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 その光栄をアン子は喜んで良いのかどうか、まだ決めかねている。
葵が同性である、という、常人がおそらく最も気にする要素は、意外にもそれほど問題だとは思わなかった。
それよりも前の問題である自分に恋人が必要なのかどうかという点と、
なにしろ一番最初、ポーカーで言うならチップの枚数ですでに絶対的に不利な立場を強いられてしまい、
しかも葵は騎士道精神に全く則らない聖女であることが判明してしまったので、
誰かに弱みを握られるのが大嫌いなアン子としては往く路の暗さを案じてしまうのだ。
「ううん、色々考えていたのだけれど、どうもアン子ちゃんを説得できそうな台詞が思い浮かばなくて。
それなら思いきって言ってしまおうかしらって。回りくどいのはアン子ちゃん、嫌いでしょう?」
 だが、葵はとりあえずは暗闇に連れこんで狼藉を働いたあげくに写真を撮って脅すタイプではないようだ。
それは安心できる材料とも言えるが、二人きりになった途端、
こうもあからさまに性的な欲求ばかりを口にされるとさすがに辟易もするアン子だ。
「それはそうだけどね、幾らあたしだってそんなんでええいいわよなんて言えないわ」
「そうよね」
 葵は軽やかに頷きはしたものの、引き下がったようにも見えない。
大きな目を半ば閉じ、見た目には騙されないと警戒するアン子ですら惹きつけられてしまう物憂げな顔で、
次の策を練っているのは間違いなかった。
言うなら早く言いなさいよ、とアン子は構える。
そんなアン子を焦らすように葵は小首を傾げたまま動かない。
十何秒か経って、葵の唇を凝視しているのに気づいてアン子は慄然とした。
もう少しで頭の中が紅一色に染まってしまうところだった。
慌てて口元を押さえ、アン子は顔を引く。
すると思いがけず大きな動作になってしまい、反動でひっくり返りそうになって、
恥ずかしくも大きな音を立てて椅子にしがみついてしまった。
「どうしたの、アン子ちゃん?」
「ど、どうって別にどうもしないわよ」
「そう? 急に驚いたようだったけれど」
 半分目を閉じていたくせに正確な観察眼を発揮する葵がいまいましい。
ふんっ、ともはや恥ずかしがる必要もなくなって鼻息を鳴らしたアン子は、
菩薩のような半目の葵とは対照的に、仁王のように目を見開いて言った。
「そりゃ生徒会長様が校内でキスしようなんて言いだせば、普通は驚くでしょ」
「そうかしら」
「……何よ、はっきり言いなさいよ」
「何か別のことで驚いたみたいだったから」
 葵がインタビュアーになったなら、強力なライバルになるに違いない。
わずかな心境の変化を察知し、最も適切な話題を選んで本音を聞き出し、
インタビューされる側に感銘を与えるような。
 普段のアン子なら、彼女の洞察力に敬意を表し、見習おうと努めただろう。
他人の優れた部分を貪欲に吸収しようとするのはアン子の美点であり、
それこそが遠野杏子を一人で取材と執筆と校正と印刷と販売をこなす、
超人的な真神學園新聞部部長たらしめている柱の一本なのだから。
 しかし、今はあまりにも状況が特殊だった。
インタビュアーは取材相手に仕事以上の感情を抱いており、
それを隠そうともせず、むしろ積極的に利用している。
受け手の心を揺さぶるというのは取材において極めて有効な戦法というのを、
アン子はどこかで目にした覚えがあった。
そして今は実践されたわけで、結果はといえば脆くも狼狽している。
実際に狼狽したのは眼球を左右に一往復させた程度の時間でしかないが、
目の前にいるのは極めて危険な相手だった。
 驚いてない、と突っぱねるか、何か適当に「別のこと」をでっちあげるか、
迷うアン子の眼前に葵の顔が迫ってくる。
危険を感じてのけぞろうとしたアン子だが、身体が言うことをきかない。
