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「ごめんなさい」
ところが、葵はあっさりと頭を下げる。
泣きだしそうではないものの顔は反省の一色に塗りかえられていて、
こうなると怒ったのがいかにもおとなげないように思われ、アン子はやや狼狽した。
「アン子ちゃんがそんなに嫌がるだなんて思っていなかったから」
「……そ、そこまで嫌ってわけじゃないのよ、あんまり急でびっくりしたのは確かだけど」
口にしてみると、本当に嫌だったのかどうか判らなくなってくる。
かといって葵の勢いに押し流されてしまうのが困るのも確かで、
表情を曇らせたままの葵に対してアン子もかける言葉を失ってしまった。
「……」
「……」
溺れるほどではないにせよ、なんとなく圧迫感も感じる、胸の少し下まで水に浸かったような沈黙が続く。
もともと湿っぽい場面が苦手で、沈黙はさらに苦手なアン子は、
結局同じ過ちを繰りかえしてしまうのだった。
「あーもう、わかったわよ」
「……?」
「もう一回しなさいよ。あたしに心の準備が出来てなかったからびっくりしただけなんだから、
ちゃんと事前にわかってればどうってことないわよ、きっと」
嘘くさい、本当だろうかと自分でも思うが、言ってしまったからにはするしかない。
要はあたしが驚かなければいい話なんだから、とやや本末転倒気味に決めつけ、
戸惑っている葵の肩を掴んだ。
「さ、どうぞ。どこからでもかかってらっしゃいッ」
大上段から啖呵を切り、反応をけしかける。
鼻から吸って鼻から出して、大きく一回呼吸をした辺りで、葵が静かに言った。
「それじゃ、アン子ちゃん。眼鏡を外させてもらうわね」
「え? ちょ、ちょっと……!」
正面からの攻撃には万全の備えをしていたアン子だったが、奇襲に対する構えはゼロだった。
塩まで贈ったのに卑怯じゃないッ、と叫びそうになるも、
葵の魔手がするりと伸びて眼鏡を外されてしまい、それどころではなくなる。
アン子の視力はおせじにも良いとは言えず、眼鏡なしではかなり風景がぼんやりしてしまう。
必然的に眼鏡は命綱ともいえる存在であり、普段なら他人に触らせることもしない。
だが、今回は自分から葵の肩に手を置いてしまったのが災いして、
とっさの防御が遅れてしまったのだ。
「ま、待って、ちょっと待ってっ」
眼鏡と唇と、どちらに意識を振ればいいのかアン子は動転していた。
葵はきちんと眼鏡を畳んで机の上に置く。
眼鏡をかけていない人間にしては意外な細かさに一安心してアン子は視線を引き戻した。
ややぼやけた風景に浮かぶ葵の顔の輪郭と、なぜか鮮やかに見える紅の唇。
葵という名に反して椿を思い起こさせる深い紅は、アン子の視覚に対する処理能力を狂わせてしまっていた。
少し濡れているように見えるのは、さっきのキスの名残かしら。
嫌いな物のひとつに視力検査があるアン子は、そんなことを考えて愕然とする。
見えるはずがないものが見えるというのは、その逆に親しんできたアン子にとって、ある意味恐怖だった。
人は見たいものだけを見る、というのはありふれた惹句だが、
ならば今見えているものは、アン子が見たいものだということになってしまう。
そんなわけがない、と狼狽し、アン子は、真実を見極めようと眼鏡に手を伸ばした。
「――!」
眼鏡に手を乗せ、手元に引き寄せる一瞬の何分の一かの時間。
目は葵からそらさなくても、手に意識を振り向けた極小の瞬間に、世界は激変していた。
紅が、流れこんでくる。
鮮やかな色が、色と結びついた匂いが、匂いと結びついた感触が、一度にアン子の中に入ってきた。
倒れていくドミノのように整然と、唇を始点に身体の隅々まで、
押しとどめることを許さない速さで流れていく深い紅。
瞬く間に指先にまで伝わった色が、ほんのわずかアン子を操る。
