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 それにしても、葵は何をしに来たのだろう。
そちらの方にもアン子は思考能力のいくらかを回さなければならなかった。
可能性としてはまず、記事のどれかが誰かの逆鱗に触れたか、というのがある。
ネタというのはセンセーショナルであればあるほど誰かの恨みを買うものだ、というのをアン子は熟知していた。
だからほぼ毎号にわたって、真神新聞を発行するたびに何かしらの苦情は来ていた。
そんなものを怖れるアン子ではないが、生徒会長が来たことはこれまでなく、
もしかしたら相当重大な件なのかもしれない。
ただ、もしこれが正解なら、最もダメージを受けずにすむかもしれない。
小言なら慣れているし、葵なら神妙な顔をしていればすぐに退散してくれるだろうから。
 次に、廃部の可能性があった。
アン子は真神新聞に絶対の自信を持っていたし、発行部数もそれを裏付ける数字はキープしていたが、
部員一人というのは健全な部活動とは言い難いし、ネタに取りあげられた人物が、
怒って廃部にしろと叫んだことも一度や二度ではなく、
そのたびにアン子は正当性をまくしたてて窮地を脱してきたのだ。
だが、何しろ生徒会長じきじきにお出ましというのは、
アン子によからぬ想像をさせる余地がたっぷりある。
それでも、これも今どうこうというわけではないだろうから、現状は簡単に脱せられるだろう。
ただし廃部というのはアン子の身命に関わることで、それを撤回させるためには下着を履きなおして
職員室に押しかけなければならないだろう。
 いずれにしても、藪をつついて蛇を出さぬほうがいい、と考えたアン子は、
自分からは仕掛けず、相手の出方をうかがうことにした。
「……」
 ところが葵は用件を切り出さなかった。
窓を避けて両肘を掴んで立ったまま微笑むばかりで、妙に紅い唇は全く動かない。
気の長い方ではないアン子は、思わず自分から喋ってしまいそうになり、
開きかけた口を慌ててつぐんだ。
 机の方を向いているので、表情を読み取られることはない。
しかし、そのまま何もしないでいるのも不自然で、アン子はシャープペンを回し始めた。
これはいつもの手癖で、この時はもちろんごまかしの意味の方が大きい。
人は後ろめたいことがある時、沈黙に耐えられなくなる。
そんな警句をどこかで読んだかどうか、アン子は覚えていなかったが、
覚えていたとしても手癖を止めることはできず、それが致命的な失策をさせてしまうこととなった。
 アン子も気づかぬうちに、いつもよりも速く回していたシャープペンが、
遠心力に耐えかねて飛んでいく。
そして机の端を軽々と越え、よりにもよって葵の方へと落ちていった。
 アン子が何を言う間もなく、葵はしゃがんで落下物を拾う。
そしてアン子の、深く座りすぎて身動きも出来ない下半身の下端に、
ありうべからざる布を見出したのだった。
「アン子ちゃん、それ……?」
 緻密な計画も、取るに足りない偶発事によって台無しにされることがある。
まして行き当たりばったりで立てたプランなど、少し指の力加減を間違えただけで、
たやすく崩壊するのだという事実を、アン子は思い知らされていた。
 呆然と呟く葵は、まだ机の下から顔を出さない。
とても目を合わせられないので立って欲しくはなかったが、
下着を、特に脱ぎかけの下着を見られるのも同じ程度には恥ずかしく、
アン子にとってはどちらも地獄であることに変わりはなかった。
 言い訳にならアン子には多少の自信があった。
してはいけないことをして見つかったとき、入っては行けない場所に入って見つかったとき、
被害を最小限に食い止めるためには、ありとあらゆる言い逃れの手口が必要だからだ。
しかし、この状況はどうにもならなかった。
密室で足首に下着を引っかけて記事を書くのがあたしのやり方なの、なんて鏡に向かってさえ言えるわけがなく、
見えない誰かが入ってきて気づかないうちにあたしの下着を脱がせたの、
などと訴えれば、警察で済めば御の字で、病院まで紹介されてしまうに違いない。
 アン子はコンピューターも故障する速さでこの場を取り繕える台詞を思い浮かべ、検討するが、
どれひとつとして未来の展望はなく、縛られて重りをつけられ、
あとは沈められるだけという絶体絶命から大逆転する一手は出てこなかった。
 もはやこれまでと左足をさりげなく引き、葵の視界から隠してアン子は開き直った。
「あー、これはその……ちょっとね、気分転換的な意味で」
 ようやく顔を出した葵は大きな瞳を一杯に見開いただけで、何も言わなかった。
それがアン子にはせめてもの救いで、同情でもされたらいくら剛胆なアン子でも、
窓から飛び降りてしまったかもしれない。
 葵がほぼ理想の反応をしてくれたことで、踵でかろうじて波止場に立っているピンチには変わりなかったが、