別に葵がギリシア神話のメデューサのような、睨んだだけで相手を動けなくさせる能力を持っているわけではなく、
いつのまにか腕が掴まれていたのだ。
「ちょ、待……!」
 顎を引いてもラインが崩れないのは、常日頃の運動のたまものだろうが、
ひきつりかけた表情は美しいとは残念ながら言い難く、
見たのがたとえば桜井小蒔あたりなら遠慮無く笑い飛ばすような変な顔だった。
それを葵はものともせず、自然な動きで身を乗りだし、アン子の唇に触れてしまった。
 思考が止まる。
頭の回転の速さはウリのひとつであったはずなのに、そしてキスは未知の体験ではなかったのに、
目の前で閃光が炸裂したかのように目とそれが得るはずの情報が断絶していた。
何秒か、実際には五秒以上が過ぎてから、ようやく唇を奪われているのだと認識する。
押しつけがましくはなく、けれど吸着して離れない葵の唇は、アン子に著しい変化をもたらしていた。
全力疾走をした後よりもずっと激しく鳴る心臓。
直前まで涼しいくらいだったのに一気に二度以上も上がったように感じる肌。
それに消え去っていく、意識して葵に向けていた棘。
自分が自分でなくなる、という陳腐な表現がそのまま当てはまり、しかもそれを気持ち悪いと思わない。
たかがキスで、などと軽んじていた接触行為は、アン子を心身双方から責め苛んだ。
 そして、衝撃はそれだけにとどまらなかった。
ふと、手のひらに葵を感じる。
優しく、温かな葵の手が鍵と錠のようにぴたりと嵌った瞬間、アン子の心に雷鳴が轟いた。
「待って」
 金属質な制止に驚いたのか、葵は身を竦ませた。
小首を傾げる彼女に、水泳の授業のあと、眼を洗う時に思いがけず勢いよく噴きだした水のように、
いきなり湧いてきたこの気持ちを説明するのは難しく、アン子は困ってしまう。
「あ……あの……えっとね、美里ちゃんと手を繋ぐのが嫌だとかそういうんじゃないんだけどね、えっと……」
 豊かな髪に手を突っこみ、乱暴にかき回す。
女性としてはあるまじき行為だとしても、そうでもしなければ頭の中を整理できなかった。
呼吸を整え、唇を素早く舐めまわしてから、まだ収まらない鼓動の、内側に含まれているものを吐きだした。
「そのね、気持ちがついてこなくなっちゃったのよ」
 いよいよこの世の終わりが来たような表情になる葵に、アン子は舌をもつれさせた。
「違うの、だから、美里ちゃんに手を握られて気持ち良かったんだけど、ほら、
あたしまだ美里ちゃんのこと好きかどうか判らないって言ったじゃない?
なのに、ああなんだかこういうのもいいなって思って、そしたら」
 美しい額に皺を浮かべて聞きいっていた葵は、やがて人差し指を軽く曲げ、
下唇に当てると、一語一語をはっきりと確認するように言った。
「つまり、アン子ちゃんはキスよりも手を握られた方が衝撃だったっていうことかしら」
「……そんな感じかしらね」
 冷静にまとめられると、大騒ぎしたのがいかにも恥ずかしくなってしまう。
しかし、あの瞬間にアン子が感じた何かは、偽りのない、確かな衝撃だった。
薬指の血管は心臓に繋がっている、だから結婚指輪をするのもその指なのだ、という迷信は知っているが、
それは真実なのだと信じてしまうくらい、心臓に直接受けたような響きは、
美里葵が遠野杏子の運命の相手であるはずなどないというのに、
妖しい錯覚をしてしまいそうなほど脳にまで達し、揺らしていた。
 ただし、そこまで当人に告げてしまうのははばかられた。
アン子はまだ、葵の真意を確かめたわけではない。
もしかしたら葵は、アン子を破滅させるための壮大な罠を仕掛けているのかもしれないのだ。
それでなくても現在のところ主導権を握られっぱなしで反撃の機会も未だ見えない。
うかつに好意など示そうものなら、尻の毛まで毟られてしまうことだってありえるんだからッ!
