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「それで、ラーメンなんだけどよ」
京一はあれだけ言われてまだラーメンを諦めていなかったらしい。
いっそあっぱれなその態度に、龍麻も、もうすっかりラーメンを食べる気になっていた。
校門までのそれほど長くもない道を歩く途中、さりげなく京一が切り出す。
「実は、もう一人一緒に行きてェってやつがいるんだけどよ」
「そりゃ別に構わないけど」
もちろん佐久間のような手合いは勘弁して欲しいが、
自分よりもむしろ京一がそのような輩と一緒に居られるはずがない。
だから、龍麻は誰が来ようと構わなかったが、
それでも、校門に立っていた人物を知ると、さすがに動揺を隠せなかった。
「醍醐……」
「約束だからな。ラーメンを進呈させてもらうよ」
そこにいたのは昨日自分が打ち倒した相手だった。
同意の上の組手とはいえ、気絶させてしまったのだ。
敵意を抱いていてもおかしくはない。
しかし醍醐の顔にはそんなものは微塵も浮かんでおらず、
それがかえって龍麻を落ち着かない気分にさせた。
「怪我は──いいのか?」
「はははッ、そこまで心配されるとはな。完敗だよ」
佐久間の時とは違い、醍醐には本気で勁を撃ち込んだはずだ。
師範の話では、極めた者が放てば再起不能なまでの威力を与えるということだったが、
醍醐の耐久力が高いのか、自分が未だ未熟なのか、恐らくその両方だろう。
とにかく、負けた醍醐がわだかまりを持っていないのだから、自分が持つのもおかしな話で、
龍麻も考えを切り替えることにした。
「あぁ──だけど、あの攻撃がかわされていたら、やられていたのは俺だったと思う」
その言葉に嘘はない。
何しろわずか二発の打撃を防御しただけなのに、その痺れはしばらく取れなかったほどなのだ。
もちろん必中の勝算があったからこそ仕掛けた攻撃ではあったが、
もし外れれば、あるいは打ち倒すだけの威力を与えられなければ、
その後は一方的なサンドバックと化していたことは想像に難くない。
決して、謙遜や同情で発した言葉などでは無かった。
それが伝わったのか、わずかに口元を緩めた醍醐は、
すぐに自分を昏倒させた技について興味も露に訊ねてきた。
「あれは、勁なのか?」
「あぁ。教えてくれた人はそう言ってた。……あまり、人には使うな、とも」
「おいおい、そんな技を使ったのか? それにしても意味深だな……人に使うな、とは」
「俺もそう思って聞いたけど、教えてはくれなかった。時が来れば解るって」
言う方は肩をすくめ、冗談めかして言ったものだが、言われた方はひどく真剣に受け止めたようだった。
「時が来れば……か。緋勇、お前は何故この学校に来た?」
「……それを知りたいと思っている」
「……そうか」
そこでなんとなく黙ってしまった龍麻と醍醐を、どこかうんざりしたように京一が見やった。
「もういいだろ。続きがしてぇならラーメン屋でやってくれよ」
「うむ、そうだな。行くとしようか、緋勇」
「ああ」
「よし、それじゃラーメン屋へ」
「しゅっぱーつ!」
京一の語尾を引き取ったのは、明るい女性の声だった。
驚いて三人が振り返ると、いつのまにいたのか、桜井小蒔がすぐ後ろに立っていた。
「キミたち、葵にあれだけ釘さされときながら、まだラーメンラーメンって、
まったくいい根性してるよ。校則、忘れたの?」
「……小蒔」
「何さ」
「今お前しゅっぱーつつっただろうがッ!!」
たちまち激昂する京一に、龍麻は瞬間湯沸し器のようだ、と見た事も無い機械に彼をなぞらえていた。
それにしてもおかしいのは、小蒔といい杏子といい、
京一が怒っているのをまるで取り合おうとしないのだ。
