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龍麻が転校してきてから、三日が過ぎていた。
初日こそ派手に過ごしたものの、それ以後はごく平穏な日々であり、
受験を控えた高校生らしく真面目に勉強などしている。
心配していた葵との関係も、どうやら中立状態までは戻ってくれたらしく、
こちらから話しかけなければ答えてはくれなかったが、無視をされることもなかった。
当初に思い描いていた学園生活とはほど遠いものの、
それで満足すべき──と言うよりもせざるを得ない、と言うのが今の龍麻の立場だった。
もちろん、好転してくれればそれに越したことはないのだが。
「よぉ、緋勇。帰ろうぜ」
これは龍麻が呼ばずとも話しかけてくる、蓬莱寺京一の台詞だ。
この無頼漢はあの放課後の一件以来龍麻を気にいったらしく、
何かと言えば机に来るようになっていた。
初めこそその軽佻浮薄な態度に警戒をしていた龍麻も、すぐに面倒くさくなり、
更に、未だ認めたくはなかったが、どうやら京一とは気が合うらしく、
わずか三日で友人と呼べる程度の関係にはなっていた。
「部活はいいのか?」
「あん? ンなもんいいに決まってんだろ。それよか早く行こうぜ」
「行こうって、どこにだよ」
「この時間、学校帰りの女子高生がたまる場所があんだよ」
「そんな所行ってどうすんだよ」
「おいおい、転校初日に図書室で覗きしようとしたお前にそんなコト言って欲しくねェな」
随分と心外な言われように、龍麻は顔をしかめた。
と言って、特にやることもないので断る理由も見当たらず、
結局京一に付き合うしかないのではあるが、それでも、決して喜んで行くのではない、
と言うことをアピールしようと、わざとゆっくり立ちあがった。
何しろ京一の声は大きくて、未だ教室に残っている同級生達に丸聞こえなのだ。
今はたまたま男しか居ないからいいようなものの、
これで女生徒──例えば、隣の席の生徒会長──などの耳に入ろうものなら、
龍麻は京一を殴り飛ばしていたかもしれない。
「何やってんだよ、早く行くぜ」
嫌そうな顔をしている龍麻に構わず、京一は木刀を担いで歩き出す。
本当に肌身離さず持ち歩いているそれに、何か由来があるのか龍麻は是非とも知りたかったが、
聞いて素直に教えてくれるとも思えないので黙って後ろを歩き始めた。
しかし、二人は何歩も歩かないうちに急停止を強いられる。
龍麻達が向かった扉から、一人の女性が入ってきたからだ。
「ひ・ゆ・う・く・ん・ッ」
「遠野さん」
「そんな、他人行儀ねぇ、アン子でいいわよ。それよか、一緒に帰りましょ」
子供が友達を大声で呼ぶ時のように、一語一語をはっきりと発音して龍麻を呼んだのは、
隣のクラスの遠野杏子だった。
勢い良く入ってきた杏子は、龍麻の隣に京一が居るのを見て一瞬顔をしかめたものの、
どうやら無視することにしたようで、馴れ馴れしいほどの態度で龍麻に話しかける。
一方の京一は露骨に顔をしかめているが、何も言わない。
そこに流れたわずかな沈黙の隙に、新聞部部長らしく、杏子は素早く自らの言葉を潜り込ませてきた。
「ね、あの日のことだけど、あれから……どうなったの?」
控えめながらも、語尾に好奇心を満ち溢れさせて訊ねる。
それに答える前に、龍麻はちらりと教室に目を走らせた。
三日前、龍麻に因縁をつけ、返り討ちにあった佐久間は、あれ以来姿を見せていない。
あの程度で引き下がるとも思えず、そうなると欠席しているのは
あまり良くない傾向──例えば仇討ちの準備を整えている──にも思えるが、
警戒してもあまり意味のないことだったし、
とにかく、終わったことを誇る気もない龍麻は、ごく簡単に説明することにした。
「怪我はなかったよ」
「ふーん……ま、あいつらにはイイ薬よね。それにしても緋勇君、見かけによらず強いんだ。
あたし、断然ファンになっちゃったわ」
「そ、そりゃありがとう」
「ね、今度ボディーガードしてくれない?」
「……考えとくよ」
先日の啖呵の切り方からすると、彼女にボディーガードが必要とは思えない。
と言ってはっきり断るのも難しいし、
うかつに答えて言質を取られるのも危険なので、龍麻は適当にごまかしておく。
しかし杏子は何か閃くものがあったらしく、片肘を組んで顎に手を当てながら、
何やらぶつぶつと呟きはじめた。
「……そうね、次の見だしは『緋勇龍麻の強さの秘密』!