 荒ぶる心を鼻から出そうとして、アン子は慌てて制した。
今更何をという気もするが、牛のような鼻息をするのは、女としてあまり見せびらかすものではないだろう。
 口をへの字に曲げて呼吸に急制動をかけるのに成功したアン子がふと見ると、葵は小さく笑っていた。
馬鹿にするような笑い方ではなかったけれども、まだ残っていた恥ずかしさがアン子の唇を尖らせる。
「何よ」
「ううん、そういう考え方をするアン子ちゃんが素敵だなって」
「そ、そそ、そういうのは面と向かって言うモノじゃないでしょ」
「あら、どうして?」
「どうしてって、甘やかすとつけあがるじゃない」
 もうアン子は自分でも何を言っているかわからない。
「うふふ、アン子ちゃんは甘やかされるより厳しくされる方がいいのね。Mっ気があるのかしら」
「なんでそういう方に話をもっていくのよッ」
 単にアルファベットの一文字だというのに、葵の声でMなどと言われると、
それだけで心臓が余計な負担を強いられてしまう。
それがアン子には悔しくて、自ずと声が大きくなった。
 アン子の声は張りがあって、慣れていないと驚いてしまう者もいる。
アン子としては乙女の声に驚くなんて失礼だと思いつつも、
驚くというのは心理的な防御が崩れるということでもあり、
機先を制することができるのなら取材において悪いことではないと是正する気もなかった。
 そのアン子の大声を聞いても、葵は驚きもせず微笑んでいる。
真神學園で笑顔がよく似合う生徒、というアンケートを取ったなら、
何人かに票が分かれるだろう。
しかし、微笑がよく似合う、というアンケートなら、葵がぶっちぎりで一位になるに違いない。
それほど葵の微笑みは自然で、穏やかだった。
他人の感情を受けとめて包みこむとでもいうのか、この微笑みを前にして怒っていられる人間はそうはいない。
去年新聞部の予算が減らされて猛抗議に行ったアン子でさえ、
まずアン子の言い分を聞いているだけの葵に怒気を削がれてしまい、
命より大事な部費を減らされてしまった事実を受けいれざるを得なくなったのだ。
「うふふ、ごめんなさい。でもアン子ちゃんと話していると楽しくて、つい」
「だからそういうことは本人の前で言うもんじゃないでしょっての」
 声を荒げながらアン子はどきりともする。
葵に褒められて嬉しいと思う気持ちが確かにあるのだ。
これまで新聞部、あるいは記者としての能力を認められたことは何度もある。
それはもちろん嬉しかったのだけれど、遠野杏子個人についてこんな風に褒められたのは初めてだった。
お世辞に決まってる、と強がってみて、そんな風にへそ曲がりな考えをする自分が嫌になる。
お世辞だとしても愛想良く応じておけばいいのに、どうしても額面通りに言葉を受け取れないのだ。
「でも、本当のことだから」
 一方で、葵の話は曲解しようがない。
生徒会長を務めるくらいだし、なによりあのどうとでも取れる微笑のせいで、
彼女はつねに腹に一物抱えているのだと思いこんでいたアン子だが、
二人きりの時は、アン子が赤面するようなことまではっきりと言っている。
もちろん、絶対優位な立場を得たからなのかもしれない。
けれどももしかしたら葵は、外見程度には真っ当な女性なのかもしれないとも思うアン子だった。
「あーもう、わかったわよ、この話は終わり。で、気は済んだ?」
「いいえ」
 葵があまりに穏やかに、はっきりと言いきったので、アン子は危うく椅子からずり落ちてしまうところだった。
「……こういうときは済んでなくても済んだっていう謙虚さが日本人の美徳でしょ」
「でも、途中で止められてしまったから」
「う……」
 葵はまるでアン子に非があるように言葉を切る。
突っかかってくる相手なら男だろうがチンピラだろうが臆するところなく
言葉の刃を浴びせることができるアン子だが、無言の持久戦を仕掛けてこられると、
どうにも我慢できなくなってしまうのだ。
「い、いいわよ、そんなら気が済むまでしなさいよ、すればいいでしょ」
 言ってからしまったと思いはしても後の祭り、日本人の美徳など持ちあわせていない美里葵は、
待ってましたとばかりにアン子の手首を掴んだかと思うと素早く今日二度目のキスをした。
「……」
 手じゃなくて手首を掴んだのは、驚かせないつもりとでもいうのかしら。
