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 品川の廃屋での火災は、悪質な不審火と言うことで片付けられたようだった。
地下室にあった実験設備、そしてその成果となる禁忌の生物については、
少なくとも新聞に取り上げられることはなかった。
建物がほとんど瓦解したせいで現場検証も進まないらしく、
あの場所で死んだはずの二人の人間についても、
遺体が発見されたという記事を見つけ出す事は叶わなかった。
 そして、友人達の危惧は外れ、龍麻は翌日学校に来た。
しかし誰とも言葉を交わさず、マリアの呼び出しにも応じずに、授業が終わるとすぐに帰った。
その翌日は再び休み、更にその翌日からはそれまでと変わらぬ龍麻に戻っていた。
ただ注意深く見れば、その笑みに以前にはなかったかげりがあることに、
彼を良く知る友人の何人かは気付いていた。
それがあの日──比良坂紗夜が龍麻の腕の中で短い生命の炎を燃やし尽くした日から今日までの、
龍麻の変化だった。
 季節は梅雨を終え、夏を迎える。

 一組の男女が、朝の新宿を歩いていた。
女性の方はいかにもこの季節が好きそうなショートカットで、
着ている服もこの季節を存分に満喫出来る、かなり面積が小さな物だ。
それでもセクシーさよりも溌剌はつらつさを感じさせるのは、
その肢体がすらりと引き締まり、小柄ながらも躍動感に溢れているからだろう。
 一方男性の方は、照りつける日光にやる気のなさを隠そうともせず、
眉尻を下げてだらしなく歩いている。
しかし、あまり趣味が良いとはいえない、袖の所をまくったシャツからは、
不釣合いなほど膨らんだ筋肉のこぶが露出していた。
やはりあまり品の良くないサングラスをかけた顔がせわしなく動いているのは、女性が通りすぎた時だ。
彼の好みに合った女性がいると、立ち止まって観察を始める。
理想が高いのか、あまり立ち止まることはなかったが、
一度立ち止まると女性が視界から消え去るまで追い続けるので、歩みは遅々として進まない。
そのため何度目かの時、とうとう辛抱を切らした連れの女性が、勢い良く男の尻に膝を叩きこんだ。
「痛ぇッ、何しやがんだ小蒔ッ!」
「京一がぼやぼやしてるからだろッ! ほら、さっさと行くよッ!」
 二人の男女は、新宿にある真神学園に通っている、蓬莱寺京一と桜井小蒔だった。
犬猿の仲、と言っても良い二人が一緒に歩いているのには、もちろん理由がある。
この春から彼らの同級生となった、緋勇龍麻の家に行くためだった。
二人は小さなメモを片手に、辺りを見渡しながら通りを歩く。
やがて立ち止まったのは、二階建てのアパートの前だった。
「ここか?」
 もう歩くのはたくさんだ、と言わんばかりの気だるげな声で京一が訊ねる。
「うん……そうみたいだね。えっと、部屋は……」
 答えた小蒔は、小走りで郵便受けに向かい、住人の名前を確かめた。
一階の一番奥にあった龍麻の家に行き、ドアを叩く。
日曜日の朝という早い時間だったが、住人は誰も出てこなかった。
「あれ? 誰もいないのかな……?」
 もしかしたら出かけてしまっているのかもしれない。
そう思いつつも、小蒔はもう一度、今度は呼びかけた。
「ひーちゃーん」
 良く通る声が効を奏したのか、やがて部屋の中から音が聞こえ、扉が開いた。
「人違いじゃないですか? ひーちゃんなんてここには……」
 ぶつぶつ言いながら扉を開けた住人は、三秒ほどその場で固まってしまった。
赤の他人が家を間違えたか、あるいは押し売りかと思った訪問者は、良く知っている人物だったのだ。
目を極限まで開いて固まる住人に、小蒔は笑いだした。
「おはよ、ひーちゃん。あはは、何、その頭。ボサボサだよ」
「なッ、なんでお前らがここにいるんだ!?」
 ようやく硬直が解けた住人は、今度は驚愕で全身を忙しく動かす。
その姿は混乱の極みといって良いもので、シャツの裾を引っ張ったり
頭を撫でつけて余計に跳ねさせた挙句、玄関に足をぶつけるという有様だった。
 自分達の訪問が最大限の効果を与えたことに、京一は満足して頷く。
「なんでってお前、プールのお誘いだよ」
「プール!?」
「おう、説明してやっからよ、あがらせてもらうぜ」
 京一はますます混乱する龍麻を押し退け、同級生の家へとあがりこんだ。
龍麻が何かを言う前に、小蒔もさっさと家の中に入ってしまう。
「おッじゃましまーす」