……う〜ん……いまいちインパクトに欠けるかしら……やっぱり『謎の転校生』は必要かしらね。
……っと、そんなことより、さ、行きましょ」
「行きましょ、ってどこに」
「もう、決まってるじゃない、取材よ、取材」
忘れていてくれればいい、とこっそり思っていた龍麻だったが、
杏子は三日前は不本意な形で中断させられた取材を諦めてはいなかったのだ。
転校初日に杏子から貰った新聞を家に帰って読んだ龍麻は、
その意外なほどの内容の濃さに驚かざるを得なかった。
わずかなスペースを巧みに使って学校内の出来事を効率良く記事にしてあり、
一人で作っているとは思えないほどの出来だったのだ。
転校初日は気軽に取材を受けると言ったものの、
あの調子で自分の記事など書かれたら、
あっという間に全校の注目となってしまうのは想像に難くなく、
龍麻としてはなんとか考えなおしてもらいたいところだった。
しかし何と言って断れば良いか、とっさには思いつかないで困っていると、
京一が助け舟を出してくれる。
それは助け舟と言うよりは、堪忍袋の緒が切れた、に近かったが。
「やいアン子! 黙って聞いてりゃ勝手に話進めやがってッ! いいか、緋勇は大事な用があるんだ。
興味本位の野次馬に構ってる暇なんかねぇんだよ」
「別に、アンタに付き合ってくれなんて言ってないわよ」
「ヘッ、お生憎(さま。俺達はな、緋勇のたっての頼みでラーメン食いに行くんだよ」
誰がたって頼んだか、と言いたいところを、口を挟んでややこしいことにしたくない龍麻は黙ったままで、
それを聞いた杏子は、まず京一に、次いで龍麻にも哀れむような目をむけた。
「……緋勇君、こんなアホと付き合ってると、あなたまでアホになっちゃうわよ。
今ならまだ間に合うわ。あたしと一緒に正しい道を行きましょう」
「アン子、緋勇が困ってんじゃねぇかッ。今日は俺が先約だ、諦めるんだな」
「わかったわよッ。二人で勝手にラーメンでもなんでも食べたらいいでしょッ」
あまりに必死にラーメンを食べに行こうとする京一に呆れたのか、
遂に杏子は龍麻を確保することを諦めたようだった。
と言っても毎日この調子で断ることなど出来るはずもなく、
明日か明後日には取材とやらをされる羽目になりそうではあるが。
「あ〜あ、どっかに面白いネタ転がってないかなぁ……そうだ京一、アンタ作ってきなさいよ」
「何言ってんだお前……」
「その辺の適当なの、辻斬りでもしてきてよ」
「犯罪じゃねェか……」
「フン、その木刀は飾りなの?」
「これは──いや、お前に言ってもわかんねぇからいいや」
二人の漫才にも近いやり取りが、急に好奇心をそそる展開になって、
思わず龍麻は耳をすませたが、残念ながら京一が口を滑らせることはなかった。
「何よ、勿体ぶって。……いいわ、緋勇君、また今度このアホがいない時にゆっくりお話しましょ」
「いいかアン子、腹いせに下級生襲うんじゃねぇ──がッ!」
「お」の辺りで飛んできた黒板消しをよけきれず、京一の顔が真っ白に染まる。
チョークまみれになってしまった顔で京一が激しく咳こんでいると、豪快な笑い声が重なってきた。
「全く、騒がしいヤツだな、お前は」
「なんだ、醍醐か……見てたのかよ」
「あぁ、これほどの喜劇はそう見られるもんじゃないからな。じっくり見させてもらったよ」
現れたのは、先日の騒動の折に会った男、醍醐雄矢だった。
形としてはこの男があの一件を収めた形になってはいるが、
実際はもう勝負がついていたし、その時の言種があまり龍麻の気にいるものではなかったので、
率直に言えば、龍麻はあまり彼が好きではなかった。
しかし、京一との話ぶりからすると、二人はそこそこ仲が良いようにみえる。