もちろん龍麻でさえ子供っぽいと思うくらいだから、彼女達が相手にしないのも判るが、
こうまで空回りをしているのを見ると、何か哀れにさえ思えた。
「べー。だからって、緋勇クンに悪いコト教えるのとはワケが違うよ」
「かーッ、これだから凡人は困るな。俺は転校したてで、一人で孤独で寂しい緋勇を励まそうとだな」
「あーはいはい、そんな言い訳はいいよ。ほら、ラーメン食べに行くんでしょ? 早く行こうよ」
「はははッ、桜井の勝ちだな」
「醍醐、手前ェ……」
「えへへッ、今日はどっちが奢ってくれンの? 京一? 醍醐クン?」
「なんで俺がお前みたいな男女に奢んなきゃならねぇんだよッ!」
「あーそう、そういうコト言うんだ」
「ああ言ってやるぜッ。お前なんかに奢るラーメンは男京一、金輪際持ってねぇッ!!」
京一の啖呵は決まってはいたが、
その内容があまりにおそまつだった為に誰に感銘を与えることも出来なかった。
それどころか、目をぱちくりさせた小蒔は、息を思いきり吸いこみ、
小さな身体のどこから出したのかと思うほど大きな声で叫びだす。
「いぬがみせんせーッ! ほうらいじがですねーッ!!」
「!!!」
「バ、バカ野郎、なんてコト口走りやがんだお前!」
犬神、というのは確か生物の教師のはずだ。
それが京一とどういう関係があるのか、龍麻に説明してくれたのは醍醐だった。
「京一は、こともあろうに先月の卒業式の時暴れてな、
それ以来生活指導の犬神から目を付けられているんだ」
醍醐の言葉に緋勇は大きく頷いた。
結局、あの日京一はいかにも巻きこまれたような態度を見せていたが、
放っておいてもどの道佐久間と衝突していたのだろう。
龍麻はほんの少しだけ抱いていた、
彼を巻き込んでしまったという後ろめたさがすっかりなくなったことに気分を良くした。
「醍醐、手前ェ何よけいなことしゃべって……大体ありゃあいつらの逆恨みだ。
俺はれっきとした被害者だぞッ」
「京一、いいかげん桜井から離れろッ」
興奮している京一は、小蒔の口を塞いでいることを忘れてしまっているようだった。
大きく手を振っていた彼女を人目から隠すようにしている京一を、何故か醍醐が叱り飛ばす。
「ん? あぁ、忘れてた」
「ぷはァー。ボクのコト殺す気?」
「お前が余計なこと言うのが悪いんだろうがッ」
「いぬがみ──」
「わ、わかったッ。畜生、奢る、奢りゃいいんだろッ」
「やったッ。それじゃ、早く行こ」
どうやら京一は強がってはいるが、本質的には女性に頭が上がらないらしい。
意外な弱点を知って、龍麻は小さく吹き出してしまった。
「なんだよ」
「いや、なんでもない……行こうぜ、俺も腹減った」
憮然とする京一の肩を叩いた龍麻は、
これから先何度も通うことになるラーメン屋への、初めの一歩を踏み出したのだった。
京一が案内するラーメン屋は、学校から歩いて十分も無い所にあるという話だった。
京一は先ほどの舌戦の敗北を引き摺って無口だったし、
龍麻と醍醐もなんとなく黙っていたが、何かを思い出したのか、小蒔が突然口を開いた。
「あ、そういえばさ、さっきアン子に聞いたんだけど、知ってる? 旧校舎のこと」
「行方不明者のことだろ?」
「ブー」
小憎らしいまでの小蒔の態度に京一はたちまちふてくされてしまう。
これでは全く話が進まない為に、醍醐が続きを引き取った。
「違うのか?」
「旧校舎は旧校舎でも、幽霊のはなし」
「ゆッ……幽霊!?」
醍醐の声は滑稽なほど裏返っていた。
自分と闘った時よりもはるかに動揺を見せる巨漢に、
龍麻はちらりと興味深げな瞳を向けるが、すぐに意識を小蒔の話に戻す。
「そう。なんでも夜になると赤い光が見えるとか、人影が窓越しに見えるとか」
