<<話選択へ
次のページへ>>

(1/4ページ)

 原稿は順調とはいえなかった。
ネタそのもののアピール性が一級とはいえないので、文章で補わなくてはならず、
そういったやり方はアン子のあまり得意とするところではないのだ。
だからできれば他の誰かに代わって欲しいと思うアン子だが、
部員一人の零細新聞部ではそれも叶わない。
アン子が原稿を書けなければ新聞が出ないだけのことで、
新聞を発行しない新聞部に存在意義が認められるとは到底思われない。
かくしてアン子は目を細め、唇を尖らせて、宿題よりも切実に机に向かうのだった。
 けれども、机に向かっていればいつかは文章が浮かぶのなら苦労はしない。
アン子は放課後からかれこれ二時間以上も定位置に座り続け、
なんとか読者の気を惹く文章をひねりだそうと試みていたが、
調子の良いときは一晩でまるまる新聞一部を埋めきれるだけの文学用脳細胞も、
今日はほとんど職場放棄に近い状態だった。
これが締め切りまであと二日という際どい状況でなければ、
気分転換で外にネタを拾いに行くこともできるだろう。
差し迫った時間と、それまで無為に時間を費やした己の不甲斐なさ――ただし毎回のことだ――に、
アン子は小さく舌打ちをした。
「あーまったくもう、なんだってのよ」
 まるで事態を改善させないぼやきは、もう十数回目だ。
一度として同じ台詞を口にしていないのは、マスコミ志望であるアン子の面目躍如といったところだが、
だからといってガムを踏んづけてしまった時のような苛立ちが薄れるわけでもない。
背もたれにぶつけるように背中を預けたアン子は、今度は机に向かって上体を倒していった。
顎で着地して、少し冷たい感触を味わいつつ、目を閉じる。
やる気のないアザラシのような、という自虐的な比喩に笑いもせず、ただぼんやりとしていた。
 そのまま一分以上、アン子は動かない。
寝入ってしまったのかと思われたが、そうではなかった。
机の上に置いてある身体はそのままに、だらりと垂れ下がっていた右手が音もなく動いていく。
アン子らしくもない緩慢な動作で、机の下に潜りこんだ手は、膝の内側に軽く触れた。
そこでしばらく留まり、外側へ足を開かせるように手を添えると、
来た方とは微妙に違う、身体の中心へとスライドさせていく。
 申し分のない健康的な肉付きの足を、さすっていくアン子に表情の変化は見られない。
怠惰な姿勢を保ったまま、右側から見なければ判らないように、右手だけをひそやかに動かしていた。
 スカートが捲れるのも気にせず、アン子は手を、身体の一番奥へと到達させる。
それでもアン子は机に顎を乗せたままだったが、下着に触れたところで手を止めた。
数秒、そこに留めた手を、今度はそこから平行に動かす。
太股を半周して椅子に手が当たると、またそこでしばらく動きを止めた。
 ここでゆっくり一度呼吸をしたアン子は、おもむろに左手も動かし、右手と対称の位置に添える。
奇妙な姿勢はごく短い時間だけで、そこから素早く腰を浮かせると、一気にパンティを下ろした。
 履いたままの方が危険は少ないが、汚してしまっては帰るときに面倒だ。
それにこの場所はオカルト研と並んで真神の秘境ともいって良い場所で、
誰かが訪れることなど滅多にないし、こんな、鴉も鳴き飽きたような時間ともなればなおさらだ。
だからアン子がパンティを左足に残したのは、全部脱ぐと履くのに何秒かは確実に時間がかかる、
といった理由からではなく、全部脱いでしまうと、いかにもそういったことをするのだ、
というのが嫌というだけの、気分的な問題だった。
九十九と百程度の差でも、二ケタと三ケタの違いは大きいのだ。
 次にアン子は浅く腰かけなおし、斜め上方を向いて目を閉じた。
アン子には未だこういうときに想像するような相手はおらず、肉体的な反応のみを拠り所としていた。
あるいはどこかの本で読んだ体験談や、男性向けの官能小説などを思いだしてみることもある。
想像した方がより気持ち良くなれる、というのは解ってはいたが、
それもやはり、生々しく思えてしまうので、学校でするときは想像しないようにしていた。
 改めて、自然に足の上に置いた手を、アン子は静かに動かしていく。
下着を履いていたときと同じ道を、同じ速さで。
 衣ずれの音と共に、肌触りが鋭敏になる。
五本の指にまんべんなく腿を撫でさせたアン子は、
さらにその奥、今は布地の質感がない部分に中指をあてがった。