そうなるとまるっきり無視を決め込むと言う訳にもいかず、
こんなことなら勿体つけずにさっさとラーメンを食べに行っていれば良かった、と思う龍麻だった。
「で、何の用だよ。聞いてたんなら話は早ぇが、俺達ゃ今日はラーメン食いに行くんだよ」
京一は二度も妨害されて、気分を害しているようだった。
肩に担いだ木刀を軽く揺すって、早く行きたいのだという心情を態度で表わす。
「緋勇をちょっと借りたくてな」
「人の話聞いてんのか」
「何、手間は取らせないさ。それに終わったら俺も緋勇と一緒にラーメンを食いたいしな。
どうだ緋勇、歓迎ということで俺が奢ってやるから、その前にちょっとだけ付き合ってくれんか」
「どうすんだよ、緋勇」
何故か京一は杏子の時のように突っぱねたりせず、むしろ醍醐の提案を呑めとばかりの態度を見せる。
すぐには答えず、改めて、龍麻は醍醐の身体を見た。
この間は喧嘩の直後で興奮していたからあまり冷静に観察できなかったが、
今見てみると、醍醐の体格は最初の印象よりも更に大きかった。
見るからに特注の制服を、なお窮屈そうに着ている身体には、どれほどの筋肉が詰まっているのだろう。
その男が、「借りたい」と言えば、単なる茶呑み話で終わる訳がないのは明らかだった。
龍麻は決して荒事が好きな訳ではない。
少なくとも自分ではそう思っているし、謂(れもないのに拳を交えるのは避けたいところだった。
しかし、醍醐は言葉だけは丁寧だが、もう全身から闘いの気配を放ち、龍麻を挑発している。
その態度は、本質的には佐久間とあまり変わらないようにも思えたが、
食前の運動には丁度良さそうだし、その食事の代金も相手が出してくれると言うのだ。
龍麻の肚は決まった。
それでも、決して喜んでやる訳ではないというアピールのため、軽く肩をすくめてみせる。
せいぜい嫌そうにしたつもりのポーズも、京一が鼻で笑ったところをみると、
見抜かれてしまっているようだった。
「わかった。付き合うよ」
「すまんな」
軽く頭を下げた醍醐に、言葉ほどにはすまなそうな様子は見えない。
それよりも、これから始まる闘いに早くも興奮しているようで、内心でため息をついた龍麻だった。
いくらお互いが同意の上とは言っても、所詮は殴り合いをするのだから、
もちろん人目に付く場所で行う訳にはいかない。
どこでやるのかと思っていた龍麻を醍醐が連れてきたのは、自分の部室だった。
レスリング部のここならば多少の音がしても気に留める者もおらず、
しかも中には何故かプロレス用のリングがあり、模擬試合をするのにはうってつけと言う訳だ。
醍醐と龍麻に続いて部室に入った京一は、まず自分達以外に誰もいないことへの疑問を口にした。
「他の部員はどうしたんだよ」
「ああ……」
醍醐はそこで言い淀み、素早く龍麻に視線を走らせる。
当事者を前に言おうかどうか迷ったようだったが、結局ありのままを告げるしかなかった。
「昨日、佐久間と他校生が歌舞伎町で揉めてな。
向こうから抗議が来て、処分はまだ出ていないが、自主謹慎の意味も込めて、しばらく休部さ」
「……ケッ。佐久間もバカだがよ、その他校生とやらもだらしねぇな。喧嘩に負けて親頼みかよ」
「まぁ、出来が悪いとはいえ、部員の不祥事だからな。仕方ないさ。
──それよりも、別にお前にまで付き合えとは言ってないんだがな」
それは、これからここで始まることに対して、無言で出て行けと言っているのだった。
しかし、京一がそれで大人しく引き下がるはずもない。
醍醐だけでない、京一もこの転校生の実力を自分の目で見たいと思っていたのだ。
「何言ってやがんだ。お前はあん時ずっと見てたんだろうが。今日は俺の番だ」