「……」
黙ってしまった三人に、小蒔は口を尖らせて情報を補強した。
「もう何人も見てるんだって」
「今時、幽霊ねぇ……」
しかし、それは古来から噂を振りまく時に使われる常套句だった為に、
三人を信じさせることは出来なかった。
半信半疑で京一が呟いたところで、真っ赤なのれんが四人の目の前に現れたので、
続きは店内に入ってからとなった。
「大体幽霊ってのは夏に出るもんだろ? あ、俺味噌ラーメン」
「ボクだって聞いた話なんだから……ボクは塩バター」
「……俺はカルビラーメン大盛を」
三人は手馴れた様子でラーメンを注文する。
京一と醍醐はともかく、小蒔までもがお気に入りのメニューがある所をみると、
結局なんだかんだいってこの店を良く利用しているらしい。
というよりも、高校生が帰りに買い食いをすることをとやかく言う葵の方が、
やぼったいということなのだろう。
もっとも、葵がラーメンを啜る姿はなかなか想像出来ないが。
とにかく、三人が席に着くと同時に注文してしまった為に、
じっくりメニューを吟味する暇が無かった龍麻は、急いで壁を見渡した。
やたらと多いラーメンの種類に眩暈(を覚えつつも、なんとか注文を決める。
「んじゃ……とんこつで」
「お、お前通だねぇ。……んで、続きがあるんだろ?」
隣に座る醍醐に窮屈そうな視線を向けながら、京一は小蒔にさっきの話の続きを促した。
「あ、うん。それで、そんな話が広まってから、面白半分で旧校舎に入る生徒まで出始めたんだって」
「な、中にか? しかしあそこは確か、柵があって立ち入り禁止になってるんじゃ……」
答えた醍醐の語尾が、さっきからどうも震えているようだ。
しかし、それに突っ込みを入れるほどの仲ではない
──何しろ、数言会話をした後は殴り合っただけの仲なのだ──龍麻は黙ったままだ。
それに、まだ真神に通って数日の龍麻は、旧校舎というものを良く知らない。
ここは、しばらく三人の会話を見守るしかなかった。
「抜け道があるんだってよ」
「抜け道?」
「あァ、部のやつが言ってた。──ッと」
最後の台詞は、運ばれてきたラーメンを受け取ったためのものだ。
皆別々のラーメンを頼んだのに、同時に出てきたことに首を傾げつつ、龍麻も自分の器を受け取る。
テーブルの上を忙しく箸や胡椒が行き来し、また会話がしばらく途切れることとなった。
京一があれだけこだわっているだけの事はあって、味は満足出来るものだった。
ただ、テーブルがやたらと小さいので、ほとんど顔を突き合わせて食べねばならないのは、
欠点とは言えないほどの欠点ではあった。
黙々と食欲を満たすことに専念していた龍麻達は、それも一段落すると、話題を再び旧校舎に戻す。
「抜け道だけどさ、それ、アン子も言ってた。
なんか幽霊をスクープするって張り切ってたけど、大丈夫かな」
「大丈夫だろ。アイツは殺したって死なねぇよ。それに幽霊だって本当に出るのか怪しいしよ」
「確かにな」
ひどく適当な京一に相槌を打った醍醐の言葉は、不自然に短い。
それに気付いた小蒔は、スープを呑んでいた器を置くと、軽く身を乗り出した。
「? 大丈夫醍醐クン? 顔色悪いよ?」
「そッ、そうか?」
何をされる訳でもないのに大きく仰け反った醍醐に、龍麻や京一までもが不審な目を向ける。
三人に見られ、いよいよ顔色を悪くした醍醐が口を開こうとした時、勢い良く店の扉が開いた。
店内に居た全員──龍麻達の他は店の主人だけだったが──の視線が、一斉に転じる。
注目を浴びても一向に気にすることなく入ってきたのは、遠野杏子だった。
血相を変え、どう見てもラーメンを食べに来たのではなさそうな表情で龍麻達のところに突進してくる。
