け根までの血管が、音が聞こえるほど脈打っていた。
それは、この場では決して満たされない快感だった。
中途半端な刺激は、火に油を注ぐだけ。
理性で嫌というほど解っていても、肉体が我慢できない。
葵はどうにか欲望を逸らそうと、斜め前の二つ先に座っている小蒔に視線を向けた。
真面目に授業を受けている背中は、葵のことなど何も関心がないように見える。
実際そうだろう──授業中にまで他人のことを考えるなど、普通はない。
しかし、こんな仕打ちをしておいて、何も関心を払わないということがあるだろうか。
それは、考えてはならないことだった。
小蒔は愉しんでいる。
それがどれだけ意地の悪い考えによるものであっても、小蒔が自分のことを考えている、
その事実だけで葵は満足を得られた。
そして、その事実はくすぶっていた疼きにも火を点けてしまった。
抑えきれず、葵は人差し指を口に含む。
それでも、周りに気取られないように、節だけを軽く咥えた。
「……っ!」
背筋を走ったものに、葵は思わずペンを取り落としそうになってしまった。
小蒔が含んだ指。
小蒔の唾液が残る指。
それを含むことで、先ほどの行為が快感を伴って記憶に甦る。
マリアの声も、授業の内容も全て一瞬で忘れ、
肌に触れた小蒔の柔らかな口唇の感触だけが葵を支配した。
唇をあてがったまま、舌を伸ばし、そっと舐めてみる。
舌に広がる小蒔の味は、甘い滴となって身体の中心に落ちていった。
「っ、ふっ」
鼻息と共に、小さく声が漏れる。
教室中に響き渡ったように思え、葵は慌てて辺りを見渡したが、見ている者は誰もいなかった。
安心した葵は、狂熱がいっとき流れ去っていることに気付いた。
あれほど昂ぶっていたのが嘘のように、理性が戻っている。
ここで引きかえせば、今ならばまだ充分に間に合う。
どうしてもしたいなら、何も教室でこんな危険を冒さなくても、
朝のようにトイレや、人目につかないところですれば良いのだ。
葵は下唇を強く噛み、自らをたしなめようとした。
しかし──既に遅かった。
毒は既に、身体の中に入りこんでいたのだ。
ほんの少しだけ舐めてしまった自分の指についていた、小蒔の名残がじわりと口腔に広がっていく。
甘い、蕩けそうな味覚が喉から胃に落ちていった時、葵は再び自分の指に唇を当てていた。
今度は、薬指に。
傍目には考えこんでいるように見せながら、指の根元に舌先で触れる。
腕を伝う快感に、唇の隙間から息が漏れた。
押し当てた口の中で、微小に舌を動かす。
数十分前の記憶の中で、小蒔がそうしたように。
止まらない──
じくじくと肌を弄っていたものが、理性を脅かす。
今でさえいつ誰かに気付かれるかもしれないという状況なのに、なお淫を欲する肉体が、
もう一箇所、彼女の徴が残された右足の付け根に触れて欲しいと甘美な囁きを投げかけてくる。
それだけは、できない。
自身に拒んでみるものの、囁きはひとつ心臓が音を立てるごとに、
閉ざしたはずの理性の隙間から淫猥な触手を忍びこませてきた。
とりかえしがつかないことになる──
小蒔の感触が残っている手で触れようものなら、きっと教室の中で達してしまうだろう。
そんなことになれば、全てが終わってしまう。
判りきっているはずなのに、左手はまるで別人の意思が宿ったかのように勝手に動き、
いつのまにか机の下へと降りている。
ためらいながら、少しずつ、確実に目的の場所へ向かっている手を、
もう止める手段はないと葵は自覚していた。
生まれてからこれまで積み上げてきた虚像が、ただ一度の愚かな行為で水泡に帰してしまうのだ。
スカートの裾を摘まむ指に、葵はふと思った。
自分の身に破滅が訪れた時、小蒔はどうするだろうか。
知らぬふりをするだろうか。
他の友人と一緒に嘲笑するだろうか。
それとも──
しかし、身を焦がす魅惑的な思考は、そこで中断を余儀なくされた。
「美里サン」
「は、はいッ」
マリアに急に名を呼ばれ、葵は慌てて立ち上がった。