「なんだよ、どういうことだよ、早く説明しろよ」
 後を追いかけて自分の家に入った龍麻は、早くも腰を下ろしてくつろいでいる京一に訊ねた。
冷蔵庫を指差し、何か冷たい物を飲ませるよう要求した京一は、至極簡単に説明する。
「ん? おう、今日皆でプール行こうってことになってよ、集合は十時に新宿駅だ」
「俺なんにも聞いてないぞ」
「今言ったろ。前の日に教えたらお前、ここに来れねぇじゃねぇか」
 自分勝手過ぎることを言う京一に龍麻は呆れたが、
小蒔がここにいるということは彼女も知っていて止めなかったということで、
どうやら周到に準備された計画というわけらしかった。
それでもどうしても納得がいかず、なんとか反撃を試みる。
「それにしたっていきなりじゃ準備ってもんが」
「どうせヒマなんだろ。待っててやるからとっとと仕度しろよ」
 あっさりと論破された龍麻は、更に何か言いかけてがっくりと口を閉じると、
強引にも程がある友人達に逆らうことを諦めた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
 気分を落ちつける為に席を立った龍麻を興味なさそうに見ていた京一は、
部屋の主が扉の向こうに完全に姿を消したのを確かめると、やにわに立ちあがる。
あまりに急な京一の動作に、出されたジュースを飲んでいた小蒔は少しこぼしてしまった。
「よし、チャンスだ小蒔」
「チャンスって……何が?」
「ったく鈍いヤツだな、男の一人暮らしつったら絶対あるモンがあるだろ。そいつを探すんだよ」
「……?」
 きょとんと見上げる小蒔に京一は天を仰ぐ。
「かーっ、男みてえなナリしてて知らねぇのかよ、エロ本だよエロ本!」
「あッ……って、ひーちゃんがそんなの持ってるワケないだろッ!!」
「よし、お前はない方に賭けるんだな。負けた方がなんか奢るんだぞ」
 言うが早いか京一は手馴れた様子で室内を探り始める。
本の隙間、クローゼットの中……しかし、男の一人暮しならあるべき、
と京一が信じるものはどこにもなかった。
「よ……っと。……あれ? んじゃこっちか……っかしいな、ねぇぞ」
 ほとんど泥棒のような勢いで家中のものをひっくり返していると、いきなり尻が蹴飛ばされる。
ちょうどベッドの下を探していた京一は、物凄い勢いでカーペットに鼻を擦ってしまった。
「いてッ……何しやがんだッ!」
「何探してんだ」
 振りかえった京一が見たのは、仁王立ちで指をボキボキと鳴らしている龍麻だった。
共犯のはずの小蒔はそ知らぬ顔でジュースを飲んでいる。
「ひ、緋勇……いや、その、何だ、お前が健全な男子である証拠をだな」
「俺にも奢れよ」
 有無を言わさぬ龍麻の口調に、思わず頷いてしまった京一だったが、
この疑問だけは解決しておかなければならなかった。
「……本当に持ってねぇのか?」
「ねぇよ!」
 一緒にするな、と断じた龍麻は、京一達がやって来た時からのもう一つの疑問を口にした。
「ところで桜井さん」
「なに?」
「なんでひーちゃん?」
「だって緋勇クンでしょ、だからひーちゃん」
「……」
 反論する余地のない、完璧な返事だった。
学校でそう呼ぶのだけは勘弁して欲しい、と思うだけ無駄なことを思いつつ、龍麻は腰を下ろす。
 ここに引っ越してきてから初めて部屋にあげた他人は、
たとえいきなり家の中を荒らすような輩でも、
なんとなくくすぐったい気持ちを呼び起こさせるのだった。
「にしてもよ、なんか……小さい家だな」
 そんな龍麻の気持ちなど知らず、京一は遠慮のなさ過ぎることを口にする。
「バカ、そんなこと言ったらダメだろっ」
 すかさず小蒔がたしなめる。
実家が酒屋の小蒔の家も、店舗と、下に五人いる弟と妹達のせいで自分の部屋などない状態なのだ。
この間取りに龍麻と家族が住んでいたとしても不思議はなかった。
「そりゃそうだけどよ……緋勇、お前兄弟とかいねぇのか」
「ん? ああ、いないよ」
「お父さんとかお母さんは?」
「そりゃいるけど……ここには俺一人で住んでるんだ」
 交互に質問した二人は、龍麻の返事に色めきたった。
「何ィッ!! お前一人暮しなのかよッ!!」
「なんでそんなびっくりしてんだよ」
「これが驚かずにいられるかッ! そういう大事なコトはもっと早く言いやがれッ!」
 俊敏な動きで龍麻の肩を抱いた京一は、小蒔に聞こえないように耳打ちする。
「今度俺の秘蔵のビデオ持ってきてやっからよ、鑑賞会しようぜ、龍麻」
