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 代々木公園についた一行は、その荒涼たる光景に言葉を失っていた。
都内でも有数の面積を持ち、「都心で一番広い空が見られる」が謳い文句であるはずのこの場所が、
まるで人々が死に絶えた街に公園だけが残っているかのように人の気配が無かった。
単に誰も居ない、というだけで無い、もっとそれ以上の、
瘴気めいたものさえ感じさせる場所と成り果てていたのだ。
それは誰でも容易に感じ取れるほどで、特に氣の流れに敏感になっている龍麻達にとっては、
生理的な嫌悪感さえもよおさせるものだった。
「さすがに……人気ひとけは無いな」
「あァ。オレ様も出来るだけ人が近づかないようにはしてきたんだけどな、
それでも面白半分や胆試し気分で入るヤツはたくさんいるし、入ったヤツが何人か出て来てないらしい。
おかげで昼間は誰も寄りつかなくなっちまってる」
 半ば独語する龍麻に、雨紋が幾分声を低めて答える。
そのすぐ後ろを歩いていた葵が、怯えたように囁いた。
「緋勇くん。何か……視線を感じない?」
「あぁ……さっきのと同じ氣だ」
「憎しみといきどおりに満ちた空気……」
 龍麻は大まかに不快な氣としか感じ取れなかったが、葵にはより具体的に解ってしまうようだ。
少し顔色が悪いのも、その影響を受けすぎてしまっているからだろう。
彼女達が望んだとはいえ、葵と小蒔を伴って来たことを悔やんだが、今更どうにもならない。
それに、そう指摘したとしても一層の反発を買うのが落ちだったろう。
彼女達のつよい意志はそれ自体が貴重なものであるが、
龍麻としては彼女達に気取られないようにしつつも注意を払わなくてはならなかった。
もちろん、それを負担などとは全く思わない。
むしろ女性を護る、という男の根源的な欲求を満たされ、喜びでさえあった。
 ごくさりげなく歩幅を落とし、肩を並べた龍麻に、葵が笑顔を浮かべる。
明らかに無理をしているのがありありと解る笑顔だったが、
龍麻はもう小さく頷いただけで何も言わなかった。

 滲んだ血の色をした空に、漆黒の使者が群れなしていた。
出発する前に杏子が言ったように、まさしく東京中の鴉がこの一箇所に集まっているかのようだった。
彼らに罪はないとしても、その鳴声は一行にどうしようもなく寂寥と恐怖感を与える。
「しかし、こりゃすげェ数のカラスだな」
「ちょっと……怖いね。前来た時はこんなじゃなかったのに」
「あァ……奴がここに来るまではな」
 生まれた土地をけなされた、そう思った訳ではないだろうが、
雨紋はやや語尾を強めて小蒔に答えた。
その語勢のまま、今度は全員を見渡して告げる。
「あンたらも気を引き締めていけよ。──これ以上、関係ねェ人間が死ぬのを見ンのはごめんだ」
「雨紋くんって、優しいのね」
「オ、オレ様はただ──自分の生まれ育ったこの街を、この手で護りたい──それだけさ」
 葵に言われて雨紋は焦っているようだった。
龍麻にはそれがおかしくもあり、面白くないとも心の片隅で思う。
「ん? どしたの?」
 急に声をかけられて驚き、龍麻は声の方を向く。
微妙な表情の変化を面に出してしまっていたのか、小蒔が不思議そうな顔をしていた。
「な、なんでもない。気をつけなきゃな、って思っただけ」
「ふーん……?」
 あやふやな答えに小蒔は納得していないようだったが、