 さすがに二度目ともなれば多少の余裕もでてくる。
けっこうなスピードで迫ってきたはずなのに、急停止する電車よりも上手に勢いを殺して唇を触れさせた葵を、
アン子は分析したりしていた。
衝突の瞬間、アン子は少し顎を引いたはずなのに、葵は正確に移動した目標をトレースし、命中させている。
しかもキスしてから微調整するなどといった無粋なこともしておらず、
もちろん鼻息を浴びせるような見苦しいまねもしていない。
これが努力でなくて才能だというのなら、もう一生葵には勝てないのではないか。
そんな風に考え、勝つとはいったい何に勝つのだろうか、といささか脱線しかけたときだった。
 唇に、唇以外の何かが触れる。
それは葵が宇宙人か何かでなければ、正体はひとつしかない。
とはいえ、思考が横道を逸れていて、完全に不意打ちを受けた驚きはただごとではなく、
両腕で葵を掴んだアン子は、人間として限界を極めたスピードで顔を離した。
「み、美里ちゃんッ、いいい今……っ……!!」
「何?」
「何ってアンタ今舌、舌で……!」
 アン子の衝撃は、たとえるなら大国の大統領が暗殺される現場にでくわしたほどにも匹敵している。
これ以上のものはそうそうはなく、心臓が痛いほどにポンピングを繰りかえし、
耳の末端にまで巡った血は、早くも二巡目に突入する勢いだった。
「うふふ、驚いた?」
 なのにこの聖女ヅラした生徒会長ときたら、
アン子の驚きをコーヒーが思ったより苦かったくらいにしか思っていないようだ。
「そ、そういうのをするんならするって先に言いなさいよねッ!!」
「そういうのって、ディープキスだとかフレンチキスっていうキスのことかしら?」
「デ、ディープキスはともかく、フレンチキスじゃないでしょ」
「皆勘違いしているみたいだけれど、フレンチキスは軽いキスのことじゃないわ」
「……そ、そう」
 知識の穴を突かれて、アン子は劣勢に回らざるをえない。
それに葵があまりキスと連呼するものだから、少し引いてしまったのだ。
それでも気を取り直してもう一度攻めに転じる。
それくらい今葵が引き起こしたのは、看過できない重大な事態だった。
「そ、それはともかく、いきなり人の顔舐めるなんて失礼じゃないのッ!」
 アン子は充分に威圧感を出して言ったつもりなのだが、
葵は大きな目を数度しばたたかせたかと思うと、笑いだしてしまった。
「舐めたんじゃないわ……絡めようとしたのよ」
「かッ……!!」
 率直に過ぎる言い方に、アン子は声を詰まらせてしまい、同時に、言葉が想像を喚起する。
絡めようとした、と清らかな音色を紡いだ葵の舌と、自分の舌が絡まるさまを。
それは脳内で素早く構成され、無声映画となって上映された。
音がないのは自主検閲で、きっと音があったら十八歳未満は視聴禁止になっていただろう。
 とはいえ、無音であっても艶めかしさがゼロになったわけではないから、
ふたつの舌が交わる映像はしっかりとアン子の記憶層に焼きついてしまう。
それはこれまでアン子がいやらしい、と考えていた行為のどれよりもいやらしく、
急にアン子は葵の顔をまともに見られなくなってしまった。
「アン子ちゃん、大丈夫?」
「だッ、だッ、大丈夫なわけないでしょッ!」
 喋るために舌を動かすと、先ほどの感触がよみがえってしまう。
アン子の舌はどれほど高速で喋ってももつれることなどなかった高性能な舌だが、
今やその機能は完全に停止していた。
訊ねてはみたものの何が大丈夫でないのか判らない、
といった風情で見ている葵をアン子は睨みつける。
それは羞恥や興奮といった感情が怒りに転じたもので、要は逆恨みに近い。
喜怒哀楽というものは容易に、しかもパワーを保ったまま移ろうという事実をひとつ、
身をもって知ったアン子だったが、本人はこの場で悟るというわけにもいかず、
鼻の穴を膨らませて憤然とするばかりだった。
「アン子ちゃん」
「何よ」
 どうにか自分をなだめようとしている葵が気に入らず、十本ばかりの棘を含ませた返事を叩きつける。
腕と足まで組んだのは完全に威嚇のためで、弱みを握られていようと怒るときは怒るのだ、
という姿勢を見せているのだ。



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