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 あまり思いだしたくはない、放課後の出来事があった日から四日。
葵はあれ以来新聞部に顔を見せず、もともとクラスが違うので話す機会もなく、全く接触と呼べるものはなかった。
アン子としてはあれは葵の気の迷い、あるいは質の悪い冗談だと信じたいところだ。
ただ、冗談なら冗談だとはっきりしてくれないと困る。
それくらいアン子にとって気にかかる事柄であり、だからアン子の今の心境は、嵐に遭った船員のそれで、しかも、
海上で嵐が去るのを待っているのではなく、港で足止めを食っている状態に近かった。
だが、船員なら酒場で暇を潰すことができても、学生であるアン子は酒を呑むことなどできない。
となると他のことで気を紛らわせるしかなく、趣味にして仕事にして生き甲斐である新聞作成に励むのが、
唯一葵のことを忘れられる時間だった。
「……」
 とはいっても、ネタもないのに記事を書くこともできない。
真神新聞は一昨日発行したばかりでネタのストックも尽きているし、何より気が抜けてしまっている。
それでも、一応は机に向かってペンを持ってはいるのだが、
ほんの少し集中が乱れただけですぐに葵のことを思いだしてしまう始末では記事どころではない。
幾度か無駄な抵抗を試みた末、あっさりと諦めてしまった。
 肘を机に載せ、両手で顎を支えるアン子の鼻の下には、ペンが載っている。
唇をタコのように尖らせた顔は、とても乙女が他人に見せられるものではないが、
誰もいないのを良いことに、アン子はだらけきっていた。
先日、その油断が致命的な失敗を招いたことを忘れたわけではなく、
あれ以上悲惨な事態は起こらないという開き直りの境地に達していたのだ。
それに、口を自由にさせておくと、ため息ばかりつこうとする。
ため息一回につき幸せが一つ逃げていく、などというたわごとを信じるアン子ではないが、
メランコリックな気分になってしまうのは避けたいところだった。
それでなくても季節は秋――詩人が愁い、恋人たちが落ち葉を踏みしめる頃だ。
黄色や赤の華やかな乱舞や、靴が奏でる軽やかな舞踏音楽などには関心を持たず、
そもそも未だ恋人を必要とはしていないアン子だが、カップルを見て何も思わないわけでもない。
特に真神校内でそんな連中を見かけると、なにやら穏やかでないものが胸中に芽生えたりするのだ。
ふんッ、学生の本分は勉学でしょうがッ、などと言ったところで、
自分たちだけの世界に入りこんでいる彼らにそんなヤジなど届かないのは確実なので、
心の中で舌を出すだけに留めておく。
これが夏ならお熱いこって、で済ませるし、冬なら寒くてどうでもいい。
しかし秋、それも冬へのバトンをそろそろ渡そうかと構える頃の季節は、
その中途半端さがそうさせるのか、人恋しさが胸中でアピールする時が増えるのだった。
 一応アン子には現在、恋人と呼べるような存在はいる。
ただし彼女は女性で、しかも彼女の方からされた告白を、アン子は保留している。
そりゃ誰だってするでしょ、と街頭でアンケートを取ってみたいアン子だ。
――アナタがある日、同性から告白されたらどうしますか?
・付きあう
・付きあわない
 ……答えは二つでは足りない。
現にアン子が今、その二つしか回答欄のないアンケートを求められたら途方に暮れてしまうのだから。
・付きあう
・好きでないけれど付きあう
・嫌いでないけれど付きあわない
・付きあわない
 ……これなら心境としては二番目が近い、ような気はする。
それでも、一番目に近い二番目なのか、はたまた三番目に近いのか、
能う限り注釈を加えたい、いや加えなければ、と決心したところで、
世の中のアンケートというものがどれほどいい加減なのか、はたと気づいて自省するアン子なのだった。
 こうやって行っては戻り、戻っては進み、
神聖な業務であったはずの新聞作成は、このところ半ページ分さえ進んでいない。
どうせ月末には苦しむのだからと半ば自棄になっているのは、
やっぱり現在アン子の頭の中の、半ば以上を占めている女性の存在だった。
 美里葵。
アン子が通う真神學園の元生徒会長にして、おそらく學園一の人気者。
才色兼備ということわざの生きた見本であり、彼女と交際できるなら死んでもいいと意味不明な願望を
数多の男子生徒に抱かせている、同性から見ても嫉妬の対象にならないほどの女性。
だが彼女には同性愛志向という禁断の秘密があり、彼女がつがえる愛の矢は、どういった運命の悪戯か、
現在遠野杏子その人に向けられているのだ。
これが第三者的に関われる秘密なら、アン子は喜び勇んで情報収集に励んだに違いない。
――真神の聖女、癒しを与えるお相手は驚きの人物だった!