「み……みず……」
砂漠の冒険者もかくや、と言う勢いで水を捜し求めた杏子は、
テーブルに置かれていたコップを取ると、誰のかも確かめないまま一気に飲み干した。
「それ、俺の……」
せこい所有権を主張する京一を、コップを咥えたまま鬼の形相で睨みつけた杏子が
口を開いたのは、コップを音高くテーブルに置いたのと同時だった。
「み、美里ちゃんを探してッ!」
「遠野、どういうことだ?」
杏子の口から飛び出した剣呑な言葉に、皆の表情が変わる。
意志に声がついてこず、今度は龍麻の水を飲み干した杏子は、軽く胸元を叩いて事情を説明し始めた。
「あたし、どうしても旧校舎の取材をしたくて、美里ちゃんに頼んだのよ」
「頼んだ……って、まさか行ったのか?」
京一の咎めるような声に、杏子はばつが悪そうに頷いた。
小蒔や醍醐にも非難めいた眼光を浴びせられてますます縮こまるが、今はそれどころではなかった。
「……最初は渋ってたんだけど、あたしが無理言って一緒に来てもらったの。
何にもないと思ってたんだけど、中に入ったら赤い光が追いかけてきて」
「赤い光?」
四人が同時に驚きの声をあげる。
いるにしても幽霊だと思っていたものが、人に危害を及ぼすほどの存在だったとは。
言い出した小蒔でさえもが半信半疑だったが、
葵が旧校舎の中に置き去りにされてしまったのは確かである。
放ってはおけなかった。
「一緒に逃げたんだけど、気が付いたらはぐれてて……お願い、美里ちゃんを探してッ!」
「どうするよ、緋勇」
懇願する杏子にすぐには答えず、落ち着き払って京一が訊ねる。
聞かれるまでもなく、龍麻の答えは決まっていた。
それどころか既に腰を浮かせ、そのまま走り出しても良いくらいだった。
「行こう」
「そうだな。このまま見過ごすわけにはいかんだろう」
「早く行こうッ」
やはり立ちあがり、小銭をカウンターの上に置いた小蒔も鞄を掴み、外に向かって歩き出している。
それを、醍醐がややうろたえたように止めた。
「桜井、お前は家に帰れ」
「い・や・だ・よ。葵をほっとけるワケないでしょッ」
「……やむをえんな。遠野、案内を頼む」
先ほどの幽霊話があった後だから醍醐の慎重さも当然のことだった。
しかし葵の第一の友人を自認する小蒔は頑として突っぱね、
こんな所で貴重な時間を浪費すべきではないと考えた醍醐は不承不承頷くしかなかった。
慌しく学校に戻ってきた五人は、教師達の目を避けるようにして旧校舎へと向かった。
敷地内の隅にある旧校舎は、決して小さな建物ではないのに、奇妙に存在感がなかった。
まるでそれ自身が存在を隠そうとでもしているかのように、
息苦しささえ覚えさせる濃密な空気で辺りを覆い尽している。
木々のせいもあるのだろうが、まだ時間は六時にはなっていないというのに、
この周りだけは異様な暗さだった。
「……なんかすごいね」
小蒔の感想に龍麻も頷き、醍醐も首を縦に振る。
真神は歴史のある高校だという話だったが、それにしてもここは特に古々しい趣を醸し出していた。
「崩れないのが不思議だな」
「なんてったって、戦火をくぐり抜けてきた建物ですからね、もう六十年近くは経ってるはずよ」
「なんで壊さないんだ?」
「さぁ……いろいろ噂は聞くけど、はっきりしたことは判らないわ」
杏子は自分の調査能力が及ばない事が悔しそうだった。
戦前となれば資料が焼失してしまっている可能性も高く、
だからこそ今回自分の足で確かめてみようと思ったのかもしれない。
しかしその結果がこれでは、余計なことをしてくれた、と龍麻ならずとも思わざるを得ない。
こうなったら一刻も早く葵を見つけ出して、この陰気な場所から去りたいところだった。