息を止め、身体に刻まれたスリットに沿って、下から上へ指をなぞらせる。
それがアン子が身体の奥に眠っているスイッチを呼び出すための、なじみの動作だった。
 自分だけに解る、鳴動。
止めていた息をほんの少しだけ吐いたアン子は、
もう一度下から上へ、今度はごく浅く指を沈めてさすった。
さらに続けて二度、三度と掃くうちに、じわりと身体が熱を帯びてくる。
それでもまだ、我を忘れるには至らない。
なだめ、あるいは急かすように、アン子はゆるゆると同じ動きを繰りかえした。
「ん……っ……」
 やがて薄く開けていた唇が、掠れた声を紡ぎだす。
吐くのではなく、吸うときに混ざる音色はまるで意図しないもので、
アン子は気恥ずかしさに耳朶が熱くなり、閉じている瞼を、もう一度閉じているか確かめた。
 眼鏡のこちら側は、暗闇だった。
安堵したアン子はやや動きを変えて秘裂を弄ぶ。
 まだ、本格的な快感は求めていない。
浴槽に浸かってから湯を足していく時のような、じわじわした感じがアン子は好きだった。
その部分からまだるっこしいほどゆっくりと立ちのぼってくる気持ちよさは、
残念だけれど快心の原稿が仕上がった時にも劣らない。
自分で強さをコントロールできる分、性的な快感の方が優れているといえるくらいで、
アン子は深い呼吸を繰りかえしながら、手首はほとんど動かさず、指だけで性器を擦った。
時折想定外の快感が訪れると、身体の力を緩めて唇を舐める。
 そうしているうちに腰の少し上辺りまで鈍い疼きが満ちていくと、
熱くなっていた息を吐きだし、さらに左手をセーラー服の内側へと忍ばせた。
衣擦れの音が、くすぶり始めた情欲を煽る風となる。
右の乳房を下から支えるように手を添え、親指で丘をなぞり、さらに炎を大きくしていった。
 さすがにブラジャーまでは外せないからもどかしさはあるものの、
より心に近い部分でふしだらな行為をするのは、実際よりも数割増しの気持ちよさがあった。
親指を使って撫でまわしたり、時にはわずかな痛みを感じる程度に潰したりしてみると、
頭の中に稲光めいた信号が瞬いた。
 短い時間ではあるし、終わった後には副作用があるのも知ってはいたが、
ほとんど全ての思考をリセットできる、という効用は何物にも代え難く、
アン子はこうした行為をそれなりの頻度でしていた。
だから、快楽を追求するわけではないにしろ、ある程度自分の身体のどこを触れば気持ち良くなるかは知っている。
 しかし、ことこの分野において、アン子は効率を重視するつもりはなかった。
家でなく、学校内で時間をかけるリスクは当然承知している。
それでもこんな時間に校舎内に人が居ることなどないし、
そうしたリスクも快楽の一助となることに気づいてしまっていたから、
アン子は足をだらしなくコンパスのように開き、じっくりと自慰に耽った。
「……ん……」
 こぼれでる喘ぎ声は、押し殺す。
音は思わぬところで聞かれることがあるし、不随意に出てしまう声がアン子は嫌いだった。
そういうものだと理解してはいても、自分の意思と無関係なのが受けいれにくいのだ。
そのくせ火照り始めた身体は、理性の束縛を逃れようとして、より激しい愛撫を求める。
 上唇を下唇に被せたアン子は、試すように下着越しにクリトリスを掻いてみた。
「……っ」
 身体がぴくりと跳ねたものの、それ以上にはならなかった。
ほっとすると同時に物足りなさも芽生え、両者は角突き合わせてせめぎ合う。
しかしアン子は勝者を待たずに、今度は乳首を親指と中指の腹で潰すように挟んだ。
「んっ……!」
 足が突っ張り、床が小さな音を立てる。
その音で決着がついたのか、戦っていたはずの意識はすっかりおとなしくなった。
クリトリスや乳首に触れても何も抗議せず、満ちていく濃度と粘度の高い霧にアン子が浸されていくに任せた。
やがて右手の指先に湿り気を感じるようになったとき、アン子は、わざと水音が立つように指を動かしてみる。
いつもなら耳を塞ぎたくなるような音は、快く響いた。
さらに中指を浅く埋めて雫を掬い、音を立てると、水音は空気に混じり、
それほど広くはない部屋に満ちていく。
そうしてほのかに温かな、奇妙な心地よさを覚える雰囲気が醸成されたところで、
アン子は本格的に淫戯に没頭しはじめた。
 染みだしてくる蜜を指腹に取り、一番敏感な突起に触れる。
ともすれば強くなってしまう刺激を焦らすのは、えもいわれぬ気持ちよさがあり、