――真神學園の生徒会長、恋愛にも立候補!?
……見出しだけで初版完売増刷出来が期待できる。
色恋沙汰を追うのは本意でなく、記事にするかどうかはともかくとしても、
ネタとしてこれほどの素材は滅多にお目にかかれない。
取材能力の限界を試すつもりで、あらゆる素材を集めようと奮起しただろう。
 しかし、当事者となると話は別だ。
自分に取材されることを考えただけでうんざりするし、
新聞を発行した後の反響を考えるととてもではないが記事にはできない。
卑怯だのエゴだの言われたとしても、それがアン子の偽らざる心境で、
真神一の有名人の恋人という地位は、それほど重く、そしてやっかいなのだ。
「だいたい、本気かどうかだってわかりゃしないってのに」
 鼻の下に引っかけていた鉛筆が音を立てて転がる。
ひとりごちたアン子は、おろしたての相棒に目もくれなかった。
彼女からの告白が、手紙であるとか、直接好きと言われたなら、アン子にも考える余地はある。
驚きはするだろうが同性というだけで邪険に扱ったりはしないはずだ。
だが、葵の告白は、アン子が部室で独りストレスを発散している場面を目撃されたところから始まったのだ。
それがどれほど真摯であっても、真剣に受けとれという方が無理がある。
いっそ葵が三流小説のような悪党で、ただ脅迫するだけだったなら、
まだ対処のしようがあったのに、彼女はあろうことか、アン子を同じ性癖を持つ同志として受けいれたのだ。
それは葵にしてみれば、望外の喜びだったに違いない。
学校内で自慰をするのが趣味の人間などそういるものではないし、
いたとして巡り会う確率など東京の臨海交通が定時通りに運行するより低いのだ。
 しかし、二人は巡り会ってしまった。
背景に薔薇が乱舞するような出会いではなく、
足首に引っかけた下着を見られるというぶざまな出会いを果たしてしまった。
これが運命だというのなら、アン子は全力で運を司る何者かに戦いを挑んだだろう。
運命でないのなら――アン子は呪わしげに、自分の命運を定めた右手を見やった。
この手があの日、ペンを弾きさえしなければ。
以来シャープペンを使うのは止め、鉛筆にしているのは、運命に対するアン子の、ささやかな抵抗だった。
 ふう、と唇の下に梅干しを作り、鉛筆から解放されたアン子はため息をつく。
仮に葵が本気だったとして、アン子もその想いに応えたとして、どんな展開が待っているのだろうか。
女性同士だから茨の道ではあるが、その点はアン子は気にしない。
まあ、それは男から告白された方が嬉しかったかもしれないけれど、
葵に好きだと言われても、アン子に嫌悪の情は浮かばなかった。
ただ、これはアン子が生を受けて十八年、誰かと正式に交際をしたことがなく、
誰かと親密なつきあいをしたときの理想と現実にまだ開きがないからかもしれない。
それでもアン子は葵の想いを無下に拒絶しようとは思わなかった。
だが、ではどんな交際をするかというと途端に暗雲が立ちこめる。
なにしろ葵はアン子も顔色を失うほどの色情狂で、秘密を握って優位に立つや否や、
アン子に自慰を強要したほどの女なのだ。
共通の話題がどんな自慰をするか、ではいくらアン子でも長くやっていけるとは思わない。
齢十八にしてそんな爛れたパートナーを持つ気にはなれなかった。
「でも、こっちになくても向こうにあるのが問題なのよね」
 知らず声に出して呟き、慌てて首を振る。
誰も聞いていないと思いこんで酷い目に遭うのは一度で充分だ。
もう過ちは繰りかえさないんだから、とアン子が決意も新たに鼻から息を威勢良く吹きだしたとき、
見計らったかのようなタイミングでドアが叩かれた。
「アン子ちゃん、いる?」
 四日前と同じ台詞で扉がノックされたとき、アン子は充分に予想し、
対応を考えてあったにもかかわらず、心臓が一度、しゃっくりにも似た跳ねかたをしただけで、
