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肩を叩かれて、やや不機嫌に龍麻は目を覚ました。
授業が終わる所までは起きていたはずなのだが、わずかな間に急速に眠ってしまったようだ。
しかし、それも無理はない。
大きく開け放たれた窓からは、優しい風をまとった眠りの精が絶えず誘惑を行なっていて、
それに抗うことなど聖杯を探索する騎士でも難しいだろう。
出来ればもう一度、今度は心行くまで誘惑に負けたいところではあるが、
龍麻は大きく欠伸をして眠りの精に別れを告げることにした。
肩を叩いた男は、龍麻の乱れた頭に失笑を浮かべて空いている席に腰を下ろす。
その巨躯がまた程良く陽射しを遮り、危うく龍麻は眠りの精の虜になってしまうところだった。
「なんだ、ずっと寝ていたのか?」
「ん……いや、さっきまでは起きてた」
口を開いたままなのでふにゃふがとしか聞こえない返事をしながらノートを閉じる。
そこにはどこの国の言葉だか解らないような文字が並んでいて、
さっきと言うのはいつのことやら怪しいものだった。
見られないようさりげなくノートを隠しながら帰り支度をまとめる龍麻に、
前の席に座った男は出し抜けに告げた。
「どうだ緋勇、ラーメンを食べに行かないか?」
「よしきた。この間の店だろ?」
「なんだ、気にいったのか? 確かにあそこのラーメンは美味いが」
「この間は最後まで味わえなかったからな」
頭よりも先に腹を目覚めさせ、早くもはりきって立ちあがる龍麻に、
目を丸くした醍醐も笑って腰を上げる。
そこに、教壇でマリアと何やら話していた葵が戻ってきた。
「お、美里、どうだ、お前も一緒にラーメンを食べに行かないか?」
「もう……学校帰りの寄り道は駄目なのに」
語尾が以前と微妙に異なっているのに、醍醐は気付かなかった。
即答する葵にたじろいでしまったのだ。
気付いたのは龍麻の方で、何か続きがあるのではと思ったのだが、
その前に醍醐がたしなめられた恥ずかしさを誤魔化すような大声で葵の友人に呼びかけてしまった。
「そ、そうか。それじゃ仕方ない、俺と緋勇と──おい、桜井、お前もどうだ?
ラーメンを食べに行かないか?」
「うん、いいよ。もうお腹空いちゃってさ」
小蒔は一応は年頃の女性だというのに、
お腹を擦りながら大声でそんな事を言って教室を横切ってくる。
そのお腹を擦っている方の手には鞄を持ち、もう片方の手には見慣れない長い袋があった。
「桜井さん、それ……何?」
「ん? あ、これ? 弓だよ。ちょっと直して欲しいところがあってさ、一旦家に持って帰るの」
「ふーん……桜井さん、弓道部なんだ」
「そうだよ。あれ? 言わなかったっけ?」
「うん」
「そっか。ボク、部長なんだよ」
先日葵に学校を案内してもらった時に弓道部があると言うのは聞いていたが、
まさか小蒔が部長だったとは。
意外な驚きと共に、初めて目にする和弓を、龍麻は興味深げに観察した。
「ね、今度射るところ見せてよ」
「え? 別にいいけど……緋勇クン、弓道に興味あるの?」
「あ、いや、そうじゃないんだけど……ほら、俺も古武術やってるからさ、そういうの好きなんだ」
「へー……醍醐クンみたいなこと言うんだね」
「醍醐が?」
「うん、前に一回見学しに来たことがあるの。その時は足が痺れて大変だったみたいだけど」
「そうなのか?」
「う、うむ、まあな」
「醍醐クンったらね、結局歩けずに転んじゃったんだよ」
余程その時の光景がおかしかったのか、小蒔は笑いを堪えきれずに頬をにやつかせている。
この巨体の男が足が痺れて狼狽する様は確かに滑稽であると思われ、
龍麻も是非見てみたく思った。
「も、もういいだろう桜井。そろそろ行こうじゃないか。
後は、そうだ──ま、一応やつにも声をかけておくか。京一」