その返事を半ば予期していたのか、醍醐は頭を軽く掻き回しただけでそれ以上強くは言わなかった。
「それを言われると弱いな、仕方ない。だが──手は出すなよ」
「醍醐、お前──笑ってんぜ」
「ははッ、そうだな……楽しみでたまらないよ。強い奴と闘うのは」
二人の会話を、龍麻はほとんど聞いていなかった。
初めて上がったリングが珍しくて、子供のようにきょろきょろと辺りを見まわしていたからだ。
プロレスが特別好きな訳でもなかったが、日常から切り離され、
戦う為にのみ存在するこの空間は思ったよりも居心地が良かった。
ロープで反動をつけてみたり、二、三度軽く飛んだりして、その都度楽しそうに笑う。
リングの対角で制服の上着を脱いだ醍醐が、そんな龍麻を見て、言う必要もないことを言った。
「緋勇、全力でな」
「期待に沿えるかは判らないけどな」
「大丈夫さ。お前ならな」
これから闘う相手に太鼓判を押され、
どんな顔をしてよいか判らなくなった龍麻は改めて敵手と向きあう。
普段でさえ自分を凌駕する体格の持ち主は、
リングという自分の得意とするフィールドを得て更に大きく見えた。
あれほど広く見えたリングが、彼の巨体に半分以上塞がれているようにさえ感じる。
この感覚は久しく抱いていなかったもので、龍麻の背筋を快い緊張が走った。
醍醐にならって上着を脱いだ龍麻に、リングの上と下から同時にほう、という声が上がる。
「へッ……流石に鍛えちゃいるみてぇだな」
「うむ……佐久間達に臆することがなかったのも頷けるな」
男に身体を見られて喜ぶ趣味は持っていない龍麻は、誉め言葉にも気色悪そうにしただけだった。
そんな龍麻を京一は笑い、醍醐はにこりともせず拳を打ち鳴らす。
「時間は……無制限でいいか?」
「構わない」
「よし……いくぞッ」
てっきりゴングが鳴ると思っていた龍麻は、わずかながらタイミングを外されてしまった。
自分の間抜けさに苦笑いする暇もなく、並々ならぬ威圧感をもって、醍醐が間合いを詰めてくる。
ほとんど一直線に向かってくる醍醐に、龍麻は左右に逃げる暇がない。
最初の、取るに足らないはずのタイミングの遅れが、文字通り足枷となってしまったのだ。
リングの中央からやや龍麻の側のコーナー寄りで、二人は対峙する。
あと一歩で彼の間合いに入る──体格差で龍麻はそこからもう半歩踏みこまねばならない──
というところで、いきなり蹴りが飛んできた。
警戒していたつもりの龍麻だったが、重く、スピードもある蹴りはブロックした上から
鈍い痺れを与え、身体をコーナーへと押し戻す。
そこにすかさず二発目の蹴りが放たれ、わずか二撃でコーナーに追い詰められてしまった。
──流石に、佐久間のボスだけのことはある。
やや正確とは言えない感想を抱きながら、龍麻はわずかに細めて醍醐を見やった。
腰を落とし、隙無く構える醍醐は、このリングの上での戦いも、
それ以外の戦いも充分に経験があるようだった。
蹴りの動作にも無駄が無く、狙う部位も的確だ。
何より、こんな重い打撃を食らっていたら、防御も何もあったものではない。
元より龍麻自身の武術が長期戦向きでは無かったが、この戦いは長引くだけ不利になる。
既に氣も練りあがっているし、龍麻は次の攻防を勝負と決めた。
一方龍麻を追い詰めた醍醐も、手加減するつもりは全くなかった。
龍麻が佐久間達と争った時に見せた、怪しげな力をもう一度見たいとは思ったが、
まがりなりにも部員である佐久間を倒されてその報復という意味合いもあったし、
それを使わせずに倒すことにためらいはない。
目の前の男は大柄な割にフットワークも軽そうだったが、