龍麻は強引に話題を打ちきって先へと進んでしまった。
 雨紋に案内された一行は鉄骨が組まれた広場に到着した。
 赤茶けた色の足場はまだ組み立て途中にも関わらず、妙に朽ちた印象だった。
その足場のほとんどに、隙間無く鴉が止まっている。
このただなかに唐栖が居ると解っていても、足を踏み入れるのにためらってしまうのは仕方がなかった。
それほどまでにこの人工の止まり木は異界めいた印象だったのだ。
「ここは?」
「塔が立つらしいな。今はカラスの騒ぎで工事が止まっちまってるけどよ」
「うわ……また一段とカラスが増えたね。これなら人間の一人や二人食べちゃうかも……」
 縁起でもないことを言う小蒔に、京一が顔をしかめる。
それをフォローするように醍醐が黒鳥の大群を見渡して言った。
「しかし、今の所は襲ってくる気配はなさそうだな。……あの唐栖と言う男が命令しているのか?」
「……多分な。ヤツはこの上にいる。高みから偉そうに地上を見下ろしてンのさ」
 憐憫の細片が混じった口調で醍醐に答えた雨紋は、やや表情を改めて龍麻に問いかけた。
「緋勇っていったっけ。あンた、高い所は平気だろうな?」
「多分」
「まぁ、ナントカと煙は高いトコが好きって言うからな」
「それって緋勇クンに失礼じゃない?」
 龍麻はじろりと睨んだだけで何も言わない。
その軽妙なやり取りに小さく笑った雨紋が、笑みを口の中に残したまま言った。
「あンたらに高い所が怖くなくなるアドバイスをしてやるよ。……下を見ンな」
「アホか。そういう問題かよ」
「ビビったりしなけりゃ落ちないもんさ」
 のん気なことを言う雨紋は、意外と龍麻達と波長が合うのかも知れない。
早くも京一達と溶け込んでいる雨紋に、醍醐が呆れたように首を振った。
この巨漢には鉄骨の足場はいささか細いらしく、慎重な足取りで隊列の一番後ろをついてきている。
自分の足踏みで鉄骨を揺らしてしまわないようにしながら歩を進める題醐は、
渋谷の街で引っかかっていたことを思い出して訊ねた。
「ところでお前、あいつ唐栖とは知り合いだって」
 雨紋は一瞬返答を詰まらせたが、もはや避けて通れない話題だった。
手にした槍で軽く肩を叩くと、幾分声を低めて話始める。
「あいつは──二ヶ月前にオレ様のクラスに転校してきたンだ。
もちろん初めからああだったワケじゃない。
転校してきたンだから友達もほとんどいなかったみてぇだが、オレ様とは席が近いから良く話をした。
変わり始めたのはここ一月前からだな」
「急にか?」
「あァ──あの日、この公園にオレ様は呼び出された」
 雨紋の脳裏に記憶が甦る。
その映像には、苦い色のフィルターがかかっていた。
「こっちだよ、雨紋。随分遅かったね。まぁ、僕は待つのは嫌いじゃないけれど。
……どうしたのかって? ……ククク、雨紋、君は神の存在を信じるかい?」
「神──だと? ンなもん、いるわきゃねぇだろうが」
「いいかい、雨紋。神は二種類の人間を創り出した。『力』を持つ者と持たざる者。
そして僕は選ばれた。『力』持つ者として──」
「『力』だと? 雨紋、さっきもそうだが、唐栖は本当にそう言ったのか?」
 雨紋がそう言ったところで、醍醐が鋭い声で遮った。
もちろん龍麻達も聞き過ごすことなど出来ない、この四月から彼らを結びつけて離さない事象。
それが今日会ったばかりの雨紋の口から語られ、