長いつきあいであるはずの相棒は、お役に立てなくてすみませんと小さく音を立てた。
さっきのキスと違って今度は唇だけが押しあてられている。
自分が感覚として得ているのが、葵の唇だけなのだと気づいて、アン子は、
とくん、という鼓動が喉から飛びでそうになった。
柔らかさ、あたたかさ、そして気持ちよさ。
取材はまず観察から、というのがアン子の信条だが、眼鏡は外されてしまっているし、
目は閉じてしまっているし、何より流れこんでくる情報量が膨大で、吟味する余裕などなかった。
何かに掴まらないと倒れそうだ。
でも一番手近にある葵には掴まってしまいたくはない。
かけ巡る色々なものが鼻から出そうになって、アン子は息を止めた。
そしてそれが文字通りの自殺行為であると悟るまで、十五秒も要さない。
鼻息を盛大に葵に吹きかけるという醜態は死んでも避けたかったので、
残された選択肢に、その先に何が待っているか確かめることなく飛びこんだ。
「……!」
葵の両腕を掴み、同時に顔を離す。
上を向いて二酸化炭素を吐き、同量以上の空気を吸い、元の位置に顔を戻す。
素早くそれらを行ったアン子が見たものは、いきなりキスを中断されて目を白黒させている葵ではなく、
音もなく近づいてすぐにも触れそうな彼女の瞳だった。
「……!」
ぼやけた視界をアン子は何度も切り替えさせる。
間近で見る葵の顔は、少し傾いでいるという程度のことしかわからない。
眼鏡をかけていれば見えたはずの睫毛の長さも、肌の白さも、アン子の網膜に映りはしても、
残念ながら像を結ぶには至らなかった。
残念?
一瞬で消えてしまいはしたものの、確かに浮かんだその感情を、アン子はどう扱って良いものか悩む。
認めるにはまだ早い気がするし、認めないのも真実の追究を目指すジャーナリスト志望としては許せない。
だが、アン子が自分の気持ちについてじっくりと考える時間はなかった。
唇に、葵の唇以外の何かが触れる。
「……っ!」
唇が触れたときよりもずっと激しく、指が絡まったときよりもはるかに生々しい湿り気を含んだ感触。
事前にわかっていれば、などと言ったのもどこへやら、アン子はあっという間に思考の全てを失ってしまった。
葵の舌が唇を舐めている。
それは葵にしてはぎこちなく、彼女でも緊張するのだという貴重な事例であったが、
葵以上に緊張しきっているアン子が気づく由もなく、貴重な特ダネを見逃す羽目に陥っていた。
ぬらぬらと、そんなに大きくはないはずの唇が、ペンキでも塗られるかのように舐められている。
眼鏡をかけていたら爆発していそうな火照りが顔中を包むアン子は、
葵を突き飛ばしたい衝動に耐え、されるがままに身を任せた。
犬や猫にも顔を舐められた経験がなく、初めて経験するくすぐったさは筆舌に尽くしがたい。
おまけに葵は口の隙間を狙って舌をこじいれようとしてきて、その部分のむず痒さは刻一刻と強くなっている。
息苦しくもなってきたアン子は、ほとんど意識しない程度に下あごの力を緩めた。
舌が、奥に入ってくる。
実際には数ミリ中に入っただけだが、その数ミリでアン子の頭を真っ白にするのは充分だった。
身体の内側を舐められるという恐怖と、神経に直接触られたような衝撃が、同時にアン子を襲う。
だが、今度は逃げられなかった。
いつのまにか両腕を葵にしっかりと掴まれ、身体は固定されていた。
「……っ、あ、っ」
どうしたらいいのかわからない。
口を開けばいいのか、それとも閉じるべきか、息を吸わなければ、その前に吐かなければ。
思考がジェットコースターのループのように加速して巡る。
結論を出せばあらぬところへと放りだされてしまいそうな気がして答えを選べないうちに、
葵は少しずつ、確実に奥へと入ってきた。
唇を少し舐められただけで、背中全体がぞくりとする。
武者震いなのか悪寒なのか、それともそれ以外のものなのか、アン子には判らない。