あからさまに話題を変えた醍醐は、少し上擦った声で京一の名を呼ぶ。
少し離れた席で友人と話していた京一は、
聖徳太子もかくやというほど巧みに耳を使い分けていたらしく、
名前が出た途端に木刀を掴んで歩み寄ってきた。
「何が一応だ! お前ら、俺を差し置いてラーメン食べに行くつもりたぁいい度胸じゃねェか」
「お前は言わなくても来るからな、だから一応と言ったんだ」
「けッ」
とにかくこれで一応全員に声をかけたことになり、
今日の仕切り役である醍醐は先頭に立って歩き出す。
彼は決して思慮の浅い男では無いが、
やはり真面目を絵に描いたような生徒会長を寄り道に誘うのは無理があったという引け目からか、
この時は至極あっさりと葵に別れを告げた。
「それじゃな、美里」
「ん? 葵は行かないの?」
しかし、一人寂しそうに立ち尽くしたままの葵に、小蒔が立ち止まる。
「あ、あぁ、美里は──」
チャンスは今しかない。
醍醐を遮るように龍麻は打って出た。
「行こうよ、美里さん」
「え、えぇ──そうね。たまには」
「む、しかし──」
「ほら行こうぜ」
何か言おうとする醍醐を強引に説き伏せる。
納得がいかない様子ながらも歩きはじめた醍醐の足が、また止まった。
うやむやにするために勢い良く踏み出していた龍麻は、もう少しで醍醐の背中に突っ込みそうになる。
「ちょっと待った──ッ!!」
「……この声は」
どこかうんざりしているようにも聞こえる小蒔の声に重なるように、勢い良く教室の扉が開いた。
そこにいたのは、はたして隣のクラスの遠野杏子だった。
眼鏡の奥の瞳を好奇心で輝かし、仁王立ちで扉を塞ぐ。
「あんた達、ちょっとあたしの頼みを聞いてみる気は無い?」
「けッ、遅かったな。俺達ゃラーメンを──」
「あんたにゃ聞いてないわよ。どう? 緋勇君?」
葵と醍醐以外の視線が龍麻に集まる。
それらを束ねると「断れ、断れ」と書いてあるのが解ったが、
この、どちらが自分のクラスなのか判らないくらい頻繁にC組に来ている少女と龍麻は、
無下に断れるほど知らない仲では無く、二つ返事で頷くほど仲が良くも無かった。
「え? あ、ま、まぁ、聞くだけなら……」
結局、消極性に満ちた返事をした龍麻に、二つのため息がこぼれる。
ひどい罪悪感に囚われた龍麻は、慌てて左右を見渡した。
京一は上を、小蒔は下を向いて、新しいお人好しの友人を嘆いている。
龍麻が当てにならないと知った二人は、仕方なく自ら首を振って意志を示した。
「ボクはいいよ……」
「あ、なに、桜井ちゃん、その態度。らしくないなぁ」
「だって……」
「お前の頼みって絶対ロクなことにならねぇ気がするんだよ」
珍しく京一の言葉に小蒔が頷いている。
滅多なことでは見られないその光景に危機感を覚えた杏子は、新しい味方に助けを求めた。
「ひっどーい、何てこと言うのよ。そんな事ないわよ。ね、緋勇君」
「そう……かも……ね……」
「解ってねぇな、緋勇。こいつを普通(の女だと思ってると酷い目にあうぜ。
特ダネの為ならお前だって売られかねねェ」
更に慎重に言葉を選ぶ龍麻に、京一は肩に手を置いて諭した。
横では小蒔がうんうんと頷いている。
「なによッ。あたしの話とラーメンとどっちが大事だっていうのよッ!」
「……」
言わずもがなのことを言った杏子に、白けた視線が集中する。
圧倒的不利な状況に、杏子は遂に切り札を出さざるを得なくなった。
「もういいわ、解ったわよッ! あたしが皆のラーメン奢ってあげる。それでいいでしょ?」
一行の間を沈黙が包む。
しかしその表情は様々で、醍醐は驚き、葵もわずかながら目を見開いている。
小蒔も驚いてはいたが、どちらかというと京一の表情に近かった。
そしてその京一は、諒解するや否や満面の笑みを浮かべ、
場違いなほど陽気なバカでかい声で杏子の肩を叩いた。