また連続猟奇殺人事件の犯人とおぼしき人物も口にしたとなれば、平静でいられるはずもなかった。
「あァ」
 簡潔に頷く雨紋。
その態度は、彼もまた『力』について知悉ちしつしていることを物語っていた。
「じゃあ、雨紋の槍から見えたのも……」
 龍麻がそれを口にすると、またもあっさりと雨紋は頷いた。
「あァ。オレ様も気付いたのはほぼ奴と同じ頃だった。
さっきの天野サンと同じように鴉に襲われていたレディを助けた時にな。あンたらもか?」
「あぁ。俺達も……そうだな、丁度一ヶ月前くらいか。俺達は四人まとめて気付いたがな」
「四人? あんたらは五人いるだろう?」
「ああ……緋勇こいつは違うんだ。
緋勇は最初から……俺達の高校に転校してきた時から『力』を持っていた」
「そうか……道理でな。渋谷ん時も、あンただけ氣の大きさが違ったからな」
 得心したように首を振る雨紋の後ろで、京一が軽く肩をすくめた。
「全く、今年になってから訳のわからねェことばっかり起こりやがる。
人間をカラスの餌にしたがる奴はいるわ、旧校舎でおかしなコトに巻きこまれるわ、
変な技を持った男は転校してくるわ……なぁ緋勇」
「本当だな」
「お前のコトだよッ! ッたく、他人事みたいにしてんじゃねェよ」
「あ、そ、そうか。……悪かったな、変な技で」
 素で他人のことだと思っていた龍麻は、空の色に劣らないくらい顔を赤くする。
先頭を歩いていた雨紋が、振り向きもせずに笑い出した。
「はははッ、あンたら本当に面白いな。
……オレ様も、唐栖あいつとあンたらくらい仲良くできていたらな」
「……雨紋」
「あァ、解ってる。今のあいつに──同情は禁物だ」
 自らに言い聞かせるように呟いた雨紋は、
一行の先陣を切って唐栖が待つ最上層へと足を踏み入れた。
最後のきざはしに辿り着いた京一が、半ばほど沈んでいる夕陽を背に不敵な笑みを浮かべる。
まるで緊張を感じさせない態度が、憎らしいほどに決まっていた。
「よし……んじゃ、野郎をブチのめしに行くか」
「美里に桜井……本当に引き返す気はないのか?」
「醍醐クンくどいッ! 女にだって二言はないの!!
心配してくれんのは嬉しいけどね、ちょっとし過ぎじゃない? ね、緋勇クン」
「うーん、でも……顔に傷ついたら大変だから気をつけてよ」
「だーいじょうぶだって! もうちょっと信用してよ!」
「信用ったって……」
「あーもう、この話は終わり! いいから行こ!」
 頼みにしていた龍麻にまで心配さうらぎられて、小蒔は大きく頬を膨らませてしまう。
小さな肩を思いきりいからせる小蒔に、醍醐と龍麻は顔を見合わせ苦笑するしかなかった。

 一番奥に、唐栖はいた。
手すりも何も無い足場の上に危なげなく立ち、龍麻達をじっと見つめている。
その周りには何羽かの鴉が旋回していて、主人を護っているようであった。
「ククク……待っていたよ。ここから君達を観察しながらね」
「悪趣味な野郎だな。人を見下ろすのがそんなに楽しいか?」
 うんざりするように吐き捨てた京一の台詞も、唐栖は意に介さない。
「もちろんだよ。ここからは、この汚れた世界が良く見渡せる。
神の地を冒涜せんと高く伸びる高層ビル、汚染された水と大気、
そしてその中を蛆虫の如く醜く蠢く人間たち。もはや人間という生き物に、この地で生きる価値はない」
「そういう手前ェだって人間じゃねェか。勝手なことばっか言ってんじゃねェよ」
「僕が? 君達と同じ人間?