何もかもをさっぱり綺麗に忘れてしまった。
「え、ええ、いるわよ、どうぞ」
 どんな不測の事態でも、何をするべきか忘れたことはないアン子にとってこれはかなりのショックで、
声がすっぽ抜けたボールのようにあらぬところへ飛んでいってしまい、
なぜか立ちあがろうとして机に膝を打ちつける始末だ。
「痛ッた……!」
 叫び、叫んでから無理やり口を閉じる。
まるで興奮して我を忘れたような失態など見せるべきではないし、
アン子はもうどんな小さな弱みも葵に握らせるつもりはなかった。
たとえすでに超弩級にどでかい弱みを握られているとしても、だ。
 平静を装うため、椅子に座りなおす。
それがまた少し高い位置から尻を落としたらしく、どすん、というあまり乙女らしからぬ音と、
やはり乙女らしからぬ臀部への痛みがアン子を苛んだ。
拳を固めて色々なものを堪えるところに、葵が入ってきた。
 室内の動揺も葵はそ知らぬ様子で、アン子は救われると同時に苛立ちもするのだ。
まるで世の中の出来事全部を知っている釈迦のようで、少しは驚いてみなさいよ、と。
ただし、そうなったら都合が悪いのはアン子の方だ。
葵が来ただけで、ノストラダムスの予言が成就したかのような狼狽をしてしまったなどとは、
まるで恋人を待ち焦がれるかのような振るまいをしているみたいで言えるわけがないのだ。
「こんにちは、アン子ちゃん。原稿は進んでいる?」
「んー、前のを上げたばっかりだし、あんまり気が入んないのよね」
「そうね、毎日ずっと原稿に追われる学生生活っていうのは良くないものね」
 隣に座った葵は、縁側に座る老婦人のようにぬるい笑顔で応じる。
百人いたら全員がだまされそうな、見た目にふさわしい落ちついた物腰ではあるが、
アン子はそれが偽りであることを知っていた。
 そう主張するだけの根拠は幾つもある。
まず、葵はアン子が油断しきったまさにその瞬間に現れ、タイミングを殺した。
次に、アン子の隣に座り、部屋を出られないようにした。
そして、それらの狡猾な行動をおくびにも出さず、微笑さえ浮かべている。
最後に、秘めた毒牙でいたいけな少女を手籠めにしようと、隙あらば飛びかかれる位置をキープしているのだ!
 アン子はそれらの主張を理路整然と行う自信があった。
アンタ達が信奉している生徒会長は、その辺の政治家よりも真っ黒い腹の持ち主なのよッ! と。
群衆を扇動するのは演説ではなく文面によって行いたいアン子だが、
時と場合によっては自ら立ちあがることも辞さない覚悟だ。
 けれども、それが不可能であることも、残念ながら事実だ。
彼女の真っ黒い腹を白日の下に晒せるのならともかく、そんなことをすれば性的嫌がらせセクハラ
窮地に立たされるのはアン子の方だし、考えたくはないが、聖女とも呼ばれるくらい完璧な偽装に
骨抜きにされた阿呆どもは、葵の腹が黒くても一向に構わないとさえ言う可能性があるのだ。
 そもそも今のアン子は立ちあがれない。
ぶつけた膝が不愉快な痺れを信号として送ってきていたし、
出口の前には美里葵その人が立ち――座っているが――はだかっている。
葵は手を伸ばせば届く距離に座っていて、仕留めるには絶好の機会かもしれない。
眼鏡の横の隙間から宿敵を垣間見たアン子は勝てる可能性を計算したが、はじき出された答えは芳しくなかった。
仮に奇襲が成功しても誰かに見られたら、何がどうなっていてもそいつは葵の味方をするだろうし、
真神の聖女に襲いかかったなどと知れ渡ったら、今後の新聞部の活動に致命傷となるのは間違いない。
少なくとも、絶対有利なポジションを取れるまで、うかつに攻撃するべきではないと、
潜水艦の艦長のような判断を下したアン子は、物騒な分析をしたことなどおくびにも出さず、
今度はレンズの正面から葵を見やった。
 葵は揃えた膝の上に両手を乗せ、淑女のたたずまいでアン子を見ている。