「なんだアン子、そうならそうと早く言えよ、全く水臭ェな。
なァに、任せとけ。どんなモメ事だろうとこの蓬莱寺様が一発で解決してやるからよ」
「ホントッ!? やっぱり京一君は頼りになるわね。よッ、真神一の伊達男ッ!」
「わっはっは。苦しゅうない、良きに計らえ」
とどめとばかりにたたみかける杏子に、京一の機嫌はすっかりメーターを振り切ったようだった。
「ッたく、自分が最初に乗せられてどうすんだよ……」
ぶつぶつ言いながらも、小蒔も笑っている。
その顔が早くもメニューを選んでいるように見えるのは、自分の目が曇っているからだろうか。
そんな事を考える龍麻に、醍醐が肩をすくめてみせた。
「まぁ正直な所、俺も全く気にならない訳じゃないんだ。緋勇、お前はどうだ?」
「う〜ん……聞かないことにはなんともな」
「じゃ、決まりだね。行こ、早くしないとあの二人に置いてかれちゃうよ」
二人が話している間に、京一と杏子は遥か先に行ってしまっていた。
小蒔に苦笑して頷いた龍麻は、この間食べたのは何ラーメンだったか思い出そうとしていた。
今日は違う種類に挑戦してみるために。
「あ、犬神センセーッ!」
校門まで来た所で、先頭を歩いていた小蒔がいきなり手を振り出した。
数メートルほど向こうから、呼ばれた人物が歩いてくる。
白衣を纏った壮年の男性は、彼らの生物の授業を担当している犬神杜人と言った。
授業は要点を抑えてはいるものの、何しろその喋り方がやる気の無いように聞こえるため、
あまり生徒の評判は良くないようだった。
特に、龍麻の隣にいる木刀を持った男などには。
「なッ、何で呼ぶんだよ、馬鹿小蒔! 俺はあいつがだい──」
「だい──なんだ? 蓬莱寺」
低い、ぶっきらぼうな声が重なる。
まだ龍麻達のところまでは少し距離があるのだが、この生物教師は耳は良いらしかった。
「げッ、いつのまに……い、いやだな、もちろん好きに決まってるじゃないですか」
それに鼻を鳴らしただけで答えた犬神は、じろりと龍麻達を見渡す。
「なんだお前ら、集団でどこかへ行くのか?」
「えっ、ええ、まぁ」
もちろんラーメンを食べに行くとも言えず、口を濁す醍醐に犬神はまたも鼻を鳴らしたが、
それ以上詮索してくることもなかった。
「ふん、まぁとやかく言われなきゃならん歳でもないだろうしな」
「あッ、そういえば先生、さっき廊下でミサちゃんと話してませんでしたか?」
杏子もミサも、犬神が担任を受け持つB組の生徒なのだから話をしても何の不思議もない。
それでも、京一にはひどく不吉に思えたようだった。
「裏密と犬神……世界を破滅させる計画でも練ってんのか?」
「なんか言ったか、蓬莱寺」
「い、いえッ、何も」
「ふん。裏密とは──ただちょっと、面白い話を聞いただけだ」
「面白い?」
「良くは解らんが、未(の方角に獣と禽(の暗示が出ているそうだ」
暗示と言う言葉を聞いて、一同は顔を引き締める。
先日花見に行く前に聞いたミサの助言は、結果的にせよ見事に的中していたからだ。
それも、「鮮血を求める凶剣」という具体的な形で。
「未……って、南西ね。なるほど。他には何か?」
「今は陰陽系の占星術に凝ってるとか言ってたな」
「獣と禽……ねェ。相変わらずさっぱりだな、あいつの言ってることは」
それは龍麻も同感だったが、獣と禽という言葉は覚えておいた方が良さそうだった。
そんな龍麻を意味ありげに見やった犬神は、ふと思い出したように白衣を探り出した。
「あァ、それから緋勇。裏密がお前にこれを渡してくれだと」
それは奇妙な布切れだった。
ただの鉢巻のようにも見えるが、ほぼ中央に眼のような物が描いてあり、
なんとなく不気味な印象を与える。
受け取った龍麻は当然の質問を発した。
「なんですか? これ」
「さァ……な。確かに渡したぞ。それじゃな」