ククク……全く笑わせないでほしいね。僕は、神に選ばれた存在なんだ。
そして僕はもうすぐここから飛び立つ。堕天使カラスたちを率いて、人間を狩るためにね」
 狂信的な響きを含んだ声は、ただ嫌悪だけを一行に与える。
たまりかねたように叫んだのは、この中で最も唐栖に近かった雨紋だった。
「いい加減にしとけよ、唐栖。この世に選ばれた人間なんていやしねェ。
テメェだってわかってンだろ。この街が腐ってンなら、これからオレ達で変えていけばいいじゃねェか」
「ククク……相変わらず甘い事を言うんだね、雨紋。
──この東京まちで、一体何を信じろって言うんだい。
日々起こる殺人、恐喝、強盗。犯罪の芽はもはや摘んでも摘みきれないほど溢れている。
……粛清が必要なんだよ、この東京まちには」
「唐栖……」
「黒い水に一滴澄んだ水を垂らしたところで色が変わるはずもない。
……雨紋。君こそどうして僕に従わない? せっかく神に選ばれた『力』があるというのに。
そして君達もだ。特に君──美里 葵」
「どうして……私の名前を?」
 突然名前を呼ばれ、葵が身を慄わせる。
今日まで見た事も無い人物、それも大量殺人の首魁に己を知られているなど、
そういったものと全く無縁の生活を送ってきた葵にとってはさぞおぞましいものだったろう。
そしてその怯えを糧とするかのように、唐栖は滔々とうとうと語った。
こども達が教えてくれたのさ。僕の可愛いこども達がね。
いいかい、美里君。僕達の『力』は、東京このまちを浄化する為に神から与えられたものだ。
そして──君のその美しい姿は、この不浄の街に降り立つ救世主たる僕の傍らにこそ相応しい。
そう思わないか? そこの君も」
「御託はそれだけか」
 静かに、そう短く口にしただけの龍麻に、仲間達は等しく息を呑んだ。
膨大な量の圧縮された怒りが、指向性の殺気となって唐栖に向けられている。
それは佐久間に絡まれた時でさえ全く見せなかった、初めて見せる深甚な怒りだった。
ただ唐栖だけが、平然とそれを受け止めている。
「ククク……強気でいられるのも今のうちだけさ。
すぐに全身をむごたらしく僕のこども達に食われて、惨めたらしく命乞いをするようになる」
「美里……こんな奴の言う事を真に受けるな」
「ええ、醍醐くん、大丈夫。……私は、あなたとは行けません」
 その顔は夕焼けに照らされていてもなお青ざめていたが、葵はきっぱりと拒絶した。
 それが、闘いの開始の合図だった。
怒りに支配されている龍麻が、一気に飛び出す。
それは戦術的な面からも正しい行動ではあったが、あまりの素早さに一人突出することになってしまった。 
「ちッ……あの馬鹿、こんな時だけ妙に早ぇッ!」
 背後を護ろうと京一が後を追うものの、
何しろ肩幅ほどしかない鉄骨の上ではどうしても地上と同じようにはいかない。
恐らく唐栖しか見えていないであろう龍麻との差はたちまち開いてしまった。
近づいてくる龍麻を冷静に見据えていた唐栖は、動じる色も見せず笛を吹く。
短く、攻撃的な音色に導かれ、何羽かの鴉が龍麻目指して襲いかかろうとした。
「緋勇ッ!」
 京一の叫びよりも早く、鴉が背中目がけて突っ込んでいく。
嘴による攻撃だけでも、この不安定な足場ではバランスさえ崩してしまえば致命傷になりうる。
焦りに駆られた京一が木刀を投げつけようかとさえ思った時、
それよりも遥かに速い物が顔の横の空間を飛んで行った。
次の瞬間断末魔の声を残して、鴉が落ちていく。
その身体には、矢が刺さっていた。
「小蒔か!」
「ヘヘッ、皆の背中はボクが護るから大丈夫だよッ!」
 小蒔はそう誇らしげに叫び、再び矢をつがえる。
さほど慎重に狙いを定めたようにも見えないその射撃は、しかし見事に新たな鴉を射ぬいた。
素早く、しかも小さな鴉に矢を命中させるのは容易なことではない。
それをいとも簡単にやってのける辺り、流石に弓道部の部長というだけはあった。
 そして唐栖はと言えば、地の利を活かし、
