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 文句は言わせないつもりだったが、葵は何も言わなかった。
そうすると何か企みがあるのではないかと疑心暗鬼になってしまうアン子だ。
とはいえ、こんな場所は決して見られたくないし、藪をつついて蛇を出してしまうくらいなら、
何もしない方がましだ。
常になく消極的なのはやむをえないところで、過去最大と言ってよい危機に陥っているアン子としては、
物騒なたとえながら今、誰かが校舎に火をつけたとしても、
取材をせずに逃げる方を選ぶくらいに切羽詰まっていた。
これはあくびや下着を見られるのとはレベルが違い、
一応は乙女であるアン子にとって、自慰を見られるというのは死ぬか生きるかという瀬戸際なのだ。
 奇跡ってのは滅多に起こらないことが起こるから奇跡っていうのよ、
だから今この瞬間にあたしをこのピンチから救うような奇跡を起こしてみなさいよ、
とキリストやら仏陀やら名前も知らないブードゥーの神やらに理不尽極まりない訴えを起こしたアン子だが、
願いが叶う様子はなく、続きをするしかなさそうだった。
 アン子は嫌々ながら、自身の淫珠に触れる。
敏感な部分への刺激に対する反応はあっても、気持ちよいだとか愉しいだとかいった感情は浮かんでこなかった。
醒めているとよけいに自分のしていることが愚かしく思えるが、
葵は美術のモデルでもしているかのごとく、髪の一本すらそよがせない。
それはつまり続きをしろという意思表示であり、仕方なくアン子は従った。
 中指を、ごく薄く触れさせて撫でる。
ふりをするには葵の眼差しが真剣かつ近すぎて、おざなりにではあっても本当に自慰をするしかなかった。
 アン子は今、背もたれのない状態で座っている。
倒れないようにするには背中を丸める必要があるが、そうすると、まともに葵を見る形になった。
葵は股間を凝視しているから、目が合うことはない。
それでも気恥ずかしさは頭を破裂させそうなほど膨らんで、アン子は目を閉じた。
「……」
 指はひとりでに動き続ける。
微弱な愛撫ではあってもそれなりに感じてきて、アン子は唇を噛んだ。
 絶対に声は出せない。
アン子は自分の声の美しさに全く自信を持っていなかったし、
自分で聞いてさえあの時の声は相当に変だと思っていたから、
他人に聞かせるなんて幾ら札束を積まれても嫌だった。
 葵に指摘されるまでは、とアン子はスカート内の刺激を弱める。
葵はじっと見てはいるが何も言わず、案外節穴なのかしら、
とアン子が気を抜きかけたところで、唐突に口を開いた。
「アン子ちゃんは、週にどれくらいするの?」
 好きな食べ物はというくらいさりげない質問に、アン子は思わず答えかけてしまった。
自分ではインタヴュアーとしての才能もそれなりにあると思っていたが、この生徒会長には全くかなわない。
 聞こえるように舌打ちをしてから、アン子は策士をなじった。
「そんなのペラペラ喋るもんじゃないでしょ」
「そうかしら」
「なら美里ちゃんはどうなのよ。そっちから先に教えなさいよ」
 葵は形の良い唇を閉ざす。
それ見なさい、と脅迫されている立場なのも忘れ、アン子が勝ち誇ろうとしたとき、葵の口が滑らかに動いた。
「私は、ほとんど毎日ね」
 インタヴュー時に驚いてしまうのはしてはいけないミスのひとつだ。
相手に一息つかせることになり、言葉を選ぶ余裕を与えてしまう。
たとえ友好的な相手だとしても、特ダネというのはそういう風に拾うものだとアン子は教わっていた。
それが美貌八割で生徒会を運営していると思っていた生徒会長には、驚かされっぱなしになっている。
最初から分の悪い勝負だとはいえ、アン子はほとんど素に戻って葵との猥談をさせられる羽目に陥っていた。
「毎日って……しすぎじゃないの?」
「そうかもしれないわね。でも、ほら、色々あるでしょう?」
 何が色々あるのか、訊きたくて仕方がない。
少なくともアン子は毎日するほど色々な何かはない。
……いや、そもそも色々な何かとはなんだろうか?
普通の、十八歳の女性なら色々あるほうが普通なのだろうか?