「さようなら、先生」
去って行く犬神に一人葵が頭を下げる。
その後姿に向かって、杏子が呟くともなく呟いた。
「なんか……犬神先生ってただものじゃない感じがするのよね。
一度取材させてもらうべきかも……」
「何悩んでんだよ。さっさとラーメン食いに行こうぜ」
もはや頭の中はどんぶりとその中身しか無い京一に急かされ、
龍麻達は足早に学校を後にしたのだった。
「らっしゃいッ」
威勢の良い店主の声が龍麻達を出迎える。
「しょうゆを六つ……」
「俺味噌の大盛ッ!」
「ボク塩バターにトッピングでコーン乗せて。あ、ボクも大盛がいいな」
入店と同時に最も安いメニューを頼もうとした杏子の目論みは、あっさりと崩されてしまっていた。
「アンタ達……なんでそんなスラスラ頼めるのよ」
「だって来る途中ずっと考えてたもん」
「はぁ……英文もそのくらいすらすら言えたらマリア先生も喜ぶでしょうね」
そう嫌味を言うのが精一杯の杏子だったが、食の権化と化している二人が耳を貸すことは無かった。
笑いながら席についた龍麻もメニューを眺める。
どうせ奢りなら高いやつ……と思っていると、
杏子が一心にこちらを見つめているのに気がついてしまった。
その必死すぎる表情に、心が折れる。
「えっと……俺はしょうゆで」
「なんだお前、そんな図体で大盛じゃねぇのかよ」
「あ、あぁ……今日はあんまり腹減ってなくて」
見れば醍醐も同じように無言の圧力を受けてたじろいでいた。
「お、俺は……俺もしょうゆを」
「なんだ醍醐(、お前までどうしたんだ? カルビの大盛がお前の定番だろ?」
「な、何、たまには違う物を……緋勇と同じ物を食ってみるのも悪く無いと思ってな」
「けッ、気持ち悪ィな。食いもんくらい好きなの頼めばいいじゃねぇか」
龍麻と醍醐は期せずして視線を交わし、ため息をついた。
「そういえば醍醐くん、知ってる? ……佐久間が入院したって」
そう切り出した杏子に、醍醐は思わず立ちあがっていた。
店が揺れたような錯覚に、他の客がぎょっとする。
「何だとッ!!」
「おい、落ちつけよ」
「あ、あぁ、すまん。遠野、それは本当なのか?」
勢い良く腰を下ろした醍醐に、椅子が悲鳴を上げた。
普段は自分の体重が与える影響を充分に承知している醍醐も、今はそれどころでは無かったのだ。
「あたしも今日入手したばかりの情報なんだけどね」
「道理で姿が見えねぇと思ったぜ。けどよ、自主休講(じゃねェのか?」
「ううん。本当みたい。なんでも、渋谷にある高校の連中と喧嘩したって。
相手は五、六人いたらしいんだけど、結局佐久間と相手が三人病院行きだって。
……職員室でも問題になってるわ」
最後の情報は、言うべきかどうか迷った末のものだった。
しかし、今更隠したところで状況が好転するはずもない。
醍醐もそれは解っていたが、呻かずにはいられなかった。
「最近のあいつを見ていると、何かに苛立っているようだった。
俺が、もっと早く相談に乗っていれば……」
「あいつは相談なんてするタマじゃねぇよ。
ま、殺したって死ぬような奴でもねぇし、大丈夫だろ。それより頼みってなんだよ、アン子。
まさか新聞部に入れってんじゃねェだろうな」
「あら、それもいいわね。……どう? 緋勇君」
杏子は男──それも中年親父のように足を組んでいた。
危なげなくどんぶりを掴んで豪快に食べている様は、これ以上無い程似合っている。
そして、組んだ方の足をぱたぱた振っている為にスカートの裾がはためいていて、
目のやり場に困っていた龍麻は急に質問されて全く考えずに答えてしまった。
「俺!? かッ、考えとくよ」
「本当ッ!? 言ってみるモンね。良い返事、期待してるわよ」
「バカ、こいつは嫌っつったってハイって聞こえる女だぞ。
断るなら徹底的に断らねぇとダメだって」