下僕たる鴉に近づいてくる者から背中を襲わせて各個撃破しようとしていたのが、
思わぬ伏兵の出現に狼狽していた。
先にあの弓を持っている女を倒すか、それとももう数歩の距離まで近づいてきている男を倒すか。
その迷いが、勝負の帰趨きすうを定めた。
新たに二羽、忠実な下僕が矢によって落とされていくのを見て、
唐栖は小蒔に狙いを定めて笛を吹こうとする。
そこに飛ぶように近づいてきた龍麻が、充分に体重を乗せた重い一撃を唐栖の腹に見舞った。
「がは……っ」
 鴉を操る『力』は得ていても、肉体そのものは鍛えてもおらず、
普通の人間となんら変わるところのない唐栖には氣を練った打撃でなくとも充分だった。
たちまち悶絶し、鉄骨から落ちそうになる身体を龍麻が支える。
その手から笛が滑り落ち、地面と衝突して最後の音色を奏でた。
「見て……カラスが皆飛んでく」
 小蒔の言った通り、響き渡った澄んだ音を合図にしたかのようにして、
公園中にいた鴉が一斉に飛び立つ。
その激しい羽音は、龍麻達は振動で落ちないよう鉄骨にしがみつかねばならないほどだった。

 渋谷の街を震撼させていた事件の首魁を倒した龍麻達は、広場へと戻ってきていた。
鴉達は一羽たりともおらず、初めて足を踏み入れた時に感じた、瘴気めいたものも消えうせている。
いずれ鴉達は戻ってくるにしても、もう唐栖に操られるようなこともないだろう。
その唐栖は、龍麻に担がれて鉄骨を組んだ足場から降ろされ、地面に横たえられていた。
「うっ……うぅ……」
「唐栖……」
「さっきまでの邪氣が嘘のようだな」
「あァ……もうあの『力』を使う事も出来ねェだろう。……唐栖よ、人間もカラスも同じさ。
薄汚れて堕ちていくのは簡単さ。でもよ、心まで堕ちなきゃ、幾らでも飛びあがれる翼を持っている」
 雨紋の独語めいた台詞にも、唐栖は反応しなかった。
気を失ってはいないようなので、雨紋の頼みもあり、
ここは彼に後を任せ、龍麻達は引き上げることにした。
無論彼が九人もの人間を殺害したという事実は消えないが
警察に言っても相手にされる訳もなく、後は彼の良心に委ねるしかない、
というのが彼らの出した結論だった。
強大な『力』を持っていても、精神的には未だ高校生でしかない彼らには
人生を積み重ねることでしか得られないものが欠けていたし、
やや中途半端な処置でも、他に取れる手だてはなかった。
 唐栖の様子が安定しており、これ以上事件を引き起こせなくなっていることを確かめた龍麻は、
立ちあがり、誰に言うともなく呟いた。
「他にも、唐栖や俺達のような──人間がいるんだろうか」
「さァな。けどよ、何が原因か知らねェが、俺達だけとは──思えねェな」
「うむ……」
 龍麻達三人の会話を聞いていた雨紋は、努めて明るい声を出した。
「んじゃ、オレ様も帰るとすっか」
「もう行っちゃうの?」
 小蒔の言葉に、雨紋は寂しそうに首を振る。
「……唐栖の後始末も付けねェといけねェしな」
「その後は?」
 小蒔に代わって妙に急いた問いを発したのは、龍麻だった。
その言外に含まれた意味を感じ取ったのか、雨紋の答えは否定的なものではなかった。
「なんだ、どうした? 別に考えちゃいねェけどよ。
……ま、今回は世話になったしな、なンかあったらあンたらを助けてやるよ」
「ああ、頼むよ。……よろしくな」
 差し出された手と顔を等分に見た雨紋は、やがて照れくさそうに手を握った。
龍麻はそれを力強く握り返し、自分達の街、新宿へと戻っていったのだった。

 こうして渋谷における連続殺人事件は無事終結した。
しかし、その立役者となった少年は、その功を誇るでもなく、陰鬱な表情を顔に刻んで歩いている。
 ついさっきまで行動を共にしていた仲間達は誰一人おらず、
龍麻一人で向かっていたのは、新宿にある彼の通う高校だった。
一人真神に残っているはずの杏子に事件の報告に行かねばならなかったのだ。
葵と小蒔は時間も遅いので良いとして、