一呼吸とはいえ息をするチャンスができたとアン子は思い、
安堵を押し殺しつつ、一気にこの話題を終わらせてしまおうと、普段まず使わない猫なで声でたたみかけた。
「でね、できたら美里ちゃんだけの秘密にして欲しいかな、なんて」
 それが二度目の失策であることに、アン子は気づかなかった。
 葵の人となりからいって友人の恥を言いふらすはずがなく、
強引にでも何事もなかったかのように振る舞えば良かったのだ。
そうすれば葵はどれほど疑問に思っても、それ以上その話題を続けはしなかっただろう。
 けれども、アン子自身が言ったことで、それは秘密としての価値を持ってしまった。
そして秘密という言葉に真っ向から立ち向かえる人間というのは、実際のところそれほど多くはない。
葵はアン子が知る限りもっとも人間的にできていて、彼女が人間の黒い部分を見せることなど
未来永劫ないのではないかというくらいの女性だったが、
それでも、美里葵もまた、まぎれもない人間だったのだ。
 冗談に紛らわせようとしたアン子に即答せず、数学の問題でどの公式を使うか迷うような顔をした葵は、
それほどの間を置かず小さく頷く。
「そうね……それは構わないけれど、私のお願いも一つ、聞いてくれる?」
 状況証拠とはいえ、同級生の自慰という衝撃的な場面に出くわしたというのに、
葵は落ち着き払っていた。
それもまたアン子には好ましい反応で、落ちついてこの後の展開をシミュレーションすることができた。
 葵が交換条件を出してきたのを意外に思いつつも、それがかえってアン子を信用させた。
お互いの得になるから交渉は守られるのであって、一方的な依存は切れかけたロープを引くようなものだ。
この秘密が大いなる代償を必要とするのをアン子は理解しており、
もし葵が善意で秘密を守ると言ったなら、アン子はこの先、少なくとも卒業まで葵に頭が上がらなくなっていただろう。
しかし、交換条件はすなわち脅迫であり、もしこの一件が明るみに出たら、
アン子も葵の暗部を暴露することができる。
予防というより相打ち上等の下策だとしても、アン子の立場はかなり強化されるのだ。
 土左衛門の危機を脱したと信じたアン子は、馴れ馴れしいくらい親しげに葵に微笑みかけた。
「いいわよ、美里ちゃんの知りたいことならなんでも調べてあげる」
 得意分野かつ金のかからなさそうな方面に誘導するのがアン子の目論みだ。
だがそんな思惑は、いとも簡単に吹き飛ばされてしまった。
 笑顔で頷いた葵は、その笑顔をいささかも崩さぬまま、驚くべきことをいったのだ。
「アン子ちゃんがどんなふうにするのか、見せて欲しいの」
「……え?」
 アン子は訊ね返すのが好きではない。
人の話は集中して聞く、聞く気がないなら最初からそう言え、
そうすればお互い時間のムダが省けるのだから、と思うのだ。
だが、この葵の発言は、耳を疑い思考の欠落を認めざるをえなかった。
 するって何を、と訊ねてしまいそうになったほど予想外の質問は、
常に高速で回転する思考能力に、棒を突っこんで止めるがごときもので、
アン子は他人に指摘されたら到底許せない、間の抜けた顔で葵を見るほかなかった。
 地位だけでなく美貌でも真神のトップに君臨している聖女は、怯む色もなくアン子を見つめている。
「アン子ちゃんがさっきしていたことを、私の前でしてみせて」
 聞き間違いがないよう、一音ずつはっきりと語られた言葉は、
アン子の聴覚にしっかりと吸着して離れなかった。
意味不明、理解不能、支離滅裂といった頭の中で瞬いている語句が、葵の声と結びついていく。
粉々に砕け散って欲しいそれらは、しかし、掴まえることさえ容易ではなかった。
「……なんで?」
「見たいからよ」
 あまりにも当然な顔をしている葵に、馬鹿じゃないの、とアン子は言ってしまいたくなる。
こういうものはあくまでも個人の愉しみで行うもので、見たり見せたりするものではないというのが常識ではないか。
だが、それを言うと、学校でそういうことをする人間は馬鹿な上に常識がないということになる。
でもやっぱり他人のを見たがる方が馬鹿で常識がないのではないか。
 挟まった棒は動力を壊してしまったらしく、アン子の思考は同じところをぐるぐると回り始めた。
幾つかの台詞が福引きの玉のように口許まで転がり落ちてきたが、
胴元であるアン子は葵に玉の色を見せなかった。
特等を当てられでもしたら大損だからだ――このくじ引きが、五等賞でも温泉ペアご招待の
大盤振る舞いなくじだったとしても。
 くじのからくりがバレてしまった以上、あとは最後に残された武器で立ち向かうしかない。
アン子は背を正し、やや大きめの声で口早に最後の武器、口八丁で勝負を挑んだ。
「そんな手には乗らないわよ。秘密を隠すために秘密を作ってちゃ、いつまでもきりがないんだから」
「それはそうだけれど、新聞部がなくなったら困るのはアン子ちゃんでしょう?」
「……」