「さ、行きましょうか」
中に入った龍麻達は、杏子の先導で校舎内を歩く。
古い木の廊下は一歩毎にきしみを上げ、
体重のある醍醐などは床を踏みぬいてしまうのではないかと言う程朽ちていた。
更に換気もされていない空気は埃に満ちて空間が白く見えるほどで、たまらず小蒔は鼻をつまんだ。
「うわ……カビ臭い……それに、埃も」
「男なんだからそのくらい我慢しろ」
「なんだとォ」
ぼそり、と呟いた小蒔に、たちまち京一が反応する。
もう常日頃のやり取りなのか、誰も止めようとはしない。
ただ、杏子が面倒くさそうに注意を促しただけだ。
「気をつけて。何が出てくるかわからないから」
「ま、男が四人もいりゃ大丈夫だろ」
「男は三人だろッ」
「だって、お前、付いてるじゃねぇか」
「何がだよ」
「ナニがだよーん」
「この……!」
「お前ら、少し静かにしろッ」
人を捜しに来ているというのに、まるで緊張感のない二人に、たまらず醍醐がたしなめる。
龍麻は一人辺りに注意を払っているのが、馬鹿らしく思えてきてしまった。
(べーだ)
(フンッ)
「ったく……あ、そうだ、醍醐君、ミサちゃんから聞いた話なんだけど」
「うッ、裏密から?」
裏密というのは龍麻の聞いたことのない名前だったが、
醍醐がなんとなく怯えたように反応しているのは気のせいだろうか。
「ええ。この校舎、もともとは陸軍の訓練学校なんだって」
「……そういえば、聞いたことがあるな。何でも、軍の実験用の地下施設があったとか」
「……意外ね。醍醐君がそんなこと知ってるなんて」
「俺の死んだじいさんが軍人でな、親父からもこの学校の話は良く聞かされたよ。
地下へは、一階の奥にあるはしごからいけるそうだ」
驚くべき醍醐の話に、早速京一が飛びつく。
「そりゃ面白そうだな。行ってみようぜ」
「アホ。葵はどうすんのさ」
「あ……み、美里がそこにいるかも知れねぇじゃねぇか」
「今『あ』って言ったろ」
「ははは、まぁ止せ、桜井。京一の言うことももっともだが、はしごなんて今は無いだろうよ」
「……でも、学校の地下に洞窟が広がっているなんて、ロマンがあるわよね」
(おい、緋勇、今度行ってみようぜ。なんかお宝があるかも知れねぇしよ)
秘密基地とか宝物と言った言葉に今でも強い好奇心を抱いてしまう龍麻は京一の言葉に強く頷いたが、
今は葵を探す方が大事だった。
「遠野さん、美里さんとはぐれたのはどの辺りか判る?」
「この先よ。更衣室と保健室があって、その先で──赤い光が」
流石に怯えているのか、杏子の声はやや力無い。
しかし京一は無造作に歩を進め、むしろ残念そうに告げた。
「……何もねぇけどな」
「でも、美里さんがいないのも確かだ。もう少し探そう」
「うむ、そうだな」
強い口調の龍麻に醍醐だけでなく、全員が頷き、五人は更に奥へと足を踏み入れていった。
引き戸を開く度、、数十年ぶりに働かされた扉が多量の埃ときしみ音を立てる。
中は暗く、杏子が持ってきた懐中電灯の光だけを頼りに、部屋の中を捜すしかない。
何が出てきてもおかしくないような雰囲気の中、埃を吸いこまないよう袖で口を押さえ、
龍麻は先頭に立って調べていったが、葵の姿は何処にも見当たらなかった。
「いねぇな……」
「もう一度、戻ってみましょうか」
杏子の呟きに全員頷いたが、その顔にはわずかな疲労が滲んでいた。
暗闇を探索するというのはそれだけで精神力を消耗するものだが、
この場所は、それ自体が奇妙なほど疲れを強いるようだった。
京一と小蒔もすっかり無口になり、重い足取りで引き返そうとする。
遅れて教室から出た龍麻が皆の後を追おうとした時、背後に何かを感じた。
振り向いた龍麻の前方に、薄く、弱い光が瞬いている。
