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ただし、それと葵が好きか嫌いかという話は別だ。
アン子は別に、葵のことが嫌いではなく、好きか嫌いかでいえば、多分好きだろう。
しかしそれはあくまでも人間として、とか友人として、とかいったもので、
決して女が男を好きになる、といった意味での好きではない。
葵があまりにもあっさりと告白したので、真剣に考えて返事をしなければいけないような
錯覚に陥ってしまったが、そもそも考えるようなことではないのだ。
ないはずなのだ。
葵は私は話したんだから、とばかりにじっと見つめる。
そうやって正面からまともに見つめあうと、確かに葵にはアン子の、
今まで気づいていなかった心のどこかを刺激するほどの美しさがある。
ただそれは葵の前に立った誰でもなはずで、アン子は口紅なんて塗っていないはずなのに、
艶やかでふっくらしてひび割れひとつない唇に魅入ってしまっていることに気づき、慌てて上体を反らした。
これで十数センチとはいえ、距離を離せたはずだ。
ところが、せっかく稼いだ距離は、あっという間に縮められてしまった。
返事がないのに業を煮やしたのか、葵が立ちあがる。
音ひとつたてずに立った葵にアン子が口を差し挟む隙はなく、
後から思い返しても全く納得できないのだが、
微笑を浮かべる葵をアン子は間抜けにもぽかんと口を開け、ただ見上げるだけだった。
回転速度が売りの頭脳は完全に止まってしまっており、葵が小さく一歩踏みだしても、
ただ葵が近づいてくる、としか考えられない。
そして、近づいてくる葵の顔から、アン子は逃れられなかった。
染みもほくろもない、頬が薄く朱に色づいている顔の、
軽くすぼめられた唇は、ネタを追うために普段忙しく動き回るアン子の眼球を、一点に捕らえて放さなかった。
このままだと、ぶつかる――
当たり前の、そして少し間違った認識が、頭の中を超高速で過ぎていく。
葵の動きがゆっくりなので、ほとんど時間が止まったかのような感覚だった。
走馬灯、というものを幸いにしてアン子は見たことがないが、
こういうイメージなのだろうか、と、これもあっという間に思考の端から端へと去っていく。
そして、迫ってくる葵から逃れるべきか、逃れないとしたら目は閉じるべきなのか、
口は引き結んだほうがいいのか、などといった現実の対応も平行して頭を巡り、
もしもアン子がこのアン子を客観的に見ることができたなら、
蹴飛ばすか頬を張るか胸ぐらを掴むか、どれか二つはしたに違いなかった。
とはいえ、これらの超高速の処理も、結局は頭の中でのことだった。
現実はといえば葵の唇が接触するまでぴくりとも動けず、
触れてからもぴくりとしか動けなかった。
「――!!」
スローモーションになっているのは思考なのか、それとも現実の方か。
ボールが地面に当たってへこむところを撮影した映像のように、
触れ、重なり、形を変え、密着する、それぞれの情景がアン子の記憶層に鮮明に刷りこまれる。
葵の唇は、衝撃でいえばリップクリームよりもはるかに柔らかいくらいなのに、
机に座っていなかったら、倒れてしまったに違いないほどアン子の全身から力を奪っていた。
机に座っていてさえ葵の腕を掴んでようやく、といったありさまで、
アン子は自分の肩に置かれている、葵の肘のあたりを握りしめた。
身体はスポンジに変わってしまったようで、葵に触れている口唇と掌以外感覚がまるでない。
こんな風に身体が――大げさに言えば、遠野杏子を構成するものすべてが――
反乱を起こしたかのように言うことを聞かなくなったのは初めてで、
キスに対して、唇をくっつけるだけだという認識しかなかったアン子は、
ようやくここに至って、それが人が獣から分化して以来繰りかえされてきた、神聖な行いであったのだと理解した。
重なっている唇は、心を包みこむような触感だった。
心がどんな形をしているのか、というのがナンセンスな考えだとしても、
葵のそれは完全な球形で、相手がどんな形の心を持っていても包んでしまうのではないか。
そんな非論理的な考えが、アン子の頭の中を駆け巡った。
脳内の敷地面積と引き出しの数にはひそかに自信があったアン子だが、
今日はあまりにも多くのことが整理もされないまま詰めこまれすぎていて、
とてもではないが系統立てて考えることなどできない。
かといって心のおもむくままに、などと言うとつい今しがたの鮮烈な感触が、
唇を動かすたびに雷光のように瞬いて心臓を蹴飛ばすのだ。
葵が、映画のワンシーンそのものといった仕種で目を開ける。
それでもアン子はしばらく声が出せず、葵が落ちついた、