 葵が衝いたのはまさにジークフリートの背に貼りついた一枚の葉、
急所中の急所で、アン子の反撃はたちどころに粉砕されてしまった。
つねづね借金を返すために借金をするだとか、
夫に汚点を知られないために脅迫者に身体を許してしまうだとかいったテンプレート的なものを愚かしいと
思っていたアン子も、いざ当事者になってみると案外どうにもならないのだと痛感させられる。
 それにしても、暴力団まがいの強面や、理性と理屈を無視した輩の恫喝にも屈することはなかったのに、
脅迫から最も縁遠そうな人物に致命傷を負わせられるとは。
世の中はどんなことだって起こりうる、と普遍的な法則に当てはめて考えたのは、
明らかに現実から目をそむけるためだった。
「……」
 葵はまだ態度を変えない。
自分の引いたくじの色を確信し、胴元のイカサマは許さないとばかりにじっと眺める彼女に、
アン子は敗北を認めるしかなかった。
「……本気、なの」
 ひび割れるどころか、千年以上も前に干上がって水分のすの字もない砂地の声で
アン子は最後の最後の抵抗を試みる。
「ええ」
 それに対して葵の返事は聞き間違いようのない、至って簡潔なものだった。
適当に掘ったら水が出てきた井戸のような潤いがたっぷりの、というのは、
アン子の主観に基づいての感想だったが、客観的にもそれほど的外れなわけでもなかった。
いっそカラカラに干涸らびてしまいたい、と思いながら、アン子はのろのろと立ちあがった。
 机の上に座って足を開いていくアン子を、葵が穏やかな微笑みで見守っている。
さっきまでアン子が座っていた椅子に、背中を垂直にして腰かけるさまは、
晩餐を待つ良家の子女さながらで、絵画の題材になってもおかしくないくらいだった。
けれども男のほとんどはもちろん、女でさえ見惚れてしまうかもしれない静かな深黒の瞳は、
机の上で今まさに開かれようとしているアン子の、
垂れ幕のように扇形をしたスカートの裾が覆っているにすぎない股間に注がれていた。
 葵が間に座ることで、どうしても開かざるをえない両足は、
太股のかなり際どいところまで見えてしまっている。
普段のアン子ならそれほど気にはしないし、
もし男子生徒が見ていたらそれをネタに小銭を巻き上げるくらいはしただろうが、
同性とはいえ数十センチの距離で股間を凝視されていたら、居心地の悪さの方が勝るのは当然だ。
しかも、もう少ししたらスカートさえ捲りあげて、
たぶんこれまでの人生で最も恥ずかしい経験をさせられる羽目になるのだ。
注意一秒怪我一生、という標語を深く噛みしめるアン子だったが、全ては手遅れだった。
「ね……ねぇ、他のことにしない? これ以外なら三件に増やしてもいいから」
 儚い望みを託してアン子は、滅多にしたことのない、情に訴えた声で頼んでみる。
だが、股間から顔を上げた葵は、きっぱりと首を振った。
それはきっぱりどころかどんなささいな譲歩も一切断るという、
およそ生徒会長らしさが抜け落ちた、指一本入れば閉ざされた扉をこじ開けるアン子でさえ、
とっかかりを見いだせない完全な拒絶だった。
 どうしようもなくなったアン子は、ついに諦め、右手を股間へと伸ばす。
こんな至近距離で股間を見られるのは初めてで、しかも下着は履いていないのだ。
剛胆なアン子といえども頬が熱くなるのを抑えられなかった。
 できる限り手をゆっくりと動かしたものの、無情にも手は目指したくはない場所にたどりついてしまう。
そこはスカートの端で、そこから先はどう動かしても羞恥を避けることはできない。
かといって、いきなり中心部に触れるのはやはりためらわれ、
アン子は太股の辺りから、指の第一関節だけを折り曲げてスカートの内側に入れた。
 アン子と葵が逆の立場だったなら、遅いとヤジを飛ばすか、実力行使に出てしまうかもしれないくらい
緩慢な、あからさまな時間稼ぎの動きにも、葵は何も言わない。
凝視というよりも、怪談に登場する人形のような目でじっと観察している。
一体何が彼女をそこまで集中させているのだろうか。
 他人の弱みを握った興奮に酔いしれているのだろうか。
あるいは、性的な衝動に我を忘れているのだろうか。
葵は唇を薄紙一枚分だけ開いて、アン子の太股の付け根辺りを見ている。
わずかな動きも見逃しはしない――だが、眼球をせわしく動かしたりはせず、じっと一点を見据えて。
他人の狂気にも似た集中を目の当たりにし、アン子はいくらか怖れをなしていた。
 そうしている間にも、手はじりじりと滑っていき、とうとうスカートの、
最も垂れ下がっている部分に着いてしまった。
そこから先は、もう平面の移動はできない。
アン子は意を決して、手首から先をこれまでの緩慢な動きから一転、
猫が飛び退くように素早く、スカートの中へと潜りこませた。



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