この特殊な空間ではそれを生かす術も殺す術も自分の方が心得ていた。
そして、目算通り龍麻を籠の中の鳥とした今、
醍醐は次に続く爆発的な攻撃の為に一瞬だけ動きを止め、力を溜める。
龍麻が動いたのはまさにその瞬間だった。
大きく踏みこんできた龍麻に、虚を突かれた醍醐の防御が遅れる。
この態勢なら拳の、それもストレートだ──
龍麻の技を見切った醍醐は、腹筋に力をたわめて衝撃に備える。
これを耐えれば、もう俺の間合いだ──
打撃はもちろん、己の肉体の堅さにも自信がある醍醐は、
むしろカウンター気味に自ら踏みこんでいった。
鈍い衝撃が腹部の中央に響く。
よし、いける──
拳でなく、掌底だったことに意外さを感じながらも、がら空きになっている龍麻の肩を掴む。
抵抗もなく、龍麻がその一撃で自分を倒せたと油断しているのは明らかだった。
だから言ったろう、あまり粋がるな、と──
勝利を確信した醍醐は、更にもう片方の手でも肩を抑え、磐石(の態勢を築き上げる。
止めるなよ、京一。まずは膝蹴りだ──
しかし、そう身体に命令を伝えた直後、不意に視界が揺れた。
何が起こったか解らぬまま、意識が途切れる。
なんだ、これは──
それが、醍醐の最後の意識だった。
リングの上で仰向けに倒れている醍醐を、京一が木刀でつつく。
それをわずらわしげに掴むことで醍醐は目を覚ました。
「……おい……生きてるか」
「なんとかな。……負けた、のか」
「あァ」
顔のそばにしゃがみこむ京一に、目だけを向ける。
痛みはなかったが、全身を気だるい感覚が覆っていた。
「緋勇はどうした?」
「しばらくはいたんだけどよ。お前がいつまで待っても起きねぇから帰った」
本当は龍麻はずっといると言ったのだが、京一が醍醐のプライドを考えて帰らせたのだ。
京一の説得に恥じいった表情で頷いた龍麻は、後をよろしくと言い残して去ったのだった。
深く、大きな呼気を吐き出した醍醐は目を閉じて訊ねる。
「教えてくれ。俺はどうやって負けた? 組んだ所までは覚えているんだが」
「良く判らねぇが、掌をお前の腹に押しつけて
──なんか、急に緋勇の身体がデカくなったように見えるとよ、お前のシャツの背中が膨れて──」
京一はリングの上で起こった出来事を見逃した訳ではない。
むしろ並の人間では気付かないような部分まできちんと観察していたが、
それでも、見た事を全て説明するというのは難しかった。
「そうか……勁(、というやつかもしれんな」
「勁……って、あの手からなんか出すやつかよ。ホントにンなもんあるのか?」
「解らん。……が、最後の瞬間、全身が揺らされるような感じだった。
あれは、どこかで読んだ発勁の効果と似ているような気がする」
「発勁……ね。いよいよ魔人学園らしくなってきやがったか」
京一はにやりと笑いながら、三日前のことを思い出していた。
あの日龍麻は、自分が倒した一人以外、つまり三人の不良を倒した計算になる。
それも自分が佐久間を倒した時にはもう完全に勝負がついていて、
しかも息一つ乱していなかったのだ。
それは普通の──例えば空手や柔術──ではやや説得に欠けると思っていたが、
その勁とやら言う、不思議な力でなら納得は出来る。
現に今、京一が認める数少ない男が、ほとんどその力を発揮できぬまま倒されているのだ。
「しかし、真神にその人ありと恐れられたお前が、一介の転校生に負けるとはな」
「仕方あるまい。あの技は、肉体を鍛えて止められるものではないだろうしな」
「……あんまり悔しそうじゃねぇな」
「そうだな、自分でも不思議だよ」
大の字に伸ばしていた腕を頭の後ろで組んだ醍醐は、静かに笑った。
いつになく落ち着いた声の級友に、京一も一層口の端を吊り上げる。