「あのな……」
 それまでの無礼など置き去りにして、実に馴れ馴れしい態度をとる京一を、
龍麻は引き剥がそうとするが、腕の力は呆れるほど強く、ちょっとやそっとでは外せなかった。
それにしても、いったい男二人で何のビデオを見て楽しめと言うのだろう。
男子のその手の通過儀礼は、酒と同じく半年前に大体済ませている龍麻は、
覚えたての中学生のようにはしゃぐ京一を、やや醒めた目で見ていた。
しかし京一は、この台所と八畳ほどの空間を、既に自分のアジトか何かだと思っているようで、
さっき散々荒らしたはずの部屋を改めて観察している。
「そんで酒も持ってくっからよ、じっくりりながら青春について語り明かそうぜ」
「もう、二人してバカなこと話してないで、さっさと仕度してよ。集合時間に遅れちゃうよ」
 小蒔に怒られて京一は離れたが、その目は龍麻と、この部屋に対する親愛の情に溢れていた。
男にそんな目をされても嬉しくもなんともない龍麻は、小さくため息をつくことで
手放さなければならなくなった平穏な生活を惜しんだのだった。
 それはともかく、時間が迫っているのは確かで、龍麻は手早く準備を整えることにした。
着替えとタオルを用意した所で、ある事に気付いて京一をかえりみる。
「俺海パンなんて持ってねぇぞ」
「ヘヘッ、だろうと思ったからよ、買ってきといてやったぜ」
「……」
 用意がいいと感謝すべきか、気色悪いと怒るべきか、判断に迷う龍麻だった。

 家を出た龍麻達は、途中走ったものの、なんとか集合時間には遅れずに新宿駅に着くことが出来た。
当然葵は既に来ていて、醍醐もいる。
 葵の服装は薄い青を基調としたワンピースに、
向日葵ひまわりをあしらったブローチを着けていて、
軽井沢あたりの高原に避暑に来た清楚なお嬢様を思わせるものだった。
帽子をかぶっていないのが残念なほどだったが、龍麻は、葵の服装を褒めるよりも、
時間ぎりぎりだったことを謝るよりも、先に言いたいことがあった。
「醍醐……なんだその格好は」
「ふんッ。学生が学ラン着て何が悪い」
 京一はともかく、龍麻に言われるとは思っていなかったらしく、
醍醐の顔にありありとショックが浮かんでいる。
しかし月は七月、空は抜けるような快晴のこの日に、
黒ずくめの制服を着た醍醐の姿は新宿駅前にあって、別世界の住人かというほど浮いていた。
事実龍麻達の周りは、ごった返しているにも関わらず人々が避けて通っている。
頭ひとつ出ている上に厚みもある身体でそんな物を着られては当然というべきで、
出来れば龍麻もそうしたいくらいだったのだ。
「このクソ暑い中、良くそんな格好してられんな、って言ってんだよ」
 こんなのと一緒では女性おねーちゃんをナンパなど夢のまた夢だとばかり、京一も龍麻の肩を持つ。
二人に罵倒されて、醍醐はかえって開き直ってしまったようだった。
「心頭滅却すればなんとやら、だ。
まぁ忍耐とか我慢とかいう言葉を知らないお前らには縁のない話かも知れんがな」
「ヘッ、余計なお世話だ」
「もう……いいから早く行こうよ」
 いつまで経っても話が進まない三馬鹿に、小蒔が痺れを切らす。
直射日光の照りつける、こんなに人の多い場所で話しこむなど、
三人ともどうかしているとしか思えなかった。
「す……すまん、それじゃ行くとしようか」
 額の汗を拭いながら、醍醐は駅構内へと入っていった。
巨漢の学生服姿の男にぎょっとした人々が飛びずさり、一本の道ができる。
その後を、龍麻達は悠々とついていったのだった。

 浜松町で下りた一同は、プールまでの道を歩く。
アスファルトを避け、木々の並ぶ小道を通るのは少し遠回りになったが、
木漏れ日が形作る心地良い路は、それに見合うだけの価値があった。
「ふぅ、それにしても暑いな」
「今年初めてのプールだもんね、楽しみだよ。……あ、見て、東京タワーだよッ」
「あったりめェだろ! 今更何はしゃいでんだ」
 既に頭の中は水着の女性のことしかない京一は、鉄塔などに全く興味を示さなかった。
一方龍麻はと言えば、こんなに近くから東京タワーを見るのは実は初めてで、
小蒔の指差した先を物珍しげに見ている。
 立ち止まった龍麻に、葵が話しかけてきた。
「そういえば、この前ミサちゃんが言ってたんだけど、
東京タワーが年々傾いているって噂があるらしいわ」
「……傾く?」
「ええ。なんでも、タワーの脚の一本が増上寺の墓地跡に立っているらしいの。