 あまりに混乱してしまって、アン子は葵が左膝の上に手を滑らせてきたのにも気づかない。
いや、本当は視界の端に捉えてはいたのだが、葵の瞳が奇妙な吸引力を発揮して、それ以上目を動かすのを妨げたのだ。
「うふふ、意外だった?」
「ま、まあね。美里ちゃんも人の子なんだなって」
「あら、それなら今までは鬼か何かだと思っていたの?」
「鬼ってことはないけど、少なくともあたしなんかとは違う人種っていうか、別世界の人間かなって」
 失礼な言い草にも、葵はいかにも儀礼的に笑った。
似たようなことを良く言われるのだろう、とアン子は思ったが、
笑みの中に自嘲的な成分も含まれている気が、一瞬だけした。
「そんなのじゃないわ。私もアン子ちゃんと同じ真神學園に通う女の子で、それ以外の何者でもないわ」
「でも」
 続けようとして、アン子は葵の指先が、左膝から少しずつ移動しているのに気づいた。
もしかしたら無意識かもしれないと思いつつも、不安を覚えたアン子は露骨に顔をそちらに向けて警告する。
 しかし、葵は剛胆にもアン子の、罪のない人間でも怯まずにはいられない、
獲物を見つけた鷹さながらの鋭い眼光を、真っ向から受けとめつつも手を止めなかった。
むしろ見せつけるように滑る、きちんと揃えられた美しい指先に、アン子の方が当惑してしまう。
こんなに丁寧に撫でられるだけの価値が、あたしの身体にはあるのかしら。
それは一瞬の幻想に過ぎなかったが、葵の態度が実に堂々としていたので、
ついそんな風に考えてしまったのだ。
「ちょっと」
 その反動で、キツめの調子で声が出てしまう。
「何?」
 葵はどこかの裕福な貴婦人のように優雅に応じて、動じる色もない。
この学校の生徒会を束ねる葵を、決してお飾りではないとは思っていたが、
この粘り強さ、あるいは図々しさは、交渉人としての彼女の有能さを示すものだった。
自分からは容易に動かず、敵も味方も思い通りに操る女帝。
葵が生徒会長に就任してから、毎年それなりには揉める各部活動の予算折衝が、
ほとんど揉めなくなったという話をアン子は思いだした。
話を聞いた時は、葵の色香に男どもが骨抜きにされたんじゃないの、と鼻で笑ったが、
部長にはもちろん女もいるし、一年の活動資金が決まるとあれば、
色気に惑わされている場合ではないだろう。
だが、一度は捨てた推論も、もう一度拾ってみる気になるくらい、葵には奇妙な吸引力があった。
掃除機のような力ずくではない、磁石、それも引き寄せられていることにも気づかない、
けれど容易には逃れられない強い磁力を持つ磁石めいた吸引力だ。
 黒い、深さが見えそうで見えない瞳に凝視されてそれに気づいたアン子は、
そこから発せられる磁力を振り払おうと声を荒げた。
「お触りはナシじゃなかったかしら?」
「ごめんなさい、踊り子さんの動きが止まっていたものだから」
 当意即妙の受け答えは、こんな状況であってもアン子を快くさせる。
名刀も斬らなければ錆びてしまうというもので、アン子としてはなるべく頭と舌を普段から使っておきたいのだ。
かといって、こんなくだらないやり取りに付きあってくれる相手などそうそういない。
高校も卒業という年になってようやく見つかったパートナーは、知能的には申し分なしだ。
こんな形で友誼を深めるのでなかったら、きっとよい友人になれただろうに、
自分の軽率さを何度でも悔やんでしまうアン子だった。
 葵は手を付け根に向かって滑らせるのは止めたものの、離そうともしない。
実力行使で剥がしても問題はないだろうが、それをしたらなんとなく負けだという気がアン子はしていた。
「……わかったわよ、続ければいいんでしょ」
「私はどちらでもいいのだけれど」
 真意を読み取らせない葵の返答に、アン子は改めて訊いておかねばならないことがあった。
「美里ちゃんって……こういう趣味だったの?」
「違うわ」
 葵があまり明確に否定したので、アン子は語を継げなかった。
思わず指も止めてしまうが、それについては、葵は続けさせようとはしなかった。
「今日までそんなこと、考えたこともなかったわ。こういうのも悪くないって気がついたのはついさっきよ」
 それは一体どういう事なのか、アン子は考えこむ。
嗜好だとか性癖だとかいうものは、そんなに都合良く気づいたりするものなのだろうか。
葵は以前から同性趣味で、無理なく口にできる機会が訪れるのを待っていて、
うかつな鴨がネギを背負ったのですかさず捕まえたとかそんなところではないのか。
 疑惑の目を向けると、葵は予想していたのか、訊かれる前に補足した。
「目があっただけで好きになったりすることもあるでしょう?