「緋勇龍麻か……どこであんな技を覚えたんだろうな」
「さァ──な」
問いかけに醍醐はあっさりと首を振り、京一も答えを求めてはいなかった。
ただ、何かが起こる──そんな、漠然としながらも確乎たる予感が、
二人の胸の裡を駆け抜けていった。
なんとなく流れる沈黙に耐えかねたのか、片目を開けて京一を見やった醍醐が、ごくさりげなく言う。
「どうだ、今度はお前が闘ってみないか?」
「バカ野郎、俺なんて一分も保たねぇよ」
「木刀ありでもか?」
「……解らねぇな。懐に入られたら終わりだと思うと、あんまり勝ち目はねぇかもしれねぇ」
「お前こそ、殊勝じゃないか」
「そりゃ、熊みてぇなお前が始まって五分も経たねぇでのびちまうんだからよ」
皮肉も意に介さず、寝転がったまま豪快に笑う醍醐に、
京一は興を削がれたように鼻を鳴らすと肩を貸すために膝立ちになった。
「どうだ、立てるか?」
「あぁ、なんとか……痛てて」
「ほらよ」
「……いい……気分だ。わだかまりが全部抜け落ちたような……いい……」
「おい醍醐ッ。力入れろッ。支えきれねぇッ──!!」
「おう緋勇、帰ろうぜ。今日こそお前にラーメンの美味い店を紹介してやるよ」
京一の態度は、昨日と何ら変わりがなかった。
少しやり過ぎてしまったのではないかと、あれから醍醐がどうなったか気になっていた龍麻は、
京一のあまりの無関心ぶりにとっさには反応出来なかった。
正々堂々とした試合とは言っても、彼らが友人同士だったら怨みを抱かれ、
今度は京一に喧嘩を申しこまれても不思議ではないのだ。
しかし、目の前の男は、相変わらず木刀を肩に担いだまま、一言もそれに触れようとしない。
その態度は自分の方から話題を振るのを待っているようにも見えて少ししゃくだったが、
尋ねない訳にもいかず、口を開きかける。
ところが、ためらいつつ発した問いは、横合いからの良く透る声に妨げられてしまった。
「京一君……寄り道はだめよ」
「な、なんだよ。いいじゃねぇか、俺達もう高校──それも三年なんだぜ。
今時そんな小学生みてぇな」
「……」
まだ会話らしい会話もしていなくても、龍麻はその声を聞き誤ることなどなかった。
いや、彼女の声を一度でも聞いたなら、誰もが聞き誤ることは無いだろう。
どういう気紛れか、美里葵が会話に加わってきたのだ。
戸惑いはあったが、それよりも今は与えられた機会を最大限に生かすべきだ。
龍麻は心臓が急にやる気を出すのをなだめながら、慎重に口を挟むきっかけを待った。
「そんな顔すんなよ。俺達が悪いみてぇじゃねぇか……なあ、緋勇」
「いや、俺も買い食いは良くないと思う」
「……緋勇、お前……」
「あら、緋勇君が行かないのだったら、私行こうかしら」
内心で謝りつつもあっさりと友人を裏切った龍麻を待っていたのは、葵の思いもかけない言葉だった。
すまして言う葵に、そこまで嫌われているとは思ってもいなかった龍麻は激しいショックを受け、
二人がいるのも構わず、がっくりと机に手をつく。
すると、葵がこらえきれなくなったように笑い出した。
「うふふ、冗談よ。ごめんなさい」
じょう、だん──その言葉を頭の中でぐわんぐわん響かせながら、龍麻は懺悔を求めるように葵を見る。
まだ会って数日しか経っていないが、目の前の少女はあまり冗談など言うタイプには見えない。
その彼女が冗談と言うのは、良いきざしなのかそうでないのか、とっさには判らなかった。
見ようによっては泣きそうにも見える龍麻の表情に、神父にでもなったつもりなのか、
京一が肩に手を乗せて偉そうに諭した。
「ヘッ、緋勇、一本取られたな」
「本当にごめんなさい──怒った?」