あまりに勢いが良かったので、スカートの裾がわずかに翻る。
見えてしまったのではないかと手で押さえた拍子に、バランスを失って小さくよろめいてしまった。
「大丈夫かしら?」
「は、はい、すみません、少し考え事をしていて」
気遣うマリアと、珍しい狼狽に対するクラス中の好奇の視線が集中する。
それらの全てがスカートの内側に抱えた秘密を知っているのだ、
と告げているような気がして、葵は教科書から顔を上げられなかった。
と言っても、どこを読めばいいのかわからない。
なにしろたった今、自分は教室で自慰に耽ろうとした身なのだ。
どうして良いか解らず困り果てていると、マリアが助けてくれた。
「182ページの6行目からだけれど……少し顔が赤いわね、保健室に行った方がいいわ」
「平気です」
「いいえ、行きなさい……あまり根を詰めて勉強してはダメよ?」
自分が優等生だと勘違いしている担任に、申し訳無くて涙が出そうになる。
それなのに、足の間の冷たさは薄れることがなかった。
まるで、もうその淫縁から逃れる術などないのだというように。
「せんせー、ボク付き添ってもいいですか?」
「……そうね、アナタは勉強した方がいいのだけれど……付き添ってあげて」
要領良く小蒔が手を挙げ、教室から抜け出る口実を作り出す。
二人の表向きの関係しか知らないマリアは、何の疑いも抱いた様子もなくそれを許可した。
「行こ、葵」
教室を出た途端、緊張の糸が切れたのか、全身から力が抜ける。
小蒔に支えられて倒れはしなかったものの、
いろいろな感情が一度に噴き出してきて、葵は涙を抑えられなかった。
「葵……?」
呼びかける小蒔にも答えず、無言で保健室に向かう。
廊下に響く足音だけが、ひどくはっきりと耳に響いていた。
保健室のベッドに腰かけ、葵は涙を拭った。
小蒔の仕打ちが酷かったから泣いたのではない。
それも少しはあるけれど、たった一時間弱で、
大切なものを全て裏切ってしまったような気がして、どうしようもなく悲しかったのだ。
「ごめんね……」
多少意地悪のつもりでやったとしても、
まさかここまでの事態になってしまうとは思っていなかったのだろう、
髪を撫でながら、心底申し訳なさそうに小蒔が謝る。
大切なものを全て裏切った後に残った、たったひとつの葵の全て。
これで彼女まで離れてしまったら、自分には本当に何も残らなくなる。
恐怖に微かな身震いをすると、葵の中で何かが弾けた。
「違うの」
「違うって……んっ」
無防備な小蒔をベッドに押し倒す。
動転している彼女の手を掴み、自分の下腹を触らせた。
小蒔の瞳が大きく見開かれる。
「葵……コレ……」
驚きを隠せない親友に、葵は陶然と口を開いた。
「私……授業中もずっと……いやらしいことばかり考えていて……
マリア先生に当てられた時も、皆が見ている……って思った瞬間、どうしようもなくなってしまって」
話している間にも、新たな雫が染みだしてくる。
既にくしゃくしゃになってしまっている下着から小蒔の指先へと、熱は伝わっただろうか。
確実に伝えるために、葵は腰を擦りつけ、手を上から抑えつけた。
潤い、柔らかくなっている部分に触れさせる。
小蒔はしばらく強張ったままだったが、やがて、ゆっくりと前後に指が動いた。
水面を掬うように溝をなぞっていく。
「葵……ごめんね。でも、ボクはずっと一緒だから」
「……!! こ……まき……!!」
望んでいたこと、望んでいた以上のこと。
葵が期待を込めた眼差しを向けると、小蒔の掌が頬に触れた。
そっと引き寄せようとする彼女に、葵は逆らわず顔を寄せる。
彼女の唇は、濡れていた──自分が零した涙によって。
冷たく、辛い涙。
けれどその透明な滴は、彼女の中に入っていた。
舌や指先では到底到達できない、彼女の身体の中心に。
頬に新たな涙を伝わせ、葵は小蒔と、深くくちづけを交わした。
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