「……ちょっと待った」
龍麻の呼びかけに戻ってきた四人も、同じ物を見てしばらく言葉を失っていた。
「何か……光が……」
「お前が見たって光はあれか?」
「違うわ。赤くて、もっと小さな光だった。それがたくさん……」
京一の問いを杏子はきっぱりと否定したが、途中で遮られてしまった。
「おい、誰か倒れてるぜ」
「葵ッ!」
真っ先に駆け寄った小蒔が急停止する。
遅れて歩み寄った龍麻達も、小蒔が止まった原因を目の当たりにして、同じく立ちすくんでしまった。
床に倒れている葵の身体を、青白い光が包んでいたのだ。
淡い輝きは、切れかけの電球のように明滅を繰り返している。
胸がゆるやかに上下しているところを見ると差し迫った危険はないようだが、
想像のはるか外にある事態に誰も動けない。
「なんだ、こりゃ……美里が光ってるのか?」
「……そうみたいね」
いささか間の抜けた会話をしている京一と杏子を尻目に、龍麻は意を決して一歩踏み出す。
すると、それに反応したかのように、謎の光は五人の目の前で消えていった。
「消えた……」
呆然と呟く龍麻に、答える声はない。
同級生の少女に起こった到底理解出来ない事実に、誰もが動くことも忘れ、その場に立ちすくんでいた。
じっと葵を見下ろしていた龍麻は、我に返ると葵の許にかがみこむ。
身体を抱き起こして小さく揺さぶってみても、反応はなかった。
生気を失っている顔にかかっているわずかに乱れた前髪が、場違いな動揺を龍麻に与える。
仲間達にそれを気付かれてしまう前に、表情を消して立ちあがった。
「そうだな、とにかく、外に連れだそう。緋勇、大丈夫か?」
「ああ」
この時の龍麻は、何故だか葵を誰にも触れさせる気になれなかった。
だからこのまま外まで葵を抱いて連れ出すつもりだったのだが、
その、本人さえ意識していなかった望みは叶えられなかった。
腕の中の少女が意識を取り戻したのだ。
「う……ん……緋勇……くん……?」
ゆっくりと目を開いた葵は、ごく近い距離に龍麻の顔があったことにわずかに驚く。
しかしそれも一瞬のことで、間近に見る男の顔は何故か安らぎを与え、
彼の腕の中は決して不快ではなかった。
もう少しこのままがいい、とさえ思った葵だったが、
龍麻の方が恥ずかしく思ったのか、すぐに降ろされてしまう。
「葵、大丈夫? どっか痛いトコない?」
「小蒔……ええ、大丈夫……」
龍麻に礼を言うよりも早く小蒔に話しかけられてしまい、葵はそちらに答えざるを得ない。
そして役目は終えた、とばかりに龍麻は一歩下がってしまい、
結局この場で話しかけることは出来なくなってしまった。
「どちらにしても、目的は達したんだ。一度出よう」
「そうだな。とっととこんな薄気味悪い場所からはおさらばしようぜ」
京一に反対する者は誰もなく、京一が先頭、醍醐がしんがりを受け持つことを手早く決める。
龍麻は葵達女性の後ろ、醍醐の前で、何か起こった時に身を持って盾となることを自分に任じた。
小蒔に支えられてなんとか立っているような葵は、まだ少し意識がぼんやりしているのか、
頭を振り、抑揚のない声でつぶやく。
「……あの時、赤い光が迫ってきて、もう逃げられないって……でも、突然目の前が真っ白になって、
それから意識が遠くなって……」
「……それなんだけどね、美里ちゃんが倒れてた時……」
「アン子、その話は後だッ」
京一の緊迫した声が、二人の会話を封じる。
やや遅れて醍醐も迫り来る気配を察知し、龍麻はもう身構えていた。
今度こそ二人が見たという赤い光が、薄暗がりの中から数えきれないほどに現れたのだ。
「醍醐、ここは狭い。教室で迎え撃とう」
「そうだな。……遠野、美里を連れていけ。あっちからならまだ出られるはずだ。桜井も一緒に」