「い、いや、そんなことは」
「こいつが怒る訳ねェよ。この間っから美里が嫌ってんじゃねぇかって心配ばっかしてんだから」
「嫌うだなんて、そんなこと──」
「だってよ。良かったな、緋勇」
龍麻にとっては本当に「良かった」なのだが、
まさか葵の目の前でおおっぴらに喜べるはずもなく、あいまいに頷くしかなかった。
いやらしい笑みで龍麻を見ていた京一は、その表情を少しだけ真面目なものにして葵に語りかける。
「で、どうする? 美里もたまには息抜きしてみねぇか?」
「ええ、そうね。本当はそうしたいのだけれど……ごめんなさい、今日はアン子ちゃんと約束が──」
それが例え無責任な好奇心に満ちていたとしても、
確かにこの時の京一は龍麻のために葵を誘おうとしたのだが、
アン子、という名前が出たことで、一気に意欲をなくしたようだった。
「あァ、そっか。そんじゃ、また今度な」
掌を返したように、あっさりと話題を打ちきる京一に、龍麻は非難の眼差しを向ける。
それに対して京一が何かいいかけた時、葵の背後から、律動にあふれた声と共に小蒔が表われた。
「呆れたヤツだなァ、葵まで誘うなんて」
「なんだお前、どっから生えてきたんだ?」
「人をタケノコみたいに言うなッ」
顔を合わせるなり口喧嘩を始める二人に、他の二人は揃って笑い出す。
「ふふっ」
「なんだよ、葵まで」
「うふふ、ごめんね、小蒔」
謝りながらもなお笑いを収めない葵だったが、小蒔は気にした風もなく両手を腰に当てた。
妙に決まってるな、などと思っている龍麻をよそに、親友に対して説教する。
「ホント、葵は人がいいんだから。こんなアホの話につきあうことないよ。
だいたい、どこのガッコに生徒会長を校則違反に誘うヤツがいるのさッ」
「ここ」
「……」
開き直り──とも違う、最初から開きっぱなしの京一に、小蒔は軽くこめかみを押さえる。
それをどう勘違いしたのか、京一は胸を張って語りだした。
「小蒔──俺の行動を理解しろとは言わねェ。所詮、凡人のお前には永久に理解(ることじゃねェからな。
だが、俺のやることには全て意味があるということを忘れるな」
「より道に何の意味があるんだよッ」
「腹が減った……」
「はァ?」
「なんだ、こんな簡単なこともわかんねェのか? 俺と緋勇は腹が減った。
だからラーメンでも食って帰ろうってこった」
その堂々たる言種ときたら、龍麻と小蒔だけに留まらず、葵までもが黙りこくってしまうほどだった。
しばしの沈黙の後、明らかに抑制した声で小蒔が口を開く。
「……京一……ちょっと……いいかな」
「なんだよ」
「せいッ!」
勢い良く放たれた拳は、見事京一の頬に命中していた。
それは龍麻でさえも何度かに一度しか決められないのでは、と言うほどのナイスパンチだった。
「さっ、葵、行こうか。緋勇クン、また明日ね」
両手を払った小蒔はうずくまる京一に目もくれず龍麻に手を振る。
つられて手を振る龍麻の前を塞ぐように、頬を押さえた京一が立ちはだかった。
「こ……の……小蒔、いきなり殴るたぁどういうつもりだッ!」
「あんまりアホなことばっかり言ってるからだよ」
とどめにべー、と舌まで出され、すっかり三文役者に成り下がった京一は、
反撃しようとしてとっさに言葉が思いつかなかったらしく、顔を真っ赤にして鞄を引っ掴んだ。
「あーッ、うるせェうるせェ。行こうぜ、緋勇ッ」
「ちゃんとまっすぐ帰るんだぞッ」
床を踏み鳴らしながら出て行く京一を、残っていた生徒の笑い声と、
彼等に肩をすくめてみせた龍麻が追いかけていった。
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