判っているのは、今は眼鏡を支えていない耳が一気に加熱を始めたことと、
葵に支えられていなければ、すぐにこの場で倒れているだろうということだ。
もちろん、葵が唇を舐めなんてしなければ倒れる可能性もゼロなわけで、
本末転倒もはなはだしくはある。
けれども、そっちの――キスの方に関しては、アン子はとがめるつもりはなかったから、
やっぱり支えてくれている、という方が言葉的には正しいような気がした。
それにしてもこんな風に舌を動かすというのは、ずいぶんと間の抜けた顔になるのではないのか。
いったい葵はどんな表情をしているのか、気になったアン子は薄目を開けてみようとする。
「わ、わっ……!」
どうやら慎重を期するあまりに目どころか口まで開けてしまったらしい。
歯に舌があたった衝撃は、もうこれ以上驚くことなんてないと思っていたアン子に、
なお新鮮な一撃をあびせかけた。
心臓がどくん、と響く。
最高の特ダネを見つけた時よりももっと派手に鳴ったハートは、決して心ではないはずだった。
ただ血液を要求されたから活動しただけで、びっくりなんてしてないんだから。
自分に対して必死に言い訳をするアン子をよそに、心臓は要求に対する正当な仕事を行っていた。
このままでは、息を吐きかけてしまう。
止めているくせに乱れる呼吸が、心臓の訴えを加速させる。
酸素が欲しい。二酸化炭素を排出したい。
日々の活動のたまものか、同世代の女性より多めの肺活量を持つアン子でも、
無呼吸で二分は耐えられない。
アン子は人間を止めるつもりはまだなく、ほとんど唯一の選択肢を選ぶしかなかった。
「待ってッ」
乙女の限界が訪れ、葵を引きはがす。
またもやキスを中断された葵は、同様に泣きそうな顔をした。
「どうしたのアン子ちゃん、やっぱり……」
「ち、違うの。今度はその……」
どうして葵はこんなに放っておけないような顔をするのが上手いのか。
降りしきる雨の中、ダンボールに入れられた捨て猫だってこんな顔はしない。
そして猫に飼えない理由を話したところでわかってはもらえないだろうが、
葵に理由を話さなければ悲嘆に暮れて泣きだすくらいはしそうだ。
そんな馬鹿な、と自分にツッコミを入れながらも、そう思わせてしまう雰囲気が葵にあるのは確かだった。
同じ女性同士でも、だからこそ、言いたくないことがある。
けれども葵の表情に知らんぷりはできない――
言うべきか言わざるべきか、アン子は迷う。
だが、迷うのはアン子にとって苦手な項目の一つであり、
それほど長くもない時間を費やしたあと、アン子は決断した。
「……息が」
「え?」
「息ができなくなっちゃったのよ。アンタどうしてんのよ」
葵がまばたきをする。
それは彼女らしくない仕種であり、戸惑っている証拠だった。
「どうって……しているわ、普通に」
「嘘おっしゃいッ!」
アン子は思わず指を突きつけて叫んでしまった。
鼻先に突きつけられた指先は、ずいぶんと失礼なものだったが、
葵は避けるでもなく、両手でくるみこんできた。
「本当よ、信じて」
情念を前面に出して訴えるのは、アン子の好みではない。
しかし葵は信じてくれるまでは離さないとばかりに握る手に力をこめる。
その必死さたるや特に根拠もなく彼女を嘘つき呼ばわりしたアン子を怯ませるだけの威力は充分にあった。
「う……わ、わかったわよ」
答えながらアン子はさりげなく手を引っこめようとする。
今回初志貫徹できなかったのは、葵の形相もさることながら、
ひしと握られた右の拳のなまあたたかさに拠るところが大きかった。
人差し指一本だけを仲間はずれにして、しっかりと包みこまれた手首から先は、
絶妙な湯加減の温泉につかったかのように、ぞわぞわする気持ちよさを満喫している。
和んでしまう幸福感というのは世界の最先端に居るべきジャーナリストにとって天敵だとアン子は考えていて、