しかし注意深く聞けば普段よりは小さな声で囁いてから、ようやく喋ることができた。
「アン子ちゃん、キスは初めて?」
「え、ええ、そういうことになるかしら」
そういうことも何も、従兄弟とふざけても、親戚の赤ん坊ともアン子は唇を触れあわせたことなどない。
縁がない、と言えばそれまでだが、なんとなくアン子は自分にはまだ早いと思っていて、
あまり関心を抱かないようにしていたのだ。
「良かった……私もよ」
平静を装ったつもりがどもってしまって、恥ずかしさに溺れ死にそうになるアン子に、
意外にも葵は安堵したようだった。
「女の子とは……でしょ?」
「違うわ。好きな子とは、だけど」
葵は生徒会長の時とは違う、半歩ほどアン子の会話を先回りするような受け答えをする。
それがアン子には快くて、この本性を露わにした聖女ともう少し親しくなりたいと思った。
「いまさら怒ったりしないから、ちゃんと答えて。美里ちゃん……さっき言ったの、本当なの?」
「ええ、本当よ。私はアン子ちゃんのことが好き。好きになったのはついさっきだけれど、気持ちに嘘はないわ」
葵の返事はやっぱり明快で、これで騙されたのなら仕方ないだろう、という気分にアン子はなる。
けれども、同じく万事に明快を旨とするアン子であっても、すぐに答えを出せない事柄というのはあるのだった。
「あたしは……正直言って、まだ美里ちゃんのこと好きにはなれないわ。
もちろん友達としてはアリだけど、こんな状況で言われてもピンと来ないの」
「わかっているわ」
わがままも聞きいれる母親のような態度で頷いた葵は、不意に笑顔を作った。
「だから、脅迫しているの」
悪びれずに言いきった葵を、アン子はさっきより少しだけ好きになった。
こうした積み重ねが、人を好きになるということなのかもしれない。
積み上げたものが恋とか愛とかいったゴールに着くとは限らなくても、
どこに到達するか、試してみるくらいはいいかもね、と決心したアン子は、
葵に向けて悪意のある笑顔を作った。
「あたし根に持つから、絶対仕返しするわよ」
「うふふ、そうね、気をつけないといけないわね」
今度は掛け値なしの笑顔を見せる葵に、本当に仕返しするんだから、と誓うアン子だった。
二度目のキスのときにアン子が思ったのは、大股開きで恥ずかしいということだった。
しかも下着は履いておらず、スカートもかなり際どいところまでめくれている。
今のうちに直してしまおうか、と考えたのは、余裕があったからではなくその逆、
つむじから噴きあがりそうな羞恥が思考を活性化したからで、
死にそうな目に遭ったときに周りがスローになる現象と同一のものだった。
とはいうものの、葵があまりにも動かないので、アン子も動けない。
股のところでガサゴソと音をさせるのは女性としてちょっと問題があるように思えるし、
そっち方面に葵の気を引いてしまうのもちょっとよろしくないという気がするのだ。
なので結局アン子は、足の間に両手を置いて、隙を見て裾を直す作戦をとることにした。
葵は今のところ気づいていないようで、右手をアン子の肩に置き、左手は腰の辺りに触れている。
なんとなくキスをするには変な格好なのは、アン子の両腕が、
ワニに喰われまいとするためのつっかえ棒さながらに邪魔になっているからだろう。
実際アン子も邪魔に感じたが、この腕は容易にどかしてしまうわけにはいかない。
こういうのは最初が肝心なんだから、と鼻を膨らませるアン子は、
こういうのとはなんなのか、深く考えるのはすでにやめていた。
それにしても、とアン子は思う。
同性、という致命的な一点はあるとしても、この心地よさは何事だろうか。
これまで脳内物質が出ていると思うようなときは、
原稿が文字数ぴったりで収まったときとか、新聞が完売したときといったくらいで、
あとは自慰もそうだけれども、大体頭の中で終わるような感じだった。
それが唇を合わせるという、アン子にとってはほとんど時間のムダとしか思えない行為で、
足の先まで痺れるような恍惚に満たされている。
より信じがたいことに、目の前の少女、まぎれもない同性の身体を、
アン子は抱きしめたくてたまらなくなっていた。
何をするにしても納得ずくで行動したいアン子としては、
意味もなく、無性に、といった衝動はできるだけ止めたいのだ。
しかも身じろぎするのはやはり恥ずかしく、キスをしたときから両手を触れさせていた葵は、
やはり巧者なのだと感銘するアン子だった。
葵の身体は以前としてアン子の足の間にあるが、アン子がふと気づくと、
測ってみなければわからないほど、だが間違いなく近づいていた。
彼我の距離は、今の姿勢から無理なく葵を足で挟めるくらいだ。
蟹挟みをされるというのは、知らないことなどないような葵にとっても未経験のはずで、