少なくとも、焦っているところを見せるのは得策ではない。
手の内のカードは悪くても、ブラフという武器がポーカーでは重要なのだ。
「で、今日は何の用?」
「アン子ちゃんに逢いに」
 ためも作らずに即答し、葵は微笑を浮かべる。
不本意ながらアン子は賭け金をつりあげるレイズするわけにはいかず、さらに葵の番が続いた。
「四日ぶり、かしら。ずいぶん長く感じたわ」
「そ、そう。あたしはまたてっきり、愛想を尽かしたのかと思ってたわ」
 心にもない……のかは微妙なことを、表情を晦ませてアン子は言った。
下りるにしても勝負するにしても、まだ今は早すぎる。
せめて相手の出方を見るくらいは、と考えるアン子だが、敵は予想以上に強気だった。
「愛想を尽かすなんて、そんな訳ないわ。この四日間、ずっとアン子ちゃんのことを考えていたのに」
「それもちょっと気持ち悪いわね。美里ちゃんとそんなに仲良かったっけ」
「うふふ、良くなかったかもしれないわね。クラスも別だったし」
 攻めても守っても葵は一流であることを、アン子は認めるしかなかった。
相手の発言を受けいれる形を見せて、その実真意が裏にあるとほのめかしている。
彼女は友情の昂ぶりとしてアン子のことを想っていたのではなく、
四日前の出来事、確かに美里葵と遠野杏子との人間関係に変化が生じるきっかけとなった、
一つの行為について思い耽っていたのだと言っているのだ。
 それを思いだすとき、アン子の心は暗澹となる。
どうして学校であんな振る舞いに及んでしまったのか、
過去の自分に説教できるならぶん殴ってでも止めたい。
葵と友人になるのは良いとしても、他人に弱みを握られるのはまっぴらごめんなアン子の、
一生の不覚の早くも二つ目だった。
この調子でいくと、あたしは死ぬまでにいくつ一生の不覚を持つことになるのかしら。
やや脱線気味にアン子は思い巡らせたが、現実逃避だと指摘されればきっと怒っただろう。
 葵をやり込めるような一言を、すぐには思いつけずにアン子は沈黙する。
しかし、生じたわずかな間隙に、葵は一気に勝負を賭けてきた。
「ねえ、アン子ちゃん」
「何よ」
「キス、しましょうか」
 ブラフも何もあったものではない、真っ向勝負。
カラスが一声挟んでもよいくらいの沈黙が流れても、
実際には何も起こらないのが美里葵という女の人徳なのだろう。
彼女と違って味方の少ないアン子は、わざとらしくため息をつき、わざとらしく顔を上げて、
低予算の劇団における看板女優さながらに一人で立ち回った。
「……ずいぶん直球ね。そんなんであたしがええしましょうって言うとでも思ったの?」
 アン子は雰囲気を求めていたのではなく、予想外の言葉を葵に求めていた。
葵のような、恋の相手には一生不自由のなさそうな女性がアン子を選んだという時点で
この上なく予想外ではあるのだが、葵がただ見目麗しいだけだったなら、
アン子はとりあえずも付きあおうなどとは思わなかっただろう。
葵は薔薇にふさわしい棘を持っている――それも、ただ花を愛でるだけでは存在に気づかない、
芳香をも愉しもうと顔を近づけて、初めて刺さるような棘を。
彼女に接する九十九パーセントの人間は、聖女とも呼ばれる彼女が、そんな棘を有していることを知らないだろう。
おそらく、目下のところ葵と一番仲が良いとされる、桜井小蒔でさえも。
もちろん小蒔にはそんな棘など撃ちこむ必要がないのであり、それは葵が彼女を信頼していないということにはならない。
葵は良く知っているのだ――自分の持つ棘は毒性が高く、相手が免疫を持っていないと
跳ね返って共倒れになるということを。
高校も三年になってようやく彼女は溜めこんだ毒を吐きだせる相手を見つけたのであり、
アン子は選ばれし者、というわけだ。



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