逸る心をおさえつつ、じっくりと転がしていった。
 浮きたつ心と、相反する重くなっていく身体。
わずか数ミリ程度の器官が、それらの不思議な効用をもたらしている、
というのは、自慰を覚えた最初の頃は考えもしたが、
今ではそういうこともなく、肉体の反応に委ねていた。
 ただ、スリットの奥深くに指を挿入するのは、まだしたことがない。
クリトリスだけでも充分気持ち良くなれたし、そこはもっと大きなものを
受けいれられるようにできていると知ってはいても、実際に挿れてみるのにはためらいがあった。
いずれ嫌でもその時がくる――はずだと思い、好奇心の強いアン子ではあるが、
あえてその時まで試してみようとは思わなかったのだ。
「っふ、ぅ……」
 口笛のような、吐息のような、不思議な息が口から漏れる。
自分の声というのは、大体にして気色悪いものだが、こういった、いわゆる喘ぎ声というのは、
その中でも絶対に聞きたくない類のものだ。
アン子の普段の声には可愛げと呼ばれる成分は自覚しているとおり少なく、
また本人もそれに関しては全く必要だと思っていない。
なのにこの喘ぎ声というやつは、素面で聞いたら背骨が砕けるのではないかというほど
滑稽な甘さが含まれていて、なるべく発しないようにしているのだが、
興奮が高まってくるとどうしても口を衝いてしまう。
 へんぴなところにある新聞部部室だから、誰かに聞かれる心配はないとはいえ、
もう少し抑えないと、とアン子が思いながら、なお手の動きを止められないでいると、
唐突に現実が割りこんできた。
「アン子ちゃん、いる?」
 小さなノック音に続く、控えめな声。
真神學園内でその呼び方をする人物を、アン子は一人しか知らない。
親しみがこもっているのかいないのか、今ひとつはっきりしない人称を使うのは、
隣のクラスの美里葵だけだった。
 葵は真神學園で知らぬ者とてない有名人で、彼女を嫌う人間は學園内にいるのだろうかと思われるほど
全てにおいて隙のない女性で、アン子も部員が一人しかいないのに新聞部を存続させてもらっている恩がある。
個人的にも全く悪い感情を持っていないのだが、今この瞬間は、たとえ神様であろうと
アン子にとっては歓迎せざる訪問者だった。
 完全に予想外の事態に、アン子は腰を抜かさんばかりに驚いた。
快い忘我からたちまち醒め、窮地からの脱出を図る。
扉に鍵をかけておかなかったことを後悔したが、いまさらどうしようもなかった。
葵はノックと同時に扉を開けるような礼儀知らずではない。
だが返事をしなければ、不審に思って中を見ようとはするだろう。
「はーい、ちょっと待って」
 不自然な返事ではあったが、とにかくアン子は答えた。
それでも稼げる時間は数秒であり、その間に痕跡は消さなければならない。
パンティを履いている時間はないだろう――それほどきわどい時間しかないのだ。
とにかく大急ぎで服を整え、椅子を机に近づけて深く座り直し、
漂っていた淫らな気配を可能な限り消して歓迎せざる訪問者を迎えた。
「どうぞ」
 あえてドアの方は向かず、一呼吸置いてから振り向く。
しょせん小細工だが、やらないよりはましだった。
 葵はいつも通りの微笑を浮かべて入ってきた。
アン子にはとても真似できない、きちんと後ろを向いてドアを閉め、灯りのスイッチを入れると、
そのままアン子の前を通過して窓のところまで行き、カーテンをかける。
 一連の動作が流れるようで、こういう小さな洗練の積み重ねが美里葵という人物を構成しているのだとすると、
一生かかっても真似できないのだとアン子は痛感させられるのだった。
「珍しいじゃない、どうしたの、今日は。生徒会?」
「ええ」
 カーテンの前に立ったまま頷いた葵は、アン子を覗きこむように顔を前に出した。
「顔が少し赤いけれど、大丈夫?」
 葵の洞察力の高さが、今は忌々しい。
アン子は頭を振り、ことさら機嫌が悪いようにふるまった。
「いい文章が浮かばないと、イライラして頭に血が上っちゃうのよね」
「そう、それならいいけれど……でも、アン子ちゃんらしいわね」
「でしょ? って、褒められてる訳じゃないわよね」
「うふふ」
 手を口許に当てて葵は笑う。
ラーメン屋でも足を組んでしまうアン子から見ると、いかにも上品ぶった仕種だが、
嫌みではないし、葵ならそういう態度が似合う、とアン子は認めていた。



<<話選択へ
次のページへ>>