図らずも手首から侵食してきたそれに対して非常警報が鳴ったのだ。
「ありがとう、嬉しいわ」
しかし、葵は離すどころか一層強く手を握り、離そうとしない。
わかってやっているのではないかと疑ってしまうほどで、かといって振り払うのもおとなげなく、
アン子は、ひきつった笑いで応じるしかなかった。
アン子の両手を捕らえた葵が、再びにじり寄ってくる。
二度中断されてもまだあきらめるつもりはないらしい。
見習うべき粘り腰かもしれないとアン子は思ったが、明らかにそれは現実逃避の思考であり、
ほのかに熱を帯びた生徒会長の、両の掌が鋭敏な新聞部部長を惑わせていたのかもしれない。
とにかく、三度近づいてきた葵から、アン子は逃げなかった。
眼鏡を外されていて逃げようもなかったというのもあったかもしれないが、
迫る唇を待ちうけ、訪れる衝撃に備えた。
衝撃は予測に違わずやってきた。
物理的にはほとんど感じないくらいの接触なのに、あいもかわらず心臓はびくんと飛び跳ねる。
いいかげん慣れなさいよと命じてみても、パニックを起こしたハムスターのように暴れまわって
容易には鎮まりそうになかった。
小さな鼻息が聞こえる。
それが自分のものではないことを確かめたアン子は、葵が意図的に聞かせているのだと推測した。
そういえばさっきのキスに較べておとなしめで、呼吸音も深く、長い。
身体を張って無実を証明した葵に、アン子は敗北感めいた感情を抱いた。
こんなに真摯に、そして必死に接しようとする彼女に較べて、自分はどうも疑ってばかりでいけない。
育ちの差というものがこういうときに出るのかもしれない、などと、
あまりキスをするときには考えるべきでないようなことも含め、
アン子の思考はまとまりを欠いたまま続いた。
その間にも葵はキスを止めず、アン子がほとんど応じていないのにも構わず、
他者が見たら羨まずにはいられない、献身的なキスを繰りかえしている。
口紅を塗っていないとは信じられない紅色の唇を触れさせ、押しあて、重ねる。
一度ずつのどれもが真神の男子生徒なら受けただけで天にも昇ってしまいそうなくちづけを、
惜しむことなくたった一人その栄光を担った少女に授けていた。
「ん……」
葵の吐息が濡れた唇に当たる。
これまで聞いたどんな音色よりも色っぽい、魂に直接触れるような響き。
身体の中に入ってくる甘美な何かに、本能的な怯えを感じながらも、アン子は押しのけることができない。
とろける、とか溶かされる、なんて形容を本で見たことがあったが、
まさに心がとろかされていく感覚だった。
しかも形のない、どこにあるかもわからない心だけに影響はとどまらず、
皮膚の感覚までもがあやふやになっていく。
それが錯覚だとしても、葵の、秘めた熱情を体現しているかのような唇の温度が、
アン子を虜にしているのは確かなことだった。
そして再び、舌が触れる。
今度は事前に葵の呼吸が変わり、来るという前兆がはっきりあったのに、
またしてもアン子は自分の心臓を制御することができなかった。
とくん、と鳴り響く警報。
支出が収入を上回る、どこかの新聞部じみた状態。
このままでは危険だと必死に放つ肉体からのメッセージを、アン子は受けとってはいたのだ。
けれども情報を処理することすらできず、頭の中で負荷だけが増大していく。
このままでは、また突き放しかねない――そう考えたアン子は、決断を下した。
顎の力を抜き、唇を触れあわせただけの状態にする。
たったそれだけのことだったけれども、アポなしで取材を申しこむよりもずっと緊張した。
はたして葵は、というより葵の舌は変化にすぐに気づき、口の中に押し入ろうとしてくる。
獰猛とも呼べるくらいの積極性に、ついにアン子は屈した。
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