訪れた霊能者によると、眠りを汚された死者の怨念が、塔の脚を土中へと引きずりこんでいるらしいわ」
 ミサが言ったとはいえ、そんな与太話を葵が信じているらしいのが龍麻には意外だった。
ピサの斜塔でもあるまいし、こんなものが傾けばすぐに判りそうなものなのに。
「ふーん……」
 笑い飛ばそうとして傷つくかもと思い、そう無難に答えるに留めた龍麻だったが、
声に潜む調子を敏感に感じ取ったのか、葵はやや微妙な顔をした。
幾重もの感情がパイの皮のように積み重なっている表情は、
モナリザのようだ──と龍麻は思うが、そんな風に言われて喜ぶ女性も多分いないだろう、とも思う。
「もういいわ」
 結局、龍麻が何かフォローをいれようかどうか迷っているうちに、葵はそっぽを向いてしまった。
その拗ね方もまた可愛らしい、と思いつつ、慌てて謝り倒す龍麻だった。
 一方京一達は葵の話が呼び水となったのか、口々に自分の知っている話を披露し始めている。
「そういや、東京タワーは心霊写真のメッカだなんて言われたこともあったな」
「あ、ボクも聞いたコトあるよ。非常階段を駆け下りてきた女の人が突然消えたとか、
蝋人形館に無造作に本物の髑髏しゃれこうべが置かれてた、とか」
 それらの話は杏子に聞いたら情報源ソースはどこよ、と一刀両断されそうな、あやふやで、
語るのも馬鹿らしいものばかりだったが、一人だけが如実な反応を示していた。
「き、君達、こんな所で立ち止まってないで早くプ、ププールへ行こうじゃないか」
 肝試しには欠かせない人材という評価が仲間内では定着している巨漢は、
真っ昼間だと言うのに気の毒なほど震えていた。
「いや、俺は俄然東京タワーに行きたくなったな」
 醍醐に向かって京一が意地悪く言う。
反論する余裕もないのか、醍醐は東京タワーに背を向け、
早くプールに行くよう龍麻に強く促してきた。
笑ってはいけないと思いつつ、この図体にしてあまりの気の小ささに、
口許がむずむずするのを抑えられない龍麻は横を向いて一歩を踏み出す。
すると、それを遮るように小蒔が声を上げた。
「ん? なんかこっちに来る人がいるよ」
「だッ、誰だッ!?」
 もはや醍醐の狼狽ぶりは悲惨なほどで、声などは完全に裏返っている。
そのせいか、小蒔の声は、どこか泣き出した子供をなだめるような趣きがあった。
「大丈夫だって、足はあるよ」
 単なる通行人かと思ったが、向こうはこちらに用があるようで、
戸惑う龍麻達に軽く手を挙げて挨拶してきた。
その男は全く見覚えのない顔で、一行はお互いに顔を見合わせて誰かの知り合いかと目で尋ねる。
順番に首を捻ることで、誰の知り合いでもないと判明した人物を、
龍麻は見知らぬ他人に対するごく普通の警戒を抱いて観察した。
 自分と葵のちょうど中間辺りの背丈の男に対して、初めに抱いたのは違和感だった。
その根拠は彼の服装にあり、醍醐ほどではないにせよ、
きちんと首元までボタンを留めた長袖のカッターシャツを着て、その上からベストまで羽織っている。
よほどの寒がりか馬鹿でなければ、
立っているだけでも汗が滲むこの季節にそんな服装をする必要があるとも思えず、
相手が京一か醍醐あたりならば遠慮なく罵倒しただろう。
しかし男は暑そうな顔など微塵もみせておらず、やせ我慢だとしたら大したものだった。
 もう一つ、龍麻が抱いた違和感は、その顔立ちだった。
汗を浮かべていない、というのもあるが、あまりに日本人離れしているというか、繊細な顔で、
それを表現する耽美、という使い慣れない言葉を思い浮かべるのに、しばらく時間がかかったほどだ。
丁寧になでつけた髪を片側に垂らし、細い眉と、同じく切れ長の目でこちらを見る男は、
その服装とあいまって、貴族の子弟を思わせる風貌だった。
 危険はなさそうに見えるが、当然の配慮として、
龍麻は表に出ないよう重心を前に取り、いつでも動けるようばねを溜める。
 それに対して男は、龍麻の思いも寄らない行動を取った。
両目を閉じ、片手を胸に当て、もう片方の腕は大きく横に広げたのだ。
演劇か映画のワンシーンくらいでしかお目にかかれないポーズを取る男に、
龍麻もどう反応して良いか全く解らない。
そんな龍麻になど見向きもせず、男は葵と小蒔に向かって話しかけた。



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