その時葵がどんな反応をするか、というのは非常に興味深い命題だった。
目の玉が飛び出すか、奇声を放つか、はたまた押し倒してくるか。
そこまで考えてアン子は、命題の追求をあきらめた。
もし押し倒されたら、と考えて怖くなったのだ。
もし押し倒されたら、あたしは美里ちゃんを押しのけられない。
それどころか足だけじゃなくて、手も使って抱きしめてしまうだろう。
それはまだ早い――そう考えてアン子は慌てて頭から雑念を追いだした。
まだ、ということはいずれは、ということになるわけで、
自分の気持ちが流されかけているのを易々と認めるわけにはいかないのだ。
たとえそうなるとしても、きっちり納得してからそうなりたい。
常日頃から頼っている自分の判断力を、今回もアン子は信頼することにした。
アン子が様々に思考を巡らせている間にも、葵は着々と侵攻を進めている。
キス以外の感覚にアン子が我に返ると、内腿に再び葵の掌が添えられていた。
さっきよりも明確な気持ちよさを感じる質感だったが、アン子は拒む。
「ま、待って」
アン子が腕を掴むと、葵は無理強いはしなかった。
ただ、どうして? と目で問いかける。
「あんまり一遍で、頭がついていかないの」
「アン子ちゃんらしいわね」
意外にも、葵はそれで引き下がった。
強引に責めてくることも、未練がましく粘ることもなく、あっさりと身体を離してしまう。
「そうね、そろそろ誰か先生が見回りに来るかもしれないものね」
理屈はごもっともで、反論の余地はない。
けれどもそうなると何か物足りなく思えて、つい葵を呼び止めそうになり、
それこそが術中に陥ってしまう罠なのだと気づいて声を呑みこむアン子だった。
誰かパートナーができたとして、こういう関係をアン子は望んでいない。
辛辣なやり取りは望むところでも、一方的にたたきのめされるのはまっぴらごめんだった。
そして、たとえ実力差があったとしても、反撃もしないでやられるのはもっとごめんだった。
とはいえ、今日は立ち会いの不利がずっと尾を引いている。
一旦下がって仕切り直しをした方が賢明だわね、とアン子は判断した。
ただ、やはり一発くらいはやり返しておきたいので、
不満そうな顔をして、葵を油断させておいておもむろに訊ねる。
「ところで美里ちゃん」
「何?」
「初めては誰とだったの?」
「うふふ、秘密よ」
立て板に水とはこのことだろう。
葵は予想していたかのように淀みなく答えた。
完全にはぐらかされたアン子だが、スクープを追っている時とは違い、
それほど悔しいとは思わなかった。
「何よ、教えなさいよ」
ただしこの問いの本心を包む皮は少し薄すぎたようで、葵は答えるかわりにアン子の髪を掬い、頬を撫でた。
「そうね、アン子ちゃんが私のことを好きって言ってくれたら教えるわ」
涼しい顔で無理難題を言い放つ葵に、アン子は眼鏡なしで小さな文字を見るような渋面を作る。
それがよほどおかしかったのか、葵は握りこぶしを口に当てて笑った。
馬鹿にした笑いではなかったけれども、なにやら色々なものがごちゃまぜになって、
アン子の頬はほとんど一瞬で真っ赤になった。
「何よッ、いいわよ、調べてやるから覚悟してなさいッ、
あたしの手にかかったら調べられないものなんてないんですからねッ!」
アン子はこれまで私利私欲で調査をしたことはない。
それはひそかな誇りだったのだが、その禁も破って構わないというほど沸騰していた。
「好きって言った方が早いと思うけれど」
「うっさいわね、あたしはやるって言ったらやる女なんだからッ」
奥歯まで見せて吠えるアン子に、葵は半歩さがって降参というように両手を肩の高さにあげる。
「わかったわ、アン子ちゃん。わかったから今日は帰りましょう。
そろそろ本当に見回りの先生が来てしまうわ」
「別に来たっていいわよ、犬神先生だって怖くないんだからッ」
もう何に対して突っ張っているのかわからなくなっているアン子にも、葵はあくまでも冷静だった。
「だめよ、アン子ちゃん」
「何がだめよ」
「下着、穿いていないもの」
「……」
この女の小憎らしさときたら!
これまでの三年間、よくも猫をかぶり続けられたものだ。
手品師も呆れる素早さで下着を履いたアン子は、すました顔で帰り支度をする葵を、
眼鏡が曇るほど激しく睨みつけた。
こうなったら徹底的にまとわりついて、意地でも本性を暴いてやるんだからッ――
かつてないほどの情熱に見舞われたアン子は、鼻息も荒く鞄を握りしめ、
鍵を返すために職員室へと歩きはじめた葵の後を急いで追っていったのだった。
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