慢性人手不足の新聞部部長は、新しい人材は人間でさえあれば能力は問わないようだった。
適当な返事が思いもよらない危険を呼んだことに今更気付いた龍麻に、京一が蜘蛛の糸を垂らす。
もっともその糸は今食べている麺よりも細く縮れていて、まるで助けにはなりそうもなかったが。
「あら、失礼ね。せっかく緋勇君が前向きに考えてくれてるのに、
水を差すようなことをしないでちょうだい」
「こいつと付き合うなんて命がいくつあっても足んねェぜ。
どうせ今だってくだらねェ事件に首でも突っ込んでんだろ」
「くだらないとは何よ、あんたこそ、少しは新聞くらい読みなさいよね」
そう言って杏子は、店に置かれていた新聞を広げる。
杏子が指差した先には、
「渋谷住民を脅(かす謎の猟奇殺人事件、ついに九人目の犠牲者」
と大きな字で見だしが打たれていた。
新聞をひったくった京一は、勢い良く紙面を広げる。
「全身の裂傷、眼球の損失、内臓破裂……ひでェな、こりゃ」
「そういえば、その事件って確か──現場に必ず鴉の羽根が散乱してるって」
「そう、さすが美里ちゃんは良く読んでるわね」
改めて龍麻は記事に目を落とした。
記事には確かに鴉の羽根のことが書かれてあり、
読んだ限りでは相手が鴉では警察もお手上げのようにも書いてあった。
「まさに、猟奇的、と言った感じか……」
うそ寒そうに首をすくめる醍醐に、皆頷く。
連続殺人というだけでも縁遠くあって欲しいのに、
得体の知れない何かが絡むなど、たまったものではなかった。
しかし杏子がこんな話題を振ってきたことに、勘の良い小蒔は不吉なものを感じていた。
「まさかアン子、この犯人を捕まえるの手伝えって言うんじゃないよね!?」
「うーん、アンタ達なら出来るかもしれないけど、あたしもそこまで無茶じゃないわよ。
それに、犯人を捕まえるのは公僕の仕事。新聞部(の仕事は真相の究明よ」
「同じようなモンじゃねェか」
「しかし、遠野が自分で言った通り、これは警察が捜査をしているんだろう?
俺達一介の高校生が首を突っ込むことじゃないだろう」
杏子は一斉に反対する京一達にも動じることなく説得を始める。
「いい、醍醐君。この事件、安易に猟奇的、なんて言葉で片付けて欲しくないわ。
……皆、もうこの前の事件を忘れたの? 旧校舎の化け物。刀を持った殺人鬼。
そんな不可思議な(事件を警察に任せておけると思う?」
「おいしいってお前……」
「とにかく、あたしが調べたことを教えてあげるから、それを聞いてからにしてよね。
それくらいはラーメン代に入ってるわよ」
何しろここにいる全員、葵までもが杏子の奢りでラーメンを食べているので、
それを持ち出されると弱かった。
「何年か前に新聞に載った、品川で起きた事件。
巣立ちに失敗して路上に落ちた鴉の雛の近くを主婦が通って親ガラスに襲われてるわ。
あと、北海道の牧場で放牧中に出産された子馬が
生きたまま鴉の集団に食い殺されたって話もあるわね。
いい? 当たり前だけど、鴉は基本的に人を襲うのは雛の養育期の頃、
それも雛を護ろうとする時くらいよね。
でも今回の事件は、鴉の捕食行動との共通点が多すぎるのよ。
例えば──眼球が損失しているところとか」
「それって……カラスが人を──食べてるってコト? まさか、そんなこと」
ねぇ、と顔を向ける小蒔に、龍麻は頷いてみせる。
杏子の上げた二つの事例も、結びつけるにはいささか無理があるように思われた。
馬と人間の違いもあるし、時期もまるで異なる。
しかし、杏子は諭すように首を振った。
「ううん、でも、あたしの導いた結論は──鴉しかないの」
「鴉のやり方を真似した人間の仕業ということは?」
「そう、あたしもそこが引っかかるの。さっきは鴉が人を食べるって言ったけど、
どうも渋谷の事件は明らかに人を殺すことを目的としてる。
食べたのは、その副産物に見えるのよ。でも」