「ボクは残る」
「! ダメだ、戻れ!」
「い・や・だ・!」
それ以上議論している余裕は無かった。
葵達が廊下を曲がるのを見届けてから教室に飛びこんだ龍麻達に、赤い光が急速に近づいてきたのだ。
振り向いた龍麻の目の前に、何かの気配がある。
正体を確かめる暇も無く、顔の中心目がけて突っ込んでくる赤い光を下から拳で撃ち抜いた。
キィィ……と言う金切り声をあげて落ちて行くその物体に、龍麻は見覚えがある。
それは、まだこの東京の空にも見る事が出来る動物だった。
「これは……蝙蝠!?」
ただし。
今叩き落したのが蝙蝠とするならば、その大きさは尋常ではなかった。
何しろ翼を広げれば五十センチはあろうかというサイズなのだ。
驚いて薄闇に透かして見れば、これほどの大きさでは無いものの、
龍麻が知っているものとはかけ離れた大きさの蝙蝠が他の三人にも襲いかかっている。
小蒔はもちろん、京一の剣技をもってしても、
醍醐の力をもってしても、蝙蝠と闘うのは簡単なことではないようだった。
それは龍麻も例外で無く、ほとんど偶然で何匹かは叩き落としたが、
その数は一向に減らず、不規則に飛び回る小動物に翻弄されながら、じりじりと下がっていく。
「痛っ!」
よけきれない爪が頬をかすめ、小さいけれども鋭い痛みが走った。
指を当てても、それほどの出血は無いようだ。
この程度の傷ならどれほど受けても大事には至らないだろうが、
相手はどんな菌を持っているか知れず、むしろそちらの方が危険だった。
四人が暴れたために埃が舞い、いくらかは視認しやすくはなったものの、依然劣勢が続く。
それでも更に一匹、嫌な手応えと共に倒した龍麻の身体が、突然軽くなった。
見れば全身が、先ほどの葵と同じように白く輝いている。
そしてそれは龍麻だけでなく、他の三人もやや遅れて白く光った。
それにどのような意味があるのか、答えはすぐに解った。
体内で氣が膨れ上がったのだ。
もはや練り上げる必要も無い程増幅された氣は、拳の数歩先までも迸る。
初めこそその感覚にとまどっていた龍麻も、すぐに勘を掴み、
間合いの向こう側の敵を倒すことが出来るようになっていた。
身は軽く、拳は疾い。
突如与えられた奇跡に、無敵になったかと錯覚し、
武道家の救い難い性として、昂揚と一体となった陶酔に身を侵されていた龍麻だったが、
この場に居てはいけない人物の声がその心に冷や水を浴びせ掛けた。
「みんな……大丈夫?」
「美里……!」
「葵、なんで戻って……ッ」
「私……みんなのことが心配で……アン子ちゃんには先生を呼びに行ってもらって」
皆の叱咤に近い問いかけにも、葵は気丈に答える。
健気な台詞ではあったが、
龍麻としては葵の肌が蝙蝠の爪で傷つくなど想像すらしたくない。
こうなったら一刻も早く蝙蝠の群れを打ち倒すしかなかった。
葵に近寄って行く蝙蝠から優先して数を打ち減らしていく。
幸いにも、全ての敵を相手にせずには済んだ。
十匹ほどを倒したところで、残りの蝙蝠は逃げていったのだ。
誰かが操っているのでは無いかと勘ぐりたくなるくらい鮮やかな引き際だったが、
しばらく待ってもそれらしいものは登場しなかったので、龍麻はようやく力を抜く。
途端に肩に疲労がのしかかり始めたが、葵の姿を見た途端、それも消し飛んでしまった。
彼女の身体は、床に倒れていた時と同じように輝いていたのだ。
「熱い……体が……」
「葵ッ!!」
葵は言葉とは裏腹に、寒そうに肩を抱く。
どうすることも出来ない龍麻の目の前で光は再び消えたが、
龍麻は己の無力さに歯ぎしりせずにはいられなかった。
「一体……これは……」
「……とにかく表に出ようぜ」