京一と醍醐までも放っておけば勝手に帰るなどと無責任なことを言った挙句に逃げてしまったのだ。
杏子とはまだ知り合って二週間も過ぎてはいないが、その人となりは充分に伝わっている。
もともとは彼女が持ちかけて来た話題を、彼女に断りもなく解決してしまったとあれば、
怒るか、そうでなくても不機嫌になるのは明らかで、自然と足取りも重くなってしまうのだった。
しかし、どれほどゆっくりだとしても歩みは龍麻を確実に真神学園を近づけており、
やがて、もうすっかり黒く染まっている校舎が見えてきてしまった。
心なしか早くなった胸の鼓動に早くも怖れを感じつつ、意を決して校内へと入った。
部活動を行なっている生徒もほとんどおらず、
教師に見つかると説明が面倒くさいので素早く新聞部に向かう。
人気の無い廊下は、足音を嫌がらせのように増幅し、
幽霊など別に怖くもない龍麻を怯えさせた。
薄暗い電灯にさえ苛立ちを覚えながら、廊下に灯りが漏れ出ている部屋の前に立ち、
恐る恐る扉を開ける。
あと少しすれば校舎自体に鍵がかけられてしまうかも知れないというのに、
新聞部部長はのん気に新聞の原稿を書いていた。
「もう、遅かったじゃない。……あれ? 緋勇君一人だけ?」
「あ、ああ……もう遅いからさ、俺一人でいいやと思って」
「ふーん……何かヘンな事考えてるんじゃないでしょうね」
「そ、そんな訳無いよ」
「まぁいいわ。で、どうだったの?」
 上機嫌で尋ねる杏子に、龍麻はこの顔が後何秒続くのかと思わず計算してしまっていた。
いつでも逃げ出せるよう体重を後ろ足に移しながら、可能な限り簡単に、
かつ杏子の欲求は満足させるだけの情報を説明する。
本人の会話能力というよりも、心理的な圧力のせいでつっかえつっかえ話す龍麻の話を
杏子は大人しく聞いていたが、事件が解決されてしまったと知った途端、飛びかかって龍麻の首を締めた。
龍麻がバックステップする暇さえ与えない、完璧な不意打ちだった。
「なんでっすってェ! もう解決しちゃったの!?」
「ご、ごめん……成り行きってやつ……で……」
 半ば足を浮かせながら、龍麻はかなり本気で杏子の腕を解かねばならなかったのだが、
それでも力任せに振り払おうとしなかったのが、龍麻の失敗だった。
目の前の少女は、見た目からは想像もつかない殺人技を身に宿していたのだ。
「それで? 写真とか証拠とか、何か持ってきたんでしょうね」
「い、いや、そんなもん……ぐえ、無、い……ぐぅ」
 喉に指が食い込み、息が出来ない。
いくら氣を操る武道の達人と言えども、呼吸が出来なければ死んでしまうのは当然のことだった。
手足が痺れ、意識が遠くなっていく中、親指の感触だけが、いやにリアルだった。
「ど・う・し・て! あたしが見つけた特ダネを台無しにしちゃうのよッ!」
「ご、ごめ……ん……」
「いいッ! 今度同じことしたら、本当に怒るわよッ!」
「は……い……」
 今のが本当でなくて、どれが本当なのか、もう龍麻には考えることが出来なかった。
「全く……あれだけ念を押しておいたのに。
これじゃラーメン代がまるっきり無駄じゃない。
こうなったら後できっちりタダ働きしてもらわないとね。
……ほら、そんな所で寝てないで帰るわよ、緋勇君」
 何やら怪しい景色が眼前に広がり始めたところで、杏子は処刑を止めてくれた。
突然身体が重くなり、床に尻餅をつく。
死の縁から生還した龍麻は、大量の酸素を肺に送りこんだ。
心の底からの恐怖というものを初めて体験し、喋る事も出来ない有様の龍麻に、
死神の笑みを向けた杏子は鞄を差し出す。
家まで送っていけというのだ。
もう全く反抗することなど考えず鞄を持たせて頂いた・・・・・・・龍麻は、
影も踏まぬよう歩き出した杏子の三歩後ろをついて歩く。
 こうして、真神における殺人未遂事件もなんとか終結したのだった。



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