「でも?」
「あり得ない……と思うでしょうけど、もし、もしよ。
鴉が統一された意志の元で動いているとしたら、今東京都内にいる鴉の数は約二万羽。
それが一斉に人間を襲ったら……」
「で、それを確かめるために俺達の力が要るって訳か」
「そういう事。ね、お願い。まずは渋谷に行くの付き合ってくれない?」
両手を合わせて拝む杏子に、龍麻達は顔を見合わせる。
そこにお互いに不安が浮かんでいるのを確認していると、
一人そうではない京一が急に思いついたように口を開いた。
「なぁアン子。さっきお前、統一された意志っつったよな。
それってよ、統一してんのは鴉自身なのか? それとも……」
「鋭いわね。あたしは──勘だけど、そっちの線の方が濃いと思ってるわ」
「どういう事だ?」
「つまり──誰かが鴉を操ってるんじゃねぇかってこった」
「そんな、人が鴉なんて操れる訳──」
「もしかして──『力』を持った人が?」
否定する小蒔を遮るように言った醍醐に、杏子は慎重に、しかし確信を持って頷いた。
「……そう──ね。美里ちゃん達のは旧校舎で何かがあってからみたいだけど、
もしかしたら──美里ちゃん達の他にもいるかもしれない」
杏子の導いた結論は、龍麻達を調査に赴かせる餌かもしれなかったが、
そうさせるだけの説得力をもまた有していた。
「どうする? 緋勇」
「そうだな……ラーメン奢ってもらったしな」
それに、自分達が行かないと言っても、多分杏子は一人で行くだろう。
そうなった時に彼女が無事でいられるとも思えず、
話を聞いてしまった以上、放って置く訳にも行かなかった。
しかし、龍麻は顔を輝かせる杏子に厳しい顔を向ける。
「でも、遠野さん」
「な、何よ」
「遠野さんは、新宿(に残ってくれるかな」
「な、何言ってるのよッ! これはあたしが追ってる事件(なのよッ!!」
「──だけど、遠野さんは──美里さんと桜井さんも──危険過ぎる」
いみじくも杏子が言った通り、鴉の殺傷力は決して侮れないものであるし、
数を恃まれては龍麻達でも庇いきれるかどうかわからない。
とても連れていけるものではなかった。
小蒔の反撃を覚悟していた龍麻だったが、立ち塞がったのは意外にも葵だった。
詰めよろうとする小蒔を制して、言葉を選ぶように語りかける。
「緋勇君、私……ずっと考えてるの。私の『力』は一体……何の為にあるのか。
皆と一緒なら、きっとその答えが見つかる──そんな気がするの」
「でも──」
「大丈夫だよッ。葵のコトはボクが護るし、緋勇クンだって護ってくれるんでしょ?」
「それは……そうだけど」
「はい決まりッ。んじゃアン子は悪いけど学校で待っててよ。なんかわかったら連絡するから」
結局、強引に押し切られる形で受け入れざるを得なかった龍麻だった。
よほどに憮然な顔をしたのか、京一が笑って肩を叩く。
「ま、諦めるんだな。小蒔はああなったら聞かねぇし、
美里だってああ見えて一回言い出したら強情だからよ」
「ホントに悪いわよ。いい、ラーメン奢ったんだからちゃんと報告してよねッ。
手抜きだったりしたら許さないから」
水を飲んでようやく気分を落ちつけた杏子が、檄(を飛ばす。
それに軽く肩をすくめた京一は、渋谷のどこから調べてみれば良いか訊ねた。
「んでアン子、お前どっから行くつもりだったんだ?」
「代々木公園。あそこはもともと、都心の鴉の半分以上が寝床にしてるの。
最近は更に増えたって話も聞くわ」
「そうか……それじゃ、まずは代々木公園を目指すとするか」
「頼んだわよ」
最後の最後まで未練がましい表情をして見送る杏子に苦笑いで返した龍麻は、
ラーメンの代金にしては高い気もする調査行へと赴いたのだった。
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