「……そうだな。どうもここは、普通ではないようだ」
醍醐の普通、と言う言葉に、
まだ床でひくひくと蠢いている蝙蝠を気持ち悪そうに見た小蒔がうそ寒そうに反応した。
「ね、醍醐クン……これ……本当にコウモリなの? すごい牙と爪だよ」
「……本来、蝙蝠は昆虫や木の実を食べる生きもので、こんな風に人を襲うなんて聞いたことがないな」
「何か……良くないコトの前触れじゃなきゃいいけど……醍醐クン?」
今度は、醍醐が小蒔の言葉に反応を見せた。
否、醍醐だけではない。
京一も、言った小蒔自身もが、身体の内側から何か異変が起こりつつあることを察知したのだ。
「どうやら……おかしいのは……美里だけじゃないらしいな。俺の……身体も……!」
「な、何コレ……!」
「こいつは──」
醍醐に続いて、京一と小蒔の身体も青白い輝きに包まれる。
しかし、今この場にいる全員に起こっている現象は、何故か龍麻には及んでいなかった。
ただしそのことに気付く余裕は龍麻本人も含めて誰にも無く、
三人が呆然と自分の手や身体を見ていると、やがて輝きは消えていった。
「なんだ、今のは……」
「……ボクはなんともないみたいだけど」
「……俺もだ」
光が完全に消え、その残像も消えるに至ってようやく京一達は声を絞り出した。
皆自分を確かめるように、手を握ったり足を持ち上げてみたりしている。
どうやら今の所気分が悪くなったりは無いようで、
もちろん正体不明の事柄に対する不安はあったが、自分達に何も変化は無く、
葵も探し出せたのだから、これはつまり、めでたしめでたし、ということになるのではないか。
「ま、帰るか」
そう考えた京一が、いつもと変わらぬ調子でそう告げると、全員が救われたように頷いた。
「……なんか、お腹減ったね」
そして、ぽつりと漏らした小蒔の言葉で、
皆が一気に非日常から日常へと戻ってくることが出来たのだった。
「……ったく、お前ェは」
「な、なんだよッ」
功労者であるはずの小蒔は顔を真っ赤にするが、もう外は完全に夜の領域に属していて判らなかった。
それを慰めるように、醍醐が笑い声を立てる。
「ははは、桜井らしいな」
「醍醐クン、それどういうコト?」
「う、うむ……それはだな……」
返答に窮した醍醐は、わざとらしく夜空を見上げて声を張り上げた。
「何か食っていくとするか」
「……まぁいいや、行こ。京一の奢りだし、葵も行こうよ」
覚えていやがったのか、という京一の態度を無視して、小蒔は親友の腕を取る。
しかし、葵はすまなそうにしながらも、その手を優しく引き離した。
「……そうね。でも、アン子ちゃんの所に行って、皆無事だって教えてあげないと」
「別に、行って誰も居なきゃ勝手に帰ンだろ」
ひどく適当な京一の言葉にも、葵はやや疲れたように首を振っただけで、
職員室の方へと歩き出していった。
それを見送るでもなく見ていた龍麻の肩を、京一が叩く。
「……ま、大丈夫だろ。今日はもう何も無ェだろうし、
どっちみち葵はラーメンは食わねえだろ、多分」
あんな出来事があった直後に一人にしてしまうのはどうかとも思ったのだが、
それは自分の役目ではないかもしれない。
やや弱気にそう考えた龍麻は京一に頷き返して歩き出し、それに他の三人も続く。
言葉にすることで過去に追いやろうとでもするかのように、
今しがた起こった奇怪な出来事を饒舌に語り合った四人だったが、
誰も言い出さなかったことがひとつだけあった。
あの青白い光が身体を包んだ時、耳にしたものがあったのだ。
頭の奥に直接響いてくるような、不思議な声が。
「目醒めよ」と──
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