私は今日、アン子ちゃんが一人でしているのを知って好きになった、それだけよ」
 それは人を好きになる理由にしては酷すぎる気がして、アン子は反論せずにはいられなかった。
「あたしのせいだって言うの!? そりゃあたしがここで……あんなことしなかったら、
美里ちゃんはあたしを脅したりもせず、化けの皮が剥がれることもなかったでしょうけど」
 舌鋒の鋭さに怯んだのか、葵は悲しそうな顔をした。
それを見たアン子は心が咎めたが、原因を押しつけるような言い草は気に入らなかった。
「違うの」
「どう違うってのよ」
 要を得ない返事にアン子の苛立ちはつのる。
もし、この時アン子が冷静さを保っていたら、一気に劣勢を覆すこともできたかもしれない。
しかし、長い睫毛を伏せる葵の、ひどく絵画的な憂い顔を見下ろしていると、
攻撃的な気持ちが押しよせてきてどうしようもなかった。
 あきらかに返事をためらっている葵に、さらにアン子はたたみかけようとする。
すると葵が、決然と顔を上げた。
空気さえ味方につけたかのような一変した雰囲気に、アン子は口を閉じるしかなかった。
「私もね、同じなの」
「……?」
「私も生徒会室で、一人でしたことがあるの。……それも、一度だけじゃないわ」
「……!」
 頭が空っぽになる、というのはいい気分ではない。
意味があろうとなかろうと、常に思考を回転させているアン子は、
何かの拍子にその回転が止められてしまうと、その時回っていたもの全てが飛び散ってしまう。
それらを拾い集めるだけでも大変なのに、それらには関連する事柄が連結されていて、
損失は計り知れないのだ。
それなのに今日だけで三回も思考を寸断されて、遅れ気味の原稿の事やら
まだ蕾ではあるが有望なネタの種やらの諸々は、もうどこへ行ったか見当もつかなかった。
 しかし、葵の告白は、それらを補い、埋めてなお余りあるものだった。
なにしろ品行方正、清廉潔白の生徒会長の、誰もが妄想し、かつ信じない性体験なのだ。
生徒の中ではたぶん一番この学校を愛しているだろう生徒会長が、
神聖な学舎を淫らな行為で穢しているなどと、当人の口から直接語られてもなお信じられない。
 他人のなにげない一言を拾い、ネタにするのを生業とするアン子だが、
このネタは耳に入れるのも、そこから咀嚼するにも大きすぎて、
感性を溜めておく部分にごろりと落ちてきた途端、感性ごと破れてしまい、
アン子は足を開いたままでいるのも忘れて、葵の猥談に聞きいった。
「たまたま会議が終わった後、最後にもう一度用事があって生徒会室に戻ったの」
 葵の声は少しうわずっている。
知られてはいけない秘密を他人に明かすことに興奮しているのかもしれない、
という気持ちはアン子にも理解できた。
葵もおそらく、アン子にならわかってもらえるだろうと考えて話しているのだろう。
「誰もいない、暗い部屋に入った時、なぜだか、急に……したくなって」
 赤裸々な告白は、アン子の聴覚を捕らえて離さなかった。
アン子の場合は一応、原稿が進まなくて困ったとき、という制約がある。
だが葵はそうではなく、ただ身体が疼いたと言っているのだ。
それなら我慢できず、毎日しているというのも本当だろう。
 葵の話を聞きながら意地悪く考えるアン子だが、その考えは、
アン子の想定とは異なる形となって染みていく。
「そんなことを考えた自分に驚いたけれど、一度考えてしまったら、抑えられなかったわ」
 葵はその時の表情を再現するかのように目を閉じる。
そして半分だけ閉じた瞼を開け、顎を引いて言った。
「でもその時私、パンストを履いていたの。それを脱いでするわけにはいかないから……どうしたと思う?」
「どう……って」
 学校内でそういった話からは最も縁遠そうな人物から、
あまりにも生々しい話を聞かされたアン子は、苛立ちも失せてすっかり圧倒されていた。
その雰囲気を愉しむように、葵がアン子の目を覗きこんで続ける。
「机の角でしたの」
 葵の囁きは、耳に口をつけて直接言われているかというくらい、はっきりとアン子の脳に届いた。
 アン子の顔に求めていたものを見出したのか、葵はどこか晴れやかとすら見える表情だった。
「びっくりしたわ。そんなやり方を思いついた自分にも、それが凄く気持ち良かったことにも」
 葵の告白は衝撃的すぎて、アン子は驚いたときの常である、記事にしようという考えすら働かなかった。
脳裏に浮かんだのは葵が机の角に股間を擦りつけている姿で、
思い浮かべただけで下腹が熱くなる。
無意識に火照る場所をまさぐろうとしていきなり直に触れてしまい、下着を脱いでいるのを思いだし、
慌てて手を離す始末だった。
「それからは止められなくなってしまったわ……今日はしていないけれど」
 それが重大なことであるかのような発言で、葵は締めくくった。
 そのまままっすぐ見据える葵から、アン子は目が逸らせない。
何か言わなければならない――告白が本当でも嘘だとしても、言質を取らなければ。
そう頭ではわかっていても、身体が動かなかった。
伝説に言う石化の呪いというのはこういう状態を指すのではないかと怖れ、
アン子は友人達から少し回りすぎと良く言われる舌を必死に動かそうとする。
しかし、舌は口蓋に貼りついてぴくりともせず、声帯も意思に全く従おうとしなかった。
「だから、アン子ちゃんの下着が見えたとき、私、少し嬉しかったの」
「嬉……しい……?」
「ええ。アン子ちゃんも私と同じことしてるんだ、私だけがいやらしいんじゃないんだって」
 そんなことで仲間意識を持たれても、とも思うものの、葵の告白はある程度アン子を納得させた。
性欲はまだしも、見つかるスリルを愉しむというのはあまり正常ではないと自覚していただけに、
アン子は不安でもあったのだ。
多分、この学校で一番まっとうな人間だと思われる葵が同好の士であったという事実は、
そういった不安を霧消させてくれるものではあった。



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